セザンヌ 牧歌 1870

セザンヌ 牧歌 1870

Monday, January 26, 2015

第六十八章 時代は作られるPart5 整えられた秩序に懐疑的になる現代人

 意図論の(第三十六章 正論と邪論の混淆した情報社会)で私が示したSNSで現代人に拠って呟かれる本音的部分とは近代迄はずっと人類が抑圧してきた部分であり、それは言ってはいけないことも多く含んでいる。だが現代人は既に表現の自由等の権利を普通に享受しているので、それを呟く事も、呟かれたものを読む事も自然な感性で生活している。つまりそういう風に格式ばった言説から能天気でどうでもいい様な空談、暴言に到る迄何でもありのSNSの掲示板、TLを閲覧する事を自然なものとしている。と言うことは、近代迄人類は只管そういった雑然とした事をいけない事だ、きちんとした正式なもの以外には価値等ありはしないと決め込んでいたのだが、それは可笑しい、日頃の本音的部分のメモなんかの方がずっとある意味では価値があるということを気づき始め、それを誰しもが自由に閲覧することを可能とする様に現代ウェブサイトが機能する様になったのである。
 正式の論文にする前のメモは凄く面白いのに、実際にきちんとした形にしてしまうと、メモにはあった面白さが全て省略されてしまう、つまり省略した部分こそが一番読み応えがあるのに、正式とかきちんとしたという整えられた秩序の方を重んじる事自体が近代社会の一つの理想だったのかも知れない(尤も絵画等では文章より早く印象派の様な自由な表現の空気は訪れていたのだけれど、芸術はあくまで形式的常識的社会に対するアンチテーゼ的な認識をアーティストが持ちやすかったのだが、文章の世界ではそうは行かない、もっと保守的な通念がなかなか払拭し得なかったのだ)。だが現代になってようやくアーティスト達が近代に様々な冒険をしてきた事を文章でも出来る様になった。しかもそれは一部のインテリ達の手に拠ってではなく、全ての普通の市民誰しもが自由にそれを出来る様になったのだ。そして一旦そういった自由を獲得すると、きちんと整えられた秩序の方を不自然だと思う様な感性が定着しつつある様になってきている。
 一人の人間が一見統合失調的である様に思える部分さえ、実はそうでなく、それは誰しもが持っている事なのだが、それを必要以上に抑圧する事で得られている安定自体が、恣意的で不自然な事であると思える感性の方が伸してきている。それは去年の県会議員の公費私的流用疑惑に返答する前県議である野々村竜介氏の泣き喚き会見でも顕在化していた。ああいった態度で臨む事は理性のレヴェルでは大人気無く恥ずかしい事であるが、恥ずかしい事を敢えて自己陶酔しながらする事で却ってそちらへあの会見を観ている人達の意識を移行させる巧みな、と言うより狡い選択を敢えて彼は取った。だからその敢えて狡い事を履行する事にそうしながら段々自己陶酔し、無我の境地になる事自体で自己存在をアピールしようとする。それはどうせもう辞めていくのだから、それぐらい許された然るべきだという傲慢も控えている。しかし実際あの会見の統合失調的態度は皆の記憶の中に残ったのだ。それは彼が議員としては怠慢であったにも関わらず、ああいう辞め方をしていったという意味で印象付けられてしまったのだ。
 寧ろあの時凄く理性的に会見での質問に応答していたら、あの議員のことだけなく公費私的流用の件自体も徐々に忘れられていっただろうが、実際はそうでなく、寧ろあの醜態に拠って鮮明に我々の記憶に残っている。つまり彼は世代的にもネット社会に極めて普通に順応出来る世代で最初の中年だったので、現代人の整えられただけの秩序に不自然さを感じる感性をストレートに出しても自分自身としては何等可笑しい事ではないという存在主張をしている。
 現代人はSNSを見慣れていて、正式とか格式ばったこととか、きちんと本格的である事自体へ懐疑的感性を巣食わせてしまっているのだ。一旦そういった自由な感性をかなりそういった手段の無い時代では堅物で押し通してしまっていた様な全ての成員が、そんなものに本当の出会う価値等無いのだと思える様になっていくと、正式とか本格的とか秩序立った理性等の方がずっと疑わしいぞという価値判断さえ我々は持ってしまえるのだ。
 統合失調でない健常である状態とは、実は本来凄く存在的にも矛盾している我々が勝手にでっちあげてきたいい子ぶった態度でしかないのだ、というメッセージとして全てのSNSのTLが日々延々と閲覧可能であることの現代情報社会では統率されている、きちんとマナーを踏襲する様に教育されていること自体を不自然でしかないという、まさに東浩紀が<動物化>と言った事の方が却って人間らしく、人間らしいと言う事の方がずっと不自然で訓育されているだけの事であると判断する様になってきている、とは言える。
 それは恐らく様々な局面で大きな文化的転換点を人類に齎しているのではないだろうか?ゲームソフトが映画の内容や編集等の感性に大いに影響を与えている様な意味でSNSの呟きの解放的な気分が正式であること、本格的であること、きちんと仕上げられていること、つまり完成されたという感性自体を大きく転換させていると言える。
 従ってこれから数十年後では論文であれ公式文章であれ、以前迄の様な型通りのものさえかなり大きく変化していくものと思われる。だが儀礼性とか伝統とかそういう事は、ではどうなるのだろうか、という問い自体もかなりきちんと論議される様にはなっていくだろう。それはかなり保守的見解からの危惧という形でも噴出するだろうし、だがやはり変えていくべきは変えていくべきだという観念でその論議に参加する人達もかなり多いだろう。そういった喧々諤々の論争の時代はもう直ぐ其処迄来ている。

Wednesday, January 21, 2015

第六十七章 時代は作られるPart4 幼稚なメッセージ、小物に踊らされる人類の季節

 現代世界は国家民族の違いを超えてどの宗教文化圏も完全に社会性、つまり他者と共有し得る何等かの価値という形で人類が画一化していく方向を選択している。つまり教育と社会インフラへの同化とに拠って公的基準に全てを合わせる形でのみ、人の幸福も生きる価値も規定され、努力して達成する目標がどの国家社会でも設定されている。要するにそれは現代科学のテクノロジーを最大限に利用する形で世界基準を目指す事を理想としており、それを善としている。科学生活者主義とでも言うべき合理性で統一されている。だからこそ昨今のイスラム国やボコ・ハラム等の過激派の行動が目立ってしまうのだ。
 だがこの稚拙な全く正当性を欠くテロリズムの仕方はオウム真理教でも体現されていたし、個人の猟奇的犯罪、日本では宮崎勤連続幼女殺害事件、長崎幼女連続殺人事件、秋葉原通り魔殺人事件等でも体現されてきた。それに加え大人社会の模範となるべき政治家が公費乱用に関する謝罪会見で統合失調的態度を自己陶酔的に行う(野々村龍介前兵庫県県会議員)といった失態がネット上、メディアで大きく取り上げられ、所謂人類全体が集団、組織であれ個人であれ幼稚な存在であるというアピールをする事がマスコミやジャーナリズムを翻弄している。今回の日本人人質の釈放に対して二億ドルを要求するイスラム国の暴挙も全く手続き的な正当性を欠く幼稚な仕方である。
 しかしそれは前述した科学生活者主義的な数値目標設定、日本で言えば偏差値等の偏重的システム、つまり合理主義的社会運営自体への人類のストレスが誘引している要素は否めない。つまりあらゆる統一的社会合理性へ自己を当て嵌めていかなけれないけない暗黙の使命感へストレスが沈殿して、それが一気に爆発しているという状況が現今の人類の姿ではないだろうか?
 幼稚な存在へと格下げされている人類の姿は一国の首脳が幼稚な仕方でのウェブサイトを利用したテロリスト集団に翻弄されていて、大物とかリーダーという立場の人達の面目を失墜する形でのみそういったテロリスト集団を活気付けている。つまり昨今の19歳の少年に拠るyoutubeへの悪乗り投稿の最たる形での爪楊枝商品破壊行為にメディアが数日ずっと翻弄され続けたが、これはメディアを翻弄させる事が稚拙な少年でも可能であるという現代社会の喜劇的様相を如実に示している。
 確かに70年代から80年代にかけてもミージェネレーションとかミーハーという世代論は在ったし、オタクという語彙が定着していった時代もあった。それ等全てを総じて人類の幼児性の噴出と捉えれば、人類は一方では数値目標に雁字搦めになって其処から脱出する事が出来ない状況にあって、だからこそ逆にそのリアルに反発する潜在的欲求が他方では幼稚なテロリスト集団、それはイデオロギーや大義や義憤より余程突発的衝動に身を任せた仕方に転落している訳であるが、そういった短絡的思考が支配している衝撃性にだけ意識が志向しているし、目標も愉快犯的要素が強く、そういった傾向へどんどん偏重していっている。
 社会全体の合理性から言えば甚だ乖離してしまっている幼稚な方法に拠って瞬発的に社会や世相を混乱させる(それは韓国大企業の経営者ナッツ姫の旅客機滑走引き戻し事件にも顕れていた)トピカルデヴィエイトメッセージになっている。
 テロリスト、メンヘラ的なオタク等が本来なら価値とされなかったのに、全ての既成価値へ懐疑的視点が注がれていった結果、小物達が個々自己主張して跋扈し、大物とか安定した志向の大人を翻弄するという図式の社会様相が世界的に実現してしまっているのだ。小物とは常に思想はない。それはエゴ丸出しであり、節操も無いし狂信的なアイドルや教祖を求める。その魁こそオウム真理教であったが、犯罪の動機も身勝手で幼稚であり、その大人的態度との乖離こそ、実は全てのジェネラリスト的感性を嘲笑う超絶的専門分化とオタク的な感性との境界の無化に拠って助長されてきている、というのがここ数十年の世界の一般的傾向である。経済社会でも80年代のリクルート事件から0年代のライブドア事件に到る迄徐々に子供のエゴ丸出しの気分が日本社会でも増幅されてきた。マネーゲーム的情報社会からオタク経営成功戦略的ゲーム社会へと推移してきたこの三十年の日本史とは、大義や義憤より、より白けた無動機主義、衝動的トピカルメッセージ主義、まさに社会世相や時事性に於けるモブフラッシュと幼稚なテロリストゲームとの境界さえ曖昧になってきている。つまりこのクリエイティヴである風を装うモブフラッシュの話題性とテロリストに拠るウェブサイトのyoutubeその他をフルに活用した脅迫ゲームとは深層心理では人類社会全体では共謀しているのだ。
 つまり人類全体が価値論的には既に本物主義とか本物とか本格的な事とはあるのだ、という無思考的で判断停止的なアカデミックな保守主義全体へ懐疑的なのだ。偽物とか出来合いの思想の方にリアリティを持っているのはフィギュアやラヴドール等を愛好する現代人にとっては尤もな事である。アイドル追っかけや秋葉系のコスプレショップやメイド喫茶で王様気分のエゴ丸出しの欲望を発散させて喜んでいる現代人はオナニークラブの様なフーゾク店が流行ったかと思えばそれに飽きて再度パラパラステージに魅せられたりして、要するに全てのファッションがサブカルへと浸食し、やがて文化全般を幼稚な感性で染め上げ、オタクと専門家の間の境界さえ無化しつつある訳だ。しかしそれ等全ての社会現象や世相や時事的な特質も、実は最初に述べた経済合理主義と偏差値的エリート選抜をする科学生活者合理主義への極度の同化的強制への進化スピードの加速化に拠る人類全体のフラストレーションが後押ししているのである。
 だからこれからも時々シャルリ・エブドの襲撃事件等一連のテロ行為は、中国でウィグル族の自爆テロが起きる様に散発的に繰り返されていくだろう。アメリカでコロンバイン等をはじめとして時折衝撃的な銃乱射事件が起きては沈静化し、忘れた頃に再発しという様な繰り返しがかなり長期に渡って持続するだろう。
 最早世界的規模でマスコミもメディア自体も理性を失いつつある。幼稚化現象は既に国家元首から科学者(STAP細胞問題に象徴されているが)から官僚等に到る迄、要するにテロを取り締まるエリート層全体にも恐らく蔓延している。と言う事は一般大衆とエリートの二層構造は確かに経済格差的には体現されているが、肝心の精神性では殆ど無くなっている。だからこそ時としてTwitterで暴言をツイートして失職する様な人達が登場し、議会でセクハラ的発言をする事で社会問題化したりするという事も繰り返されるのだ。
 しかしそれ等も全てブロードバンドが世界中を覆っている現在、電波の交信全体が人類の脳細胞の何等かの部位を破壊していっているからこそだ、とも言えるのだ。だがそれを人類は未だ暫くは伏せておこうとするだろう。何故なら全ての幼稚化を否定したら、どの社会成員も生きていけないと知っているからである。つまり正規社員も非正規社員もエリートもメンヘラニートも全ての社会成員が共謀してこの幼稚化、オタク化的な人類志向を否定出来ないというある種の諦め的気分にあるからである。それはマシーンそれ自体が人類の感性を劇的なスピードで変化させつつある証拠である。実際医療的進化に於いて人類はサイボーグ化していくだろう。それはその進化の止められなさに順応する様に全人類が構えているからである。
 それは言ってみればマゾ的にツール・ディヴァイスの利用快楽に身を委ねる感性のサーファーに人類が率先してなってきている、という風にも言い換えられるだろう。

Saturday, January 17, 2015

第六十六章 時代は作られるPart3

フィクションは観念的なリアルに対するシンボライズ的処置であり、抽象的理解から齎されるリアルへの反省的な意識を掻き立てる脳内快楽的なゲームである。
 だがこれ程現代社会はメディアとツールとディヴァイスの氾濫がリアルに実現すると、今日逮捕された爪楊枝で商品を悪戯したり万引きしたりする愉快犯は道具利用の快楽、つまりスマホやメガネ型カメラ等の使用そのものの快楽の為にだけ為される犯罪が多発していってしまう一つの犯罪例でしかないという感じを誰しも抱いてしまう。これはグリコ森永事件等の勃発を許してしまった日本社会の一つの必然的な展開である。
 脳内快楽的ゲームはリアルが深刻な核戦争とかであるなら桃源郷を希求する我々の心理を擽るものへと進化するだろうが、其処迄は行かず(それを実現させてしまったら、広島、長崎の再現となって人類自体が物凄く大きな後悔を味わうと誰しもが思っているから)しかし常にその一歩手前迄なら外交ゲームで展開していってしまう常にスリリリングな危機触発一歩手前性だけは享受することを全人類が了解し、その18世紀や19世紀初頭的な牧歌的な過去への引き戻せなさを何処かでは密かに憂えていて、そのリアル自体に狼狽える我々にとって、ディヴァイスとツール利用自体がウェブサイトを通した唯一の日常的な利用、寧ろもうウェブサイト自体に我々が酷使されてしまっている様な生活習慣を我々が了承してしまっているのだ。
 余りにもこのウェブサイトを通したディヴァイスとツールゲームがリアルタイムでリアルであるが故に、それ以上に観念的なリアルに対するシンボライズ的処置、抽象的理解から齎されるリアルへの反省的意識を掻き立てる脳内快楽ゲームというフィクションさえ、牧歌的なものからより強烈な印象のものを提供することへ全体的には移行していってしまう。河原温の初期ドゥローイングはまさにそういった右往左往する古の感性をどんどん剥奪されてメカニックなマシーンに酷使される日常を嘲笑する視点を既に50年代に予感した絵画表現を鉛筆をメディアとして利用して提供していた。そして河原の想像通りの社会が実現してしまっているのだ。
 勿論日本映画は『寄生獣』(山崎貴監督・VFX)的なものだけがメインストリームではない。当然『くちびるに歌を』(三木孝弘監督)の様なものも上映されている。一方では映画テクノロジーを最大限に駆使し、古典的な愛をテーマにしつつもスリリングさを観客に提供するかと思えば、他方では青春の群像を素朴に提供する。しかしその双方はやはり決定的に現在時点の人類の不安に拠って掻き立てられている。つまり不安除去という脳内装置への処方が旨となっているのだ。それは映画を鑑賞する観客自身が一番よく知っている。つまり一旦映画館を出たら、其処では無数のウェブサイト上での情報送受信が行われていて、電波が世界中に飛び交っていて、その忙しさ(busyness)が我々の認識をより常に意識レヴェルでも最上級の緊張状態(それを日本人はテンションtensionという語彙の頻繁使用で示している)を維持し続けなければいけないし、そういうリアルに引き戻される事を我々は知っているからこそ、一時映画に逃避するのだ。映画がメッセージであった様なATG映画全盛期の70年代の世相や時代全体への批評精神は寧ろ今ではすっかり反体制性を剥ぎ取られ、寧ろ積極的にウェブサイトビジネスに拠って世界中がツールとディヴァイス利用幻想であたかも疑似一体化していく人類の共時的な同時代性を共有する幻想を益々納得させる為の装置に表現全体が転換していってしまっているのだ。其処では共同体的な幻想は益々磨滅させられている。
 私は何もそれを憂いている訳ではない。寧ろ70年代的幻想が実は世界の何も変えなかったということを寧ろ現代映像表現のウェブサイトビジネス展開する世界的共時性の太鼓持ち的存在の仕方自体が証明してしまっているからだ。だから映画監督達がある種の職業的幻想を持ち得たのはせいぜい80年代迄で、それ以降は『PARTY7』を監督した石井克人監督が示した様な過激なメッセージ性を通過した2000年辺りから徐々に映画はリアル共時世界の反映体でしかあり得ないと諦観を積極的に示し始めた。それから15年が経った。今や河原温の浴室シリーズをはじめとする初期ドゥローイングで描かれた犇めいて蠢き存在する日常生活者達が<密集>という自己身体とウェブサイト双方から雁字搦めで剰余を剥奪された日常それ自体に積極的に快楽的に臨んでいるというリアルをその侭提供する表現へと、所謂監督のヴィジョンを思想的に提示する世界への映画批評性から離脱して、益々リアルな反映体へと転化してきている。
 フィクションはあくまでフィクションであった時代は80年代迄で終了し、それ以降人類は寧ろゲームソフトの持つスピード感と編集的なカットバック切り換わり感が前面に押し出された様なタイプの時間感覚の映画がメインストリームとなってきた。それはフィクションを離れた時にウェブサイトが提供する情報送受信性それ自体へ円滑に引き戻る事が容易である様に取り計らわれた配慮の映画内容であり、製作意図の表現なのである。だから私は映画はリアル世界の反映体を積極的に担う様になってきたと言ったのだ。
 フィクションは今やリアルに対する観念的な脳内快楽のゲーム等ではなく、それ自体も一つのリアルなのだ。つまり70年代や80年代に映画表現自体に文化的可能性を感じ取っていた人類は、寧ろそれは幻想で、文化に等なり得ようもない、そもそも文化自体が安穏と成立可能なリアル等では既に無いという事実だけを覚醒させる装置に映画が転化してきたのだ。
 今回は映画をメインに述べてきたが、次回は文学に眼を転じてみよう。しかし恐らく文学も文化それ自体を安穏と享受する心の余裕を失い、完全にリアル情報送受信ゲーマーとしての人類成員意識を覚醒させる事に役立つ装置へと転じてきていると証明することとなろう。ほのぼのとした心理で映画を通したヒューマンなほっこり性を味わうという時間的ゆとりを与えないタイプの娯楽装置を提供する映像ビジネス自体が恐らく文字表現も大きく変化させてきている、ということに我々は気付くであろう。  付記 映画をよく登場させてきたのもどうしても現代文学の持つ特質を理解する為に映像文化全般の方向に就いて触れずには居られないからであるが、今回は爪楊枝愉快犯の少年逮捕のリアルから触発されて記事を突発的に書いた。つまり映画的リアル(フィクション)とリアルの境界への確固たる認識を喪失して映画的リアルを現実化させてしまう愉快犯少年を生む時代が逆に映画の性質を決定している、という世界批評的映画理性の消滅と、ダイレクトなクリエイターのリアル反映的リアルを今回は示したつもりである。(Michael Kawaguchi)

Sunday, January 11, 2015

第六十五章 時代は作られるPart2

 20世紀は明らかに前半の二つの世界大戦の人類の経験に拠って文藝活動は概ね空虚さをテーマとしたものだったと言ってよい。サミュエル・ベケットの<ゴドーを待ちながら>は二人の男がゴドーを待っているのだが終ぞ彼は来ない。又サルトルの<存在と無>では死に拠って全てが奪われてしまい後には何も残らないという形で神の不在を徹底的に示していた。アラン・ロブ・グリエはアンチロマンという形式で小説の持つロマン的性格、つまり希望を持たせる様なハレ的な何物も期待させず、起承転結ではない無展開性を示した。それは彼の映画でも同様である。又ゴダールは即物的日常の中で突如挫折し死ぬ人間の像を映像化した。それはとどのつまり全ては空虚であるという世界観に彩られている。それは戦争の世紀に拠り何時突発的に死が到来するか知れたものではないという感性に拠って正当化された表現なのだった。
 キューブリックは<時計じかけのオレンジ>で暴力が日常に於いて潜在的に巣食っている様を描いたが、それは未来への希望を打ち砕くと言うより、寧ろ夢や希望が成立し得ない日常を引き受けようという姿勢の方が鮮明化されたスタンスの映画哲学だった。
 現代アートは日本では具体美術協会がモダンアートムーヴメントの仕掛け人となって、後にフルクサス運動の一環としても認識されるハイ・レッド・センター(高松次郎+赤瀬川原平+中西夏之)のイヴェントの連鎖が不在ということを炙り出した。不在はサルトルが<存在と無>で示した命題でもあった。とりわけ高松は影のシリーズで影とは遠近法的に我々の身体等の実在が遠ければ小さく見えるのと正反対で遠くなればなる程大きくなっていくつまり逆遠近的現象であることで、実在に対する鏡の像の関係があり、その非実在的リアリティが実在の充実より充満している反転現象を図式化した。此処でも空虚ということがクローズアップさせられていた。
 アンディ・ウォーホルがシルクスクリーンでコカ・コーラの瓶をあしらって油彩画にしたりして、巨大な紙の平面に転写させた時反復される商業資本主義のコピーであると同時に、主題とか命題といった大仰な正統性への明らかな疑いが其処には介在していた。此処でも存在の充実であるよりは、機械的に流れ作業的に反復されるイメージをダイレクトに提示する事で空虚感を醸す効果を作っている。それは退屈さ、最大限に文学的にしてみたところでせいぜい倦怠的な充実しか作れない世界像である。
 つまりそういった一連の20世紀文藝の様相とは明らかにアンチ的なメッセージなのだった。否定の美学、肯定への極度の懐疑が20世紀芸術、文学、演劇、映画等の底流にある精神なのだった。
 だがそういった時代から早80年代辺りを境界にして30年以上が経過して21世紀も徐々に中盤へと近づいてきている。そして21世紀とは前述の20世紀的な空虚を如何に乗り越えるかを人類全体が模索する時節にあると言ってもいい。
 勿論世界はそれ程悠長な文化的香りに満たされている訳ではない。様々なイスラム原理主義テロリズムが世界中に横行している。つい先日もフランスのジャーナリズムが標的となった。アメリカ合衆国大統領オバマ氏はフランス支持を敢えて訴えた。存在の空虚さ自体が一種の欧米先進国の特権的なロマンであるという事を見せつけるかの如く群雄割拠的なイスラム原理主義テロリズムは十歳の少女を強制的に自爆テロ犯に仕立てあげる程の残忍さを示した(ボコ・ハラム)。
 欧米先進国は今日のウェブサイトが世界中を張り巡らされた時代に秘密裡に各原理主義グループが連絡を取り合っている事を想定しているし、純朴に彼等に対して欧米先進国への経済力的な格差の不満をぶつけているとだけ思っている訳ではない。ことはイスラム教とキリスト教へと分派していったユダヤ教旧約聖書に示されている古代史の流れの中に既に現代のイスラム教原理主義対欧米先進国の表現の自由という対立は兆していたとさえ言える。宗教戒律的な対立は資本主義とか自由主義とかいった経済社会的秩序を嘲笑うかの如く根の深い対立を用意する。つまりどの国のどの民族として生まれてこようとも誰しも決して自分の性別同様、生まれてきた国家や民族史的な背景を選択して生まれて来る訳ではない。つまり生まれた国と土地と民族を選んで生まれて来られる訳ではないのだ。だからこそその決定的運命の前では誰しも平等である筈である。にも関わらずその平等性は必ずしも宥和的でも友愛的でもなく、対立図式に反映されながら顕在化してしまう。
 水の少ない土地で食文化から居住文化の全てを育んできたアラブ系民族と比較的容易に水が手に入る欧州とでは必然的に(勿論日本の様に常に清潔な水が容易に手に入る土地ばかりではないものの)生活感情的な齟齬は生じて来るのだ。砂漠質の土地と農耕に適した土地とでは育まれる宗教思想にも大きな違いが生じる。しかも常に経済援助をするのは欧米キリスト教圏であり、経済援助され、独裁国家が発生しやすい土壌にある中東国家群は欧米型の資本主義も自由主義も育まれてきた訳ではなかった。
 世界の対立図式は斯様に双方で歩み寄る事を困難にしている。しかしそれでもウェブサイト自体は利用する民族を選ぶ訳ではない。イスラム教徒もヒンドゥー教徒も仏教徒もキリスト教徒と同様にそれ等の恩恵を被る。しかしイスラム教原理主義過激派に対して対決姿勢を鮮明化させたアノニマスは明らかに欧米キリスト教圏の人達に拠る営みであり、その参加者にアラブ系の人が居たとしてもスタンスは欧米寄りである。この二重の世界の二極分離性はイスラム国に大勢の欧米人の青年も参加している事に拠って益々複雑化している。つまり生まれた国家や民族は選べないがイデオロギーや思想は選べるという思想だけで全世界が統一されているという事実を世界中に徹底化させた当のものこそウェブサイトであり、全世界に配布されている様々な日常的ツールとディヴァイスなのだ。
 その点では20世紀のロマン主義的残滓でもある空虚さの表現は21世紀では余りにも既にリアリティという意味では実効性を欠いているのだ。何故なら20世紀文藝表現とはあくまで未来予想的な空虚さだったのに対し、現在の世界、つまり21世紀リアルとはその夢想を遥かに超えるシヴィアな残虐さとあっけらかんとして荒唐無稽な非理性性に彩られているからである。21世紀は既に全ての想念の実現可能性が、それも極めて残虐な行為をゲームソフトで見慣れ切ってしまった現代人の無節操さで加速化されており、既にユーターン不可能な地点に迄到達してしまっているのだ。中華人民共和国という国家としての存在も、シリア等の独裁国家群の存在も既にロマンを一切成立させない人類の欲望を実現化させてしまっている。何故アメリカ合衆国だけが経済的繁栄を享受しなければいけないのかは既にイラン革命でもメッセージ化されていたし、ソ連崩壊ロシア化された大地でもチェルノブイリ原発事故、そして合衆国のスリーマイル島原発事故でも世界中のエネルギー政策の一元化的なノー・ディヴァイス性の前で、既に空虚なロマンを表現世界で耽溺するゆとり自体に我々は全くのリアリティを喪失してしまっている。ある意味では具象画家であるフランシス・ベーコンの肖像画の顔の様に歪んだ知覚像の様にしか世界を見る事が出来ないのだ。それは希望とか展望とかより一層強烈なサヴァイヴァル的恐怖を人類に与えている。それが一方では9.11の同時多発テロとして、他方では自然災害として3-11の東日本大震災という形で、人工自然両面で展望よりサヴァイヴァル的恐怖を駆り立てる方向で全てを悪しく実現させてしまったのだ。
 従って21世紀も中盤へ徐々に接近している人類にとってのリアリティは空虚ではなく、空虚ささえロマンティシズムの一端でしかないと思わせてしまった過酷な現実の中でどう文化的な営みを持続させていくべきかという剰余的な社会思想を全人類的規模で模索する時節に入った我々にとって真のリアリティとは余りにもフィクション的過ぎる嘘の様な現実だけに取り囲まれた世界で、どうフィクションの持つ実効性を取り戻していくかというダイレクトな表現のメソッドをゲームソフトに引率されてきたここ十数年的な回路以外にどれくらい豊かに創出し得るか、それは実践的な娯楽感性の復権の文化思想である、と言えるだろう。
 だがそういった文化思想はやはり現代世界では経済動向とも無縁では成立し得ないだろうという予感だけは確実にするので、次回は世界経済の中で成立する文化思想、娯楽思想に就いて考えていってみよう。