セザンヌ 牧歌 1870

セザンヌ 牧歌 1870

Saturday, January 17, 2015

第六十六章 時代は作られるPart3

フィクションは観念的なリアルに対するシンボライズ的処置であり、抽象的理解から齎されるリアルへの反省的な意識を掻き立てる脳内快楽的なゲームである。
 だがこれ程現代社会はメディアとツールとディヴァイスの氾濫がリアルに実現すると、今日逮捕された爪楊枝で商品を悪戯したり万引きしたりする愉快犯は道具利用の快楽、つまりスマホやメガネ型カメラ等の使用そのものの快楽の為にだけ為される犯罪が多発していってしまう一つの犯罪例でしかないという感じを誰しも抱いてしまう。これはグリコ森永事件等の勃発を許してしまった日本社会の一つの必然的な展開である。
 脳内快楽的ゲームはリアルが深刻な核戦争とかであるなら桃源郷を希求する我々の心理を擽るものへと進化するだろうが、其処迄は行かず(それを実現させてしまったら、広島、長崎の再現となって人類自体が物凄く大きな後悔を味わうと誰しもが思っているから)しかし常にその一歩手前迄なら外交ゲームで展開していってしまう常にスリリリングな危機触発一歩手前性だけは享受することを全人類が了解し、その18世紀や19世紀初頭的な牧歌的な過去への引き戻せなさを何処かでは密かに憂えていて、そのリアル自体に狼狽える我々にとって、ディヴァイスとツール利用自体がウェブサイトを通した唯一の日常的な利用、寧ろもうウェブサイト自体に我々が酷使されてしまっている様な生活習慣を我々が了承してしまっているのだ。
 余りにもこのウェブサイトを通したディヴァイスとツールゲームがリアルタイムでリアルであるが故に、それ以上に観念的なリアルに対するシンボライズ的処置、抽象的理解から齎されるリアルへの反省的意識を掻き立てる脳内快楽ゲームというフィクションさえ、牧歌的なものからより強烈な印象のものを提供することへ全体的には移行していってしまう。河原温の初期ドゥローイングはまさにそういった右往左往する古の感性をどんどん剥奪されてメカニックなマシーンに酷使される日常を嘲笑する視点を既に50年代に予感した絵画表現を鉛筆をメディアとして利用して提供していた。そして河原の想像通りの社会が実現してしまっているのだ。
 勿論日本映画は『寄生獣』(山崎貴監督・VFX)的なものだけがメインストリームではない。当然『くちびるに歌を』(三木孝弘監督)の様なものも上映されている。一方では映画テクノロジーを最大限に駆使し、古典的な愛をテーマにしつつもスリリングさを観客に提供するかと思えば、他方では青春の群像を素朴に提供する。しかしその双方はやはり決定的に現在時点の人類の不安に拠って掻き立てられている。つまり不安除去という脳内装置への処方が旨となっているのだ。それは映画を鑑賞する観客自身が一番よく知っている。つまり一旦映画館を出たら、其処では無数のウェブサイト上での情報送受信が行われていて、電波が世界中に飛び交っていて、その忙しさ(busyness)が我々の認識をより常に意識レヴェルでも最上級の緊張状態(それを日本人はテンションtensionという語彙の頻繁使用で示している)を維持し続けなければいけないし、そういうリアルに引き戻される事を我々は知っているからこそ、一時映画に逃避するのだ。映画がメッセージであった様なATG映画全盛期の70年代の世相や時代全体への批評精神は寧ろ今ではすっかり反体制性を剥ぎ取られ、寧ろ積極的にウェブサイトビジネスに拠って世界中がツールとディヴァイス利用幻想であたかも疑似一体化していく人類の共時的な同時代性を共有する幻想を益々納得させる為の装置に表現全体が転換していってしまっているのだ。其処では共同体的な幻想は益々磨滅させられている。
 私は何もそれを憂いている訳ではない。寧ろ70年代的幻想が実は世界の何も変えなかったということを寧ろ現代映像表現のウェブサイトビジネス展開する世界的共時性の太鼓持ち的存在の仕方自体が証明してしまっているからだ。だから映画監督達がある種の職業的幻想を持ち得たのはせいぜい80年代迄で、それ以降は『PARTY7』を監督した石井克人監督が示した様な過激なメッセージ性を通過した2000年辺りから徐々に映画はリアル共時世界の反映体でしかあり得ないと諦観を積極的に示し始めた。それから15年が経った。今や河原温の浴室シリーズをはじめとする初期ドゥローイングで描かれた犇めいて蠢き存在する日常生活者達が<密集>という自己身体とウェブサイト双方から雁字搦めで剰余を剥奪された日常それ自体に積極的に快楽的に臨んでいるというリアルをその侭提供する表現へと、所謂監督のヴィジョンを思想的に提示する世界への映画批評性から離脱して、益々リアルな反映体へと転化してきている。
 フィクションはあくまでフィクションであった時代は80年代迄で終了し、それ以降人類は寧ろゲームソフトの持つスピード感と編集的なカットバック切り換わり感が前面に押し出された様なタイプの時間感覚の映画がメインストリームとなってきた。それはフィクションを離れた時にウェブサイトが提供する情報送受信性それ自体へ円滑に引き戻る事が容易である様に取り計らわれた配慮の映画内容であり、製作意図の表現なのである。だから私は映画はリアル世界の反映体を積極的に担う様になってきたと言ったのだ。
 フィクションは今やリアルに対する観念的な脳内快楽のゲーム等ではなく、それ自体も一つのリアルなのだ。つまり70年代や80年代に映画表現自体に文化的可能性を感じ取っていた人類は、寧ろそれは幻想で、文化に等なり得ようもない、そもそも文化自体が安穏と成立可能なリアル等では既に無いという事実だけを覚醒させる装置に映画が転化してきたのだ。
 今回は映画をメインに述べてきたが、次回は文学に眼を転じてみよう。しかし恐らく文学も文化それ自体を安穏と享受する心の余裕を失い、完全にリアル情報送受信ゲーマーとしての人類成員意識を覚醒させる事に役立つ装置へと転じてきていると証明することとなろう。ほのぼのとした心理で映画を通したヒューマンなほっこり性を味わうという時間的ゆとりを与えないタイプの娯楽装置を提供する映像ビジネス自体が恐らく文字表現も大きく変化させてきている、ということに我々は気付くであろう。  付記 映画をよく登場させてきたのもどうしても現代文学の持つ特質を理解する為に映像文化全般の方向に就いて触れずには居られないからであるが、今回は爪楊枝愉快犯の少年逮捕のリアルから触発されて記事を突発的に書いた。つまり映画的リアル(フィクション)とリアルの境界への確固たる認識を喪失して映画的リアルを現実化させてしまう愉快犯少年を生む時代が逆に映画の性質を決定している、という世界批評的映画理性の消滅と、ダイレクトなクリエイターのリアル反映的リアルを今回は示したつもりである。(Michael Kawaguchi)

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