セザンヌ 牧歌 1870

セザンヌ 牧歌 1870

Monday, January 26, 2015

第六十八章 時代は作られるPart5 整えられた秩序に懐疑的になる現代人

 意図論の(第三十六章 正論と邪論の混淆した情報社会)で私が示したSNSで現代人に拠って呟かれる本音的部分とは近代迄はずっと人類が抑圧してきた部分であり、それは言ってはいけないことも多く含んでいる。だが現代人は既に表現の自由等の権利を普通に享受しているので、それを呟く事も、呟かれたものを読む事も自然な感性で生活している。つまりそういう風に格式ばった言説から能天気でどうでもいい様な空談、暴言に到る迄何でもありのSNSの掲示板、TLを閲覧する事を自然なものとしている。と言うことは、近代迄人類は只管そういった雑然とした事をいけない事だ、きちんとした正式なもの以外には価値等ありはしないと決め込んでいたのだが、それは可笑しい、日頃の本音的部分のメモなんかの方がずっとある意味では価値があるということを気づき始め、それを誰しもが自由に閲覧することを可能とする様に現代ウェブサイトが機能する様になったのである。
 正式の論文にする前のメモは凄く面白いのに、実際にきちんとした形にしてしまうと、メモにはあった面白さが全て省略されてしまう、つまり省略した部分こそが一番読み応えがあるのに、正式とかきちんとしたという整えられた秩序の方を重んじる事自体が近代社会の一つの理想だったのかも知れない(尤も絵画等では文章より早く印象派の様な自由な表現の空気は訪れていたのだけれど、芸術はあくまで形式的常識的社会に対するアンチテーゼ的な認識をアーティストが持ちやすかったのだが、文章の世界ではそうは行かない、もっと保守的な通念がなかなか払拭し得なかったのだ)。だが現代になってようやくアーティスト達が近代に様々な冒険をしてきた事を文章でも出来る様になった。しかもそれは一部のインテリ達の手に拠ってではなく、全ての普通の市民誰しもが自由にそれを出来る様になったのだ。そして一旦そういった自由を獲得すると、きちんと整えられた秩序の方を不自然だと思う様な感性が定着しつつある様になってきている。
 一人の人間が一見統合失調的である様に思える部分さえ、実はそうでなく、それは誰しもが持っている事なのだが、それを必要以上に抑圧する事で得られている安定自体が、恣意的で不自然な事であると思える感性の方が伸してきている。それは去年の県会議員の公費私的流用疑惑に返答する前県議である野々村竜介氏の泣き喚き会見でも顕在化していた。ああいった態度で臨む事は理性のレヴェルでは大人気無く恥ずかしい事であるが、恥ずかしい事を敢えて自己陶酔しながらする事で却ってそちらへあの会見を観ている人達の意識を移行させる巧みな、と言うより狡い選択を敢えて彼は取った。だからその敢えて狡い事を履行する事にそうしながら段々自己陶酔し、無我の境地になる事自体で自己存在をアピールしようとする。それはどうせもう辞めていくのだから、それぐらい許された然るべきだという傲慢も控えている。しかし実際あの会見の統合失調的態度は皆の記憶の中に残ったのだ。それは彼が議員としては怠慢であったにも関わらず、ああいう辞め方をしていったという意味で印象付けられてしまったのだ。
 寧ろあの時凄く理性的に会見での質問に応答していたら、あの議員のことだけなく公費私的流用の件自体も徐々に忘れられていっただろうが、実際はそうでなく、寧ろあの醜態に拠って鮮明に我々の記憶に残っている。つまり彼は世代的にもネット社会に極めて普通に順応出来る世代で最初の中年だったので、現代人の整えられただけの秩序に不自然さを感じる感性をストレートに出しても自分自身としては何等可笑しい事ではないという存在主張をしている。
 現代人はSNSを見慣れていて、正式とか格式ばったこととか、きちんと本格的である事自体へ懐疑的感性を巣食わせてしまっているのだ。一旦そういった自由な感性をかなりそういった手段の無い時代では堅物で押し通してしまっていた様な全ての成員が、そんなものに本当の出会う価値等無いのだと思える様になっていくと、正式とか本格的とか秩序立った理性等の方がずっと疑わしいぞという価値判断さえ我々は持ってしまえるのだ。
 統合失調でない健常である状態とは、実は本来凄く存在的にも矛盾している我々が勝手にでっちあげてきたいい子ぶった態度でしかないのだ、というメッセージとして全てのSNSのTLが日々延々と閲覧可能であることの現代情報社会では統率されている、きちんとマナーを踏襲する様に教育されていること自体を不自然でしかないという、まさに東浩紀が<動物化>と言った事の方が却って人間らしく、人間らしいと言う事の方がずっと不自然で訓育されているだけの事であると判断する様になってきている、とは言える。
 それは恐らく様々な局面で大きな文化的転換点を人類に齎しているのではないだろうか?ゲームソフトが映画の内容や編集等の感性に大いに影響を与えている様な意味でSNSの呟きの解放的な気分が正式であること、本格的であること、きちんと仕上げられていること、つまり完成されたという感性自体を大きく転換させていると言える。
 従ってこれから数十年後では論文であれ公式文章であれ、以前迄の様な型通りのものさえかなり大きく変化していくものと思われる。だが儀礼性とか伝統とかそういう事は、ではどうなるのだろうか、という問い自体もかなりきちんと論議される様にはなっていくだろう。それはかなり保守的見解からの危惧という形でも噴出するだろうし、だがやはり変えていくべきは変えていくべきだという観念でその論議に参加する人達もかなり多いだろう。そういった喧々諤々の論争の時代はもう直ぐ其処迄来ている。

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