セザンヌ 牧歌 1870

セザンヌ 牧歌 1870

Monday, February 2, 2015

第六十九章 時代は作られるPart6 未完成は悪の魅力である

 前回述べた様な不完全性にリアリティを感知する現代人にとってもし仮にウェブサイトにだけ本音メッセージを求め過ぎるとしたなら、それは社会全体が素直な欲求を他者に示す事を憚らせる固有の歪な禁欲的空気が蔓延している証拠である。発信し難さが、一方でウェブサイトで幾らでも本音を書き込めるにも関わらずリア充的対人関係では支配的な証拠である。
 だがそれは危険である。つまり情報発信力と本音吐露的な自由さ自体が却ってリア充的な抑制的空気を醸成しているのなら、ウェブサイトに過剰に依存することを悪しきバロメータとする様な倫理観とか生活感情を持つべきである。ウェブサイトの有効利用とは、ウェブサイトの利用に依存し過ぎないということに尽きる。
 ウェブサイトで余りにもいい子ぶって演技し過ぎても、それはそれで策略的なメッセージしか発信出来なくなるので控えた方がいいが、余りにもその都度の突発的な情動に従順にメッセージを発信し過ぎると、リア充的対人関係や社会生活で、その鬱憤晴らしの反省から偽装的態度に陥りやすくなる。リアル社会生活で欲求を圧殺し過ぎても、逆にウェブサイト上で良い子ぶり過ぎて偽装的態度を取り過ぎても危険なのである。
 実は我々がある部分では心地良い本音的メッセージに惹かれるのは、ある種本音的な原初的メッセージ自体に、社会的通念や常識や良識といった検閲されたものではない生の欲求、つまり悪も多く含む本音が控えているからなのだ。
 無修正の未完成メッセージこそ、あらゆる意味で善も悪も一緒くたになった混沌とした原始的パワーを秘めている。それは無修正ポルノを一人密かにPCの画面で観るのと似た迫力を感じ取れるのだ。
 出版社とは言ってみれば検閲機構の最たる存在である。社会一般で受けるとか、社会一般で良識ある意見しか出版させない。それは用意周到な検閲機構なのである。校閲といった所業は生なメッセージの毒抜き作業である。それはあらゆる層に万遍なく伝達されるメッセージが共感されることを旨としている。しかしロングテールビジネス定着以降の現代社会のメッセージ伝達は各層にそれぞれ全く異なったメッセージコンテンツを配信する事に拠って成立している。西松屋は子供服専門のホームセンターであるし、薬局から大型スーパーに進出したウェルパークもマツモトキヨシもダイエー商法も参考にしてきただろうし、その店舗形態の多様性にビジネス的命運を賭けてきただろうと思われる。
 ロングテールビジネス的な展開は恐らく全分野で応用されている(何もアマゾン商法だけではない)。
 この多様化と一部の消費者のニーズに拠って細分化させて多層的に経営する戦略は完成という形態が社会全体に適用されないということを意味している。勿論日本の場合伝統的な地方毎の産業基盤は存在する。だがその地方毎の特色を維持する為にもあらゆる新機軸的なイノヴェーションを要求されている。つまり稲作であれ畑であれ農業全般が減反政策的な範疇から逸脱する様に展開していくしか生き残りの道はない。
 完成とは例えば先述の出版物での完成形態のタイプだけでなく世界、社会全体のインフラにも言えるのだ。何故なら検閲された前例踏襲主義的なタイプの商法やイノヴェーションを作為的な欺瞞を感じ取ってしまうということが現代人類の顕著な特徴だからである。
 矯正的威圧から解放されたいと感じているのは個人の感性だけでなく消費者自身が各人サーヴィスに対しても感じていることなのだ。
 そのアイディア的な発見を我々はSNSで仕入れている。これは確かである。其処ではあらゆるタイプの情報が発信されている。当然自分が理想とするものばかりでなく玉石混淆なのだ。その雑居、同居性に意味がある。端的に怪しげな情報やガセネタ的に悪辣なもの、如何わしさや危うさも沢山閲覧出来る。その雑多なリアルから掴み取る自己にとって真に重要な情報という選択努力に意味がある。
 この不完全性、未完成性こそ悪の履行をも可能とする人類の感性の磁場となっている。何故なら本当に説得力ある善とは観念的な善ではなく、小さな悪とも共存している。悪の一滴も含有されていない善は偽善的なるもの、欺瞞的なるもの以外ではないと我々は充分承知しているからだ。魅力とは不良性にある。率直に検閲される時削除される要素こそが魅力なのだ。
 もっと言えば魅力ある何かとは小さな悪を含有している。これをSNSでは読み取れるからこそSNSは無くならないのだ。校閲、検閲とは言ってみれば小さな悪を根こそぎ欠点のないものにしていく志向がある。つまり小さな悪や多くの欠点もあるけれど、何か一点凄く魅力があるという事態から、悪も無ければ、欠点も一切無いけれど大いなる魅力も一切感じられないものこそ検閲済みのものである。善を一切損なって迄も一切の悪を除去しようとする校閲、検閲自体は律儀な官僚のする最も一般的な作業である。
 迫力ある魅力ある何かとは必ず凡庸な正しさにはない悪があるのだ。これをまず認めていく必要がある。これは精神的な意味で必要不可欠な必要悪なのである。詰まらないものは無性格なものである。それは悪がなく健全かも知れないが、それだけなのである。
 本格的な長所や大いなる魅力とは必ず悪と抱き合わせであると認める所からあらゆる商品やメッセージやサーヴィスを考えていくべきである。勿論此処で言う悪とは社会的な意味でインモラルな何かである訳ではない。
 要するにある意味では不首尾で微々たるクレームに対しては確かに欠点も多いが、一部の徹底的に絞られたニーズでは最大の価値である様な何か(世間ではスリムやグラマーな女性、イケメンの男性だけがニーズがあるとは限らない)を個々別箇のアイテムとして用意しておくべきなのだ。
 不完全性、未完成性に魅力を感じる現代人は一方ではアート抽象絵画作品等で極めてスキルの高い完成度を求める感性と実は抱き合わせである。そういうものを一方で求めるなら、逆にそれ以外では不完全で未完成なものを愛好するという感性でもある。音楽で完全性を求める者はアートでは荒削りなものを感性的に求めるということもあり得る。そういった相互転換的な完成思考と未完成思考の共存は無限なヴァリエーションがあり得る。価値は多元的であり、多層的なのである。(つづき)

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