セザンヌ 牧歌 1870

セザンヌ 牧歌 1870

Wednesday, February 5, 2014

第五十四章 人類は夢の拡張から内部で閉じたシステム管理へと意識を移行させ始めた

 21世紀を生きる我々はコミュニケーションをする相手の顔を観られないことを嘆いてもいない。率直に言って相手とはそもそも抽象的な存在であると目覚めてしまっているからである。つまり他者性とは即ち仮に顔が見えていても真実に相手を理解し得るものでないということである。その事実の必然性を隠蔽し続けることの不可能性というパンドラの箱を開けてしまった人類は、コミュニケーションとは即ち文字という記号の羅列を通してその時々の感情をぶつけ合うことであると既に骨身に沁みて知っている。 現代のアートが何処か凄く完成されたハーモニーに対して懐疑的(skeptic)であることは、このことと関係がある。要するに完成ということ、全体ということへ懐疑的であることはまず現代を普通に生き抜く前提であると我々は知っている。自然科学の様々な発見がそれを実証している。
 その代り我々は何処かで常に拡張されてきた夢を放棄してきたと知っている。アメリカ大陸の発見、月へ飛行士が到着したことを最後に、常に人類が外へ外へ拡張してきた夢を何処かで宇宙ステーションを実現しているにも関わらず放棄していることとは、ウェブサイトビジネスに於いてWindows8に於いてよりPDF端末化させたPC端末へ移行させたことに拠っても如実に示されている。それは地球内部で閉鎖的なコミュニケーション情報ツールを完成させることでそれら端末ディヴァイスを利用させ、その結果監視盗聴傍受社会の持つ管理徹底化そのものの功罪を暈す意味合いがあった訳だ。何故なら様々なアプリを通した情報を各人へ配送することで、その情報接種の快を与えれば、管理システムそれ自体への批判が躱せるからである。我々は町中に仕掛けられた盗撮傍受に拠る監視カメラ映像の集積、つまりビッグデータ収集を、各人が自由に情報接種することを選択することで同意している。一切の監視のない社会自体を既に望んでさえいない。
 宇宙の果てに太陽系と酷似した条件の系が仮に無数に存在していても、実質的にそれらの惑星の高等知性生命体と邂逅し得る訳ではないと知っている。そこで我々は地球内部での閉じたコミュニケーションだけしか対高等知性生命体との交信は実質上可能でないと暗に悟ったのだ。
 この様な拡張の外へ外へ一方向性から内へ内へという逆の後退を積極的に推進するベクトルの取り方は明らかに人類に於いて、閉鎖的内部管理性の完成、つまりそれ以前的なテロルへの徹底沈静化という方向へとシフトしていることを意味する。それは大型スーパーで決して容易に万引きをさせはしないという管理的徹底化と、実質上監視カメラ、盗聴システム等の全てがビッグデータ収集の為に利用される現代社会の在り方自体が人類のある種の能力的限界とそのことに於ける諦念を象徴している。
 確かに監視されていること、盗聴されていること、そしてそれを助長しているものは我々自身が各人であらゆる情報摂取していること、多様化されるアプリを選択する自由を捨てて迄その傍受社会を崩壊させる気すらないということに於いて、我々は監視者へも盗聴者へもその人格とか顔を察知することも出来ない。にも拘わらずその顔を知りたいという気持ちにさえ我々はならないのだ。既にそういう風に顔の見えない者同士のコミュニケーション自体へ免疫が成立していて、その顔の見えなさへ恐怖心も放心状態も持っていないのが今の我々なのである。
 つまり我々は価値というものの在り方をツールとディヴァイス利用を維持していければ、それ以外の多くの精神的な呪縛されていないという感情さえ反故にしてもいいと思い始めているのだ。それはやはり決定的に我々自身が決して異常ではないものとして我々が我々内部で閉じた監視をし合うマゾヒスティックな相互呪縛性へ自然な眼差しを持っているということ、だってそれは全人類が程良く平和で安定していられる為なら仕方ないではないか、と理解している証拠なのである。コンビニにある監視カメラと同様のものは全てのマンションに設えられているが、それを管理するのはマンションの住人全員であり、必ずしも特定の誰かである必要はない。要するにそこに固有の顔を要す訳ではないのだ。
 そしてその監視し合うということが極度に推進されていったのがスノーデン氏へ告発へと向かわせ、スノーデン本人を最後の告発者としてのポジションを与えつつも寧ろ何も変わりないということだけを証明してみせたアメリカのNSAと同様のものを日本に導入しようとしても所詮アマチュア的なものだよ、と揶揄しても、その本家本元のアメリカのものでさえある種の脆弱さを示しつつある今日、元祖とか本家という発想自体がある種の幻想であると知りつつも、そういう風にヒエラルキー的に認識したがるという本性自体もどうすることも出来ないという認知を全人類的に共有している。
 英語だけがグローバルランゲージであること、商業公用語としてではそれ以外のどの言語を英語に置き換えられるだろうとも思って黙ってそのグローバリティに賛意を示している全人類にとって、只管拡張しつつあった戦争と領土拡張の歴史自体が二十世紀後半以降大きくベクトルをシフトさせていった様に、その拡張の原理を内部閉鎖的管理の徹底化へ奉仕するベクトルであらゆるテクノロジーの進化を見守るスタンスを選択したということを教科書的にだけでなく各人の内心の本意としても認識している、と言えないだろうか?
 それは相互呪縛社会の持つサディスティックな人間性悪性の相互確認と、その相互呪縛社会の顔の見えなさの前で自ら全羞恥を曝け出すマゾヒズムを自然な本性として我々が認めたということでもある様に思われるのである。(つづき)
 付記 あらゆる手続きが全て通信に於いてのみ履行される現代社会で我々は寧ろ積極的に相手の顔の見えなさをATM利用的に選び取っていると言える。