セザンヌ 牧歌 1870

セザンヌ 牧歌 1870

Wednesday, October 23, 2013

第五十章 エロスと虚栄心/通信傍受社会から読み取れること

 我々は観念的理想を脳内で追い求めることは出来るけれど、それは必ず実現してみていいものではない。そういった意味では実在の、現実の理想には必ず居心地のいい、それを快として許容出来る欠陥とか短所を伴っている。そうでないものはあり得ないし、又あったとしても、其処に温かみを感じることは出来ない。
 アートは美的観念の図像化なので、当然実在への観察が感謝の念としても息衝いていることもあるが、幾分必ず実在への不満から理想化されている。昨今展覧会で鑑賞した竹内栖鳳もレオナール・フジタも実際の猫や裸婦を絵画的美へと送り込んでいることを確認し得て、絵空事として絵が実在からヒントを得た作り事である感をより強くした。
 実在に憩いを感じることと、不満を持ってより理想化された今は体験出来ない実在(それは幻想かも知れないが)を追い求めることを我々は脳内で絶えず行っている。
 しかしそういった理想的美は実在の実際の外交的軍事的諸問題を抱えた国家とか社会では絵空事であり、絵空事がリアリティを持つのも、そういった有象無象の実在の国家や社会の汚穢があるからである。
 まさにその汚穢の中で右往左往している我々は、しかし同時にエドワード・スノーデンが愛国心と理想との狭間で義憤に駆られ告発した監視社会(NSCに拠る通信傍受の一切のプライヴァシーと個人の権利を踏み躙ることへの告発対象としての)も、一面ではその様に監視されればこそ初めて意識し得る個人の秘密とか個人の権利というものもある、と知っている。
 要するに一切の監視のない社会ではそもそも個人の権利であるとか秘密を特別のものとして意識すること自体がない。そういった精神的ストレスが発生しようがない。監視することだけを考えればそれは社会の側(つまり監視することが治安維持目的の為に正当化され得る)の正義が悪意へ変貌する危険性を我々は察知し得る。
 しかしその様に個人がテロその他の反社会的行為へと赴く危険性とその能力を一切信じていない社会に既に現代人は満足してもいない、とは言い得ることなのだ。
 もっと率直に言えば、我々は何処かで人から存在(それは社会へ何事かを齎す能力自体である)を認可されたいという欲求もあるということだ。そしてその人から良く(能力があると)見られたいという欲求は、自分がある程度存在感がある存在と見られるのなら、自分が気づいていない瞬間に見知らぬ他人から覗かれているかも知れない、その状況を密かに愉悦的に歓迎している、そういった一種のマゾヒスティックな快楽をも我々は心底では否定していないのだ。
 それはブログで既に自分で書いて自分だけが読む日記を公開することによってある程度誰しも実現しているのだ。ブログの記事が個人的なことであればある程、我々は自らの切実で、それを他者に知られることに羞恥を覚えること迄暴露したくなるマゾヒスティックな願望もあると知っている。だからこそ昨今全世界的問題となっている悪乗り投稿サイトが検索回数をヒットさせているのだ。
 これは監視社会におぞましさを感じることと対比的であるが、そうではなく監視社会自体を密かに愉しむという性質をも我々が持っている証拠である。
 実は純粋なプライヴァシーという観念そのものが統制される社会とか国家という存在に拠って生み出されているとも言えるのだ。だからこそビジネスで会社員として関わる人がビジネスオンの時間帯では一切のプライヴァシーは許されぬからこそ、オフの時間帯ではビジネスに関係する誰からも(顧客であろうとも)干渉されたくはないという気持ちを持てるのだ。それは一種の社会との契約関係でもあるし、プライヴァシーを価値として認識する為に拘束が必要だ、ということでもある。
 ではエロスとはここでどう捉えたらよいだろうか?
 エロスとは男女の異性愛を基調とするものであるなら、それは俗的なことであり、観念的なことではない。しかし或いは監視社会に拠って性行為迄覗かれているのではないかという懸念こそが、異様なるプライヴァシーという形で性やエロスを純粋な秘め事、二人の(或いはそれ以上の人数での)孤独へと作り替えている。しかしここでもマゾヒスティックに自分の秘め事を覗かれてみたいという欲求をも我々が手放していないことを我々は気づくのだ。
 覗かれていても覗かれていなくても個というものの存在論的差異は他者と自分自身とでは決定的だとするのがアヴィセンナ以降の全ての独我論(独在論、solipsism)という哲学命題である。自分自身の存在は自分にとっては決して他性一般へは組み込まれず、そうであると知っていて、言語行為ではそれを無効化させずにはおかない(永井均の命題はそこであるが)、つまり個的な孤絶的なこととはそれを言葉化させることで一般化されてしまい、それはその孤絶を感知する存在論的差異と矛盾するという命題が昨今の(と言うより初期からずっと)永井均の哲学である。
 しかしその命題は永井に拠って昨今作られたわけではなく中世哲学者アヴィセンナ以降の伝統的見解である。しかしそういった問題意識以前的に現代人は監視されたくはないと言いつつ、つまり自分自身の社会的存在理由を一切与えられないということには耐えられず、覗かれるということすら自分が覗かれていると気づかない限り(そういう場合は相手へ不快感を持つ場合はやめて欲しいとストーカーの被害者よろしく感じる)全くあり得ぬよりはあった方がいいとも内心で思ってもいる(これはスノーデンの様なエリートには気付き難い点である)。
 関心を持たれたいという心理は虚栄心が生み出している。虚栄心と羞恥は表裏の関係である。公的ではあるがオフレコなこと、私的なことの全ては会話事実であれ性行為的秘め事であれ、それを直接誰しもが知り得ることにはさせたくはないからプライヴァシーとなっている。それが現代人の権利である。そして自分自身にとって快く思えない他者からそれを知られることを嫌がる感情は虚栄心が生んでいる。従ってこちらに関心さえない他者の視線を疑心暗鬼で気になるという精神状態は虚栄心の病理的状態に拠って形成される(ところで虚栄心それ自体は羞恥と関係があり、率直によく見られたい軽度のマゾ的心理と虚栄心と、しかしここから先は覗かれたくはないというのが羞恥である。そして独我論の問題ともこの虚栄心と羞恥の問題は無縁ではないと思われるが、それは又別の機会に論じよう)。
 監視されているけれど、その監視システムの全貌を知ることは出来ないが、方々から監視されているかも知れないし、そうである可能性を否定し得ないので、誰からも監視されまいぞと死角を探して歩行するというスリルを満喫することも決して不快とも言えないという心理状態に慣らされている現代人であればこそ、逆に一部では人間心理の中にマゾヒスティックに覗かれてみたい願望も我々は発見するからこそ、悪乗り投稿サイトが社会現象化するのだ。
 監視されているかも知れないという社会状況を何処かでもうそれをどうにかすることは個人の力ではどうにもならぬので楽しもうという心理を恒常化させることに吝かではない現代人は、無意識のマゾヒストとして生活することを選択している。
 それをなかなか認めたがらない(人間理性という観念がそうしているのか?)からこそ監視社会を社会問題化しようとするのだし、それを正義論理的な極点迄突き詰めた人こそスノーデンなのだ。彼は端的にエリートであり、インテリなのである。しかし一般市民はそこ迄考える余裕自体を与えられていはしない。
 見られたい欲求が既に他性との相関の中で我々にはあるのだから、いっそテロリストに反社会的行動を取らせぬ治安維持の為にプライヴァシーを覗かれない権利を国家へ売り渡したって、それはそれでいいではないか、という選択を我々は事実しているのだ。
 視姦ということは、そういった他者からの関心を一切されないで存在さえ確認されていない状態よりよっぽどましである、という価値判断を我々は確固とした形で認めている。
 他者から存在さえ無視されることへの一抹の淋しさこそが視姦されることをそんなに悪いことではないと我々に心理させている。これは決定的な自他認識の化物である人間の性質である。
 確かに人間は自分だけが監視されているのだとしたら、それは耐え難い、恐らく誰にとっても。しかし自分だけでなく全ての自分以外の他者も又そうである、という状況を我慢する方がテロリストにとってテロ行為をするのに自由であるよりずっとましだ、という選択を例えばアメリカ国民は採っているのだ。
 通信傍受はテロの標的にされやすい社会や国家では一般市民の同意を得やすい。しかしそのことと、他人から自分が何処かでは自分が気づかない侭注目されているのだ、とは思いたいという心理があることは、全く別のこととして両立し得る。
 人間の虚栄心は男女の異性愛、同性愛を問わず、LGBT全てであり得る。肉体的エロス、視姦されるこの身をよく見られたいということはあり得る。それは相手が~であればこそ、特別にこう見られたいという形で発揮される虚栄心である。
 人は人前ではこれなら見せてよいという形で行為する。ゴフマンの儀礼的無関心もそのことを言っている。しかしある瞬間ふとしたことで、絶対に人には見せたくはない仕種を見られてしまうこともある。格好悪い処を目撃されることはある。その偶然に見られてしまう、見つかってしまう無様さこそが羞恥を生む。
 従って誰からも注目されないことには不満を持つ(物足りなく思う)ことと、格好悪い処(自分で気に入っていない自分の姿や仕種)を見られたくはないということの双方とも虚栄心の父であり母である。
 勿論それが決して無ではないけれど、極めて微弱な人も居る(例えば私も比較的そうだ)。
 しかし通信傍受されていることそれ自体にある種の気持ち良さは感じられぬけれど、一応治安維持の為に同意しようと思っても、その監視盗聴が悪用されたら恐ろしいとは誰しも思う。その悪用可能性こそがスノーデンの考えた義憤の発端であったことだろう。
 傍受者の魔を刺させる状況的可能性こそ、極めて悪辣で巧妙な独裁的権力者に拠る意図である。そういった権力者の登場は充分可能性があるのだ。
 次回は独裁的政治手法と国家的規模の集団的な虚栄心に就いて考えてみよう。それはコングロマリットとか大企業の経営的独裁も含む。そして虚栄心とは独裁に拠って育まれるのだ。(つづき)

Thursday, October 17, 2013

第四十九章 監視されるエロスとその告発者と現代社会対人関係の虚栄心と孤独

 現代社会を極めつけのプライヴァシー維持不可能な時代へと突入させたのが3.11であったこと、そして世界同時多発テロと言いながら、それが端的にアメリカ国内で起きたことだったということ、NYの持つ国際的性格からそう呼ばれたが、アメリカ型自由主義と資本主義競争社会へ何の疑問も持たない人達にとって、それは「世界」であった。要するに監視カメラと盗聴システムが、スパコンの進化とビッグデータ確保に伴って進化の速度を増さしめたのが3.11であったことは紛れもない事実である。
 日本で特定秘密保護法案が可決されそうになっている背景には2010年9月7日に勃発し、同年2010年11月4日にYoutube上で40分の映像として流出した尖閣列島沖の中国漁船衝突事故で国家機密を暴露した海上保安官が居たという事実に拠っている。
 要するに我々は既に個人のエロスを満喫することすら、国家機密維持と、その為にそれを脅かすテロ勢力を未然に防止する為の監視盗聴システムの網の目の中で安堵の気持ちでは可能ではない地点に立たされているのだ。
 現代人は孤独ではなくなっている、と述べたテレビのコメンテータも居たが、都市生活者はとりわけそうであるのはエロス的充実からではなく、短文メッセージに拠る受信送信システムに拠ってである。それは寧ろ社会心理学的には現代人がウェブサイトとそれを可能とするツールのシステムを保持していなかった時代より、より孤独に弱い性質と体質を保持してしまっているという証拠である。
 恐らく近日中には、Twitter、Facebookでのなりすましを防止するシステムさえ監視カメラとスパコンのビッグデータベースに拠って可能となるであろう。
 監視カメラは当初はテロ未然防止システム開示の為に進化したとしても、その結果進化してしまった監視カメラは盗聴器同様、次第に当初の目的から離れて自立して、他人のプライヴァシーを覗き観ることすら可能とさせる様に人類に悪を目覚めさせている。既にその誘惑に抗しきれない資質を露呈しているからこそ他人のPCに収納されたデータを盗み見るハッキングテクニックが進化してきたのであり、その事実と監視カメラと盗聴システムを悪用することさえ、それを白日の下に晒さなければ自由であるとさえ言える状況は、国家に拠って個々人の市民のプライヴァシーをチェックすることと、国家という意識とは無縁の個人が覗きを楽しむことを同時に可能とさせる監視カメラの安価供給と利便性の進化に依っている。
 マーク・ザッカーバーグはある意味では先述の現代人はそれ程孤独ではなくなってきているという逆説的な現代人のウェブサイトとツール利用に拠る孤独感の倍増に漬け込んで成功を収めたビジネスパーソンである。既にFBでは友達相互に自己の対人関係的ネットワークを自慢しひけらかすことと、それをFBでの友達に紹介することでつながり依存症を加速化している。それを助長するシステムとして挨拶(pokeと呼んでいるが、これは英語俗語では性交の意味さえある)を頻繁に友達間で行わせる仕組みが挙げられる。
 それに対してジュリアン・アサンジとエドワード・スノーデンは自由というものの市民性としての権利と国家主義とかそれを象徴するビジネス的な社会的自己の虚栄心とは正反対のエロス的個人の権利、秘密を保持する倫理的モティヴェーションという義憤に駆られて世界を告発したのである。アサンジに拠る反国家主義一辺倒への批判と、スノーデンに拠る国家保全、治安維持の為の個人主義とプライヴァシーを破壊してまでも遂行する国家監視システム(NSC)への告発とは同時代的倫理思想に根差していて、マーク・ザッカーバーグの行ったビジネスクリエーション(それは監視システムを強化する国家主義へ迎合的である)と正反対である。
 エロスは監視されるものであってはならない。しかし国家は治安維持の為だけにそれを犠牲にすることを選び、それを何とも思わない世界市民を育て様としている。しかしFBもTwitterもSNS一般は明らかに世界市民の中で真に平和で安堵あるエロスを享受し得るのがほんの一部の資産家や富裕層だけであり、それ以外は全的に監視され盗聴されていることを承知でSNSで現代人固有の孤独解消システムに参加して、その内容が監視されていることに何とも思わない不感症に馴らされていっているのだ。
 現代人は精神生理学的には既に極めて歪な性格のマゾヒズムに浸っているとさえ言えるのだ。それは精神の疲労と疲弊を喜んで受け入れる不健康な老化を許さぬ意識至上主義的な性格の国家資本主義戦略の一翼を半強制的に担わされていると言えるのだ。
 SNSに参加することは一面では本音を語る孤独な自由の確保を可能としているけれど、本質的にはそれは予め見せるという意識に拠って維持されているシステムなので、必然的に自主規制的本音というものを恒常的に維持することを強いられている。それはそのシステムに参加している間は明らかにリア充的なエロスを放棄することに同意していることだからである。
 だからSNSに拠る禁欲的自主規制習慣の保全とは、言ってみればエロスの放棄を世界的レヴェルで世界市民に強いるものである、という意味ではウェブ的ヒューマンネットの強制という意味ではどんな会話の内容でも、どんな個人的な呻きであっても国家に拠って監視され盗聴されることで辛うじて治安を維持し得る歪な現代社会の禁欲主義(つまりそういう日常に感性的に積極的に慣れてしまうことで、国家<主義>に却って依存する)と同時代的な意味で同一志向の構造を持っている。
 そしてそのリアルに疑問符を突きつけたという意味でジュリアン・アサンジとエドワード・スノーデンはマーク・ザッカーバーグや柳井正や三木谷浩や堀江貴文達とは正反対の意識のベクトルで世界へ対峙した、という意味で一世紀後にも名前が残っていることだろう。対しザッカーバーグ達の様な存在は手を変え品を変え登場し続け、個人の名前は残らないだろう。
 勿論そのネット上のコミュニケーションを可能化させたスティーヴ・ジョブズやビル・ゲイツの様なエンジニア的感性の経営者達はザッカーバーグ達とは別の位相のパイオニアとして名前が残るだろうが、一世紀後にアサンジやスノーデンの考えてきた個人の自由という理念に対して、ジョブズやゲイツはそれを助長させたのか、それともそういった自己反省をもザッカーバーグ、笠井型の現代資本主義社会の中での個人の孤独に漬け込んだシステムと共に招聘させた張本人達であるかということは、その時点での人類の立たされている個人の自由の状況如何だ、とも言い得る様に思われる。
 しかしここで次回以降の論説へも引き継がれる問題として、実はエロスという観念そのものが実は完全なる社会から隔絶された自由な空間という発想に拠って現代では助長されていて、ギリシャでスポーツ、哲学、民主主義が形成されていた時代のエロスと性格的にはかなり乖離してきてしまっている、という厳然たる事実も忘れてはならない。
 それこそがSNS利用で助長される自己のヒューマンネット誇示の虚栄心とも関係のあるサディズムとマゾヒズムとも大きく関係する歪な性格のエロスへの渇望とも関係があるものと思われる。しかしそれを論じる為には精神生理学的な歪なエロスとアート的美的観念の関係性へも着目する必要がある様に思われるが、それこそ次回以降の論議を続行させ得るものであろう。(つづき)