セザンヌ 牧歌 1870

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Thursday, October 17, 2013

第四十九章 監視されるエロスとその告発者と現代社会対人関係の虚栄心と孤独

 現代社会を極めつけのプライヴァシー維持不可能な時代へと突入させたのが3.11であったこと、そして世界同時多発テロと言いながら、それが端的にアメリカ国内で起きたことだったということ、NYの持つ国際的性格からそう呼ばれたが、アメリカ型自由主義と資本主義競争社会へ何の疑問も持たない人達にとって、それは「世界」であった。要するに監視カメラと盗聴システムが、スパコンの進化とビッグデータ確保に伴って進化の速度を増さしめたのが3.11であったことは紛れもない事実である。
 日本で特定秘密保護法案が可決されそうになっている背景には2010年9月7日に勃発し、同年2010年11月4日にYoutube上で40分の映像として流出した尖閣列島沖の中国漁船衝突事故で国家機密を暴露した海上保安官が居たという事実に拠っている。
 要するに我々は既に個人のエロスを満喫することすら、国家機密維持と、その為にそれを脅かすテロ勢力を未然に防止する為の監視盗聴システムの網の目の中で安堵の気持ちでは可能ではない地点に立たされているのだ。
 現代人は孤独ではなくなっている、と述べたテレビのコメンテータも居たが、都市生活者はとりわけそうであるのはエロス的充実からではなく、短文メッセージに拠る受信送信システムに拠ってである。それは寧ろ社会心理学的には現代人がウェブサイトとそれを可能とするツールのシステムを保持していなかった時代より、より孤独に弱い性質と体質を保持してしまっているという証拠である。
 恐らく近日中には、Twitter、Facebookでのなりすましを防止するシステムさえ監視カメラとスパコンのビッグデータベースに拠って可能となるであろう。
 監視カメラは当初はテロ未然防止システム開示の為に進化したとしても、その結果進化してしまった監視カメラは盗聴器同様、次第に当初の目的から離れて自立して、他人のプライヴァシーを覗き観ることすら可能とさせる様に人類に悪を目覚めさせている。既にその誘惑に抗しきれない資質を露呈しているからこそ他人のPCに収納されたデータを盗み見るハッキングテクニックが進化してきたのであり、その事実と監視カメラと盗聴システムを悪用することさえ、それを白日の下に晒さなければ自由であるとさえ言える状況は、国家に拠って個々人の市民のプライヴァシーをチェックすることと、国家という意識とは無縁の個人が覗きを楽しむことを同時に可能とさせる監視カメラの安価供給と利便性の進化に依っている。
 マーク・ザッカーバーグはある意味では先述の現代人はそれ程孤独ではなくなってきているという逆説的な現代人のウェブサイトとツール利用に拠る孤独感の倍増に漬け込んで成功を収めたビジネスパーソンである。既にFBでは友達相互に自己の対人関係的ネットワークを自慢しひけらかすことと、それをFBでの友達に紹介することでつながり依存症を加速化している。それを助長するシステムとして挨拶(pokeと呼んでいるが、これは英語俗語では性交の意味さえある)を頻繁に友達間で行わせる仕組みが挙げられる。
 それに対してジュリアン・アサンジとエドワード・スノーデンは自由というものの市民性としての権利と国家主義とかそれを象徴するビジネス的な社会的自己の虚栄心とは正反対のエロス的個人の権利、秘密を保持する倫理的モティヴェーションという義憤に駆られて世界を告発したのである。アサンジに拠る反国家主義一辺倒への批判と、スノーデンに拠る国家保全、治安維持の為の個人主義とプライヴァシーを破壊してまでも遂行する国家監視システム(NSC)への告発とは同時代的倫理思想に根差していて、マーク・ザッカーバーグの行ったビジネスクリエーション(それは監視システムを強化する国家主義へ迎合的である)と正反対である。
 エロスは監視されるものであってはならない。しかし国家は治安維持の為だけにそれを犠牲にすることを選び、それを何とも思わない世界市民を育て様としている。しかしFBもTwitterもSNS一般は明らかに世界市民の中で真に平和で安堵あるエロスを享受し得るのがほんの一部の資産家や富裕層だけであり、それ以外は全的に監視され盗聴されていることを承知でSNSで現代人固有の孤独解消システムに参加して、その内容が監視されていることに何とも思わない不感症に馴らされていっているのだ。
 現代人は精神生理学的には既に極めて歪な性格のマゾヒズムに浸っているとさえ言えるのだ。それは精神の疲労と疲弊を喜んで受け入れる不健康な老化を許さぬ意識至上主義的な性格の国家資本主義戦略の一翼を半強制的に担わされていると言えるのだ。
 SNSに参加することは一面では本音を語る孤独な自由の確保を可能としているけれど、本質的にはそれは予め見せるという意識に拠って維持されているシステムなので、必然的に自主規制的本音というものを恒常的に維持することを強いられている。それはそのシステムに参加している間は明らかにリア充的なエロスを放棄することに同意していることだからである。
 だからSNSに拠る禁欲的自主規制習慣の保全とは、言ってみればエロスの放棄を世界的レヴェルで世界市民に強いるものである、という意味ではウェブ的ヒューマンネットの強制という意味ではどんな会話の内容でも、どんな個人的な呻きであっても国家に拠って監視され盗聴されることで辛うじて治安を維持し得る歪な現代社会の禁欲主義(つまりそういう日常に感性的に積極的に慣れてしまうことで、国家<主義>に却って依存する)と同時代的な意味で同一志向の構造を持っている。
 そしてそのリアルに疑問符を突きつけたという意味でジュリアン・アサンジとエドワード・スノーデンはマーク・ザッカーバーグや柳井正や三木谷浩や堀江貴文達とは正反対の意識のベクトルで世界へ対峙した、という意味で一世紀後にも名前が残っていることだろう。対しザッカーバーグ達の様な存在は手を変え品を変え登場し続け、個人の名前は残らないだろう。
 勿論そのネット上のコミュニケーションを可能化させたスティーヴ・ジョブズやビル・ゲイツの様なエンジニア的感性の経営者達はザッカーバーグ達とは別の位相のパイオニアとして名前が残るだろうが、一世紀後にアサンジやスノーデンの考えてきた個人の自由という理念に対して、ジョブズやゲイツはそれを助長させたのか、それともそういった自己反省をもザッカーバーグ、笠井型の現代資本主義社会の中での個人の孤独に漬け込んだシステムと共に招聘させた張本人達であるかということは、その時点での人類の立たされている個人の自由の状況如何だ、とも言い得る様に思われる。
 しかしここで次回以降の論説へも引き継がれる問題として、実はエロスという観念そのものが実は完全なる社会から隔絶された自由な空間という発想に拠って現代では助長されていて、ギリシャでスポーツ、哲学、民主主義が形成されていた時代のエロスと性格的にはかなり乖離してきてしまっている、という厳然たる事実も忘れてはならない。
 それこそがSNS利用で助長される自己のヒューマンネット誇示の虚栄心とも関係のあるサディズムとマゾヒズムとも大きく関係する歪な性格のエロスへの渇望とも関係があるものと思われる。しかしそれを論じる為には精神生理学的な歪なエロスとアート的美的観念の関係性へも着目する必要がある様に思われるが、それこそ次回以降の論議を続行させ得るものであろう。(つづき)

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