セザンヌ 牧歌 1870

セザンヌ 牧歌 1870

Saturday, October 3, 2015

第七十二章 言葉は作られるPART1 日本語接合語(爆~)の応用の仕方から読める驚嘆感情への向き合い方

 (爆)という語彙は日本人にとっては明らかに歴史的には太平洋戦争の空襲と爆撃に拠って定着したものであろう。それ以前でも爆弾という語彙は在っただろうが、爆撃、つまり空襲の物理的事実をこう呼ぶことはこの時期だったと思われる。事実日清戦争と日露戦争は本土空襲という事態は無かったからだ。そして日本は終戦直前に広島と長崎に原爆が投下され、水爆実験がその後、戦後レジームの中でアメリカ、フランス、中国等に拠って盛んに行われた。
 だが他方で日本人は言葉遊び的感性をどんどん拡張してきた。その一つは明らかに70年代以降、80年代バブル期を頂点とした(爆笑)という語彙である。つまり自分達の民族的記憶の中でトラウマとして君臨する爆という語彙を積極的に肯定的な雰囲気の語彙に適用してきたのだ。90年代にはその流れの中でテレ朝の深夜番組でエロス的雰囲気を振りまいた<トゥナイト2>等の影響もあり、(爆乳)という語彙が(巨乳)という語彙に連続して定着した。巨乳がウルトラ級だとすれば爆乳は超ウルトラ級だということだ。
 その当時にそれと連動して定着したもう一つの語彙が(爆睡)である。これも我を忘れて熟睡することの極致で(熟睡)も、その語彙が出来たての頃はそれなりに衝撃度があったと推察されるが、(爆睡)はより過激に夢さえも見ないで眠り続けるイメージを大きく打ち出した。
 そして昨今より定着しつつあるものとして(爆買い)がある。これは巨大な経済大国化してきている中国人が来日にして日本のマーケットで日本商品を買い走る姿を揶揄して使われている。
 これ等の例から鑑みて、実は意味というものは語彙使用を中心に考えれば、明らかに内的理解ではなく、外部に規約として、時代のモードを反映すべく我々が示し合わせて使用するという実態も浮かび上がる。つまり哲学で考える意味とは理解して我の心へ植え付けることというニュアンスが強いが、語彙使用に関しては決してそうではなく、自由に個々人が使うものではなく、あくまで使用規約と使用状況選択はきっちりと決められているということだ。そして皆で協働してそれを使用するという意味では共同注意的な使用の仕方と言ってよい。つまり語彙を使用し意味を伝達する分では明らかに外部的なものとして意味は規定されている。それを個々で念頭に入れて、例えば中国人観光客に拠る爆買いを巧く誘導して、或いは商品が巧く流通する様に取り計らうという時には、意味は決して内的ではない。その語彙使用を促す状況や事態自体を反省的に振り返る時初めて意味は内的になるだけだ。
 本章で私が提示した~爆という悍ましい歴史的記憶を呼び覚ますこの語彙を、片や完全に軽いノリで(爆笑)(爆乳)(爆睡)(爆買い)と使用する日本人。日本民族にとっての言葉選び、語彙選択の感性は明らかに連動的、協働的、慣用的な規約を軽い、従って気安く使え普及しやすく、言いやすく、一挙に同時代的な共時性を呼び覚ます語彙の発明に長けていると言うことが出来る。勿論他方では哲学的認識論は重要だし、人類にとって必要なのだが、その本質論とか要点主義に対してディテール印象主義的な語彙の使い方を好む民族性は、語彙文化自体を活性化させ、サブカル的アイディアや商法を普及させるのに大いに役立ってきているということも紛れもない事実なのである。
 それは幾分日本人が笑い的センシビリティで驚嘆的事実をも取り込もうという意識が在ることを証明してもいる。つまり笑いや笑う日常生活上での軽いノリを、よりシビヤなビジネスや競争社会での潤滑油にしようという殆ど自動的な配慮が社会全体に漲っていると捉えることが出来る。

Friday, July 3, 2015

第七十一章 時代は作られるPart8 生活者の感性は時代が作る①甘えの依存

 時代は我々の感性が作ると言えるが、我々の感性も時代が作るとも言える。相互フィードバックでありシナジーである。又それは集団的な連動が齎しているとも言える。つまり個人の感性は言語活動であれそれ以外の全ての社会活動自体であれ、それ等が集団全体の総意で動く以上、その総意の下に個人の感性も作られるということだ。
 先月の6月30日に起きた新幹線放火殺人事件は自殺をする為に71歳の老人が自らの身体にガソリンを被り、それに火を点けて新幹線全体を密室化された空間へと変貌させた事件だったが、ある意味でそれは結局個人の自由なんかより、個人に慰安自体が集団を巻き込む形でしか成立しないある種の徹底した無責任的行動の中で初めて開放感を得られるという歪な感性が現代人に定着していることをまざまざと見せつけた。つまり七十歳を過ぎた老人が社会全体への迷惑を顧みずにそういう行動をとれるという事自体に、甘え、つまり死ぬ時に他人迄巻き添えにすることさえ何処かで期待するからこそし得る行動を読み取れるが、それはそういう風にして迄ある社会全体の連動から外れたくはないという孤独に弱い、個人主義と自由の権利の無化を意味していたからである。
 時代は確かに便利な社会インフラに取り囲まれている。しかしどんなことをしてでもSNSの仲間との結束とかTwitterで言えばフォロワー数だけを増やす事に意識の上で血道を上げる生活習慣では、より社会的連動に於いてたった一人の頭でたった一人の行動で何かをするより、より集団全体の視線や関心に自己を巻き込んでいく方がずっと楽であるという選択眼が予め用意されている。つまり仮に会社内で孤立していても、SNSではそうではないという安心が誰しも用意されている。Twitterが合わなければPinterest、Tumblr、LINE等幾らでも選択肢があるのだ。昔はその点では会社で巧く行かなかったなら、別の会社に移るしかその辛さから逃れる方法がなかったし、だからそれが出来なければ集団全体の連動に自己も寄与し得る様に自己改善するしかなかった。しかし現代では仮に集団全体の連動に寄与出来なくても、それが仕事能力に支障をきたすものでない限り、会社が終わって一緒に必ず飲み会へ行く義務はないと高を括っていても、それを理由に解雇される心配はない(或いはそういうタイプの職種もあることはあるのだろうが、そういう職場にはそれに耐えられる人しか就職することはないだろう)し、又仮に対人関係が余り巧く行かないでも仕事全体に支障を来さない限り、対人関係的なことまで経営者が従業員に強制することは基本的には出来ない。結局仕事以外のあらゆる対人関係的繋がりがたとえSNSの様にリア充的なものでないにせよ、それが最終的に失われることなく確保されてさえいれば基本的に孤独感を抱く心配は要らない。
 と言う事は却って本質的に孤独の辛さに絶えなければいけないという試練自体が現代人には成立しない。それが却って集団全体の連動への弛まぬ意識が増長され、集団連動に寄与し得ないなら、逆に破壊することで寄与すればよいという短絡した決心をも生み易くなっているとも言える。それは何も今回の日本の大事件だけでなく世界的にもそうだ。
 その一つがアメリカで数十人の黒人を教会で射殺した白人のヘイトクライムであり、IS等のカルト宗教的原理主義だと言える。それは何等かの形で自分や自分達が帰属するメジャー集団への意識の過剰が生み出した何等かの形で集団に寄与し得ないなら、鬱憤自体を集団全体へアピールするしかないという短絡思考的な決心を助長する時代の感性が控えている。それは甘えることさえ集団全体へ影響を及ぼすなら、何もしないよりはずっといいし、ましであると言うより、それをせずには居られないという決定的な時代の感性である。
 自己の対話に於いて徹底的に孤独に耐えるという修業的な機会を現代人は与えられていないし、自ら率先してそれをしようという意志へ直結し難い様に社会全体が個人を脅迫している。そんなことをする時間を持つことは無職で求職中であることを人へ示す様なものだから、それだけは耐えたいという虚栄心こそが短絡的であっても犯罪的暴挙に出る方がずっとましだという価値倫理を醸成しているのである。
 と言うことは外面的で外在的な価値、それは往々にして社会全体がそういうものがあるかの様に個人に幻想されるものであるのだが、それだけが価値であり、内面的、内在的な価値等人の目に触れるものではないのだから、そんなものを後生大事にしたって、金に換わらないではないかという価値判断が優先されている証拠である。
 社会的地位、金銭的報酬に拠る経済力といった外在的外面的価値のみが最大級に優先されるかの如く個人を脅迫する時代は明らかにある部分ではアメリカ合衆国の国民のワーカホリックと世界経済的牽引図式が作り上げた。と言ってかつての共産主義の様な先祖帰りは既に人類が出来ない地点迄追い込まれている(と言うか進化した)。
 つまり情報伝達的なメッセージの遣り取り自体が既に単純な目的を外在的外面的に持ったものとしてのみ認識される唯社会目的的な存在理由だけしか個人が持ち難い様に社会や国家や世界情勢全体が機能している証拠である。だからこそ昨今数日置きくらいに勃発するテロ行為が繰り返されているのである。つまり全ての行為が社会を意識した社会行為であり、それは単純に名目的な目的を与えられていなければ安心出来ないということであり、その根底には他者への疑心暗鬼が極点に迄達している証拠であり、ビジネスもゆとりがあってはならず、あくまでビジーネスでなければいけないのである。それこそがアメリカという国が世界へ齎している現代という時代のコモンセンスなのだ。
 そういう風に個人にお仕着せてしまう時代の感性に於いて個人が選択する余地のあることは勝者になれないのなら敗者に甘んじるか、それを虚栄心が許さないならいっそ新幹線内で放火テロをするという暴挙に及ぶかということなのだろう。それが七十歳を超えた老人に迄、又現代の七十歳はかなり健康的にも体力的にも優れているものだから、勢い余ってそうしてでも社会に関わりを持てるなら、孤独死だけが待っている老人に転落するよりはずっとましであるという価値判断を構築しているのだ。
 これは極点迄他者への疑心暗鬼が作られてしまった後の人類のその息苦しさから解放される為の回路に唯一暴挙的行動を通した甘えしか残されていないという切羽詰った状況認識なのだろう。
 だが人類は個人というものを未だ余り多く掘り下げてはいない。それは国家や社会全体はそれを阻止する様にだけしか機能してこなかったからである。だから個人の感性のかなりの部分が民族や国家が個人に運命論的に強制してきた慣習や習慣の様な価値判断から誰しもがそれ程自由ではないのだ。つまり宗教的なコードから独立した自己の本質的姿を見据えようとはしていない。理性とは孤独そのものなのだが、それは個人の純粋な内面からのものなのだ。他者を疑心暗鬼になるということは他者を信用出来ない分自分も信用出来ないからなのだ。それは自己への甘えであり、それが他者引いては社会全体への甘えを作り易くしているのだ。
 次回は本質的な個人内面や内在的な価値を巡る問い、つまり思想や哲学が成り立ち得るかという問いから進めていこう。

Thursday, February 5, 2015

第七十章 時代は作られるPart7 現代社会に固有の時代性を乗り越えるには?①

 年間の自殺者数は恐らく交通事故より今も多いであろう。鉄道へ飛び込み自殺するケースが多い。それはある意味では現代社会の全ての矛盾に現代人の確実に一部を生きていくことを辛いと思わせる何かがあるということを意味する。
 現代社会はあらゆる意味で昔なら残存していた友愛的共同体の名残がない。和気藹々自体が成立し難い社会となっている。結婚も人に勧めることが出来ない。何故ならLGBTの差別問題等も表面化しているからだ。日高パーティーの様なものは今後も復活しないだろう。又監視社会化され盗聴されているかも知れない恐怖心は必要以上の自然な他者への感情表出を差し控える事で抑圧されている事の方が発散する事より多くなってきていると誰しもが自覚し得るので、その抱え込まれたストレスがどう処理されていくかの方策もなかなか見出し難いのだ。ちょっとした発言が失言として受け取られかねない社会様相では、閉鎖的なコミュニティが無数に林立する状態を社会に生む。
 情報摂取の欲求より使命感が益々加速度的に増し、ウェブサイトと各種電子機器利用の日常は徐々に自然状態というもの自体の像をぼやけさせ、消滅させる方向に人間精神を持って行く。
 それは営業成績でもサーヴィスでも従業員を成果主義へと翻弄させ、そのビジーネスに順応しきれない成員を必ず一定数産出する。だから2008年の秋葉原通り魔殺人事件や片山祐輔遠隔操作事件でも、前者は鬱憤の晴らし方で幼稚さを見せつけ(幼稚さが極端な暴力へと発展したケースである)、片山事件では他人に罪を擦り付けるというやはり動機的な幼稚さが異様に目立っている。つまり野々宮龍介元議員の統合失調的応対会見に観られる現代人固有の我慢の出来なさが顕在化したケースが昨今ではメインとなっている。それが栄光を求める形であれば佐村河内守と新垣隆のケースとなっていくし、ある意味では功を焦ることが小保方晴子ケースの様なものになっていく事が必然性である様なある種の現代社会の成果主義と秒刻みの社会的ニーズの変化に拠る虚実の混淆した社会様相を形作る。
 だがもし現代人が其処迄幼稚化せざるを得ないとしたなら、それは現代の情報化社会と電子機器の利用全体へ未だ完全に慣れきっていない感性を合わせるしかないという使命感から生み出されている現象として、その幼稚性を認識することは容易いであろう。事実自殺者はこの格差社会で独楽鼠の様な生活状況を強いられている精神性への回答として自殺を選び取っているのであり、その不可避的社会状況を逆用するしか其処から精神的苦悩を脱する可能性は見出せない。
 率直にSNSにもろに下品な本音を書き込む様な幼稚性を逆利用するしかないのだ。つまり正式とか本格的とかきちんとしたという体裁ではない幼稚な本音を吐き出す機会に異様に恵まれた現代人は最早その幼稚性を逆利用するしかないのだ。
 極度の暴力という意味では湯川氏と後藤氏を殺害し、ヨルダン人パイロットを焼殺したISILの行動こそ世界的レヴェルでのテロリズムの方法論的幼稚性を示している。それは大義的行動ではない。しかもその人質殺害がウェブサイトで知らされると、即座にヨルダン政府はサジダ・エルシャーウィ死刑女囚を処刑するという国家装置の機転にも、それが読み取れる。報復的な応酬の連鎖が世界的規模で垣間見られる。
 正式なる、正統なる、正当的なということ自体全体へ感性的に懐疑的になっている現代人には既に非正統的な、非正式なものだけをメソッド的にも頼りにするしかない。何故ならそれ以外の社会インフラやシステムの全ては厳格に科学主義的にそれを援用しなければ社会が運営されない様に管理されているからである。
 感性的な意味での逸脱への欲求を仕事やビジネスにも応用していくしかない。それはいい意味での幼稚性と、ISIL的暴挙の幼稚性を厳密に峻別する意志と努力にあると言ってもいい。昨今頻発する多くの殺人事件も衝動的な現代人の感性を表出させていると言えるし、人類全体が統合失調的な様相を呈していると言える(その点では国家指導者層、つまり政治家や為政者自身さえもがそうである。彼等はリーダー的態度と言うより、大勢の無力の市民の欲求の代弁者にしか過ぎない)。
 道徳に関して日本教育界では大きな変革を為すと言う。その際に私が提案したいのは、SNSの持つ本音吐露的な容易さの中から、汲み取るべきいい意味での下らなさ、つまりジョークやブラックユーモアと、他者への誹謗中傷の識別的感性を磨く事こそ求められている。シャルリ・エブドは確かに自由友愛を標榜するフランスでは正統かも知れないが、恐らくそれはイスラム教徒全般迄含み込むユニヴァーサルな正統性では無かった可能性はあるのだ。何故ならフランスでもドイツでも異様なる移民排斥デモ等の空気に満たされているからである。政教分離自体が欧米先進国モデルの理念なのだ。教室ではスカーフを外せという訓戒自体がアラブ社会やイスラム教世界の文化を無視した主張なのだ。
 次回はSNSツイート的な容認され得、しかも表現の可能性を進化させ得るものとしての下らなさ、つまりフランクさとは何かという言葉の使用の仕方に就いて考えていってみよう。(つづき)

Monday, February 2, 2015

第六十九章 時代は作られるPart6 未完成は悪の魅力である

 前回述べた様な不完全性にリアリティを感知する現代人にとってもし仮にウェブサイトにだけ本音メッセージを求め過ぎるとしたなら、それは社会全体が素直な欲求を他者に示す事を憚らせる固有の歪な禁欲的空気が蔓延している証拠である。発信し難さが、一方でウェブサイトで幾らでも本音を書き込めるにも関わらずリア充的対人関係では支配的な証拠である。
 だがそれは危険である。つまり情報発信力と本音吐露的な自由さ自体が却ってリア充的な抑制的空気を醸成しているのなら、ウェブサイトに過剰に依存することを悪しきバロメータとする様な倫理観とか生活感情を持つべきである。ウェブサイトの有効利用とは、ウェブサイトの利用に依存し過ぎないということに尽きる。
 ウェブサイトで余りにもいい子ぶって演技し過ぎても、それはそれで策略的なメッセージしか発信出来なくなるので控えた方がいいが、余りにもその都度の突発的な情動に従順にメッセージを発信し過ぎると、リア充的対人関係や社会生活で、その鬱憤晴らしの反省から偽装的態度に陥りやすくなる。リアル社会生活で欲求を圧殺し過ぎても、逆にウェブサイト上で良い子ぶり過ぎて偽装的態度を取り過ぎても危険なのである。
 実は我々がある部分では心地良い本音的メッセージに惹かれるのは、ある種本音的な原初的メッセージ自体に、社会的通念や常識や良識といった検閲されたものではない生の欲求、つまり悪も多く含む本音が控えているからなのだ。
 無修正の未完成メッセージこそ、あらゆる意味で善も悪も一緒くたになった混沌とした原始的パワーを秘めている。それは無修正ポルノを一人密かにPCの画面で観るのと似た迫力を感じ取れるのだ。
 出版社とは言ってみれば検閲機構の最たる存在である。社会一般で受けるとか、社会一般で良識ある意見しか出版させない。それは用意周到な検閲機構なのである。校閲といった所業は生なメッセージの毒抜き作業である。それはあらゆる層に万遍なく伝達されるメッセージが共感されることを旨としている。しかしロングテールビジネス定着以降の現代社会のメッセージ伝達は各層にそれぞれ全く異なったメッセージコンテンツを配信する事に拠って成立している。西松屋は子供服専門のホームセンターであるし、薬局から大型スーパーに進出したウェルパークもマツモトキヨシもダイエー商法も参考にしてきただろうし、その店舗形態の多様性にビジネス的命運を賭けてきただろうと思われる。
 ロングテールビジネス的な展開は恐らく全分野で応用されている(何もアマゾン商法だけではない)。
 この多様化と一部の消費者のニーズに拠って細分化させて多層的に経営する戦略は完成という形態が社会全体に適用されないということを意味している。勿論日本の場合伝統的な地方毎の産業基盤は存在する。だがその地方毎の特色を維持する為にもあらゆる新機軸的なイノヴェーションを要求されている。つまり稲作であれ畑であれ農業全般が減反政策的な範疇から逸脱する様に展開していくしか生き残りの道はない。
 完成とは例えば先述の出版物での完成形態のタイプだけでなく世界、社会全体のインフラにも言えるのだ。何故なら検閲された前例踏襲主義的なタイプの商法やイノヴェーションを作為的な欺瞞を感じ取ってしまうということが現代人類の顕著な特徴だからである。
 矯正的威圧から解放されたいと感じているのは個人の感性だけでなく消費者自身が各人サーヴィスに対しても感じていることなのだ。
 そのアイディア的な発見を我々はSNSで仕入れている。これは確かである。其処ではあらゆるタイプの情報が発信されている。当然自分が理想とするものばかりでなく玉石混淆なのだ。その雑居、同居性に意味がある。端的に怪しげな情報やガセネタ的に悪辣なもの、如何わしさや危うさも沢山閲覧出来る。その雑多なリアルから掴み取る自己にとって真に重要な情報という選択努力に意味がある。
 この不完全性、未完成性こそ悪の履行をも可能とする人類の感性の磁場となっている。何故なら本当に説得力ある善とは観念的な善ではなく、小さな悪とも共存している。悪の一滴も含有されていない善は偽善的なるもの、欺瞞的なるもの以外ではないと我々は充分承知しているからだ。魅力とは不良性にある。率直に検閲される時削除される要素こそが魅力なのだ。
 もっと言えば魅力ある何かとは小さな悪を含有している。これをSNSでは読み取れるからこそSNSは無くならないのだ。校閲、検閲とは言ってみれば小さな悪を根こそぎ欠点のないものにしていく志向がある。つまり小さな悪や多くの欠点もあるけれど、何か一点凄く魅力があるという事態から、悪も無ければ、欠点も一切無いけれど大いなる魅力も一切感じられないものこそ検閲済みのものである。善を一切損なって迄も一切の悪を除去しようとする校閲、検閲自体は律儀な官僚のする最も一般的な作業である。
 迫力ある魅力ある何かとは必ず凡庸な正しさにはない悪があるのだ。これをまず認めていく必要がある。これは精神的な意味で必要不可欠な必要悪なのである。詰まらないものは無性格なものである。それは悪がなく健全かも知れないが、それだけなのである。
 本格的な長所や大いなる魅力とは必ず悪と抱き合わせであると認める所からあらゆる商品やメッセージやサーヴィスを考えていくべきである。勿論此処で言う悪とは社会的な意味でインモラルな何かである訳ではない。
 要するにある意味では不首尾で微々たるクレームに対しては確かに欠点も多いが、一部の徹底的に絞られたニーズでは最大の価値である様な何か(世間ではスリムやグラマーな女性、イケメンの男性だけがニーズがあるとは限らない)を個々別箇のアイテムとして用意しておくべきなのだ。
 不完全性、未完成性に魅力を感じる現代人は一方ではアート抽象絵画作品等で極めてスキルの高い完成度を求める感性と実は抱き合わせである。そういうものを一方で求めるなら、逆にそれ以外では不完全で未完成なものを愛好するという感性でもある。音楽で完全性を求める者はアートでは荒削りなものを感性的に求めるということもあり得る。そういった相互転換的な完成思考と未完成思考の共存は無限なヴァリエーションがあり得る。価値は多元的であり、多層的なのである。(つづき)

Monday, January 26, 2015

第六十八章 時代は作られるPart5 整えられた秩序に懐疑的になる現代人

 意図論の(第三十六章 正論と邪論の混淆した情報社会)で私が示したSNSで現代人に拠って呟かれる本音的部分とは近代迄はずっと人類が抑圧してきた部分であり、それは言ってはいけないことも多く含んでいる。だが現代人は既に表現の自由等の権利を普通に享受しているので、それを呟く事も、呟かれたものを読む事も自然な感性で生活している。つまりそういう風に格式ばった言説から能天気でどうでもいい様な空談、暴言に到る迄何でもありのSNSの掲示板、TLを閲覧する事を自然なものとしている。と言うことは、近代迄人類は只管そういった雑然とした事をいけない事だ、きちんとした正式なもの以外には価値等ありはしないと決め込んでいたのだが、それは可笑しい、日頃の本音的部分のメモなんかの方がずっとある意味では価値があるということを気づき始め、それを誰しもが自由に閲覧することを可能とする様に現代ウェブサイトが機能する様になったのである。
 正式の論文にする前のメモは凄く面白いのに、実際にきちんとした形にしてしまうと、メモにはあった面白さが全て省略されてしまう、つまり省略した部分こそが一番読み応えがあるのに、正式とかきちんとしたという整えられた秩序の方を重んじる事自体が近代社会の一つの理想だったのかも知れない(尤も絵画等では文章より早く印象派の様な自由な表現の空気は訪れていたのだけれど、芸術はあくまで形式的常識的社会に対するアンチテーゼ的な認識をアーティストが持ちやすかったのだが、文章の世界ではそうは行かない、もっと保守的な通念がなかなか払拭し得なかったのだ)。だが現代になってようやくアーティスト達が近代に様々な冒険をしてきた事を文章でも出来る様になった。しかもそれは一部のインテリ達の手に拠ってではなく、全ての普通の市民誰しもが自由にそれを出来る様になったのだ。そして一旦そういった自由を獲得すると、きちんと整えられた秩序の方を不自然だと思う様な感性が定着しつつある様になってきている。
 一人の人間が一見統合失調的である様に思える部分さえ、実はそうでなく、それは誰しもが持っている事なのだが、それを必要以上に抑圧する事で得られている安定自体が、恣意的で不自然な事であると思える感性の方が伸してきている。それは去年の県会議員の公費私的流用疑惑に返答する前県議である野々村竜介氏の泣き喚き会見でも顕在化していた。ああいった態度で臨む事は理性のレヴェルでは大人気無く恥ずかしい事であるが、恥ずかしい事を敢えて自己陶酔しながらする事で却ってそちらへあの会見を観ている人達の意識を移行させる巧みな、と言うより狡い選択を敢えて彼は取った。だからその敢えて狡い事を履行する事にそうしながら段々自己陶酔し、無我の境地になる事自体で自己存在をアピールしようとする。それはどうせもう辞めていくのだから、それぐらい許された然るべきだという傲慢も控えている。しかし実際あの会見の統合失調的態度は皆の記憶の中に残ったのだ。それは彼が議員としては怠慢であったにも関わらず、ああいう辞め方をしていったという意味で印象付けられてしまったのだ。
 寧ろあの時凄く理性的に会見での質問に応答していたら、あの議員のことだけなく公費私的流用の件自体も徐々に忘れられていっただろうが、実際はそうでなく、寧ろあの醜態に拠って鮮明に我々の記憶に残っている。つまり彼は世代的にもネット社会に極めて普通に順応出来る世代で最初の中年だったので、現代人の整えられただけの秩序に不自然さを感じる感性をストレートに出しても自分自身としては何等可笑しい事ではないという存在主張をしている。
 現代人はSNSを見慣れていて、正式とか格式ばったこととか、きちんと本格的である事自体へ懐疑的感性を巣食わせてしまっているのだ。一旦そういった自由な感性をかなりそういった手段の無い時代では堅物で押し通してしまっていた様な全ての成員が、そんなものに本当の出会う価値等無いのだと思える様になっていくと、正式とか本格的とか秩序立った理性等の方がずっと疑わしいぞという価値判断さえ我々は持ってしまえるのだ。
 統合失調でない健常である状態とは、実は本来凄く存在的にも矛盾している我々が勝手にでっちあげてきたいい子ぶった態度でしかないのだ、というメッセージとして全てのSNSのTLが日々延々と閲覧可能であることの現代情報社会では統率されている、きちんとマナーを踏襲する様に教育されていること自体を不自然でしかないという、まさに東浩紀が<動物化>と言った事の方が却って人間らしく、人間らしいと言う事の方がずっと不自然で訓育されているだけの事であると判断する様になってきている、とは言える。
 それは恐らく様々な局面で大きな文化的転換点を人類に齎しているのではないだろうか?ゲームソフトが映画の内容や編集等の感性に大いに影響を与えている様な意味でSNSの呟きの解放的な気分が正式であること、本格的であること、きちんと仕上げられていること、つまり完成されたという感性自体を大きく転換させていると言える。
 従ってこれから数十年後では論文であれ公式文章であれ、以前迄の様な型通りのものさえかなり大きく変化していくものと思われる。だが儀礼性とか伝統とかそういう事は、ではどうなるのだろうか、という問い自体もかなりきちんと論議される様にはなっていくだろう。それはかなり保守的見解からの危惧という形でも噴出するだろうし、だがやはり変えていくべきは変えていくべきだという観念でその論議に参加する人達もかなり多いだろう。そういった喧々諤々の論争の時代はもう直ぐ其処迄来ている。

Wednesday, January 21, 2015

第六十七章 時代は作られるPart4 幼稚なメッセージ、小物に踊らされる人類の季節

 現代世界は国家民族の違いを超えてどの宗教文化圏も完全に社会性、つまり他者と共有し得る何等かの価値という形で人類が画一化していく方向を選択している。つまり教育と社会インフラへの同化とに拠って公的基準に全てを合わせる形でのみ、人の幸福も生きる価値も規定され、努力して達成する目標がどの国家社会でも設定されている。要するにそれは現代科学のテクノロジーを最大限に利用する形で世界基準を目指す事を理想としており、それを善としている。科学生活者主義とでも言うべき合理性で統一されている。だからこそ昨今のイスラム国やボコ・ハラム等の過激派の行動が目立ってしまうのだ。
 だがこの稚拙な全く正当性を欠くテロリズムの仕方はオウム真理教でも体現されていたし、個人の猟奇的犯罪、日本では宮崎勤連続幼女殺害事件、長崎幼女連続殺人事件、秋葉原通り魔殺人事件等でも体現されてきた。それに加え大人社会の模範となるべき政治家が公費乱用に関する謝罪会見で統合失調的態度を自己陶酔的に行う(野々村龍介前兵庫県県会議員)といった失態がネット上、メディアで大きく取り上げられ、所謂人類全体が集団、組織であれ個人であれ幼稚な存在であるというアピールをする事がマスコミやジャーナリズムを翻弄している。今回の日本人人質の釈放に対して二億ドルを要求するイスラム国の暴挙も全く手続き的な正当性を欠く幼稚な仕方である。
 しかしそれは前述した科学生活者主義的な数値目標設定、日本で言えば偏差値等の偏重的システム、つまり合理主義的社会運営自体への人類のストレスが誘引している要素は否めない。つまりあらゆる統一的社会合理性へ自己を当て嵌めていかなけれないけない暗黙の使命感へストレスが沈殿して、それが一気に爆発しているという状況が現今の人類の姿ではないだろうか?
 幼稚な存在へと格下げされている人類の姿は一国の首脳が幼稚な仕方でのウェブサイトを利用したテロリスト集団に翻弄されていて、大物とかリーダーという立場の人達の面目を失墜する形でのみそういったテロリスト集団を活気付けている。つまり昨今の19歳の少年に拠るyoutubeへの悪乗り投稿の最たる形での爪楊枝商品破壊行為にメディアが数日ずっと翻弄され続けたが、これはメディアを翻弄させる事が稚拙な少年でも可能であるという現代社会の喜劇的様相を如実に示している。
 確かに70年代から80年代にかけてもミージェネレーションとかミーハーという世代論は在ったし、オタクという語彙が定着していった時代もあった。それ等全てを総じて人類の幼児性の噴出と捉えれば、人類は一方では数値目標に雁字搦めになって其処から脱出する事が出来ない状況にあって、だからこそ逆にそのリアルに反発する潜在的欲求が他方では幼稚なテロリスト集団、それはイデオロギーや大義や義憤より余程突発的衝動に身を任せた仕方に転落している訳であるが、そういった短絡的思考が支配している衝撃性にだけ意識が志向しているし、目標も愉快犯的要素が強く、そういった傾向へどんどん偏重していっている。
 社会全体の合理性から言えば甚だ乖離してしまっている幼稚な方法に拠って瞬発的に社会や世相を混乱させる(それは韓国大企業の経営者ナッツ姫の旅客機滑走引き戻し事件にも顕れていた)トピカルデヴィエイトメッセージになっている。
 テロリスト、メンヘラ的なオタク等が本来なら価値とされなかったのに、全ての既成価値へ懐疑的視点が注がれていった結果、小物達が個々自己主張して跋扈し、大物とか安定した志向の大人を翻弄するという図式の社会様相が世界的に実現してしまっているのだ。小物とは常に思想はない。それはエゴ丸出しであり、節操も無いし狂信的なアイドルや教祖を求める。その魁こそオウム真理教であったが、犯罪の動機も身勝手で幼稚であり、その大人的態度との乖離こそ、実は全てのジェネラリスト的感性を嘲笑う超絶的専門分化とオタク的な感性との境界の無化に拠って助長されてきている、というのがここ数十年の世界の一般的傾向である。経済社会でも80年代のリクルート事件から0年代のライブドア事件に到る迄徐々に子供のエゴ丸出しの気分が日本社会でも増幅されてきた。マネーゲーム的情報社会からオタク経営成功戦略的ゲーム社会へと推移してきたこの三十年の日本史とは、大義や義憤より、より白けた無動機主義、衝動的トピカルメッセージ主義、まさに社会世相や時事性に於けるモブフラッシュと幼稚なテロリストゲームとの境界さえ曖昧になってきている。つまりこのクリエイティヴである風を装うモブフラッシュの話題性とテロリストに拠るウェブサイトのyoutubeその他をフルに活用した脅迫ゲームとは深層心理では人類社会全体では共謀しているのだ。
 つまり人類全体が価値論的には既に本物主義とか本物とか本格的な事とはあるのだ、という無思考的で判断停止的なアカデミックな保守主義全体へ懐疑的なのだ。偽物とか出来合いの思想の方にリアリティを持っているのはフィギュアやラヴドール等を愛好する現代人にとっては尤もな事である。アイドル追っかけや秋葉系のコスプレショップやメイド喫茶で王様気分のエゴ丸出しの欲望を発散させて喜んでいる現代人はオナニークラブの様なフーゾク店が流行ったかと思えばそれに飽きて再度パラパラステージに魅せられたりして、要するに全てのファッションがサブカルへと浸食し、やがて文化全般を幼稚な感性で染め上げ、オタクと専門家の間の境界さえ無化しつつある訳だ。しかしそれ等全ての社会現象や世相や時事的な特質も、実は最初に述べた経済合理主義と偏差値的エリート選抜をする科学生活者合理主義への極度の同化的強制への進化スピードの加速化に拠る人類全体のフラストレーションが後押ししているのである。
 だからこれからも時々シャルリ・エブドの襲撃事件等一連のテロ行為は、中国でウィグル族の自爆テロが起きる様に散発的に繰り返されていくだろう。アメリカでコロンバイン等をはじめとして時折衝撃的な銃乱射事件が起きては沈静化し、忘れた頃に再発しという様な繰り返しがかなり長期に渡って持続するだろう。
 最早世界的規模でマスコミもメディア自体も理性を失いつつある。幼稚化現象は既に国家元首から科学者(STAP細胞問題に象徴されているが)から官僚等に到る迄、要するにテロを取り締まるエリート層全体にも恐らく蔓延している。と言う事は一般大衆とエリートの二層構造は確かに経済格差的には体現されているが、肝心の精神性では殆ど無くなっている。だからこそ時としてTwitterで暴言をツイートして失職する様な人達が登場し、議会でセクハラ的発言をする事で社会問題化したりするという事も繰り返されるのだ。
 しかしそれ等も全てブロードバンドが世界中を覆っている現在、電波の交信全体が人類の脳細胞の何等かの部位を破壊していっているからこそだ、とも言えるのだ。だがそれを人類は未だ暫くは伏せておこうとするだろう。何故なら全ての幼稚化を否定したら、どの社会成員も生きていけないと知っているからである。つまり正規社員も非正規社員もエリートもメンヘラニートも全ての社会成員が共謀してこの幼稚化、オタク化的な人類志向を否定出来ないというある種の諦め的気分にあるからである。それはマシーンそれ自体が人類の感性を劇的なスピードで変化させつつある証拠である。実際医療的進化に於いて人類はサイボーグ化していくだろう。それはその進化の止められなさに順応する様に全人類が構えているからである。
 それは言ってみればマゾ的にツール・ディヴァイスの利用快楽に身を委ねる感性のサーファーに人類が率先してなってきている、という風にも言い換えられるだろう。

Saturday, January 17, 2015

第六十六章 時代は作られるPart3

フィクションは観念的なリアルに対するシンボライズ的処置であり、抽象的理解から齎されるリアルへの反省的な意識を掻き立てる脳内快楽的なゲームである。
 だがこれ程現代社会はメディアとツールとディヴァイスの氾濫がリアルに実現すると、今日逮捕された爪楊枝で商品を悪戯したり万引きしたりする愉快犯は道具利用の快楽、つまりスマホやメガネ型カメラ等の使用そのものの快楽の為にだけ為される犯罪が多発していってしまう一つの犯罪例でしかないという感じを誰しも抱いてしまう。これはグリコ森永事件等の勃発を許してしまった日本社会の一つの必然的な展開である。
 脳内快楽的ゲームはリアルが深刻な核戦争とかであるなら桃源郷を希求する我々の心理を擽るものへと進化するだろうが、其処迄は行かず(それを実現させてしまったら、広島、長崎の再現となって人類自体が物凄く大きな後悔を味わうと誰しもが思っているから)しかし常にその一歩手前迄なら外交ゲームで展開していってしまう常にスリリリングな危機触発一歩手前性だけは享受することを全人類が了解し、その18世紀や19世紀初頭的な牧歌的な過去への引き戻せなさを何処かでは密かに憂えていて、そのリアル自体に狼狽える我々にとって、ディヴァイスとツール利用自体がウェブサイトを通した唯一の日常的な利用、寧ろもうウェブサイト自体に我々が酷使されてしまっている様な生活習慣を我々が了承してしまっているのだ。
 余りにもこのウェブサイトを通したディヴァイスとツールゲームがリアルタイムでリアルであるが故に、それ以上に観念的なリアルに対するシンボライズ的処置、抽象的理解から齎されるリアルへの反省的意識を掻き立てる脳内快楽ゲームというフィクションさえ、牧歌的なものからより強烈な印象のものを提供することへ全体的には移行していってしまう。河原温の初期ドゥローイングはまさにそういった右往左往する古の感性をどんどん剥奪されてメカニックなマシーンに酷使される日常を嘲笑する視点を既に50年代に予感した絵画表現を鉛筆をメディアとして利用して提供していた。そして河原の想像通りの社会が実現してしまっているのだ。
 勿論日本映画は『寄生獣』(山崎貴監督・VFX)的なものだけがメインストリームではない。当然『くちびるに歌を』(三木孝弘監督)の様なものも上映されている。一方では映画テクノロジーを最大限に駆使し、古典的な愛をテーマにしつつもスリリングさを観客に提供するかと思えば、他方では青春の群像を素朴に提供する。しかしその双方はやはり決定的に現在時点の人類の不安に拠って掻き立てられている。つまり不安除去という脳内装置への処方が旨となっているのだ。それは映画を鑑賞する観客自身が一番よく知っている。つまり一旦映画館を出たら、其処では無数のウェブサイト上での情報送受信が行われていて、電波が世界中に飛び交っていて、その忙しさ(busyness)が我々の認識をより常に意識レヴェルでも最上級の緊張状態(それを日本人はテンションtensionという語彙の頻繁使用で示している)を維持し続けなければいけないし、そういうリアルに引き戻される事を我々は知っているからこそ、一時映画に逃避するのだ。映画がメッセージであった様なATG映画全盛期の70年代の世相や時代全体への批評精神は寧ろ今ではすっかり反体制性を剥ぎ取られ、寧ろ積極的にウェブサイトビジネスに拠って世界中がツールとディヴァイス利用幻想であたかも疑似一体化していく人類の共時的な同時代性を共有する幻想を益々納得させる為の装置に表現全体が転換していってしまっているのだ。其処では共同体的な幻想は益々磨滅させられている。
 私は何もそれを憂いている訳ではない。寧ろ70年代的幻想が実は世界の何も変えなかったということを寧ろ現代映像表現のウェブサイトビジネス展開する世界的共時性の太鼓持ち的存在の仕方自体が証明してしまっているからだ。だから映画監督達がある種の職業的幻想を持ち得たのはせいぜい80年代迄で、それ以降は『PARTY7』を監督した石井克人監督が示した様な過激なメッセージ性を通過した2000年辺りから徐々に映画はリアル共時世界の反映体でしかあり得ないと諦観を積極的に示し始めた。それから15年が経った。今や河原温の浴室シリーズをはじめとする初期ドゥローイングで描かれた犇めいて蠢き存在する日常生活者達が<密集>という自己身体とウェブサイト双方から雁字搦めで剰余を剥奪された日常それ自体に積極的に快楽的に臨んでいるというリアルをその侭提供する表現へと、所謂監督のヴィジョンを思想的に提示する世界への映画批評性から離脱して、益々リアルな反映体へと転化してきている。
 フィクションはあくまでフィクションであった時代は80年代迄で終了し、それ以降人類は寧ろゲームソフトの持つスピード感と編集的なカットバック切り換わり感が前面に押し出された様なタイプの時間感覚の映画がメインストリームとなってきた。それはフィクションを離れた時にウェブサイトが提供する情報送受信性それ自体へ円滑に引き戻る事が容易である様に取り計らわれた配慮の映画内容であり、製作意図の表現なのである。だから私は映画はリアル世界の反映体を積極的に担う様になってきたと言ったのだ。
 フィクションは今やリアルに対する観念的な脳内快楽のゲーム等ではなく、それ自体も一つのリアルなのだ。つまり70年代や80年代に映画表現自体に文化的可能性を感じ取っていた人類は、寧ろそれは幻想で、文化に等なり得ようもない、そもそも文化自体が安穏と成立可能なリアル等では既に無いという事実だけを覚醒させる装置に映画が転化してきたのだ。
 今回は映画をメインに述べてきたが、次回は文学に眼を転じてみよう。しかし恐らく文学も文化それ自体を安穏と享受する心の余裕を失い、完全にリアル情報送受信ゲーマーとしての人類成員意識を覚醒させる事に役立つ装置へと転じてきていると証明することとなろう。ほのぼのとした心理で映画を通したヒューマンなほっこり性を味わうという時間的ゆとりを与えないタイプの娯楽装置を提供する映像ビジネス自体が恐らく文字表現も大きく変化させてきている、ということに我々は気付くであろう。  付記 映画をよく登場させてきたのもどうしても現代文学の持つ特質を理解する為に映像文化全般の方向に就いて触れずには居られないからであるが、今回は爪楊枝愉快犯の少年逮捕のリアルから触発されて記事を突発的に書いた。つまり映画的リアル(フィクション)とリアルの境界への確固たる認識を喪失して映画的リアルを現実化させてしまう愉快犯少年を生む時代が逆に映画の性質を決定している、という世界批評的映画理性の消滅と、ダイレクトなクリエイターのリアル反映的リアルを今回は示したつもりである。(Michael Kawaguchi)

Sunday, January 11, 2015

第六十五章 時代は作られるPart2

 20世紀は明らかに前半の二つの世界大戦の人類の経験に拠って文藝活動は概ね空虚さをテーマとしたものだったと言ってよい。サミュエル・ベケットの<ゴドーを待ちながら>は二人の男がゴドーを待っているのだが終ぞ彼は来ない。又サルトルの<存在と無>では死に拠って全てが奪われてしまい後には何も残らないという形で神の不在を徹底的に示していた。アラン・ロブ・グリエはアンチロマンという形式で小説の持つロマン的性格、つまり希望を持たせる様なハレ的な何物も期待させず、起承転結ではない無展開性を示した。それは彼の映画でも同様である。又ゴダールは即物的日常の中で突如挫折し死ぬ人間の像を映像化した。それはとどのつまり全ては空虚であるという世界観に彩られている。それは戦争の世紀に拠り何時突発的に死が到来するか知れたものではないという感性に拠って正当化された表現なのだった。
 キューブリックは<時計じかけのオレンジ>で暴力が日常に於いて潜在的に巣食っている様を描いたが、それは未来への希望を打ち砕くと言うより、寧ろ夢や希望が成立し得ない日常を引き受けようという姿勢の方が鮮明化されたスタンスの映画哲学だった。
 現代アートは日本では具体美術協会がモダンアートムーヴメントの仕掛け人となって、後にフルクサス運動の一環としても認識されるハイ・レッド・センター(高松次郎+赤瀬川原平+中西夏之)のイヴェントの連鎖が不在ということを炙り出した。不在はサルトルが<存在と無>で示した命題でもあった。とりわけ高松は影のシリーズで影とは遠近法的に我々の身体等の実在が遠ければ小さく見えるのと正反対で遠くなればなる程大きくなっていくつまり逆遠近的現象であることで、実在に対する鏡の像の関係があり、その非実在的リアリティが実在の充実より充満している反転現象を図式化した。此処でも空虚ということがクローズアップさせられていた。
 アンディ・ウォーホルがシルクスクリーンでコカ・コーラの瓶をあしらって油彩画にしたりして、巨大な紙の平面に転写させた時反復される商業資本主義のコピーであると同時に、主題とか命題といった大仰な正統性への明らかな疑いが其処には介在していた。此処でも存在の充実であるよりは、機械的に流れ作業的に反復されるイメージをダイレクトに提示する事で空虚感を醸す効果を作っている。それは退屈さ、最大限に文学的にしてみたところでせいぜい倦怠的な充実しか作れない世界像である。
 つまりそういった一連の20世紀文藝の様相とは明らかにアンチ的なメッセージなのだった。否定の美学、肯定への極度の懐疑が20世紀芸術、文学、演劇、映画等の底流にある精神なのだった。
 だがそういった時代から早80年代辺りを境界にして30年以上が経過して21世紀も徐々に中盤へと近づいてきている。そして21世紀とは前述の20世紀的な空虚を如何に乗り越えるかを人類全体が模索する時節にあると言ってもいい。
 勿論世界はそれ程悠長な文化的香りに満たされている訳ではない。様々なイスラム原理主義テロリズムが世界中に横行している。つい先日もフランスのジャーナリズムが標的となった。アメリカ合衆国大統領オバマ氏はフランス支持を敢えて訴えた。存在の空虚さ自体が一種の欧米先進国の特権的なロマンであるという事を見せつけるかの如く群雄割拠的なイスラム原理主義テロリズムは十歳の少女を強制的に自爆テロ犯に仕立てあげる程の残忍さを示した(ボコ・ハラム)。
 欧米先進国は今日のウェブサイトが世界中を張り巡らされた時代に秘密裡に各原理主義グループが連絡を取り合っている事を想定しているし、純朴に彼等に対して欧米先進国への経済力的な格差の不満をぶつけているとだけ思っている訳ではない。ことはイスラム教とキリスト教へと分派していったユダヤ教旧約聖書に示されている古代史の流れの中に既に現代のイスラム教原理主義対欧米先進国の表現の自由という対立は兆していたとさえ言える。宗教戒律的な対立は資本主義とか自由主義とかいった経済社会的秩序を嘲笑うかの如く根の深い対立を用意する。つまりどの国のどの民族として生まれてこようとも誰しも決して自分の性別同様、生まれてきた国家や民族史的な背景を選択して生まれて来る訳ではない。つまり生まれた国と土地と民族を選んで生まれて来られる訳ではないのだ。だからこそその決定的運命の前では誰しも平等である筈である。にも関わらずその平等性は必ずしも宥和的でも友愛的でもなく、対立図式に反映されながら顕在化してしまう。
 水の少ない土地で食文化から居住文化の全てを育んできたアラブ系民族と比較的容易に水が手に入る欧州とでは必然的に(勿論日本の様に常に清潔な水が容易に手に入る土地ばかりではないものの)生活感情的な齟齬は生じて来るのだ。砂漠質の土地と農耕に適した土地とでは育まれる宗教思想にも大きな違いが生じる。しかも常に経済援助をするのは欧米キリスト教圏であり、経済援助され、独裁国家が発生しやすい土壌にある中東国家群は欧米型の資本主義も自由主義も育まれてきた訳ではなかった。
 世界の対立図式は斯様に双方で歩み寄る事を困難にしている。しかしそれでもウェブサイト自体は利用する民族を選ぶ訳ではない。イスラム教徒もヒンドゥー教徒も仏教徒もキリスト教徒と同様にそれ等の恩恵を被る。しかしイスラム教原理主義過激派に対して対決姿勢を鮮明化させたアノニマスは明らかに欧米キリスト教圏の人達に拠る営みであり、その参加者にアラブ系の人が居たとしてもスタンスは欧米寄りである。この二重の世界の二極分離性はイスラム国に大勢の欧米人の青年も参加している事に拠って益々複雑化している。つまり生まれた国家や民族は選べないがイデオロギーや思想は選べるという思想だけで全世界が統一されているという事実を世界中に徹底化させた当のものこそウェブサイトであり、全世界に配布されている様々な日常的ツールとディヴァイスなのだ。
 その点では20世紀のロマン主義的残滓でもある空虚さの表現は21世紀では余りにも既にリアリティという意味では実効性を欠いているのだ。何故なら20世紀文藝表現とはあくまで未来予想的な空虚さだったのに対し、現在の世界、つまり21世紀リアルとはその夢想を遥かに超えるシヴィアな残虐さとあっけらかんとして荒唐無稽な非理性性に彩られているからである。21世紀は既に全ての想念の実現可能性が、それも極めて残虐な行為をゲームソフトで見慣れ切ってしまった現代人の無節操さで加速化されており、既にユーターン不可能な地点に迄到達してしまっているのだ。中華人民共和国という国家としての存在も、シリア等の独裁国家群の存在も既にロマンを一切成立させない人類の欲望を実現化させてしまっている。何故アメリカ合衆国だけが経済的繁栄を享受しなければいけないのかは既にイラン革命でもメッセージ化されていたし、ソ連崩壊ロシア化された大地でもチェルノブイリ原発事故、そして合衆国のスリーマイル島原発事故でも世界中のエネルギー政策の一元化的なノー・ディヴァイス性の前で、既に空虚なロマンを表現世界で耽溺するゆとり自体に我々は全くのリアリティを喪失してしまっている。ある意味では具象画家であるフランシス・ベーコンの肖像画の顔の様に歪んだ知覚像の様にしか世界を見る事が出来ないのだ。それは希望とか展望とかより一層強烈なサヴァイヴァル的恐怖を人類に与えている。それが一方では9.11の同時多発テロとして、他方では自然災害として3-11の東日本大震災という形で、人工自然両面で展望よりサヴァイヴァル的恐怖を駆り立てる方向で全てを悪しく実現させてしまったのだ。
 従って21世紀も中盤へ徐々に接近している人類にとってのリアリティは空虚ではなく、空虚ささえロマンティシズムの一端でしかないと思わせてしまった過酷な現実の中でどう文化的な営みを持続させていくべきかという剰余的な社会思想を全人類的規模で模索する時節に入った我々にとって真のリアリティとは余りにもフィクション的過ぎる嘘の様な現実だけに取り囲まれた世界で、どうフィクションの持つ実効性を取り戻していくかというダイレクトな表現のメソッドをゲームソフトに引率されてきたここ十数年的な回路以外にどれくらい豊かに創出し得るか、それは実践的な娯楽感性の復権の文化思想である、と言えるだろう。
 だがそういった文化思想はやはり現代世界では経済動向とも無縁では成立し得ないだろうという予感だけは確実にするので、次回は世界経済の中で成立する文化思想、娯楽思想に就いて考えていってみよう。