セザンヌ 牧歌 1870

セザンヌ 牧歌 1870

Friday, July 3, 2015

第七十一章 時代は作られるPart8 生活者の感性は時代が作る①甘えの依存

 時代は我々の感性が作ると言えるが、我々の感性も時代が作るとも言える。相互フィードバックでありシナジーである。又それは集団的な連動が齎しているとも言える。つまり個人の感性は言語活動であれそれ以外の全ての社会活動自体であれ、それ等が集団全体の総意で動く以上、その総意の下に個人の感性も作られるということだ。
 先月の6月30日に起きた新幹線放火殺人事件は自殺をする為に71歳の老人が自らの身体にガソリンを被り、それに火を点けて新幹線全体を密室化された空間へと変貌させた事件だったが、ある意味でそれは結局個人の自由なんかより、個人に慰安自体が集団を巻き込む形でしか成立しないある種の徹底した無責任的行動の中で初めて開放感を得られるという歪な感性が現代人に定着していることをまざまざと見せつけた。つまり七十歳を過ぎた老人が社会全体への迷惑を顧みずにそういう行動をとれるという事自体に、甘え、つまり死ぬ時に他人迄巻き添えにすることさえ何処かで期待するからこそし得る行動を読み取れるが、それはそういう風にして迄ある社会全体の連動から外れたくはないという孤独に弱い、個人主義と自由の権利の無化を意味していたからである。
 時代は確かに便利な社会インフラに取り囲まれている。しかしどんなことをしてでもSNSの仲間との結束とかTwitterで言えばフォロワー数だけを増やす事に意識の上で血道を上げる生活習慣では、より社会的連動に於いてたった一人の頭でたった一人の行動で何かをするより、より集団全体の視線や関心に自己を巻き込んでいく方がずっと楽であるという選択眼が予め用意されている。つまり仮に会社内で孤立していても、SNSではそうではないという安心が誰しも用意されている。Twitterが合わなければPinterest、Tumblr、LINE等幾らでも選択肢があるのだ。昔はその点では会社で巧く行かなかったなら、別の会社に移るしかその辛さから逃れる方法がなかったし、だからそれが出来なければ集団全体の連動に自己も寄与し得る様に自己改善するしかなかった。しかし現代では仮に集団全体の連動に寄与出来なくても、それが仕事能力に支障をきたすものでない限り、会社が終わって一緒に必ず飲み会へ行く義務はないと高を括っていても、それを理由に解雇される心配はない(或いはそういうタイプの職種もあることはあるのだろうが、そういう職場にはそれに耐えられる人しか就職することはないだろう)し、又仮に対人関係が余り巧く行かないでも仕事全体に支障を来さない限り、対人関係的なことまで経営者が従業員に強制することは基本的には出来ない。結局仕事以外のあらゆる対人関係的繋がりがたとえSNSの様にリア充的なものでないにせよ、それが最終的に失われることなく確保されてさえいれば基本的に孤独感を抱く心配は要らない。
 と言う事は却って本質的に孤独の辛さに絶えなければいけないという試練自体が現代人には成立しない。それが却って集団全体の連動への弛まぬ意識が増長され、集団連動に寄与し得ないなら、逆に破壊することで寄与すればよいという短絡した決心をも生み易くなっているとも言える。それは何も今回の日本の大事件だけでなく世界的にもそうだ。
 その一つがアメリカで数十人の黒人を教会で射殺した白人のヘイトクライムであり、IS等のカルト宗教的原理主義だと言える。それは何等かの形で自分や自分達が帰属するメジャー集団への意識の過剰が生み出した何等かの形で集団に寄与し得ないなら、鬱憤自体を集団全体へアピールするしかないという短絡思考的な決心を助長する時代の感性が控えている。それは甘えることさえ集団全体へ影響を及ぼすなら、何もしないよりはずっといいし、ましであると言うより、それをせずには居られないという決定的な時代の感性である。
 自己の対話に於いて徹底的に孤独に耐えるという修業的な機会を現代人は与えられていないし、自ら率先してそれをしようという意志へ直結し難い様に社会全体が個人を脅迫している。そんなことをする時間を持つことは無職で求職中であることを人へ示す様なものだから、それだけは耐えたいという虚栄心こそが短絡的であっても犯罪的暴挙に出る方がずっとましだという価値倫理を醸成しているのである。
 と言うことは外面的で外在的な価値、それは往々にして社会全体がそういうものがあるかの様に個人に幻想されるものであるのだが、それだけが価値であり、内面的、内在的な価値等人の目に触れるものではないのだから、そんなものを後生大事にしたって、金に換わらないではないかという価値判断が優先されている証拠である。
 社会的地位、金銭的報酬に拠る経済力といった外在的外面的価値のみが最大級に優先されるかの如く個人を脅迫する時代は明らかにある部分ではアメリカ合衆国の国民のワーカホリックと世界経済的牽引図式が作り上げた。と言ってかつての共産主義の様な先祖帰りは既に人類が出来ない地点迄追い込まれている(と言うか進化した)。
 つまり情報伝達的なメッセージの遣り取り自体が既に単純な目的を外在的外面的に持ったものとしてのみ認識される唯社会目的的な存在理由だけしか個人が持ち難い様に社会や国家や世界情勢全体が機能している証拠である。だからこそ昨今数日置きくらいに勃発するテロ行為が繰り返されているのである。つまり全ての行為が社会を意識した社会行為であり、それは単純に名目的な目的を与えられていなければ安心出来ないということであり、その根底には他者への疑心暗鬼が極点に迄達している証拠であり、ビジネスもゆとりがあってはならず、あくまでビジーネスでなければいけないのである。それこそがアメリカという国が世界へ齎している現代という時代のコモンセンスなのだ。
 そういう風に個人にお仕着せてしまう時代の感性に於いて個人が選択する余地のあることは勝者になれないのなら敗者に甘んじるか、それを虚栄心が許さないならいっそ新幹線内で放火テロをするという暴挙に及ぶかということなのだろう。それが七十歳を超えた老人に迄、又現代の七十歳はかなり健康的にも体力的にも優れているものだから、勢い余ってそうしてでも社会に関わりを持てるなら、孤独死だけが待っている老人に転落するよりはずっとましであるという価値判断を構築しているのだ。
 これは極点迄他者への疑心暗鬼が作られてしまった後の人類のその息苦しさから解放される為の回路に唯一暴挙的行動を通した甘えしか残されていないという切羽詰った状況認識なのだろう。
 だが人類は個人というものを未だ余り多く掘り下げてはいない。それは国家や社会全体はそれを阻止する様にだけしか機能してこなかったからである。だから個人の感性のかなりの部分が民族や国家が個人に運命論的に強制してきた慣習や習慣の様な価値判断から誰しもがそれ程自由ではないのだ。つまり宗教的なコードから独立した自己の本質的姿を見据えようとはしていない。理性とは孤独そのものなのだが、それは個人の純粋な内面からのものなのだ。他者を疑心暗鬼になるということは他者を信用出来ない分自分も信用出来ないからなのだ。それは自己への甘えであり、それが他者引いては社会全体への甘えを作り易くしているのだ。
 次回は本質的な個人内面や内在的な価値を巡る問い、つまり思想や哲学が成り立ち得るかという問いから進めていこう。

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