セザンヌ 牧歌 1870

セザンヌ 牧歌 1870

Sunday, January 11, 2015

第六十五章 時代は作られるPart2

 20世紀は明らかに前半の二つの世界大戦の人類の経験に拠って文藝活動は概ね空虚さをテーマとしたものだったと言ってよい。サミュエル・ベケットの<ゴドーを待ちながら>は二人の男がゴドーを待っているのだが終ぞ彼は来ない。又サルトルの<存在と無>では死に拠って全てが奪われてしまい後には何も残らないという形で神の不在を徹底的に示していた。アラン・ロブ・グリエはアンチロマンという形式で小説の持つロマン的性格、つまり希望を持たせる様なハレ的な何物も期待させず、起承転結ではない無展開性を示した。それは彼の映画でも同様である。又ゴダールは即物的日常の中で突如挫折し死ぬ人間の像を映像化した。それはとどのつまり全ては空虚であるという世界観に彩られている。それは戦争の世紀に拠り何時突発的に死が到来するか知れたものではないという感性に拠って正当化された表現なのだった。
 キューブリックは<時計じかけのオレンジ>で暴力が日常に於いて潜在的に巣食っている様を描いたが、それは未来への希望を打ち砕くと言うより、寧ろ夢や希望が成立し得ない日常を引き受けようという姿勢の方が鮮明化されたスタンスの映画哲学だった。
 現代アートは日本では具体美術協会がモダンアートムーヴメントの仕掛け人となって、後にフルクサス運動の一環としても認識されるハイ・レッド・センター(高松次郎+赤瀬川原平+中西夏之)のイヴェントの連鎖が不在ということを炙り出した。不在はサルトルが<存在と無>で示した命題でもあった。とりわけ高松は影のシリーズで影とは遠近法的に我々の身体等の実在が遠ければ小さく見えるのと正反対で遠くなればなる程大きくなっていくつまり逆遠近的現象であることで、実在に対する鏡の像の関係があり、その非実在的リアリティが実在の充実より充満している反転現象を図式化した。此処でも空虚ということがクローズアップさせられていた。
 アンディ・ウォーホルがシルクスクリーンでコカ・コーラの瓶をあしらって油彩画にしたりして、巨大な紙の平面に転写させた時反復される商業資本主義のコピーであると同時に、主題とか命題といった大仰な正統性への明らかな疑いが其処には介在していた。此処でも存在の充実であるよりは、機械的に流れ作業的に反復されるイメージをダイレクトに提示する事で空虚感を醸す効果を作っている。それは退屈さ、最大限に文学的にしてみたところでせいぜい倦怠的な充実しか作れない世界像である。
 つまりそういった一連の20世紀文藝の様相とは明らかにアンチ的なメッセージなのだった。否定の美学、肯定への極度の懐疑が20世紀芸術、文学、演劇、映画等の底流にある精神なのだった。
 だがそういった時代から早80年代辺りを境界にして30年以上が経過して21世紀も徐々に中盤へと近づいてきている。そして21世紀とは前述の20世紀的な空虚を如何に乗り越えるかを人類全体が模索する時節にあると言ってもいい。
 勿論世界はそれ程悠長な文化的香りに満たされている訳ではない。様々なイスラム原理主義テロリズムが世界中に横行している。つい先日もフランスのジャーナリズムが標的となった。アメリカ合衆国大統領オバマ氏はフランス支持を敢えて訴えた。存在の空虚さ自体が一種の欧米先進国の特権的なロマンであるという事を見せつけるかの如く群雄割拠的なイスラム原理主義テロリズムは十歳の少女を強制的に自爆テロ犯に仕立てあげる程の残忍さを示した(ボコ・ハラム)。
 欧米先進国は今日のウェブサイトが世界中を張り巡らされた時代に秘密裡に各原理主義グループが連絡を取り合っている事を想定しているし、純朴に彼等に対して欧米先進国への経済力的な格差の不満をぶつけているとだけ思っている訳ではない。ことはイスラム教とキリスト教へと分派していったユダヤ教旧約聖書に示されている古代史の流れの中に既に現代のイスラム教原理主義対欧米先進国の表現の自由という対立は兆していたとさえ言える。宗教戒律的な対立は資本主義とか自由主義とかいった経済社会的秩序を嘲笑うかの如く根の深い対立を用意する。つまりどの国のどの民族として生まれてこようとも誰しも決して自分の性別同様、生まれてきた国家や民族史的な背景を選択して生まれて来る訳ではない。つまり生まれた国と土地と民族を選んで生まれて来られる訳ではないのだ。だからこそその決定的運命の前では誰しも平等である筈である。にも関わらずその平等性は必ずしも宥和的でも友愛的でもなく、対立図式に反映されながら顕在化してしまう。
 水の少ない土地で食文化から居住文化の全てを育んできたアラブ系民族と比較的容易に水が手に入る欧州とでは必然的に(勿論日本の様に常に清潔な水が容易に手に入る土地ばかりではないものの)生活感情的な齟齬は生じて来るのだ。砂漠質の土地と農耕に適した土地とでは育まれる宗教思想にも大きな違いが生じる。しかも常に経済援助をするのは欧米キリスト教圏であり、経済援助され、独裁国家が発生しやすい土壌にある中東国家群は欧米型の資本主義も自由主義も育まれてきた訳ではなかった。
 世界の対立図式は斯様に双方で歩み寄る事を困難にしている。しかしそれでもウェブサイト自体は利用する民族を選ぶ訳ではない。イスラム教徒もヒンドゥー教徒も仏教徒もキリスト教徒と同様にそれ等の恩恵を被る。しかしイスラム教原理主義過激派に対して対決姿勢を鮮明化させたアノニマスは明らかに欧米キリスト教圏の人達に拠る営みであり、その参加者にアラブ系の人が居たとしてもスタンスは欧米寄りである。この二重の世界の二極分離性はイスラム国に大勢の欧米人の青年も参加している事に拠って益々複雑化している。つまり生まれた国家や民族は選べないがイデオロギーや思想は選べるという思想だけで全世界が統一されているという事実を世界中に徹底化させた当のものこそウェブサイトであり、全世界に配布されている様々な日常的ツールとディヴァイスなのだ。
 その点では20世紀のロマン主義的残滓でもある空虚さの表現は21世紀では余りにも既にリアリティという意味では実効性を欠いているのだ。何故なら20世紀文藝表現とはあくまで未来予想的な空虚さだったのに対し、現在の世界、つまり21世紀リアルとはその夢想を遥かに超えるシヴィアな残虐さとあっけらかんとして荒唐無稽な非理性性に彩られているからである。21世紀は既に全ての想念の実現可能性が、それも極めて残虐な行為をゲームソフトで見慣れ切ってしまった現代人の無節操さで加速化されており、既にユーターン不可能な地点に迄到達してしまっているのだ。中華人民共和国という国家としての存在も、シリア等の独裁国家群の存在も既にロマンを一切成立させない人類の欲望を実現化させてしまっている。何故アメリカ合衆国だけが経済的繁栄を享受しなければいけないのかは既にイラン革命でもメッセージ化されていたし、ソ連崩壊ロシア化された大地でもチェルノブイリ原発事故、そして合衆国のスリーマイル島原発事故でも世界中のエネルギー政策の一元化的なノー・ディヴァイス性の前で、既に空虚なロマンを表現世界で耽溺するゆとり自体に我々は全くのリアリティを喪失してしまっている。ある意味では具象画家であるフランシス・ベーコンの肖像画の顔の様に歪んだ知覚像の様にしか世界を見る事が出来ないのだ。それは希望とか展望とかより一層強烈なサヴァイヴァル的恐怖を人類に与えている。それが一方では9.11の同時多発テロとして、他方では自然災害として3-11の東日本大震災という形で、人工自然両面で展望よりサヴァイヴァル的恐怖を駆り立てる方向で全てを悪しく実現させてしまったのだ。
 従って21世紀も中盤へ徐々に接近している人類にとってのリアリティは空虚ではなく、空虚ささえロマンティシズムの一端でしかないと思わせてしまった過酷な現実の中でどう文化的な営みを持続させていくべきかという剰余的な社会思想を全人類的規模で模索する時節に入った我々にとって真のリアリティとは余りにもフィクション的過ぎる嘘の様な現実だけに取り囲まれた世界で、どうフィクションの持つ実効性を取り戻していくかというダイレクトな表現のメソッドをゲームソフトに引率されてきたここ十数年的な回路以外にどれくらい豊かに創出し得るか、それは実践的な娯楽感性の復権の文化思想である、と言えるだろう。
 だがそういった文化思想はやはり現代世界では経済動向とも無縁では成立し得ないだろうという予感だけは確実にするので、次回は世界経済の中で成立する文化思想、娯楽思想に就いて考えていってみよう。

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