セザンヌ 牧歌 1870

セザンヌ 牧歌 1870

Sunday, October 11, 2009

第五章 実在の価値、言葉の価値④

 今日カレーの匂いを店内に充満させた店が40パーセントも売り上げを上昇させたという話が朝のNHKのニュースで報じられていた。確かにそれは錯覚であり、ヴァーチャルな感性による戦略であるが、心地よく消費するということだって私たちの生活において実体的な意味世界における重要な指針である筈である(同じ買い物をするのにも買うものが同じであるのなら心地よく買った方がいいに決まっている)。
 だからリッチな豪邸が映し出され格好のよいヒーローが活躍するアクション映画がヒットしたとして、それは自分がそういうヒーローのような行動が出来ないということ、そして豪邸などに住むことが出来ないということの精神的な代理作用として溜飲を下げているだけではないのだ。恐らくそういう場面を映画で見ること自体に快楽がある、脳内のドーパミンが活性化するような何らかの根拠がある筈なのである。確かにヴァーチャルな三次元映像とか、その種のヴァーチャルな匂い自体を警戒する考え方もあるだろうが、生理的実在において人間はそういうヴァーチャルなものをリアルマテリアル以外にも求めているのである。そういう観点からすれば現代論理学に一番欠けているものとは、そういう脳内の作用、クオリア的感受に対する新たな意味世界の構築から捉える視点ではないだろうか?
 つまり自分の息子を贔屓することも生理的実在なら、それを敢えて押し殺して論理的な意味=公平で文学の将来を見据えて別の女性の作品にエールを送ることもまた生理的実在からも価値評定出来るということに他ならない。(不公平なことも公平なことも公平に扱う)これまでの論理学であるなら、恐らくただ単純に否定するものを真理的に偽であるからと考えてきた。しかし文学賞で敢え無く落選作にすることを決断する審査員の胸中では次回作を期待したい、というものもあるに違いない。また肯定するものに対しても限りなく不満があるけれど仕方なくそれに対する肯定的意見を提出するということもあり得る。
 しかし論理学では論理的に真偽、正否で判断してきたために中間的なことを捉えきれなかったということと、敢えて苦渋の決断で自分の息子に対して落選とすることだって、ただ単純に文学の真理に沿って判断した、とそう捉えていただろう。しかし違うのである。それは敢えてそういう判断をせざるを得ないという複雑な感情が渦巻いているのである。
 従ってこれまでの論議に拠ると、価値自体も正否とか真偽で推し量れるものではない、つまりそのような単純な二分法では割り切れないということになる。

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