セザンヌ 牧歌 1870

セザンヌ 牧歌 1870

Monday, October 26, 2009

第九章 価値は見出された途端に権威主義に堕す

 価値は最初価値などないと思われ続けている間はずっと規制の価値に反抗し、抵抗し続けているわけだから、純粋な志向を持っている。しかしそれが一旦世間一般に認可された途端に、守りの体勢に入って行ってしまい、端的に権威主義に堕すという運命を持っている。価値は価値があると意識された途端に純粋に見られることを拒むからである。感動の質とは、それが素晴らしいものであるという先入観がなければないほど純粋である。従って価値とはそれが価値であると認可された途端、それを価値ありとする人にとっても、その価値ある行為をしたり、価値ある事物を創造した人にとっても一挙に守りの体勢へと突入する。だから相撲の力士が十日目を過ぎた辺りで全勝できている場合、優勝の二文字が脳裏にちらつき、通常であるなら難なく勝てる相手に足を掬われることも往々にしてある。
 ある作家がある作品を世に出し、それが価値ありと認められた後に作る作品はかなりその価値に対する評価ということを意識せずに作ることは困難である。その意識を跳ね除けても恐らく前作同様に高く評価されることは極めて少ない。それでも前作と同じようなタイプでしかも受け狙いのものではないものを堂々と発表出来るのであれば、まだその作家の将来は目先の評価を当てにしていないだけ見込みがあるというものである。つまり誰からも認められない作品を作り続けていく勇気がある内はその作家は守りの体勢に抵抗している証拠だからである。
 全ての行為は他者に自分の行為を説明する段において、その正当性の主張を性格として帯びてしまう。従って価値と認められる行為がそれを意識してしまうことを予め承知しているからと言って、自分の行為がいつまでも価値的に評価されないままでよいと判断しても、それ自体が価値を意識して堕すことのない本当に価値ある行為だと意識しているのなら、やはり評価される価値同様その瞬間から堕してゆく運命にある。つまり他者の視線を暗に意図していることになってしまう(そういう場合は大体後世では誰かが認めてくれるだろうとか、知らない人が判断したら価値として認めてくれるだろうという期待がある)。
 従って全ての行為は、行為する限りにおいて何らかの価値評定を求めることを志向してしまっていて、その事実を容認することを厭わずに済ますことなど出来はしない。
 つまり評価されることによる堕落という運命をも引き受ける覚悟もまた、行為には求められている、ということになる。何故そうなのか?それは全ての行為が結果的に何らかの形で他者を巻き込み、また自己の行為自体も既に行為する段において他者によって既になされている行為と因果的に結びついていることを知るより他はないからなのである。その意味では行為は既になされる前に既に価値‐無価値の規範に含み込まれているのだ。
 これはシジフォスが岩を山頂に運ぶことに等しいとも言える。だから行為とは潜在的には悪を、行為が価値的に容認されることで発生させる慢心を巣食わせる自己に対しても、あるいは行為を価値であると容認することで権威主義に加担して、見逃されていく他の価値に対して無視することを決め込むように他者に対しても運命論的に誘発させる可能性として予め内在させているのだ。
 それは言葉を変えれば、人間が行う全てのことが、自己と他者の関係を作る以上、善悪や価値‐無価値という評定を免れ得る行為など一つもないということ、そして行為を行為として規定し得るということ自体が既に善も悪も発生させてしまうことを意味している。と言うことからも行為が既に倫理規定性を帯びているということが言える。倫理規定の中に価値‐無価値という判断もまた位置づけることが可能である。

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