セザンヌ 牧歌 1870

セザンヌ 牧歌 1870

Wednesday, October 7, 2009

第五章 実在の価値、言葉の価値②

 私たちは日常、意味の世界に生きていることを少しも疑問に感じていない。例えば机を 見てそれをそこで椅子に座ってものを書いたり、本を読んだりするところだ、と認識する。それも意味的に事物を捉えている証拠である。しかしそれを一々意味世界の認識としてなど捉えることはしない。つまりそれだけ意味とは私たちの生活に定着しているのだ。
 しかし一方私たちは家族とか親しい友人とか、自分の人生にとって重要な人たちとの触れ合いにおいて何かあったなら、家族とか親友のために全てを捧げるとか、要するに他者全般に対して確かに優先順位をつけている。そして仮に自分の息子が文学賞を目指して頑張っているということを知ると、本当は自分の息子がそれほど文学者としての才能があると信じられなくても、自分の息子の成功だけを祈る。つまりそれが愛情である。
 しかしこの時明らかに文学自体の優劣とか、文学の才能ということから言えば贔屓をしているだけで、文学的意味の世界からすればただ愛する者の味方をしているだけである。(意味=公平<不公平である公平>)
しかし意味とは本質的にはそういう愛情の優先順位とは異なったものである筈だ。そこで意味を公平という観点から考えてみよう。すると意味とは愛する自分の息子が文学賞の候補作を書いていて、父親である自分が審査員であったとしよう、しかし自分の目からすればもう一人の女性の作品の方が優れていると思う、だから文学賞審査員として、あるいは自分の作家生命に賭けて推すべき作品がその女性の作品であるとすれば、たとえ息子の作品も候補に挙がっていても、彼女の作品を推奨すべきであるし、それが理に適ったことである。
しかし一方科学の世界ではミラーニューロンという脳内のニューロンの働きが立証されてきていて、それは他者の行動や他者の感情を自分の脳が読み取り、その読み取る時に活性化するニューロンの位置がまさに自分がその他者と同じ行動をしたり、感情を持ったりする時に活性化するニューロンと同じである、ということが確認されている。
 するとこのニューロンは確かに自分の愛する対象(他者、例えば息子とか娘とか妻)に対しても発火するが、それ以外の人間全般に発火するのである。勿論自分の愛する対象に対して発火するものの方が強度から言えば優越しているだろう。しかし人間は本能的には他者であれば誰に対してでもそのように脳は活性化するのである。

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