セザンヌ 牧歌 1870

セザンヌ 牧歌 1870

Sunday, September 27, 2009

価値のメカニズム 序章

 私たちは生活する上で、自分の行為を目的化したり、意味づけたりする。これは私たちが生を意味あるものにしたい、価値あるものにしたいということの表れである。
 しかし意味化された行為は一旦それが行うに値するものであるとされると、その意味について問うことは次第に等閑にされていく。つまり価値的な規範自体に対する検証とは、価値あるものを選ぶ行為においては邪魔なものだからである。
 私たちは何か世界の中で存在するものを見つめる時、その見つめて理解出来ること自体、つまり知覚行為自体に対しては検証し得ない。知覚自体がどういう傾向のものであるかとか、観察するとはどういうことなのかということ自体に対する検証とは、端的に何らかの目的を帯びた行為の中ではなし得ない。それらは判断を中止した上でなされる思惟だからである。従ってそれは丁度どんどん注文が来てその注文に応対して生産を捌いていく立場の人間が注文を受け付けて生活するとはどういうことなのだろう、と考える余裕がないことと同じである。
 しかし人間は時として反省意識に放り込まれ、それは自発的にそうであるし、ある時突発的衝動においてもそういう気持ちになるものであるが、そうなると今度は徹底的に目的化されてきた行為自体を検証し始める。その時価値ありとして判断してきたことは果たして正しかったのか、とか判断するとは一体どういうことであるか、とか要するに行為全般に渡って行為や行為連関自体が有する価値を見つめ直す。そして終には価値判断とは何かとか、価値そのものとは一体何なのかということに思惟を巡らせる。
 本テクストは価値を問うことを本論とする。あるいは価値を行為や生活、信条、思想、哲学一切に対して付与すること自体を検証してみよう、という試みである。
 価値がないということを考えることが出来るのは、価値があることはこれこれこういうことだという判断が成立しているからである。価値とはしかしそれ自体に縛られることを性質的には有している。つまり一旦価値があるとすると、価値転換し難いものとしても考えられる。すると価値を問うことは価値を一つに収斂させていこうとする私たちの保守的な性格自体を検証することを強いる。
 つまり価値ありとする判断自体が既に価値に呪縛されることを承知で行われている。と言うことは価値がないということに対しても既に判断する以前に何か漠然としてではあるが、私たちがその原型として何かを価値として理解しているということを意味する。
 価値にはそれだけではなく倫理的価値とか幸福的価値とか、要するにそれぞれに付帯するための宿主を要する。その宿主自体の性格によって価値の在り方がその都度変更されてもいる。と言うことは、価値それ自体は一つの機能を持っていると考えることが出来る。だからこそ私は本論を「価値のメカニズム」としたのである。
 本論では価値自体を検証するために行為を中心として倫理的、正義論的、道義的な立場から考える傾向のものと、美的、幸福論的、感情論的、感覚授受的な立場から判断する傾向のものとを常に対比させて考えていこうと思う。実はこの二つはこのように二分することが本来不可能なものとして存在しているのだ、という私の考えがあるのだが、そこら辺にこそ本論の主旨があると思うのである。

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