セザンヌ 牧歌 1870

セザンヌ 牧歌 1870

Sunday, September 27, 2009

第一章 価値とは一つの技術である

第一章 価値とは一つの技術である

 価値には幾つかのタイプがあるように思われる。つまりそのタイプを総称して取り敢えず私たちはそれらを価値と呼んでいるということである。
 まず二つに価値は大別されるように思われる。

① 特定の目的のためではなく、それ自体が一つの価値であるように思われる価値→分析的価値
② 何か特定の目的のために役立つこととしての価値→綜合的価値

 しかも②には更に二つに大別される価値があるように思われる。

Ⅰ 幸福感情、快の獲得といった個的な価値
Ⅱ 公共的、公的な倫理(道徳)、道義的、責任論的な価値

 概してこの最後の二つにおいて女性が直観的にⅠを、男性は直観的にⅡを選ぶことが多いということを脳科学者である茂木健一郎氏は述べている。(「女脳」講談社刊より)

①の価値とはそれ自体が美しい風景とか光景、あるいは絵画とか音楽といったものに対して素直に感動する時に我々が理屈ではないという形で理解するものなども含む。一方、②の場合私たちは何か特定の目的のために努力している際に、苦労した末に何かいい目的遂行のためのアイディアを思いついた時などに、「それはやってみるだけの価値があるな」などと言う。つまりそれは方法であるとか、選択であるとか、要するに一定のプロセスを通過したものの中でそれをチョイスしたり、採用したりすることに価値があるように思われる価値に対する見方である。①自体は既にその中にⅠもⅡも含まれているが、あまりのも分析的な真理であるので、そのように二つの大別する必要を我々は通常感じない。
例えば母親が病気になった時看病をするために実家に戻るといったことはあまりにも当たり前のことなので、実家へと急ぐ行為自体は価値があるが、それを一々価値であるとなど我々は通常認識しない。母親が病気から直って欲しいと思うこと自体は幸福感情であるからⅠは内包されているし、あまり仲のよくない母親と子どもという関係でも母親が病なのだから有無を言わず駆けつけるということは正しいという言い方においてもⅡの考えが内包されている。一方②において我々はその目的に向かっている途上で色々なアクシデントとか思惟に放り込まれることがあるがために、一つ一つの思いつき自体に対して価値評定しやすいということが言える。そこで自分で見出した価値であるのに、それ自体を分類することもたやすいと言える。旅行に行く時にどういうルートで、どういう移動の手段で行くか、電車で行くか、バスで行くかとか、途中で下車する駅を設けるか、一直線で目的地に行くかというようなことは明らかにⅠの価値であるし、一方観光地に設けられた名所案内の立て看板に示された地図が風雨のために塗料が大分剝げ落ちてしまっているから、市の観光課の職員がそれを修正しようと提案すること自体は、Ⅱの価値である。
しかし価値が私たちにとって必要であると思えることの内の最も重要なこととは、それが失われていくことをどこかで私たちが知っているということではないだろうか?
 つまり一つには人生は価値があると誰でもそれを論理的にではなく直観的に感じ取っているとしたら、それは私たちが死ぬからである。従って価値ありとするものとは、人生自体という最上位から次第に端的に死ぬまで私たちにとって必要なもの、例えば健康とか、健康を保つために必要な栄養とか運動といったものへと徐々に格下げされていく運命にあるのである。そして次いで思考することとか、鑑賞することとかである(勿論職業として思考することとか鑑賞することをしている人も大勢いるが、それはまず生活することとか、人生を生きることという大前提と、その行為が職業に結びつく、社会的需要があるとか、自分自身に職業として定着させ得るくらいに才能があるとかという条件が必要となる)。
 そのように失われていくことを知っているから価値ありと感じられるということは、逆に今現在は獲得していないが、生きている間には是非獲得したいと願うことが、例えばそれまでは挑戦していなかった、自分の中にそういう能力があるということを意識したことがなかったが、中年以降になってから挑戦してみたいと思うこと、例えば子育てが一段落ついた段階でやってみようと思う趣味とか、あるいは一度も食べたことがない美味しい料理とかは獲得していないから価値があると思える。
 勿論その中でも絶対必要であると思えることと、経済的余裕さえあれば欲しいということのランクはあるだろう。人生において最大の価値のある私たちにとっての存在である食料ということを考えてみると、私にとって野菜、茄子とか大根とかキャベツが食べられないということは耐え難いことだが、フォアグラとかキャビアが食べられないということはランクとしてはずっと下である。つまりそれら高級食材といったものは、必要最低限であるからこそ最高度に必要度の高い、つまりランクの上の日用品とか、必需品に比較すれば、金銭的余裕とか、精神的余裕のある時に必要になるもの一般、つまりランク的に言えば下のものなのである。
 だから必然的に価値とはまず生きていけること、生活が成立することという大前提の上で、そのために絶対欠かせないものという価値と、それ以外のしかしその欠かせないものの獲得が安定してくれば、必然的にもっと別の獲得していなかったからこそ価値があると思えるようになるという、要するに段階的なことが存在するわけだ。そのことに関しても分析的な意味で最大の価値とは人生であり、人生の幸福であろう。そしてその幸福を高次の価値判断から言えば、自分に向いた職業に就くということが最良であるけれども、まず食べていける、つまり現実問題として需要があり、その需要において自分が供給し得るという条件に適合したものが人生において最大級も総合的価値ありとなる。しかしそれは精神的意味合いからのものであり、またそういった最低限の人生を成立させることの出来る食料こそが物理的な意味では綜合的な意味での最大の価値のものということになる。だから食膳ということとか、食べること自体を精神的な文化にまで高める意識というものは当然現代人には付帯しているのだが、それは端的に食料が確保出来るという次元のランクからすれば、かなり低ランクのものであると言ってよい。だからこそ逆に「いや一人で食事するよりも愛し合う人と一緒に食事した方がずっと幸福だ」という価値判断が成立し得るのである。つまりそのような意味で最高度のランクである価値は、最低限の生活が成立し得るという条件を成立させるという意味での最高度のランクはまず必要とされて、然る後に要求されてくる、と考えればよいだろう。そうなると、精神的価値を充足させるための価値ということから考えればやはり価値自体とは技術的なことである、ということは真理であることになる。技術を伴わない真理はないし、幸福もないし、精神的価値もないということから言えば、価値の不可欠の要素とは物理的条件を成立させる技術であることになる。
 勿論それは人生そのもの、生きることそのものが最高ランクの価値である、ということを常にア・プリオリな真理であるから除外した場合の思惟の結果であるということは当然のことである。だから逆に愛する者との間で育まれる愛さえあれば、飢えて死んでもよいという価値判断も当然成立する。しかしそれはやはり現実問題としてみれば、かなり無理がある考えということになる。あまりにも満たされた生活から徐々に落ちぶれ果てていくことを恐れて自殺するという例は確かに現代社会では多く存在する。しかしそれはあくまで例外的なケースであろう。何故なら殆どの人はそういうトップの地位とか財産を得ることなどないからである。勿論貧困の中でも愛を最高級のランクに位置づけることは出来る。しかしそうしながらも愛する者同士何とか人間は飢えずに済むように工夫しているわけだから、やはり需要に対する供給となり得る職業と、家族などに代表される人間関係、食料の確保という現実的三本柱が価値的には常に並存し得るということになりはしないだろうか?
 そしてこの三つには専門的技術、対人関係技術、調理といったように全て技術が関係してくる。その意味でやはり価値とは技術そのものである、ということが演繹されるのである。私は技術というとどこか唯物的イメージを抱く人もいることを承知で敢えてこの考えに固執するのだ。つまり技術とは考えることの基本にも横たわっているし、また手を使って何かを作るということにも利用される人間の生活、人生において最大の武器である。それ自体が価値であると考えることも出来るが、敢えて価値そのものもまた技術であると私は考えてみようとしているのである。そしてスポーツを喩えに使えば、それは勿論勝敗があるし、プロとなると勝たなくては生活が成り立たない。しかしそれでも尚、すること自体が最大の価値であると考える。それは分析的価値である。しかしやはり勝つために努力するだろうし、そのために筋力トレーニングをするとか、そのために水泳をするとか、ランニングをするとか細かな技術が要請される。従ってそれはランク的に言えば、それぞれ綜合的価値のものである、ということになる。

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