セザンヌ 牧歌 1870

セザンヌ 牧歌 1870

Monday, September 28, 2009

第二章 価値には悪も含まれる

 感動的な演劇やテレビドラマや映画において、主人公が苦悩し、懊悩し、迫害され、理不尽な扱いをすることからドラマティックな展開から応援したり、殺されないで、と願ったりすることで、ドラマは感動を呼び起こす。しかし鑑賞している視聴者や観客は、既にその感動が巧く演技する悪役たちの果たす役割によってクローズアップされている、ということを知っている。受難、差別といった一切が描出される時、そこにはサディストたちによるアグレッシヴなヒーロー、ヒロインたちに対する悪辣さこそが、ドラマを盛り上げ、感動を誘うということを知っている。
 それは既に美とか、正義を確定するために、積極的に撲滅すべき悪、不正が必要であることを物語っている。あるいはこうも言える。悪の立場から見れば、迫害される側に全く落ち度がないということも現実にはあり得ないのだ。ただ総体的に見て、出過ぎている側を悪と取り敢えず決めつけるだけである。そのように裁定するあなたは既に詳細な相互に対立する側の事情を斟酌することを止めて、ただ漠然とマクロ的視野という安全地帯にいるだけに過ぎない。
 あるいはある感動的ドラマを鑑賞している全ての視聴者、観客は熟知している。つまり正義とか善に対して不正や悪とは相対的なことでしかないということを。
 だからある行為が善であるのは、その行為によって潤う立場の成員に限られるわけだから、感動するドラマが蹂躙され、応援されるヒーローやヒロインたちにのみ立脚しているわけではないことを知るような意味で、私たちが幸福で平和であることは、その影で不幸のどん底に突き落とされ、平和を乱される現実を敢えて目を瞑っていることであると薄々全ての成員は知っている。従って価値とは、価値ありとする立場に付帯する価値を認める人たちによる授受であり、授受され得るメカニズムであるということを私たちは知っている。だから価値の存在理由にはあらゆる肯定的ではない無価値、あるいは害毒自体を含有するのである。つまり他方で逆説的存在を積極的に必要とするのである。もし他方にそういった悪が一切なく、害毒もないとすれば、それまで善であるとしていた存在もまた、善ではなくなる。あるいは価値さえなくなる。
 悪や不正が善や正義を際だたすということ自体に既に価値には、無価値、価値を剥奪するような害毒を必要としているということを意味する。つまりそのように蹂躙されることによってのみ価値は価値としての命脈を保つこととなるのである。
 まただからこそ悪自体に魅力を追求すること、あるいは美を求めることすら私たちは価値として無意識には全ての成員が認めている。
 既にあるスター性のあるタレントとかアクターたちをクローズアップさせるための引き立て役や悪役は憎まれるためにのみ参加させられている。それを承知で演じる方も工夫する。第一私たちの社会は人相のいい人、顔つきの整った人を好み、その人格がどうであるかという判断は常に二の次である。つまり面相の好感の持てる人に対してそれに相応しい人格を付与し、そういう人がスターであるならそれに相応しいドラマティックで視聴者や観客が感動出来る脚本が注文を受けて書かれるのだ。それはロックシーンにおいてベースギターが縁の下の力持ちであるのと同じである。尤も確かにポール・マッカートニーやジャコ・パストリアスたちはベース本来の美で、リードギターと引けを取らないタイプの名演奏で楽しませてきたわけだが、ベースだけがヒーローになるということはないだろう。
 しかし価値はないもの強請りであることも多く、従っていいベースプレイヤーがいないバンドではそういう骨のある奴を探そうということになる。しかし大体そういう存在は②の綜合的価値であり、①の分析的価値にはなり難いとは言える。と言うことは理性論的に判断するような男性脳的な傾向としてのシステム化志向性から言えば、Ⅱの理性論的価値から言えば確かにベースギターやベーシストはヒーロー足り得るのだが、Ⅰの価値を感情論的には私たちは優先する傾向があるので、悪役を真に応援することは控えるだろうし、それはあくまでアンチヒーロー志向的な意味で批評的高次の判断であり、即座に好感を持つという判断ではない。ベーシストが主役になってそれが普通である状態が来ないのと同じである。
 すると価値とは価値ありとする直観的判断を優先する傾向が我々にあるから価値は直観的には見誤りやすいとも言える。
 しかし長い目で見ればやはり第一印象で価値ありとしたものの方がずっと正しかったという判断もしばしば私たちは経験する。人も見かけで判断するな、という不文律と共に、百聞は一見にしかずとも不文律的に言い得るわけだから、どちらの判断が正しいかということもその都度異なるとだけは言える。
 だから逆に悪はどんなに直観的には価値がないと思えるけれど、よく考えると、主役を引き立てる悪役同様、それはそれで必要だ、何故なら悪が存在しない世界では善も価値もあり得ないのだという哲学的判断が成立してしまう以上、ニッチなりに確固たる地位を獲得しているとも言い得る。つまり意外と安易な善や価値よりは、悪、それだけは別腹で私たちに確保された価値判断だと言える。
 マフィア二つの組織に掛け持ちで雇われた殺し屋がいたとしよう。それぞれの組織は彼が掛け持ちで雇われていることを当然知らない。彼はこの二つの組織が対立していった時、双方から腕の立つ殺し屋が対立するその殺し屋が掛け持ちで雇われている組織にいると知らされ、そいつを殺してくれと依頼される。要するに彼は彼自身を殺してくれと双方の組織から依頼されるのだ。この時彼が取るべき行動は一体どういうことになるのか?
 それは悪そのものではなく、政府の組織にしても同じである。この殺し屋のような存在は恐らくどの社会にも存在し得る。全ての人に対してその存在理由が善であるような人間はこの世にはいない。もしそうするとすればこの殺し屋は自殺するしか方法がない。しかし仮に自殺したとしても彼がそれまでしてきた双方の組織から依頼された殺人は、全て対立する組織双方にとってデメリットであった筈だから、どんなに八方美人的存在であろうとしても、その時点で双方にとって善たる存在ではないことになる。また自殺すればそれまで依頼出来た双方の組織に少なからぬダメージを与える。しかしそれも結局どちらの組織もダメージを受けるし、また彼の存在に対する実を知らないがために受けるダメージを双方が回避し得ることになるから、プラスマイナスゼロであるとも言える。
 つまり全ての人間はこのような状況にあると言ってよい。従ってドラマで受難を得るヒーローやヒロインたちは、そういう観点からすれば、素直に自分がつき従うべき相手とか、味方したり、共感したりするサイドが決定されているという意味においては、決して世間一般的な意味合いからすれば善良ではない、それどころか鼻摘み者である場合の方が多い。しかしその鼻摘み者の存在自体を我々は知っているのに、その弧絶状況自体に、ドラマティックな感動を得るのだから、感動する側も極めてサディスティックな態度で鑑賞していることになる。従って感動するということ自体も極めて善良な感情ではないということになる。そして感動するという心的作用がそのようにサディスティックな様相を含んでいるということが、脳科学的なセレンディピティーのような意味で感動することが脳にとっていいことであるという価値自体が、悪を容認していることになる。いやそれくらいなら悪とは呼ばないということがそもそも自己欺瞞以外の判断ではない。感動される側の鼻摘み者をあなたは決して現実社会で発見した時、自己保身のために個人で救済しようとなさらないであろう。だからそれが出来ないと知っているから、受難を得るヒーローやヒロインをドラマで見て感動するのである。「気の毒にね」と。ニーチェもきっとあなたが感動することが脳にとって価値あることであると言ったなら苦笑していることだろう。
 この事実一点を取ってみても、価値とはそれを価値であると見做す時点で心的には悪の作用を含有していることが分かる(我々は普段は自分からは助けられない気の毒な鼻摘み者を美化し、周囲の者を悪に仕立てドラマ=価値を作る)。

No comments:

Post a Comment