セザンヌ 牧歌 1870

セザンヌ 牧歌 1870

Friday, January 15, 2010

第二十五章 経験と価値

 価値として何かを特定したり、何かを高く評価したりする行為は、実は私たちの日常的な経験に多く拠っている。しかも私たちが経験によってある出来事を印象深いものとして記憶したり、取るに足らないことであるとして忘れていったりするというその都度の判断の傾向、その時々での大いなる関心とそれほどでもないことの間の差異を構築している。その意味では記憶全般に対して経験の持つ意味が大きいのは言うまでもなく、しかも経験全般が価値観に対して大きな寄与をしていることに注目しないわけにはいかない。
 しかし興味深いことには、経験自体もその都度において既に決定されている価値に対する見方自体から誘引されることも多いということである。しかし人生におけるごく初期にはやはり恐らく経験が価値を構成していくという要素が濃厚だろう。
 つまり言語習得と期を一にして次第に行動することを通して価値に対する意識が芽生えていく。それは端的に自分のした行為が他者から承認されることを通して、ある行為を得がたい存在理由があると知ったり、逆に別のある行為をした後で他者からひどく非難されたりすることを通して、出来得る限りは二度と繰り返すべきではないと知ったりするのだ(そのような経験の中では幼くして既に取り返しのつかない行為をしてしまう者もあるだろう)。
 しかしそれらの経験を通過した後では我々が概してある行動とか創造的思惟などにおいて規範的な枠組み自体を所有するようになるから、必然的にそれらの規範に照応させて自分の行動や未来に対する展望自体を持つようになる。そして規範と実際に経験を反復することが重層化されて人生そのもののキャリアが構成されていくことになるのだ。
 そして興味深いことには、私たちは自分にとって専門ではないフィールドに対する見識さえいつの間にか抱くようになる。それが世間一般の通念とか常識である。それらはある意味では専門的な仕事とか一定の特殊技能的な才能や技術、力量の前では寧ろ弊害になるようなものが多いのにもかかわらず、自分にとってそれほど大きく深刻さを齎さないような趣味とか、世間一般の人間関係的な交友関係においては極めて有効に作用する便利は知の体系でさえある。つまり気休め的な会話材料となるような話題をする時に円滑に人間関係を維持するために利用されることの中には決して真理ではないことでさえ、自分にとってあまり関係のないことに対しては素気無い態度を採っていても非難されることはない。少なくともそれが親しい者同士の会話においては、それが公言されない限り。
 例えばアーティストとか科学者にとって創造性とか発明や発見ということにおいて、幼い頃に抱いた興味や関心自体を大人になっても失わないでいるということは素養的にも素質的にも資質的にも必要なことであるにもかかわらず、それらの才気とかそれを伴った人格が例えば政治とか、自分が住む地域社会での人間関係などにおいてはやはり弊害になることの方が多い。つまり天才によく見られる変人的要素は通常の社会での通念や常識からは逸脱するからこそ高く評価され得るということ自体が、既に世間一般とかずれている専門的なフィールドで求められる力能であることが了解される。
 例えば世間一般の判断において最もよく考えられることとして、短距離走者にとっての順位やタイムと、マラソン走者にとっての順位やタイムとではいささかその意味するところが違うということは仮に判断する者がスポーツを専門にしている者ではなくてもある程度理解することが可能であろう。短距離走において一秒の差は極めて大きいが、マラソンにおいて二三分の差とは勝敗自体の意義からすれば短距離走に比べればそんなに大きなものではない。勿論世界新記録という観念のレヴェルでは勿論二三分ということはかなり大きなものかも知れないが、こと勝負とかマラソンがその時々の天候や気候といった条件によってその克服度ということがその都度かなり振幅があるという意味では、やはり短距離走のような判断とか異なると誰しも了解出来る。
 つまりそのような判断こそが実は専門的フィールドで求められるプロフェッショナルな能力とはいささか異なっている通念とか常識的判断の世界なのだ。そしてそういった通念とか常識といったものはある世界において専門的に優れた技能を持つということとは少し違うレヴェルの判断であり、一定の評価すべき仕事を積み重ねてきたのであれば年配者であればあるほど信頼出来る判断が期待出来るという側面も大きい。
 従ってプロフェッショナルとしての力量において求められる特殊技能とか能力一般にある種の固有の経験が求められるのと違って、これら通念とか常識といったことは、エリート的能力とはいささか質の違うものであることも多い。だからと言ってそれら通念や常識が一切の知性を必要としないかと言ったらそうでもない。要するに一定の人生経験を要するという意味では専門的な知識や教養だけではなく、それらをどのような世界の専門家も携えて言えることはあったとしても、それ以外(専門外のことについても判断しなければいけないことは社会生活では多い)の判断力として社会的生活能力としてそれらは確かに存在する。
 だからそれは例えば小説家とか文学者と言った時、例えば日本人であるなら日本語を特殊能力的に文化的特質として理解しているようなタイプの作家と、日本語の文体とか固有の伝統的精神を一方では認めつつも、もっと国際的視野において、例えば日本だけではなくどのような言語を持つ国でも成り立ち得るようなタイプの物語やテーマとか、文体そのものさえ予め翻訳されることを前提して組み立てるという意識がある作家とではある部分ではかなりな相違が生じることもあり得よう。勿論一流の作家であれば、その種の相違さえどちらのタイプにおいても克服可能であろう。つまり両面的であり両義的であり、それでいて自分の資質を活かす部分をも失っていないということだろう。
 つまりプロフェッショナルであるという事実において、日常生活において恐らく昼と夜の生活が逆転しているようなタイプの通念や常識を覆す部分が仮にあったとしても、そういった事実と小説とか彼らの作り出す作品世界がごく一般に理解され、説得力を持つという事実との間には実は何の関係もない。だから逆に最近芥川賞を受賞した作家のように、プロフェッショナルとしては生活上での収入を得る手段として一流のビジネスマンである場合は、作家としての一流であることと、生活人として一流であることが両面で充足されている稀有な例として見ることも可能であろう。そして仮にある作家において彼が作る小説世界が優れているのであれば、日頃ビジネスマンのように朝早く起きて、身嗜みを整えることが極度に下手であれ、その事実は一切小説家としてプロフェッショナルであることとは何の関係もない。
 そういう意味では最近起きた著名芸能人による薬物汚染的事件においてさえ、本来彼らに対する判断を芸能人としての能力や業績と犯罪やそのことによる一般的市民に対する(特に若い人たちに対する)影響力ということははっきりと峻別して然るべきであると私は心得る(しかし日本ではとりわけ仕事の能力とか業績をその人間の日常生活態度とか人格に求める部分が通念上、社会常識上あると言ってよい)。
 
 ところで概して本当は権威主義者であり、内的に穢れを嫌う性善説信者であるのに、世間一般ではそういう「いい子」ぶった態度が嫌悪されているのを知っているものだからそれを隠蔽したいと策略上心得ている者ほどある部分では極めて巧妙に悪ぶる、つまりアウトローやアンチヒーロー的態度を取るものである。しかし彼らが演じる反逆児とはどこかぎこちないし、極めて欺瞞的である。しかしこのようなタイプの成員は多くなってきたというのが私の印象だ。つまり世間一般のアンチ・エリート的感性に阿るような態度の文化人によく見られるこういったポーズはそれだけ「価値自体が大勢の人たちによって共有されるべきである」というレヴェルになると多様化しており、そう容易には一つに纏められ得ないということに対する自覚が多くの成員にとってあるということを示している。しかし個々の成員にとってそのような思いはだからと言って決して価値が多様なものであるというわけではなく、あくまで自分にとっての価値とは自分に対して偽るような気持ちにならない限りはっきりしているのだが、外部ではそれをそう容易には認めない多くの価値とされているものがあるということを知っているということを意味するに過ぎない。
 しかし人間は自分の思想や本心をそう容易に誰にでも告げることは足を掬うような悪辣な成員もいることを知っているから未然に自己に対して阻止している。つまりそのような自己防衛本能的な対他的態度こそが実は経験によって得られる知恵であると言ってよい。そして価値の枠組に対する考えが自己内部でかなり明確に纏まっていても、その事実をどこかで悟られまいと注意するような態度そのものが経験によって得られているので、価値自体が経験によって構成されているとしたら、実はその経験とは自らが価値と考えてきたものの中で真実に他者から共感を得られたものの方が予想外に少なく、逆にあまり他者から快く認可されてこなかったものの方にこそ寧ろ自己にとっては執着があるようなものもかなりあると自分で知っているので、その価値の他者からの是認に関する挫折感情こそが実は経験によって価値を構成させる時内的には極めて重要なものとなると思われる。

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