セザンヌ 牧歌 1870

セザンヌ 牧歌 1870

Tuesday, December 8, 2009

第二十一章 スキャンダルな出来事を起こした人たちこそ最も私たちの好奇心を煽ったという意味では価値がある

 ここ数年の間にも堀江貴文氏や守屋武昌氏、酒井法子氏といった面々こそマスメディアを最も賑わわせた張本人であり、つまり彼らの存在抜きにある時代さえ語れないという意味ではイチローのような本格的にポジティヴなヒーロー以外では彼らが最大級の貢献をある時代にした、と言っても決して過言ではない。つまり彼らをネガティヴなものとして批判していた学者、文化人、コメンテータ、司会者などに比べれば彼らが存在したからこそ、世相において我々は自分たち自身の社会に対する見方に対して反省材料を得たとさえ言い得る。その意味では私は彼らに対してこそ裏の国民栄誉賞を授けたい。
 つまり何も一切人々を楽しませたり、独創的な行為をしたりしなかった人たちに比べれば彼らの存在の方に遥かに存在理由があるというだけで偉大である。つまり事件を起こしたとしても、それが無名の市民であったなら私たちはニュースになっていることに対して話題にもしなかったであろう。価値というものはそのように懐疑的に見なければいけないものなのである。
 概して日本人は穢れを嫌う感情があるから、自然主義と言った時そこには哲学は不在である。しかし通例欧米社会では自然主義というものは常に懐疑主義と隣り合わせなのである。このことが極めて重要なのだ。
 つまりスキャンダラスであるということ自体が既にその真実の姿がそれまで、つまりスキャンダルになるまでは巧妙に隠蔽されてきた、ということを意味するから、あるいはそれらの存在を偶像として崇拝してきた、つまり大衆であれ、同業界における関係者であれ少なからず彼らの存在自体を称揚してきたからこそ、その期待とか、崇拝行為が裏切られたという形でスキャンダラスであるわけだから、必然的に彼らの存在自体が実はそう安易に偶像を崇拝してはいけない(まるで聖典の謂いのようである)のだと、つまり安易に或る人格を特別ものとして別格視してはいけないということを悟らせてくれるという意味からだけでも存在理由が大いにあると言い得るのである。その他にも薬害エイズ訴訟問題など幾多の問題があったが、それらに比べると、今挙げた三人に私たちは極めて巧妙に騙された、と言うより彼らを尊崇の対象としてきた周囲の事実に決して批判的ではなかったとだけは言い得る。つまりそれだけ彼らの存在があまり簡単に偶像を作り上げてはいけないという風に自戒の念を持たせるために役立っているのである。つまりアイドル視する我々の通俗的心理自体が常に理性と隣り合って存在しているのだ、ということを覚醒させてくれる意味で彼らの存在は大きいと言える。
 もし私たちの社会に一切のスキャンダルがなかったとしたのなら、私たちはそういう社会において何か時代を振り返ることが出来るだろうか?世相というものを感じることが出来るだろうか?無理だろう。私たちは彼らに共通した存在自体がスキャンダラスであるという事実に寧ろ積極的に魅力を感じてしまう、つまり彼らを一定の厳しさを込めて糾弾したり、批判したりすることを世間体的に行いながらどこかで忘れ難いというイメージを彼らに付帯させてしまうのであるが、実はそれこそが魅力というものなのである。魅力とはたとえどんなにポジティヴなものであっても、必ずどこかでは<やばい魅力>と接点があるのである。従って我々は価値と言う時倫理的に正しいというものに対して果たして「だからこそ最大の価値だ」と言い切れるだろうか?そうではないだろう。つまり常に正しいだけのものには実は一遍の価値もないということを誰しもどこかでは了解しているのである。
 つまり魅力自体が内包しているある種の<やばさ>つまりデカタンスこそが私たちにとって尊崇する対象に付帯するイメージとして価値的に捉え得るものなのである。
 それはただ健康的なだけの要素に取り囲まれて生活すること自体へと抵抗とか反発心といったものが私たちには生来から備わっているからである。例えば異性とも一切付き合わない、あるいは酒やタバコの類も一切しないというようなタイプの成員に果たして我々は魅力を感じ続けることが出来るだろうか?それもそうではないだろう。
 そもそも資本主義社会、自由主義社会に付帯する自由のイメージには偶像崇拝的気分をどこかで持ち続けそれ自体を精神的な活力剤にして生活に潤いを持たすということは性格上必然的なことなのである。しかもその偶像とはどこかで人間臭さを必要とされている。つまり最良のものとは常にどこかで悪とも隣接している。だから一歩踏み誤って品行方正な偶像が過ちを犯すということは必然的なことなのである。だから本質的にスキャンダルな報道をして視聴率を稼ぐ学者、文化人、コメンテータ、司会者といった人たちは彼らによって食わせて貰えているという意味ではスキャンダルな事件を起こす大物の存在へ感謝の念を持つべきなのである。そしてスキャンダルとはそれが不在であると退屈であるから時代毎に私たちは恣意的に発見してきてさえいるのである。それがないということは退屈であり、それは時代精神が希薄であるとさえ我々は実は密かに思っているのである。

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