セザンヌ 牧歌 1870

セザンヌ 牧歌 1870

Thursday, November 26, 2009

第十八章 人間は他者の不幸に感動し、幸福に嫉妬する動物である

 この文章を書いている最中にある有名女性芸能人が覚醒剤を使用していた嫌疑で逮捕されたニュースが各報道メディアでトップニュースとして大きく取り上げられ、高視聴率を獲得した。さてこの騒動で私が実感したこととは、端的にメディアでスターとなっている人は皆作られたイメージに酔いしれているのであり、本人もその要望に只応えているだけであるということである。そして本人がそのギャップに益々戸惑っていたのなら、却って逮捕されてしまったことでほっとしているのではないか、ということである(そもそも三十代後半で既婚者、子持ちなのに清楚なイメージで大衆が追っかけていたということ自体に既に無理があったのである)。
 しかも興味深いことには、その芸能人が清純なイメージで若い頃から売っていたということが逆にそれを裏切ったということでメディア全体がまるで実際に高額であるだろう覚醒剤などをどういうルートかは定かではないものの、闇のルートで入手していた事実が、清純な若い頃のイメージとかけ離れていること自体を視聴者に対して興味を掻き立てていたことである。まさに高視聴率を獲得し得たのだから、容疑者となったその芸能人にメディアは感謝すべきであるが、その芸能人のそれまでに出したCD他関連商品全てを回収したというプロダクションの措置自体もかなり掌返し的行為であるが、それら一連のメディアの扱いや、視聴者の関心の実体とは端的に成功した人が自堕落な生活を確保することが可能なくらいの経済力を持っていること自体への嫉妬感情をメディアが煽り、視聴者はそれに乗せられているということであった。つまりメディアは当該の容疑者がかつては清純なイメージであればあるほどそのギャップにおいて視聴率を稼げるし、しかもマスメディアの公正さ、つまり成功者であれ過ちを犯したなら様々な措置を講じられ糾弾され制裁を受けるということを見せしめ的に示すことで正義を保つことが出来るということである。
 人間は要するに成功している当該の対象に対してその成功に酔っている姿に対して醜悪さを感じるが、その実体とは嫉妬でしかない。そしてそこまで成功していないで健気に頑張っている姿に感動するということは、端的に他人の不幸には寛容になれる、そして応援したり、激励したり出来るということ自体が、自分より上位である者に対して嫉妬するのとは裏腹に下位にあることを目撃して安堵するくらいには残酷である、ということを示している。
 感動の本質が下位にある者に対する憐憫であることは間違いないのだから、逆にそれまで成功してきた者が転落することを「ざまあ見ろ」という風に溜飲を下げるためにメディア報道を見ているのである。それが厭であるならそういう報道に辟易している筈である(事実そういう人も大勢いたことであろう)。
 つまり我々が無意識にメディア報道を利用している時には、自分とはまるで関係のないニュースを見て、気分転換していて、自分の実生活上での苦悩を一瞬忘れている。しかもその安心出来るニュースにおいてより溜飲を下げられるものとは、誰かが偉業を成し遂げたことよりも、人気のある偶像が落ちていく姿を野次馬根性で見ることである。だからそれまで羨まれる存在であればあるほどその対象が転落していく姿を「してやったり」と感じながら見る楽しみを得ているのである。マスメディアのトップニュースとそれほどではないニュースとの差とはそのような新聞であれば購読者層の、あるいはテレビなら視聴者のえげつない好奇心を引くものであるか否かなのである。
 そしてその事実は、受け手の心理には明らかに誰しもが潜在的には他人の不幸を喜び、他人の幸福を嫉妬するという性向があるということを送り手が意識的に利用しているということを意味する。人間は犬や猫をペットとして可愛がるのは、それらの存在を愛おしく感じるのは明らかに彼らが知性において人間よりも劣っているからである。しかし成功者である人間は自分たちよりもいい生活をしているから嫉妬の対象以外のものではない。そこでそれらの存在が転落していく姿を報道して伝えることによって、一般市民に欲求不満を解消させてやろうという目論みがメディアには確かにある。
 つまり私たちが日頃色々な出来事を耳にしたり、悲劇を観劇したりして感動するのは、本質的にはこの他人の不幸を見て喜ぶ心理と寸分も違わない。だから今度は感動を与えてくれた功労者は彼らにとって成功者(自分たちとは違う)であるが故にその転落に、何だ、あんな偉そうにしていたって、自分たちとそう変わりないただの人間じゃないか、と安心することが出来るのだ。だから逆にマスメディアが報じる様々な視聴率を取りそうな番組や特集を挙って見ようとする行為が内実的にはその種の屈折した心理が介在していることを自覚的な人間はなるべくマスメディアに得をさせることを慎みたいという気持ちになることだろう。しかしついそういった報道を見て楽しんでしまうのである。これがメディアの伝える我々の好奇心を擽る戦略に進んで騙されることを選択する私たちのえげつない本音、成功者の転落を見て楽しむという惨めであるが唯一の確固たる欲求不満解消法なのである。それは安倍首相が突然辞任に追い込まれた時にも多くの視聴者が感じ取った心理である。首相さえ只の普通の人間である、ということをメディアの報道が立証して見せてくれた、というわけである。それは政権初期には期待をさせただけにそのギャップを見て好奇心を充足しているのである。期待をされた人の転落を見て他人の不幸に喜んでいるのである。それは安倍首相の前の小泉首相の時には氏がそれほどトントン拍子で成功した人ではないことを多くが知っていたから味わえないことだったのだ。
 このことを価値的に考えてみると、メディアを好奇の目で接するという行為自体が一時自己に纏わる現実的な苦悩を忘れることが出来るという存在理由しか見出せない。それは実質的価値ではなくて、副次的価値でしかない。つまりメディアの報道は政治や経済の動向を伝えるニュースであれ犯罪を報じるニュースであれ、世相とか社会の変化や動き自体を確認することを通して自分もその同じ社会の中で生活を保守しているのだ、という実感を得ることなのである。そして他人の成功を見て羨ましいと感じること自体に、既にその者が慢心していれば嫉妬して、いつか転落してしまえばいいのに、とそう感じることの萌芽があるのだ。そしてメディア自体はそれらの成功者の姿を報じると同時に、どんなに成功している存在であれ、転落したのなら差別することなくそのことを報じるという公正さをアリバイにしているのだ。それを私たちは知っている。つまり全てのからくりを知っていてそれに同意しているのである。そしてそうしながらマスメディアがそれを視聴する側のプライヴァシーを守ってくれるとそう信じているのである。しかしいつ何時自分が問題の渦中に巻き込まれ、逆に糾弾される立場に立たされるかも知れないということをどこかで知りつつも、それは滅多にあり得ることではないと高を括っているのである。
 つまり私たちは倫理的に他者の幸福や成功を祝う気持ちを持っているということを盾に逆に、いざとなったらそれまでどんなに贔屓にしてきた対象に対しても幻滅する権利を持っていることを実感しているのである。つまり税金を払っているのだから、当然その市民としての権利を享受し得るのだ、というわけである。これは選挙権にも顕著に示されている。あれだけ支持してきてやったのに裏切られたということになると、違う政党に投票するのだ。しかしいつまで経ってもそれでは同じことの繰り返しであることを薄々誰しも感じ取っている。しかしそうは言っても政治はその時その時のニーズと問題点に対する処方という形で進行しているものなので、その都度態度を我々は容易に変えられ得る。つまりそのイデオロギー的な意味で態度を固定化する必要のなさに自由を感じ取っているのだ。それはお金を払って観劇している者のような心理なのである。だから政治家に対しても、周囲からあまり相手にされていなかったり、強力な敵に相対したりしているという事実に対してある政治家を贔屓にして、支持するのだ。これも他人の不幸に感動することの本質に適っている。しかし一旦強大な権力を手中に収めると途端に今度は批判の眼差しを注ぐようになる。要するに他人の幸福に嫉妬しているのである。批判とは端的に嫉妬が一点も介在していないとは絶対に言い切れないのである。勿論批判自体にある誰に対しても分け隔てなく賞賛すべき時はして、そうではない時には批判するということが一方で言い得よう。しかし相手があまりにも相手にされていないような場合批判するだけの価値がある、と我々は通常思うだろうか?つまり多くの支持を得ていたり、成功の美酒に酔っていたりする状態の人間に対して批判的眼差しを注ぐのである。従って批判する対象に対する感情という意味では明らかに批判の仕方自体が公正であることとは裏腹に嫉妬が介在している。しかもそういった皆から羨まれている存在をこき下ろす行為自体を賞賛する人たちもいるに違いないという目算も手伝っているのである。つまり偶像を転落させることで溜飲を下げる嫉妬者同士の共感と運命共同体意識を獲得しようと試みているのである。
 しかし重要な真理はもう一つある。どんなにセンセーショナルな報道内容であっても繰り返し報道されることで次第に全ての視聴者から飽きられるということをメディアは知っている。だからそうならない内に先手を打ってもっと衝撃的なニュースを、そうでなければほのぼのしたニュース(あまりセンセーショナルな内容が続くと逆に新鮮に感じるから)を用意するのである。だからこそトップニュースであったものは徐々に第四、第五のニュースへと降格していき、常にその日その時に多くの関心を集めるニュースに座を明け渡させるのである。それはある偶像に対する批判にしても同じである。一度は徹底的にこき下ろした後は逆に「しかし批判はしたものの」という口調で始まるようにさせて、今度は批判したものに対する存在理由を評価しようと画策するのである。そうしなければたちまち批判者の方の真意、つまり嫉妬感情が読まれてしまうからである。そこら辺の駆け引きの巧妙さこそが全てのケースで求められるというわけだ。
 しかし重要なこととはニュースの価値のタイムリーさであれ、そこには他人の不幸を喜ぶ、即ち自分の幸福を感じて安堵するという心理を我々が最大限に利用しているものこそメディアの報道内容の取捨選択であるということなのである。ここにも我々が価値として認めるものには本質的に悪が控えていることが了解されよう。

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