セザンヌ 牧歌 1870

セザンヌ 牧歌 1870

Tuesday, November 17, 2009

第十七章 倫理的であることは人間的であることに対する考えである

 第十二章における「倫理的なこととは倫理的でないものに対する規制である」としたことについて考えると、倫理的でないものと我々が考えることとは、曰く人間的ではないことと意味づけているように思われる。人間的ではないこととは、理性的であり、道徳的であり、責任論的であるというように、要するに人間社会の生きるということはどういう意味があるのかということに対する価値から外れていくことを意味するように思われる。例えばあと何年しか、何ヶ月しか生きられないということが分かっている人にとって残された時間をどう過ごすかということは、常に生とはいつ死が到来してもおかしくはないということに対する今更ながらの覚醒によって自分独自の回答が出されるだろう。だから今人間的ではないということを敢えて規定すれば、その自分独自である回答を考えずに生きていくこと、あるいはそういう回答を個人が得ようとすること自体を容認しないような理不尽さを言うと考えてもいいだろう。価値から外れるということは、何らかの回答を自分なりに用意すること、そういう心的な作業を怠ることであり、他者のそれを侵害することである。そしてそれは直観的に私たちが理解してきていることでもある。
 だからもうあまり長く生きられない人にとって生きること自体が分析的価値であり、その分析的価値を全うするために、ではどういう風に残された時間を過ごすかということにおいて、何か特定の遣り残したことをしようと考える時、そのためにどう計画を立てるかということが綜合的価値であると言えるだろう。

 学界という場所はかなり徒弟制度的不文律しか通用しない世界である。例えば哲学などは一定の人生経験を要する学問のように一般には思われている。しかし実際には哲学固有の論理に対してマナーを習得するようなタイプの学問なので、よく言われる三十四、五歳くらいまでに准教授のポストに尽かなければ出世は覚束ないような閉鎖的なサークルなのである。つまり職業ということから言えば、日本以外の国の事情はよく知らないが、やはり若い世代の頃からずっと続けてきていなければその世界で大成することは極めて困難であり、転職とか再出発があったり、別の分野との交流によって相互に批判や別分野の専門技術を応用したりする可能性がかなり低い。この現実は、本来学問や専門分野とは広く一般に門戸が開かれているべきである、というのはあくまで建前であり、内実的にはその狭い世界で生活を成り立たせている一部の人たちの利権確保だけが目的である、という価値における狭い綜合的目的だけで成り立っていると言うことが出来る。
 あるいは結婚自体を職業的地位とか、社会的地位を維持していくためのものであるという価値判断から考えると、例えば結婚前に難病を抱えていたことを隠蔽して結婚した場合、恋愛とは違って離婚する時に、そのことが難病の事実を隠されていた側は考慮されるかも知れない。その難病を隠されていた側が両親から継いだ経営をしていかなければならないというような場合、難病を隠蔽してきたことがたちまち愛を獲得するためだけではなく、夫や妻の経済力を期待するという目論みという形で理解される可能性があるからだ。
 本来愛ということを動機的なことからだけ言えば、相手の難病という事実は労わり合うべきことなのかも知れないが、結婚生活という現実の前ではその克服すべき難題に対してそれを対処していく責任が求められるので、巧妙にそのような難題を隠蔽してきたという事実(難病以外にも借金というようなことも考えられる)は結婚生活の維持を困難にするために仮に離婚へと縺れ込んだ場合、かなり隠蔽された側の正当性に対する証明という意味では考慮されて然るべきである(特に難病を隠されていた側が自分がその難病で子供が得られないことを承知でいる配偶者に、子供を後継ぎとして必要であるから結婚したいということを事前に報告していたのなら完全に考慮されるだろう)。
 つまり人間の愛情とか倫理といったものさえ、現実の社会生活では法規的、規約的な契約の公平性という考えの下では総合的価値となって判定される。つまり確かに難病を抱えている人とか、両親から受け継いだ莫大な借金という事実は人間学的には相手に対して配慮したり、援助すべき性格かも知れないが、現実問題他人の受難に対して援助したり、介護したり、結婚して配偶者として難題を分かち合うということ自体はあくまで理想であり、要するにその実現ということを前提に考えると、それを可能に出来る成員とはかなり経済力や社会的地位が求められるということがあり得る。だから恋愛してその結果結婚するという場合と、そうではなくあくまで何か特定の現実、例えば両親から受け継いだ事業をしていかなければならないというような目的のためにしなければならない結婚の場合とでは明らかに相手に対してしておかなければならないことの内容は変わってくる。これは恋愛と結婚とがどちらに価値があることであるかということの人間的な判断にまで縺れ込むこともあるが、常識的にはそういったことは机上の空論として見捨てられ、本来人間的な判断とか、倫理的判断とは現実の対処能力、個人に付帯する現実的な生活能力を前提とするのである。だから責任倫理的には慈愛よりも先にまず実現能力が求められるのだ。
 つまり人間的であることとは、ただ単に相手に対する同情とか憐憫とかにおいて持たれる感情を寧ろある部分では積極的の排除していく責任倫理において実現されることなのである。だからこの責任倫理を慈愛といかに結びつけることが出来るかという部分に我々にとって最大の苦悩がある。またそういう風に考えざるを得ない。何故なら責任倫理は時として相手に対して冷酷非情であることを積極的に求められるからである。従って慈愛とは全てのこちら側の損失を覚悟で相手に尽くすことであるので、責任倫理とは対立していくこともある。ある責任ある地位にある人間が自分の社会的地位をかなぐり捨てて遠地へと赴いたり、家庭を放り出したりすることは、その遠地やそこに住む人々との出会いにおいては慈愛に満ち溢れていても、捨てた社会的地位によって損失を蒙る人たちや家庭の人たちにとってはただの裏切りでしかないからである。
 つまり全てに対して私たちは責任を取ることも、全ての人に対して慈愛をかけることも出来はしないのである。従って「倫理とは人間的であることに対する考えである」と言う場合、それはあくまでケース毎に異なる結論を導き出すことを求めるその苦悩を背負い込むことを意味する。倫理とは苦悩に他ならない。
 それは何を取り、何を捨てるかということに纏わる選択の苦悩であるし、ある時には苦悩せずに瞬間的に迷わず選択してしまうことに纏わる冷酷非情に対する呵責でもある。だから人間的な決断とか人間的な選択と言う時、それは必ずしも人情味溢れるということを意味しない。それどころか人情味溢れる選択こそ最大の誤りであることの方が多いのだ。
 つまり「私は慈愛を持ちたい。しかし全ての人に慈愛をかけることなど出来ない。従って私はその慈愛を殆どの人に対してかけられない無能力を宣言することこそ責任であると心得ている」ということ自体が、人間的である場合そこには人情味を一切排除するという決意であることになるからである。従ってこの場合自分の無能力を知りながら相手に慈愛をかける人情味は無責任以外のものではないことになる。それは人間的でも倫理的でもないのだ。
 
 ここで個人の幸福感情ということから言うと、価値自体が悪を含有しており、感動も他者に対する徹底した不干渉と自分とかかわりさせないことから、相手に対して憐憫を感じることを言うのだとしたら、その感動させる相手の苦悩をそれまではあると知っていながら実際自分の能力の限界から助けることが出来ないでいる自分の不甲斐なさを承知で得る感情であるから必然的に感動には感動する時点で身勝手がある。感動をしたいと思っているのならその時点でエゴイスティックなのである(本質的に全ての人間が幸福であることを望むのなら悲劇を見て感動するということを諦めなければならない)。そういう意味では個人の幸福とはその幸福を得られないでいる段階で必死にそれを掴もうとしている場合は周囲から応援され、激励されるし、それは美として判断されるが、一旦それを獲得すると成功と同様、周囲から嫉妬の対象となってしまい、丁度人間がものを食べる時の仕草はどんな美女であれ、幻滅させてしまうようなところがあるような意味で、幸福の享受は周囲から見て美的に判断すれば醜以外のものではない。つまり人間は不満を感じるのは未充足であることを覚知しているからだが、一旦その欲求が充足されてしまえば、享受することで得る倦怠が待ち構えている。では一体そのようなことを知っているから逆にそういう充足を求めることを慎む、節制するということが美徳となっていく。それが一つの価値となってしまう。しかしその価値を認め、節制し、欲求を慎むこと自体が周囲から賞賛されることもあると、今度はそのように周囲に節制的美徳実践をアピールすることで得るメリットを求めてそういう態度でいることは醜以外の何物でもない心性となる。カントの言う根本悪となってしまう。つまりこの態度は十五章で述べた価値の孤絶性から言えば極めて矛盾してしまう。つまり他者に価値として認められることを前提にしてしまうとそれは既に価値ではないということだ。特に日本人に見られる周囲に不平を漏らさないことによって欲求充足にあまりにも貪婪ではないということを暗にアピールしていることにもなるし、そうすることで利発であると認識されることを権利上暗に容認して貰うということ、つまり十三章における倫理的価値自体を悪用することでもあるからだ。日本ではこれさえも悪であるとは通常認識され得ない。これはあくまでキリスト教文化圏での話である。しかし私たちにもこの考えは十分理解することが出来る。すると成功者につきものの周囲からの嫉妬に対して、「それは自分で努力して掴み取るしかない」という冷たい突き放しにある特権的な優越的快楽が成功には付き纏うから、十四章における成功者の復讐を遂げたことで得る「あなたは苦労したのだから、それくらい享受してもいいのですよ」という周囲からの認可という既得権を根本悪として認識することもたやすい。だから十六章での一般的価値を志向するものには、最初からこの既得権を容認し合う紳士協定が介在している。しかしそうではなく個人的価値を追求することは、ある意味では個人の幸福享受以外に何か価値があるか、とか、それが周囲から見れば幸福を、快を貪ることであるから醜と映ってもそれは自分自身が満足しているのだから一向に構わない(気になんてしない)という宣言性も要素として秘めている。
 つまり若い頃私が苦しめられた実際はかなり俗物根性旺盛で、処女であることだけを武器にして教条的に異性を訓育しようとする女性のような態度もまた、ある意味では個人的価値を追求することに極めて素直な生き方である、と言ってよいだろう。つまりこういうタイプの人間の真意は幸福感情や快を貪ることを真意レヴェルでは完全に理想としているのである。「女は経済力」と言って好きな異性に肉体関係を絶対に結ばせないままにしておき、それでいてその異性が自分以外の異性に関心を持つと急に未練を持つのである。常に禁欲を強いる相手の異性の存在を宙ぶらりんにしておくことによって、いいように利用されることを未然に防止するのだ。つまり担保としてその異性がいい働きといい稼ぎをしてきた時に少しだけ肉体を提供するという娼婦性こそが、男女同権になったはいいが、その娼婦性を兼ね備えている女性が多く昔ならそういう職業に就くところを、一般職業人に中に紛れ込んでいると思わずにはおかないような態度を一般女性に取らせてしまうのだ。全ての売春を廃止すれば必然的に自己防衛を女性に抱かせることになるのだ。
 だから逆にそこには精神的な意味では全く節制も禁欲的美徳もない。美徳がないから正直ではある。つまり相手が、簡単に自分が肉体を提供してしまうことを知っていいように利用されることを承知で悪辣な男性に奉仕してしまうようなタイプの男運の悪い女性であることを逆アピールしてしまうことを未然に阻止するタイプなら、この損失回避という意味では正直であるが、逆に相手がそういう悪辣な男性である可能性を薄々感じつつもその男性に惹かれていく感情に正直であることもまた別の意味で正直であると言える。つまり一切の保険と担保を拒否する選択もまたあり得るからだ。尤も女性の場合対男性ということになると、どちらが節制的であるかは俄かには判断が尽かない。精神的にはガードを緩くして自分の肉体を奉仕してしまうタイプの後者の方がずっと節制的であるが、肉体的にはそうではないし、逆に前者の(私が苦しめられたタイプの)女性の方がより精神的には正直であるが、肉体的快楽は将来に持ち越された快楽や幸福のためにとっておくという意味では節制的である。
 尤も愛に関してもそれは幻想であるから最初からあまり貪婪に求めないという決意もまたあり得る。これが女性なら相手に簡単に肉体を許させないということも、容易に関係も結ばないということでもない、一切異性を求めないという選択肢もあり得るからだ。

 だから完全に節制し、既知の真理の実践者として、あくまで欲求を大きく抱くからこそ、それが未実現であることから失望感を得ると考え、予め少なく欲求することを心がけていることが倫理的に正しいとしても、それは他者には強要しないし、自己信条を他者にひけらかすことがない限りで確かに正義論的には倫理に適っているが、ではそれだけで生活を成立させていることは、ある意味では前記の女性のような正直さは一切ないのであるから、ある意味ではかなり冷徹であり他者に対して一切の真意を隠蔽しているから、確かに前記の責任倫理レヴェルでは正しいにせよ、それは心情倫理レヴェルでは冷淡であり悪である。(賢者固有の悪)従って責任倫理的に正しいことは心情倫理的には冷淡である悪を内包し、そうではなく逆に心情倫理的に正しいことは責任倫理的には無責任な悪であるが、他者に対する接し方に関しては友愛的であり人情味もありそういう対他的感情という観点から言えば正直であるから人間的である、というここでもまた二つに乖離した価値の葛藤が持ち出される。だから完全なる倫理的正しさとか善などというものは所詮幻想以外の何物でもないということになる。完全なる悪もだから当然存在し得ない。価値は全て他方で悪があり、そしてこちら側から完全なる悪であると思えるものにも必ず善や倫理的正しさがあることになる。倫理的であることは完全ではないことの別名であり、人間的であることは善悪両面を引き受けること以外のものではない、ということになるのである。

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