セザンヌ 牧歌 1870

セザンヌ 牧歌 1870

Saturday, November 14, 2009

第十六章 価値はそもそも一般的なものとして志向するものとそうではないものとの間に最初から差異がある

 何か必死に仕事をしている人の間は何らかの想定され得る価値を支柱にして行為に勤しんでいるわけだが、全ての仕事に、私には一般的に認められ得る価値を支柱にしてする仕事と、そうではなくほんの一部ではあるが、そして自分の仕事を理解してくれる他者が極めて少ないことを承知で敢えてその価値を認めてくれる人が少ないということを承知でする仕事の二通りがあるように思えるのである。そのいずれが後世に長く語り継がれるかということになると、それは一概にどちらのタイプであるかとは言い切れないだろう。
 しかしその仕事をしている人自身はどこかで恐らくそのどちらのタイプの属しているかということだけに関しては自覚的であるように私には思えるのである。
 例えば私の信条とはたった一人でも私がしていることに対する理解があるのなら、生涯私はその仕事を辞めないという意図があるのである。
 私は若い頃私のことを誰よりも理解している、とそう私に常に伝えようとした女性と知り合っていた。しかしにもかかわらず、私は少しでも肉体的に彼女に関心がある素振りを示すと、彼女は私に経済力だけが女性に対して男性が接する権利を持つ指標であるようなことを強調し頑なに接触を拒絶した。そんな彼女の私に対する態度から私は他の女性に積極的に接しようとすると、彼女自身は一度も私と何の関係もないのに、必死に私が別の女性と接しようとすることを諫めようとしたものだった。私はその女性の、ある女性特有のエゴと、自分自身の肉体的欲望を持て余しているのにもかかわらず、それを躍起になって否定しようとする醜さが忘れられない(その女性は大学院まで進学した人だった)。たった一人の凡庸なる悪女に振り回された青春こそ私が過ごした若かりし頃である、と言ってよい(もう二度と会わないと決心するまでに費やした年数は実に八年にも及ぶ)。
 そしてその女性から逃れるように一時期、別の女性と友人となったがその女性は私よりも一回り以上年長だった(大学講師だった)。私の方の欲求を一切理解してくれないその女性は、私がそのことで覚めていった頃、今度は向こうから何故私を求めないのか、とそう尋ねたのだ。女性とは恋人にもなり難いが、友人同士にもなれない、私はその時ほどそう思ったことはない。
 私は面食らってしまった。男性の側からの女性への欲求と女性の側からの男性への欲求が如何に異質のものであるかをはっきりと悟った。私はそれから多く商売で体を売る女性たちと泡沫の快楽を求めた。そういう時期もかなり長く続いた後に、再び本気で恋愛したいと思った。そして今振り返ってみると、先に述べた醜い女性たちとの遣り取りよりは刹那的であり泡沫の快楽の時間の方が遥かに貴重だった、と言ってよい。そしてその後に出会う女性との出来事は確かに現在にまで精神的に継続するものを植えつけた。しかしそのことは未だ語らないでおこう。
 渡辺淳一氏の好む清楚という言葉が私は大嫌いである。広辞苑によると、「きよらかでさっぱりしたさま。飾り気のないさま」とあるが、私から言わせれば女性とは貪欲な性欲に取り付かれた女性と(尤もそれはそれで結構可愛い)そうでなければ、処女性だけを売り物にする俗物根性でありながら自分だけが清らかであると信じて疑わない醜い悪女の二種類しかいない。その中のいずれかにたまたま結婚していい妻として収まっているタイプの女性もカテゴライズされるだけのことである。特に一生男性とかかわりを持たなかったと言われるある女性政治家によって売春禁止法が施行されてから、日本男性の運命は変わった。そして続いて男女雇用機会均等法である。
 尤もそれらが悪法であったとまでは私も言わない。しかし根本的に男性が男尊女卑である精神的傾向はそうたやすく根絶やされるものではないとだけは言っておきたい。これは生物学的に仕方のないことなのである。

 話を最初の醜い女性へと戻そう。
 つまり端的に私自身、あるいはその信念にその女性は関心があったのである。しかし終ぞ彼女のようなタイプの女性は、私にとっての信念である男性にとって生涯命を賭ける仕事の意味ということを理解することは出来ないということを意味した。しかし人間とは自分にない要素自体に、積極的に自分自身を同化させたいと願う変身願望もあるのである。いや自分とは全く縁のない相手を手練手管で所有したいという悪辣な欲望さえ人間にはあるのである。しかし女性の方がより男性よりもその欲望を聖人ぶった装いの下で展開させることが巧いということは言えると思う。
 私はだから相手が娼婦であるとか、異性経験が豊富であるとか言うことが倫理的に正しくないと思っていたその女性の肉体関係を持たない前に既に母親化した態度に憤るほど醜さを感じ取ったのである。母親など腐れ縁の実の母親一人でいい。男女の仲とは端的に倫理など関係がないのである。端的に極めて悪女である処女も大勢いるのである。だから私は渡辺淳一氏が男性は清楚な女性を先天的に欲情する、というようなことを述べる(「欲情の作法」幻冬社刊)と、何故か反発を覚えるのである。清楚であることに如何程の価値があると言うのか?
 しかしそれすら私が私固有の経験から得た真理であるに過ぎない。全く逆の経験をなさっている方も大勢おられるであろう。だからその常に相反する真理がある、という一点に関心があって、記述する もの書き がいたとしたら、それは私とは正反対のタイプである、と言える。少なくともそういった価値観とか、経験から得た真理ということにおいて、私は自分が経験していないことに対しても理解を示すような書き方が一切出来ないし、そのことに対して正直でいたいのである。
 だからこそ私は私が書くものの性格は、ある意味ではかなり少数の人からしか共感も、理解も得られないのではないか、ということに対して常に自覚的なのである。そういう意味では私はどちらかと言うと小浜逸郎氏よりは中島義道氏にスタンスは近いと言えるかも知れない。しかしスタンスが近いからと言って、私は自分の良心に対する非難とか、家族に対する中傷などを中島氏のようには一切したくはない。勿論父はとっくに亡くなっているし、母は未だ健在であるが、そのことを取り立てて書きたい(どんな家族にも葛藤くらいは存在する)とも思わない。幾つかの蟠りがあったとしても、それは死ぬまで心の奥底に秘めたままにしておきたい。それが書くことにおける私の価値観と言えば価値観とも言える。 
 十二章から本章までかなり主観的な流れで書いてきたが次章ではそれらのことを今度は少し第一章で触れた分析、綜合的観点から、意図的に体系的に捉えて考えてみたい。

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