セザンヌ 牧歌 1870

セザンヌ 牧歌 1870

Wednesday, November 11, 2009

第十五章 孤独に強くなっていくことの価値

 私たちにとって成功者とは、端的に自らの復讐に共感者をつき合わせているということなのである。そしてそのような成功者に対していつまでも偶像崇拝している必要などない。成功という価値自体が極めて脆弱な幻想でしかないからである。成功とはそれ自体が価値であるとした瞬間にただの権威主義に脱落する運命にある。だから逆にあまり他人を信用し過ぎないということ、そして他人を信用しないで孤独に生きていくこと自体に寂寥感を一切抱かないで生活していくということを心がけることを一つの価値としていくことには意味があるように思われる。つまり私たちにとって一番問題なのは、端的に他者からあまりよく思われないこと自体に恐怖することなのである。勿論必要以上に悪い印象を与えたり、敵対していったりする必要など更々ない。しかし必要以上に他者から好印象を得ようという気持ちになることはないどころか、そのような心理は自己を常に追い詰めること以外には何も得させない。価値とは他者との間に相互にあるというのは常に社会の側から個に対するお題目でしかない。端的に価値とは自分にとってそう思えるものだけである。その中には既に自己とはどういうことかと述べた箇所で言ったが、他者からすれば自分の内部の切実なことでさえ一般的な事例でしかないのである。と言うことは既にその段階で価値とは孤独の中からしか生まれないし、他者からの期待とか、共有とかを求める時点で迷妄であることを知るべきであろう。だから逆に自分の中の切実な価値を他者一般に、あるいは特定の親しい他者に対してでもいいが、そもそも理解して貰おうという下心自体を全て除去すべきなのである。と言うことは極論すれば全ての個人にとって価値あることとは、誰とも共有し合えないという事実だけが一般的価値であるとも言えるだろう。
 つまり価値とは他人、他者に容認して貰うような筋合いのものではない、ということなのである。その共有不可能性の中にこそ価値が価値たる所以がある。それは私にとっては切実だし、唯一のものであるが、他人にとっては恐らくどうでもいいものである可能性の方がずっと大きいということに対する覚醒だけが価値を意味あるものにする、ということである。これは真理である。だからある価値が真にある個人にとって価値があるということは翻って考えてみれば、誰にも理解出来ないことなのに自分の内部ではずっと維持し続ける自信がある、ということに尽きる。
 何故そうなるのか?それは端的に価値自体とは、どの成員にとっても他者の価値と比較しようがないからである。従って価値とは個人的に大事にするものであって、公的なものではないということをどんな公権力でさえ知っているのである。だから逆に一般的価値とはそのように他者の価値をそう容易に踏みにじるものではないという公共精神だけである、ということになる。そこにある意味では社会全体の個に対する不干渉の徹底という態度が生み出されるのである。だから孤独に強くなっていく価値と私が本章を名づけたのは、他者には他者の価値があり、それを侵害出来ない以上、価値同士を突き合わせることが不可能なのだから、価値自体を他者に説得したり、共有を強いたりすること自体を一切放棄することから価値を考えるしかないのであるから、孤独に強くなっていく価値とはイコール価値は自分の内部に留めておくこと、それだけが自らの価値を守ることが出来るという意味なのである。

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