セザンヌ 牧歌 1870

セザンヌ 牧歌 1870

Saturday, November 7, 2009

第十四章 社会的成功という価値

 社会的成功という事実は、実は全ての成功した人間にとって没落の兆し以外のものではない。それは何故か?何故なら成功自体が極めて脆弱なモティヴェーションから成立しているからである。
 例えば出版界で流行作家的地位にある人の多くは、自身の挫折体験を告白したり、自らの最大の人生の失敗を売りものにしたりしているからである。それは端的にそう告白することを通して何ら自分のような挫折体験のない人たちに対して、そんなことだから成功しないのです、と宣言することを通した復讐を意味するからである。つまり成功とは何物かに対する復讐をやり遂げるという要素が極めて強いのである。
 それは数年前まで人気があり長く権力の座にいた宰相にも言えることである。端的に政界で彼のことを真剣に相手にする政治家など一人もいなかった。また人を愛することが出来ないと言って多く本を出版している哲学者もそうである。氏は若い頃に人生に受けた挫折感を共有し得る読者層だけを相手にして出版界の成功を勝ち得ている。あるいは変人を受け容れる素地のあるイギリスの学問的風土を称揚しつつ、それでいて変人にはある厳密なルールがあるなどと言う脳科学者もそうである。誰からも相手にされなかった自身の青春とその時に受けた差別的眼差しをした人たちに対する精神的復讐において成功を勝ち得ているのである。
 だからそのようにして勝ち得た成功とはそもそも成功しないままでいる人たちから次第に疎んじられる。そんな被害妄想にいつまでもつきあってなどいれないとそう徐々に判断されていってしまうからである。しかし予想外に成功がそのような自分が疎んじられたことに対する復讐という要素が皆無であることの方が実は少ない。だから仏教的な言説から言えば、そのように成功をしようと思い、成功出来ないままでいること自体が特定の人々が自分を疎外しているのだと考えることがあったなら、既に仮に成功をしたとしても、長くその地位を持続することが困難な脆弱な復讐的要素の濃厚な成功者でしかない、ということを意味するのである。
 だから成功とか不成功とか考えること自体を放棄すること、あるいは他者を妬むこと自体を放棄することが一番対自分ということでも、対他者ということでも問題なく生きていける精神的状態である、という仏教的考えは正しい。価値はだから宗教倫理的に言えば、獲得することに執着することによって無価値になってしまうと考えた方がよい。元々必要以上に望まなければ決して失われてしまうという気持ちになどならないからである。
 となるといっそ生きていること自体が既に無価値である、とそう考えることも一つの方便である。と言うのもこの社会には私自身気づいたこととして、必要以上に他者の中の成功欲求に敏感な者がいるものである。その種の成員は自分には一切の未来がないことを知っていて、未来に希望を抱いている成員に対してただ嫉妬をし、その希望を打ち砕くことだけが生き甲斐だからである。例えばあまり成功していない五十歳の中年が野心満々の十九歳の青年より倍以上人生を生きて来たのだから、何とか相手を説き伏せることが可能だと思ったり、凡庸に生きて来た七十五歳の老人が未だ人生に一花咲かせようと目論んでいる五十歳の中年に対して何か人生の役に立つようなことを言って、感謝されたいと望んだりしてもそんなことは一切巧くいく筈がない。何故なら人間という生き物はそういう下心を読むことだけは他のことがあまり得意ではなくても誰しも備えている能力だからである。
 人間とは自分が生まれてからのことを全て見抜くことが出来る他人など一人もいないということを誰しも知っているからである。親でさえ自分のことを百パーセント理解しているわけではない。ましたや他人なら尚更である。だから私もそういう素振りや口ぶりで接近してきた大勢の年配者をずっと警戒してきた。つまり自分の親でも自分の子供でも百パーセント理解しきっている者など一人もいない。ましてや他人なら尚更である。それを知らない愚者は一人もいない。
 つまり人の心をどうすることも出来ないということに対する諦念だけが全てをあまり失望させることなく運用させていくものであるとも言えるのだ。だから成功者が真にそういうことを心得ているのなら、いっそ自己の成功を疎ましく思う筈である。しかしそのようなタイプの殊勝な成功者というものはとんと見かけない。従って多くの成功者は運よく復讐を遂げて悦に浸っているだけのことなのである。だからこそ成功をしたという事実は既にそれだけに没落の兆し以外の何物でもないのである。

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