セザンヌ 牧歌 1870

セザンヌ 牧歌 1870

Thursday, November 5, 2009

第十三章 倫理的価値自体を悪用することの器用さを暗に認める人間の狡さ

 日本社会には日本社会の、恐らく同じようにアメリカ社会にはアメリカ社会に固有の器用に生きることを暗に認め、そういうタイプの人間を憧れ、真剣に生きる人を小馬鹿にする風潮はいつの時代にも散見されることである。小器用に振舞い、問題を起こさずしかしいざとなったら、即座に問題にかかわりたくはなく逃げて行ってしまうような小狡い人間が何と多いことか。それはこういう問題は真剣に討議すべきことであるが、それ以外のことはとるに足らず、問題にしてしまうとその処理に追われ、仕事量を増やすだけであるとする管理者側の惰性的、怠慢的エゴイズムから発生する態度であるに過ぎない。
 しかし日本人はそういうタイプの小狡い器用な人間は決して告発せず、そうではなく不器用に、苦情を訴えるタイプの人間を逆に差別するのである。
 日本人はそれが苦情を言わない美徳として罷り通っており、アメリカでは苦情を言う美徳として罷り通っているだけのことである。苦情を言ってまず損をするのは日本人であるから日本人は苦情自体を誰か別の人にさせておこう、とそう思う。アメリカ人は恐らく逆である。何もかも苦情を言うことで、苦情を言わないことで発生する損を回避して生活しているのである。しかしそのどちらとも理想的な社会の通念であるとは言い難い。要するにただ社会に存在する不文律を承知で、損をしないで、建設的であろうとしないだけである。いつの時代でも建設的であろうとすればするほど、衝突が大きいことになる。しかしそれは厭だから、日本人の場合には常に沈黙することで権利を守り、アメリカ人は常に衝突することで、こちらに非がある場合ですら声高に主張するサイドの方が得をすることを承知で、沈黙を破ることだけを不文律としているのである。
 この二つの例は社会通念全体が価値観にまで影響を与えている好例である。それは端的に価値自体を創造的に捉えようという態度ではない。価値は規制されていて、その範囲内で落ち度なく生活すればよいという判断である。私がこのようなタイプの論文を執筆した一番大きな理由はそこにある。
 つまり価値自体を与えられたもの、自ら作り出すのではなく、あくまで規制の枠組からしか考えられないままでいることに平然としていること、これこそが最も忌むべき価値観なのである。しかし実際はこのような生き方で甘んじている人はかなり多い。価値は創出するべきものである、という考えで生きているということ自体が齎す他者との間での衝突自体を回避しようという態度だけがどの国にも支配しているのではないだろうか?
 確かニーチェかエマニュエル・レヴィナスだったと記憶しているが、強い人が結局のところあまりにもその能力に対する周囲に嫉妬とか、警戒感によって弱くされてしまうという現象が津々浦々に及んでいるように私には思える。端的に責任を負おうとするタイプの態度の成員全体に対する暗黙の排斥意識が日本人も強いし、恐らく他の国民にも同様の心理が張り巡らされていることだろう。それは責任を負うことによる精神的負担を未然に防止しようとする自己防衛心によるものである。そしてそのような極度の全体的な責任転嫁が次第に弱いように振舞う狡猾な態度の、しかも用意周到に他者からの一切の要請を遮断しているのに、あまりにもその逃げ方が巧妙なので知性を醸し、一見紳士的なタイプの成員だけが巧妙に難事に関わることなく安泰でいるという事態が招聘される。
 そのように巧妙に真意を隠蔽し、何か心底に意志を秘めているかの如く振舞うその柔らかい物腰だけが倫理であるかのように倫理的価値を悪用し、不器用に衝突を繰り返すタイプの成員に対して、要領が悪いということで敬遠していく、その蓄積が真意を次第に人間から奪っていく。そして適当に倫理を悪用する成員の言葉巧みな戦術にただ乗せられていくようになるのである。
 ちょっと気弱で他者に対して何も、緊張してしまい、言えなくなる人に一言、人間社会では大物である必要などないのである。そもそもこの者が大物であると決められる者がいるとしたら、それは神だけである。だって人間は常に対立している立場がどの成員にもあり、その対立においてどちらかに味方すればその敵が悪ということになるだけだからである。従って完全に正しい者、つまりそれを采配出来る大物というのは全てまやかしなのである。それは特に私のように神を一切信じないタイプの成員にとってはそうである。しかし人間はどこかで大物を尊崇する、そういう部分がある。だからこそ大物ぶる、と言うより自然に他者全般からあたかも大物であるように錯覚されるように自分を持っていくことが社会を巧く渡っていく秘訣である。大物である必要などない、そもそもそんな価値判断自体が幻想なのだから。従って大物のように思われるように自分を見せかけること、それくらいに許容される悪を十二分に行使することだけがあまり他者から激突されずに済む方法ではないだろうか?だって倫理的価値を遵守しているように狡猾に振舞って巧妙に責任転嫁してきている人が周囲に大勢いるのである。従ってそれくらいの悪の行使を悪いなどと思わない方が良いのである。それが出来たならあなたも立派な倫理的価値の悪用者である。

No comments:

Post a Comment