セザンヌ 牧歌 1870

セザンヌ 牧歌 1870

Wednesday, January 27, 2016

第七十四章 言葉は作られるPART3 意味は単独と接合とで在り方を変える

 語とはそれ自体の意味と、その意味を使用して一つの文を構成する時とでは意味の在り方を変える。存在する意味を変えると言ってもいい。
 殺人は語としてはネガティヴな意味だ。社会的に人類的に殺人は人類発生以来最も典型的な悪であり、にも関わらずずっと継続して無くなりはしなかったものだ。
 だが我々は他方「彼は売れっ子なので、殺人的スケジュールで動き回っている」等と言う時、その殺人はそういった人類の原罪的な悪の意味合いで使っている訳ではない。彼自身のエネルギーを消耗させ、彼を遂には働き過ぎで死へ至らしめるのではないかという懸念も手伝って言っているからだ。
 語、単語、語彙とはそういった意味では相対的な在り方をしている。一つの語彙がそれ単体で何かを語る度合いは、印象としては強烈だけれど、それが多くの文字の配列の中のほんの一部になればなる程、印象は薄まる。殺人は何時の時代でも存在したし、そういう事実関係へと転落する。実際に特定の時間に特定の殺人事件に就いて報道されていて、それを視聴している場合に抱かれる我々にとっての殺人の意味(それは今という時点が今正に今だと思う時と似ている)と、殺人は昔からずっと在った、と語る場合の意味とでは、前者は哲学、とりわけハイデガー的にアクトゥアリテート等と言ってもいいある種の生々しさとしての、リアルな感情が殺人ケースを目の当たりにした時に持てるのが、他方、多くの犯罪事例を紹介する時に殺人を放火や強盗と対置させて語られる時ではまるで言葉の持つ意味の衝撃の度合いは違う。
 言葉の価値は単体としての意味と、それが文字配列の中の部分、要素として機能する時とで大きく在り方を変えるという側面と、今正に殺人事件に就いて報道され、或いは人から聞かされたりして、その様子を知っていく過程で持つ印象と、そういった殺人事件の件数に就いて論じている時の平坦な印象との格差から二つの意味の存在理由の在り方を示唆する。言葉は感情・情動を其処から引き出す装置であると同時に、全く客観的に感情・情動を誘引させない様にさせる装置でもある。
 これは概念の提示、概念の確認という意味合いとして後者を捉えるなら、前者は明らかに概念を通して概念で指示されている事態を想像したり、再現させたりすることと言えるだろう。
 となると意味自体が、事実確認的志向性と、確認され指示された事態への情動的判断志向性という二つの全く異なったヴェクトルを喚起する様に待ち構えているとも言い得る。
 これは自己意識等とも当然関係がある。つまり自分自身がダイレクトに何かにある感情・情動、意味規定的な志向性を持つことと、そういった自分自身の在り方を、それ自体ではない視点から再認する(これを認知科学ではメタ認知と呼ぶ)ということ、つまりダイレクトな志向性と、インダイレクトな志向性とを我々は使い分けもするし、同時に使うことも出来る。自己がダイレクトに何かに向き合っていることと、その向き合っている自己をそういった向き合い自体からすれば外部から観察する様な視点を持つことは、全く違うことでありながら、何の不自然さも無しに我々が同時にも出来ることである。
 ある意味ではそれが両方出来るからこそ、林を縫って歩いている時に虎と出くわし、びっくりしてはらはらどきどきしながら、何とか食われまいとして逃げる方法を考えているという様な場合でも、それはあり得る。虎自体は虎という語彙であり、虎に出くわし、何とか逃げなくてはならない、という文章を心的に我々は同時に介在させることが可能だからだ。
 次回はこの語、単語、語彙の単体性と、文章文字配列の中の要素との両義性を実際の文章から考えていってみよう。

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