セザンヌ 牧歌 1870

セザンヌ 牧歌 1870

Thursday, July 24, 2014

第六十一章 アート史に観られる価値転換と哲学思想

 一般的に美術ファンをときめかすものは、大半が19世紀フランスを中心として、それ以降20世紀前半迄のアートに限られている。要するに人類がアートを楽しむという日常的行為が定着したのが19世紀だったという事が手伝っている。風景画自体が一つの形式として定着したのも19世紀フランスを舞台とするバルビゾン派以降だし、その流れの中で最大のヒットと言っていい印象派が続き、その後続編として野獣派(フォービスム)等が登場し、ピカソ、ブラック等に拠るキュビスム、そしてエコール・ド・パリが一般美術ファンの心を掴んでいる。それに対し何とかシュルレアリスム迄なら一般ファンの心を鷲掴みに出来ても、抽象表現主義以降のアメリカ現代アートはその支持層が全く近代絵画ファン層とは乖離している。要するに現代アートファンとはハイブローな思想性を自覚したインテリに限られるのである。
 しかしそれは一つの理由があるのだ。
 まずバルビゾン派に拠って風景というものを楽しむ事は市民生活にとって一つの憩いとなる事自体に、ある種宗教儀礼的な形式の一つであった絵画空間が、聖書主題的絵画から解放され絵画の楽しみ自体が宗教慣習から独立して叫ばれだしたその流れの中に、例えば肖像画(それはそれ以前は一部の王侯貴族達、一部の経済的成功者<其の中には稀に高級娼婦も居た>に限られていた。つまりモデルとなり、それを絵師に描かせるという行為自体が一般市民の間ではあり得なかった)もより一般市民層へと広げられていき(勿論ある程度の富裕層に限られていたが、それは著名画家に描いて貰う場合で、そうでない場合は当時は売れっ子で無名芸術家の娼婦でもあったキキ・ド・モンパルナス等以外では内輪的な顔馴染みである事も多くなっていた。)、そういった宗教儀礼的慣習からの芸術鑑賞行為の自立という意識の変革の中にバルビゾン派も存在し得たし、印象派もそういう全体的な市民生活の意識革命自体が支えた(事実、彼等にも画家仲間でもあった富裕商人の出である収集家でもあったギュスターブ・カイユボットといった人達こそがサポーターとしてのロールを担っていた)。
 エドゥアール・マネが印象派展に出品して専門の鑑賞家達から嘲笑の渦となった名作『草上の昼食』(1862-1863)や『オランピア』(1863)は今見ても寧ろそれ以降のどんな革命的絵画より芸術行為、芸術鑑賞行為という前提の前では革新的であり、反社会的である。前者は一人女性のみ裸で男性二人に囲まれ肉体を二人だけでなく絵画鑑賞者へも晒し、あろうことか鑑賞者の方を見つめている。女性の前の男性はあたかも女性の肉体的美自体の鑑定家の様な風情である。後方にも湯あみする様な風情の女性一人が湖畔から三人の男女の方へ向って来ようとしている。後者に至っては完全にモデルは娼婦、そしてその娼婦は娼婦を買った男性の視線を借りる一般絵画鑑賞者の視線と重なっているのだ。
 マネがこの様な芸術行為と芸術鑑賞行為の崇高さと思われている通念と常識の前にこの様な性的にも社会モラル的にも不埒な主題を引っ提げて落選覚悟で(事実落選した)出品してしまったが故に後代の芸術家達は既にそれ以上にアンモラルな冒険と挑戦自体を出来なくなってしまった。それから数十年後に登場するシュルレアリスムは多分に世界的情勢が大きく影響を与えている。初めて戦場で精神疾患を齎した世界大戦(第一次世界大戦)勃発に拠って人間精神が極めてクライシス的状況へと落とし込まれていたればこそ、アンドレ・ブルトンは<シュルレアリスム宣言集>を出版し、詩人や演出家、劇作家、画家、音楽家達がそういったムーヴメントへと関わっていったのだ。その中にロシアアヴァンギャルドも内包されているのだし、マヤコフスキー、ガルシア・ロルカ等も居た。つまり第一次世界大戦勃発時に於ける1910年代のダダイスム、その直後の1920年代からのシュルレアリスム宣言や未来派宣言、ロシアアヴァンギャルド等は全て戦争と革命と殺傷的な人類の悲劇が大きく影を落としている。臨床精神医学が(今凄く色々な意味で社会問題となっているけれど)社会的に必要な分野であると認識されていった過程もフロイト一人だけの影響ではなく、こういった世界大戦と精神疾患者の登場という世相があったのだ。
 つまりアートファンにとってより娯楽性と人類の平和や友愛やエロスを讃歌的に楽しめる最後の動向こそ印象派から野獣派くらい迄のアートだったのだ。それ以降、つまりピカソ等に拠るキュビスムさえ、直観的に戦争と経済的困窮の二十世紀初頭というリアルを暗示的に、無意識にシンボライズさせていたし、それ以降の全革新的なアート運動が、そういったクリエイター達の何故創造するのか、という命題的、モティヴェーション的な問いかけと無縁では居られなくなっていくという訳なのだ。
 その事は当然芸術自体の存在様相をより哲学色の強いものとしていかざるを得なかった。そしてそれは第二次世界大戦中にヒトラーが退廃芸術展をベルリンで催し、彼等が滅ぼされ、第二次世界大戦を終えた後もアート界全体、クリエイターであるアーティスト達から、その受け手であるアートファン達の関心傾向をも哲学思想色を濃厚に残した侭21世紀を迎えたと言っても過言ではない。ブルジョワ的な市民生活の謳歌と、愉悦的幸福の象徴であったアートは、より人類のこの運命的な悲惨や世界情勢の緊迫化の前で、より真摯なモティヴェーション問い掛け的なストイックな態度をクリエイターから受け手迄に背負わせてしまったのだ。従って戦後フランスで花咲いたアンフォルメルもそうだし、抽象表現主義と相前後して登場する日本の具体やドイツからアメリカへメインステージを移行させていったフルクサス等も全てそういった時代的な芸術行為、芸術鑑賞行為の持つ命題論的なモティヴェーション論的問い掛けに充満している、と言ってよい。
 だからこそマネの世相や芸術を嗜みとして文化的に理解する市民のプチブルジョワ性への抵抗として純粋なモティヴェーション意識で絵画創造する事自体が、最後のチャレンジとなってしまった。つまりそれ以降の全アートはそういう幸福な抵抗と挑戦をさえ無力化させる時代のニヒリスティッシュなメンタリティを介在させてきているのである。
 その時代の前哨戦としてキェルケゴール、マルクスとエンゲルス、フロイト、そしてその最中にフッサールやウィトゲンシュタインやハイデガーが登場しているのだ。
 当然アンフォルメルの時代のフランスには既にサルトルも活躍していたし、デリダも生活していたのだ。
 アートが思想色を鮮明にしてかざるを得なくなっていく時代へ巻き込まれていく前哨戦としてバルビゾン派と印象派展とマネの挑戦があったという事はよりお分かり頂けたと思うが、そのアート自体の思想色はしかしテクネ的には極めて却って印象派以前より職人性を、つまりアーティストの固有のテクノロジーの伝搬者たるクリエイター達に専門的技術の秘法を持たせる事となった。それは彫刻が市民にとっての広場という発想でより戦後着目されていくプロセスの中でインスタレーションや彫刻史自体が絵画をも変質させていくプロセスで、彫刻家を中心とするマイスター的テクネの継承者達の精神を中心に、絵画自体のフォルマリスティックなヴィジョンの獲得と共にどの画家達も従来型のルネッサンス以来の伝統的テクネだけでなく、それをも凌駕するマテリアリズムを獲得していく必要があった。それは描写的な天才であったサルヴァドール・ダリの様なタイプの古典的画家もそうであったし、モーリス・ブラマンク、ジョルジュ・ルオーや戦後NYで活躍したポロックやデ・クーニング、フランスのピエール・スーラージュ、ベルナール・ビュッフェ等の全アーティストにそれを求めさせた。
 より彼等はグレーで黒という存在刻印の色を追求したピカソより、ブラックという色彩に拘った。そしてその前哨戦として『草上の昼食』で森の内部の影で暗示し、黒を猫と室内背景に拠って『オランピア』で登場させたマネの仕事が大きく後代へインスパイアさせている。確かにマネ以降直ぐにモネに拠って色彩の讃歌は為された。しかし彼も晩年の睡蓮の連作では内面的な黒というものを着目していくし、ルノワールも陶磁器の絵付け職人出身の持前のテクネでより晩年の裸婦では黒を重要なポイントカラーとして選択している。アートは色彩の讃歌を経過しつつも、より黒の使用に拠って大きくクリエイター、アーティスト達へ存在論、実存論的創造モティヴェーションの命題化を達成してきたのだ。それは一面では芸術創造の価値が市民生活に潤いを齎さす一種のヴィジュアル的な娯楽であるだけに留まらず、ある時代を生きた証人として実存論的な創造命題的態度と共により哲学者化せざるを得なかった時代の足跡として理解する事が出来る。アーティストはどんな天才でも一人で生きている訳ではない。そのリアルをよく自覚する事で、自分を育てた時代への返礼として精神性をシンボライズさせる黒という色彩の持つ意味、そしてそれを利用して時代へメッセージとして物象化されたテクネの産物であるアート作品を提示していったフットプリントの前には、一見世相や政治性と無縁であったと思われているセザンヌの様な抽象絵画の父、フォルマリズムの祖と言われる存在に於いても顕現されている。彼のタブローの持つグレー統一的テクネはやはり一面では凄くポイントカラーとしてブラックを巧く活用している。それは黒それ自体が目立つ初期から、余り目立たなくなる後期に至る迄一貫している。それをよりアート史的に継承させたのがピカソであったが、ピカソの<ゲルニカ>に於いては、その創造命題的態度でモティヴェーションの在り方への問い掛けを十全に示さざるを得なかったと言える。ピカソは愛人達との間のプライヴェートなアーティストだけでなかった。そしてそのブラックカラーの選択には、彼の先輩で唯一個展には必ず赴いたとされるマティスにも最もよく示された絵画創造態度であったし、カンディンスキー、藤田嗣治(レオナール・フジタ)、マレーヴィッチが同時代のウラジミール・タトリンやアレキサンダー・ロドチェンコ等彫刻家からやはりインスパイアされて絵画創造命題的態度を構築していったプロセスでも十全に読み取れるものと言ってよいだろう。

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