セザンヌ 牧歌 1870

セザンヌ 牧歌 1870

Wednesday, April 27, 2011

第三十二章 羞恥の正体、親しくなることの暗黙のルール

 私たちにとって何が異常であり、何が正常であるかという判定は実は全て個人に委ねられており、あらゆることに通底する一般的定理など存在しはしない。つまりある行為を適切であるか否かを決定するものはあくまで状況依拠的であり、その依拠性も、或る部分ではかなり個人の主観毎に相違が見られる。
 しかしある部分では一般性とまでは言えないが、真理に近いものとしては、いきなり何の運動もせずにプールに飛び込むような意味で、我々はある行為の是非を判定する際に、明らかに同じ行為を許せ合える仲というものを特別に親しい者だけであるとする場合、明らかに親しくなるプロセス自体もまた、いきなりどんな言動も、個人的な行為における告白も含めて全てを詳らかにする必要性を感じない、言い換えれば、どこかで現時点で告白し合えるかということと、どんなに親しくなっても告白する必要のないことと、親しくなれば告白し合っても別段問題ではないというようなこと自体の判定さえ個人毎に相違があるということだ。つまりそれは羞恥自体の対象の差異と、内容的差異ということである。
 性に関して同一の嗜好を持つ者同士はその点に関して羞恥を感じずに済む。しかしそれは相互に親しくなってから後のことである。それは性に関してばかりでは勿論ない。モラル全般、政治的見解、個人的な人間的な対人関係観、あるいは個人の性格に対する判断といったこともである。つまりどんなことに関してであれ、我々は相手が自分とどれくらい近い考えがあり、どれくらい離れた考えがあるかを相互に確認し合えない内は本音を一切言わないものである。従って仮に全く世の中で変態的であると考えられている性的嗜好が仮にある個人にあったとしても、そのことを告げずにいた方がより安全であるだろうという判断を持つのは、表向きはあらゆる意味で社会内で決してアブノーマルではなく至ってノーマルであるという風に判定されたいと多くの者は望むからであろう。
 しかしこの種の不安は実は全ての事柄に当て嵌まる。学生たちにとっての学習取得内容や実力とは他者においてより自分よりも優れていて、自分は大分立ち遅れているのではないかという不安は常に頭を擡げるものである。つまり端的にそれは対他的なこと、ピア・プレッシャーであると言ってよい。
 しかしその不安の除去自体が一定程度他者と親しくなるということであるなら、羞恥を介在してしか語れなかったことが、相手との対話において徐々にここまでなら告白しても大丈夫であろうという目測を持つこと自体に対する直観的判定自体に対する個人内部での認識が他者との間の構えをその時々で固有の構えを形作る。
 そして先述した通り、あまり性急に全てを告白し合うことを相互に強要しないということがある意味では親近度を深めるのに役立つと考えている者が多い筈だ。それは何故なのだろうか?
 その一つの大きな根拠とはある事柄について関心があるかないかということを巡る関心事項の共通性と相違とを知ることが徐々になされることを可能とするものこそ羞恥であるとも言い得るからだ。つまりそのことを性急に相手に求めないこと自体が、自分とは異なったタイプの嗜好内容、関心事項を持っていること自体を容認し合うということに直結するからである。つまりいきなり知りたいと思うことを聞くことの質問に関わる内容や対象そのものも、個人毎に異なる。だからその個人毎に異なる何らかの事項自体に対する質問をし合うということが有益であると感じ取れるのであれば、我々はある意味では羞恥によって未然に相互に不快な感情自体を持たせないように前もって配慮している、ということになる。だからこそ「いきなり酒を飲もうよ」と言うべきではないかも知れないし、「君はポルノに関心があるの?」と質問し合わない方がいいということも事によればあり得るかも知れない。しかし同時にある状況下では率直にそういったことを、勇気を持って尋ねることが有益であると判断されることもあるかも知れない。
 親しくなれるかどうかを探り合うこと自体に対する配慮の有無こそが我々を相互に羞恥的存在であることを認め合うということに他ならない。又或る意味ではどういう質問に対して顰蹙を買うことになるか否かということ自体に対しても、一定の成長過程における個人差もある。つまり何を奇異と感じ、何をそうであるとは思えないかという判断自体が一般化し得ないものだからだ。
 だから逆に言えば、或る事柄を「~は~である」とか「~は~であることは当然だ」とか「~は~であることは常識だ」という判定自体がかなり個人差もあるし、一般化し得ないということに対する知を持っているか否かが少なくとも私にとっては価値を仮に全く異なった価値の所有者であれ理解し合えるかのバロメータなのである。
 それは性悪説的な共存共栄ということとも少し違うように思われる。それは端的にある部分では必要以上一切干渉し合わないということの確認だからである。
 共存共栄とは端的に社会政治性と、ビジネス戦略的な意図であり、それは個人毎の親近度とは違うレヴェルの判断だからである。
 しかしかなりこれも一般的に言えることであるが、相手を必要以上にこれ以上そのことについて言及していくことは憚られるのではないかという構え自体が相互に交流において弊害として作用している場合もある、ということだ。そしてその内容が意外と多くが、語り合うことをしてはならないことよりも、語り合った方がいいことにおいてそういう風に構えることも多いということなのである。それはしかし相手次第であまり深入りすべきではない、とか、もっとそのことについては率直に語り合ってもいいという判断をその都度していくしか方法はないとは言えるだろう。
 つまり一定の信頼を持って、思い切って核心的な質問を早期にすることによって、予め或る命題においては率直に、別のある命題においては差し控えるようにしたいということを相互に確認し合えば、対人関係的な意味での軋轢とか誤解を回避することが可能であろう。つまりそのような相互の立場の違いと、相互の共通性を知ることをしていれば、少なくとも予想外の失望感だけは回避し得る。つまり相手に対してそういった根本的なスタンスに関して早期に確認し合うこと自体こそが、相手に真意を無意味ではない形で伝達することへと直結するという観点からは、そういった探り合いとなるのであり、それこそが相手に対して意思疎通上での配慮となっているとも言えるだろう。
 故に羞恥の正体とは明かすものではなく、そういうものが個人個人で異なったものとして存在するのだ、そして或る地点までなら容易に語り合えるということの確認を通して、逆に我々は相互に羞恥的対象とか内容を個的に所持しているということを確認し合うことを我々は親しくなると言うのである。つまり相手に対して知りたいということと、相手に対して知って欲しくないことに対する判定において親しさとは成立するのだ。
 だから早期に知って貰っても構わないことと、そうではないことが別箇にあるのだ、ということに対する確認を相互に悟ることが親しくなることの暗黙のルールと言えば言えるだろう。

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