セザンヌ 牧歌 1870

セザンヌ 牧歌 1870

Wednesday, April 6, 2011

第三十一章 性に関する羞恥と価値

 世の中には色々は考えの人もいるし、色々な考えの人がいていいと考えている人と同時に、それと同じくらいにそれではいけないと考えている人もいるらしい。
 つまり自分にとって正しいことというのが相対的であると言える人、あるいは考えられる人というのがいる一方で、他方それではいけない、それでは信念とは言えない、従ってある考えを持っているのなら、それが絶対である筈だ、従って今自分が信じている正しいこと以外に一切正しいことなどないし、またそうあるべきだ、という考えで生きている人もいる。
 しかしこれはある意味ではかなり個人において、その瞬間毎に要求される世界からの、つまり外部状況とか社会からの要請によってこの二つの態度は使い分けられていると言えるだろう。つまりある時には自分が今信じている信念を正しいと思っていても、それ以外のもっと正しい、あるいは正しいと自分では言えないにしても、間違っているとも言い切れない考えもあるのだ、とそう判断すべき時もあるし、逆にそれではまずく、あくまで自分の信念を正しい絶対のものであるとしなければならない時もある。後者は何か特定のことを行為として遂行している時とか、履行している時には相対的判断を差し控えることをする必要があるだろうからだ。
 しかし正当的見解ということと、個人毎に異なっているし、一々他者に口外する必要のない多くの私的な思念、あるいは公にする必要のない性向、嗜好といったことはある部分ではかなり個人的な羞恥に抵触する部分である故、それを論じること自体は、論理的なことだけでは済まなくなるので、実はかなり難しいのである。
 その一つは性の問題であろう。例えばホモセクシュアルとかレズビアンといったことは、それ自体少なくとも私にとっては悪ではない。つまりそれを理解出来なければ歪んだ正統主義だと言って、称揚すべきものでもなければ、それをしたら害悪であるとまさに聖書で触れられているような意味でモラル論的に悪と決め付けられないことである、と少なくとも私はそう思っている。
 しかし聖書と言うか、聖書に対する解釈としてもそうだし、あるいは民族の結束とか国家の秩序を個人の幸福よりも優先するような立場、つまりそれらは崇高で、同性愛といったものは汚らわしいと決め付ける考えの中には、極度の羞恥が顕在化していると私には思える。
 私自身は同性愛的な経験と言えば、親しい同性の友人との交友関係において、憧れの同性という形で抱く理想型としての偶像という意味でしか経験はない。ビートルズの若き日に憧れるとかそういうくらいのことである。従ってそれが即性行為へと直結したことは未だかつて一度もなかったし、心にそういう願望を抱いたこともない。あるいは心に同性に対して恋心を抱くことがあってもいけないとも思わないし、あるいは同性との性行為を憧れることもないが、憧れていても実行に移さなければよくて、実行に移せば悪であるとも思わない。あるいは思っていてさえ罪悪であるとも思わない。
 つまりそれらは個人毎に異なったタイプの「そういうことがしたい」という気持ちがあっていいということだ。だからこれだけは言えることであるが、民族的結束とか国家秩序のような崇高なことに比してそれらは汚らわしいとも私は思わない。勿論民族の結束とか国家秩序それ自体も決して蔑ろしてはいけない問題であるが、同時にそういった公の問題だけが最も崇高であるとも思っていない。従って性的堕落者を社会の害悪であると決め付けて、弾圧したり、差別したりすることに対しても抵抗があり、それは端的に間違った考え方である。性的な肉体関係を一度も生涯持たない人がいたとしても、そのこと自体を「だから私は崇高である」と信じて疑わない限り、私はそれもまた一つの選択肢であると思うし、またそういう人のことを信じられない、気の毒にとそう思うこともおかしいと思う。
 つまり自分以外の性的な選択肢は全てそれなりに尊重すべきであると思うし、私自身は、性的に大いに関心があるけれど、それが他の一切の関心を著しく上回っているとは自分自身思ってもいないし、しかしやはりそれらの関心や好奇心は必要なものである、とそう思っている。性的な妄想も他者に一切迷惑がかからない範囲で全て許されると思っている。
 また性的堕落者に対して人間の屑であると思い、それよりは崇高なことを志向している人間を気高いと思っている人ははっきりと言って嫌いであるし、性的にモラル論的に実直であっても、国家主義的な秩序の方を、例えば戦争やその勝利を賛美して性的堕落者と性的嗜好の通常とは違ったと思われている(一体何が通常であると言うのだろう?)人を極度に差別する人は、端的に私の価値観の中ではかなり重度の精神疾患であると思う。
 ニンフォマニアックも、サティライアーシスもそのこと自体で人生全体を精神的に崩壊に導かない限りで、殺人や戦争よりは害悪度はずっと小さいと思う。
 確かに通常の社会生活において性的嗜好における極度の高次快楽追求は、危険性がないとは決して言えない。しかしそれらが社会生活に甚大なるマイナス要因にならない限りでそれらは一切許容される範囲内の嗜好である、と私は考える。またそういった嗜好のある人は、そのこと自体で深く自己嫌悪をし、そのことで深く後悔をしないのであれば、淫乱的多情ということさえ許されると思うし、それは個人内での判断に一切を任せるべきであると考える。つまり個人内部でそういった一切の通常ではない快楽追求を控えるべきであると思えば、それを勝手に実践すればいいのであり、その信条を他者に強要すべきではなく、また他者から強要されることもよくないことであると思っていていいと思う。
 私自身は性的妄想においては殆ど全てのことを想像しさえするが、そうかと言って、それを全部は実践出来ないが、それを全て実践している人がいたとして、そういった人自身が深く後悔したり、不幸な感情に見舞われたりしないのであれば、それも許されるとさえ考えている。
 私自身は端的に性的な妄想はそれ自体豊かな想像力を育むとさえ考えている。ギョーム・アポリネールの「一万一千本の鞭」というメルヘンティックな小説は端的になかなか優れたポルノである。そこに描出されている世界は、あり得そうで、あり得ないかも知れないと思わせる微妙な境界線上のものである。あるいはそう考えるのは私自身の性的嗜好があまり特別高次快楽を追求出来ないタイプだからかも知れない。
 あるいは永井均は「マンガは哲学する」において性行為を他人に見られるのが恥ずかしく、食事する行為はそうではないということに対して何故だろう、と述べているし、中島義道は「今一番したいことは何ですか」と尋ねられて何故人は「セックスです」と言えないのだろうかと疑問に感じているが、それはそれで正直な感慨であると言ってよい。
 要するに私は性行為とか性に纏わる嗜好性自体に関心のある者は関心を持ち、あまりそうではない者は持たなければそれでいいと考える。それは個人的羞恥の部類であるし、羞恥をあまり感じないということも個人差の問題だから致し方ない。
 よく結婚生活を営み一定程度きちんと性的行為に満たされた者はあまりそういったことについて語りたがらないということは確かに一定程度言えることであるが、ここに仮に性行為を十分結婚生活とか恋愛生活において満たされてさえ、尚そのことに関してもっと高次の欲求とか願望を抱くことさえ罪悪であるとは考えない。つまりそうであることによって自己嫌悪に悩んだり、あまりそういうことに関心のない他者に関心を強要したりして迷惑をかけないのであれば、渇望もまた悪いことではなく、変態的であるとされる行為に対して強い関心を抱くことさえ罪悪ではない、と私は考える。要するに私はそれが羞恥に属することであるという見解自体も一定の社会的ステレオタイプであると考えるからである。
 だから妄想の範囲内に留めずにそれを実践したとしても、それは相互のそういった嗜好を認め合う者同士であるなら許され得ることだと私は思うし、違う価値観の者に対して強要する権利は誰にもない、それは性的嗜好に格別の関心を持つ者に対して関心のない者が堕落であるとして糾弾したり、逆に関心のない者に関心を強要したりしてそれを果たし得ないことに対して軽蔑したりすることは、双方とも同じ罪を犯していると言える。

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