私たちは一見実感的であることだけを哲学的現象性であると捉えがちであるが、実はそうではない。悟性、判断、認識もまた一つの実感であり、衝動であると捉えるなら、寧ろ私たち個々の自己同一性は一方では羞恥によって証明され、他方それは他者が自己に対して規定する「~があなたらしさだ」とか「~があなたの良さだ」という指示性や、志向性がまるで自己にとってのそれと異なるということに纏わる齟齬に対する苛立ちや価値的不一致を巡る違和感によって証明されるのである。
しかし哲学で言うところの論理的構成説によって自己同一性を実感し得るということの方がより正当であるとP・H・グライスは指摘しているし、そのことをシューメーカーは引用している(「自己知と自己同一性」より)。だからもう一方の純粋自我説から自己同一性を実感するということにおいて、より私たちは勘違いとか思い違いがあるのだ、ということを示してもいる。これはある意味では記憶の不確かさとも関係があるだろう。つまり自我と言うことは、或る意味ではかなり茫漠とした印象であるとか、まさに原義としての衝動、つまり未充足の欲望によって高められた願望とか焦燥感に近いかも知れないという憶測があるからだろう。だからこそ自己同一性を実感からのみ判定するということは認識論的にも存在論的にも甚だ危険であるということが判明すると言える。
しかしこのことはシューメーカーによって引用された次のグライスの記述と、ウィトゲンシュタインの更にその次にここで記載する記述によっても読み取れる。(孫引き、「自己知と自己同一性」シドニー・シューメーカー、菅豊彦・浜渦辰二訳、180ページより、勁草書房刊)続いて(「9ウィトゲンシュタイン全集 確実性の問題」 黒田亘訳、74ページより)。
PA〔純粋自我〕説が正しいと仮定したうえで、私は昨日頭痛がして、今朝歯痛がしたのを知っているとしてみよう。そのとき、二つの体験をもっていたのは一つの自己であって、非常によく似た二つの自己ではないことを私はどうして知っているのか、と問われたとする。PE説の上にさらにPN〔固有名〕説を採るとすれば、「私はそれを今知っている」という以外にどんな答えを与えることができるか、私には分からない。これは不満足な答えだと思う。しかし他方、同じ問いに対してLCT〔論理的構成説〕は、「それらの体験は互いに、『~と同じ自己に値する』ということを構成するような関係にあるのだ」と正しく答えることができる。例えば、「なぜなら、私は二つの体験を覚えており〔あるいは二つの体験が起こったのを知っており〕、また私が覚えている(あるいは、起こったのを知っている)どの体験も同‐人格的でなければならないからである」と私は答えるであろう。この答えは、自己は論理的構成体であり、記憶によって定義されることを含意している、と思われる。
二八八 私は、地球が私の誕生の遥か以前から存在することを知っているばかりでなく、それが大きな物体であるということ、人びとがすでにそれを確認しているということ、自分も含めて人間には祖先があるということ、こうした事どもに関する書物があるということ、そういう書物には嘘がないということ、その他もろもろのことを知っている。だが本当にすべてを知っているのか。私はそう信じている。これらの知識の総体は私に伝承されたものであり、私はそれを疑う理由がなく、反対に無数の経験がそれを確認している。
それなのにどうして、これらすべてを私は知っている、と言ってはならないのか。皆そう言っているではないか。
それを知っているのは、あるいは信じているのは私だけではないのだ。というより私がそう信じていると信じているのである。
つまりここで重要なこととは、価値が既知の実感によって齎されるのではないという直観こそが我々に価値を認識せしめているのであり(それこそが地球の誕生についてさえ我々は自分の内的世界において認識的価値として実感し得る)、それは既知の実感に忠実に生きること自体が他律的であるというもう一つの直観(実感と言ってもよい)があるからである(それはある意味では既知の実感的に実感的ではない形での理想を価値に見出そうとしている我々のもう一つの実感を実在的なものにしている)。このことを示しかのように、リチャード・マーヴィング・ヘアは次のように述べている。(「道徳の言語」小泉仰・大久保正健訳、38ページより、勁草書房刊)
(前略)一種の超感覚的な観察によって知りうる、事実的な現存する善に代えて、アリストテレスは「行為によって実現されるべき善」、あるいは彼の通常の言い方に従えば「目的」を置くのである。つまり、もし何かが善であると言うことが行為を指導することであるなら、それは世界についての事実を単に記述しているわけではないことを、彼は暗黙のうちに認識している。彼の倫理学がプラトンと違うほとんどは、この原点に遡ることができる。
ヘアのこの謂いが正しいとすれば、とりもなおさずプラトンは存在自体を善であるような真理を信じており、しかしアリストテレスはそうではない、つまりまさに彼の言う通りに解釈出来る「行為によって実現されるべき善」つまり意志的な志向性であることになる。それは事実として確固として存在としての命脈を与えられているのではなく、あくまでそれを善として我々が価値的に意味づけるということを意味している。つまり端的にアリストテレスはプラトンのイデアを否定したわけだ。
このことを永井均は次のように述べている。(「倫理とは何か 猫のアインジヒトの挑戦」28ページより、産業図書刊)
第一は、なんといってもまず、アリストテレスがプラトンのイデア論を否定したことです。(中略)つまり、イデアについての知識は永遠不変で普遍的なものについての知識ということになりますが、倫理が必要としているような知識は、われわれの現実の行為の指針となるような、可変的で個別的な知識でなければならない、ということです。アリストテレスによれば、倫理学における普遍的な知識は、個々の状況においてわれわれが獲得する個別的な知識を一般化することによってできあがるのであって、その逆ではないのです。
そこから第二に、倫理に関する知識、倫理学的知識は、科学的知識のような厳密な普遍性は要求されない、ということが出てきます。倫理学においては、問題にふさわしい程度を超える正確さや厳密さを求めてはならない、とアリストテレスは言っています。たとえば、大工が必要とする「垂直」や「平行」の正確さは、幾何学者が必要とする正確さとは違うでしょう。そういうように、それぞれの分野には、それぞれふさわしい精密さや厳密さの程度と基準がある、というのです。これは傾聴に値する見解であると思います。つまり、倫理学が必要とする普遍性は、日常生活で行為の大体の指針となりうる程度のものであればよく、それ以上のことを求めるのは、まとはずれで不必要な要求だ、ということになります。
つまりヘア並びに永井の論説を手がかりに考えるとすると、倫理とはそれ自体が一つのその都度の判断とかその判断全般を反省的意識において統括しようとするそれ自体で一つの思考価値として炙り出されて来るものであり、それは実在的な永遠性を確保されているわけではない、ということになる。
シューメーカーは端的に自己同一性を他者Aと他者Bを観察するような比較によって認識するものではないという形でグライスその他の考えを自己なりの仕方で捉え直しているのだが、その自己同一性自体が既に既知の実感として感得させられる私たちの自分の他者とは決定的に異なる固有の感じ自体から引き出された概念として捉える時、固有の感じを言説化すると途端に認識となって立ちはだかるということをここで私は拘ってみたいのである。
つまり自分に纏わる他者全員とは決定的に違う固有の感じは、今このように固有の感じと言った途端に形骸化してしまう運命を逃れられない。つまりこの言説化不能な感じ自体を言語化する時、そこには自己同一性と仮に言ってみたところで、最初に私がこの身体と記憶と感覚とによって感じていることは終ぞ伝達し得ない。つまりその伝達し得なさを全部余すところなく寧ろ伝達すること自体を断念することによってのみ「自己同一性」という語彙によって我々は理解をする。それは理解という心的作用自体が一つの大いなる断念によって成立しているからである。だからこそプラトンのイデアがイデアとして真理化された途端にそれが固有の感じを失うこと自体を延々とアリストテレスもウィトゲンシュタインもシューメーカーもヘアも永井も感じ続けてきてそれを言説化してきたわけである。従ってこれら全ての哲学者たちによるプラトンへの否定(この系列にはカントやニーチェも含まれる)こそが、実は固有の感じを言説化し得ないこと自体に内在する既知の実感から逃れていくことを何とかそれ自体として捉えようとする際に齎された認識そのものなのである。
端的にシューメーカーが拘った自己同一性という言説もまた一つの認識であり、実感ではなく実感の言説化である。まさに引用のウィトゲンシュタインの言葉を借りるならそのように実感があると信じていること自体を伝達する時不可避的に認識が誕生する。その認識自体が一つの既知の実感から常にずれ込むという感じを拭えない一つの未知以外のものではない。だからこそ私は「価値が既知の実感によって齎されるのではないという直観こそが我々に価値を認識せしめているのであり、それは既知の実感に忠実に生きること自体が他律的であるというもう一つの直観があるからである」と言ったのである。
つまりこのことを言い換えれば価値とは一つの言葉であり言説であり、イデアと言っても良い、だからこそアリストテレス以降の多くの哲学者がそれを躍起になって実在ではないとして否定してきた類のものである。しかし我々が感得する私とか意識とかクオリアとかの自分にだけ感じられる固有の感じとは端的にそれ自体は言説化し得ないものであると誰しも知っている。その誰しも知っている言説化不可能性こそがその不可能であることを示すと、途端に価値となってしまう。その価値に転換する時例えば本章で拘った「自己同一性」とか永井均的<私>とはそのように語られる瞬間、アリストテレス以降の哲学者が躍起になって否定したイデアそのものと化してしまうということの内に、私が価値とは認識であると主張するような意味で、固有の感じもまた認識化される。それこそが本章を「自己同一性という価値は実感であるよりは認識である」と命名した所以である。そしてそのことは、同時に価値とかこうした認識とかその際に必要とされる悟性とか一切の価値判断自体もまた一つの実感であると最初に言ったようなこととの内に位置づけ可能となるのである(しかしことのことは結論においてもっと深めていく必要がある)。
Monday, May 23, 2011
Wednesday, April 27, 2011
第三十二章 羞恥の正体、親しくなることの暗黙のルール
私たちにとって何が異常であり、何が正常であるかという判定は実は全て個人に委ねられており、あらゆることに通底する一般的定理など存在しはしない。つまりある行為を適切であるか否かを決定するものはあくまで状況依拠的であり、その依拠性も、或る部分ではかなり個人の主観毎に相違が見られる。
しかしある部分では一般性とまでは言えないが、真理に近いものとしては、いきなり何の運動もせずにプールに飛び込むような意味で、我々はある行為の是非を判定する際に、明らかに同じ行為を許せ合える仲というものを特別に親しい者だけであるとする場合、明らかに親しくなるプロセス自体もまた、いきなりどんな言動も、個人的な行為における告白も含めて全てを詳らかにする必要性を感じない、言い換えれば、どこかで現時点で告白し合えるかということと、どんなに親しくなっても告白する必要のないことと、親しくなれば告白し合っても別段問題ではないというようなこと自体の判定さえ個人毎に相違があるということだ。つまりそれは羞恥自体の対象の差異と、内容的差異ということである。
性に関して同一の嗜好を持つ者同士はその点に関して羞恥を感じずに済む。しかしそれは相互に親しくなってから後のことである。それは性に関してばかりでは勿論ない。モラル全般、政治的見解、個人的な人間的な対人関係観、あるいは個人の性格に対する判断といったこともである。つまりどんなことに関してであれ、我々は相手が自分とどれくらい近い考えがあり、どれくらい離れた考えがあるかを相互に確認し合えない内は本音を一切言わないものである。従って仮に全く世の中で変態的であると考えられている性的嗜好が仮にある個人にあったとしても、そのことを告げずにいた方がより安全であるだろうという判断を持つのは、表向きはあらゆる意味で社会内で決してアブノーマルではなく至ってノーマルであるという風に判定されたいと多くの者は望むからであろう。
しかしこの種の不安は実は全ての事柄に当て嵌まる。学生たちにとっての学習取得内容や実力とは他者においてより自分よりも優れていて、自分は大分立ち遅れているのではないかという不安は常に頭を擡げるものである。つまり端的にそれは対他的なこと、ピア・プレッシャーであると言ってよい。
しかしその不安の除去自体が一定程度他者と親しくなるということであるなら、羞恥を介在してしか語れなかったことが、相手との対話において徐々にここまでなら告白しても大丈夫であろうという目測を持つこと自体に対する直観的判定自体に対する個人内部での認識が他者との間の構えをその時々で固有の構えを形作る。
そして先述した通り、あまり性急に全てを告白し合うことを相互に強要しないということがある意味では親近度を深めるのに役立つと考えている者が多い筈だ。それは何故なのだろうか?
その一つの大きな根拠とはある事柄について関心があるかないかということを巡る関心事項の共通性と相違とを知ることが徐々になされることを可能とするものこそ羞恥であるとも言い得るからだ。つまりそのことを性急に相手に求めないこと自体が、自分とは異なったタイプの嗜好内容、関心事項を持っていること自体を容認し合うということに直結するからである。つまりいきなり知りたいと思うことを聞くことの質問に関わる内容や対象そのものも、個人毎に異なる。だからその個人毎に異なる何らかの事項自体に対する質問をし合うということが有益であると感じ取れるのであれば、我々はある意味では羞恥によって未然に相互に不快な感情自体を持たせないように前もって配慮している、ということになる。だからこそ「いきなり酒を飲もうよ」と言うべきではないかも知れないし、「君はポルノに関心があるの?」と質問し合わない方がいいということも事によればあり得るかも知れない。しかし同時にある状況下では率直にそういったことを、勇気を持って尋ねることが有益であると判断されることもあるかも知れない。
親しくなれるかどうかを探り合うこと自体に対する配慮の有無こそが我々を相互に羞恥的存在であることを認め合うということに他ならない。又或る意味ではどういう質問に対して顰蹙を買うことになるか否かということ自体に対しても、一定の成長過程における個人差もある。つまり何を奇異と感じ、何をそうであるとは思えないかという判断自体が一般化し得ないものだからだ。
だから逆に言えば、或る事柄を「~は~である」とか「~は~であることは当然だ」とか「~は~であることは常識だ」という判定自体がかなり個人差もあるし、一般化し得ないということに対する知を持っているか否かが少なくとも私にとっては価値を仮に全く異なった価値の所有者であれ理解し合えるかのバロメータなのである。
それは性悪説的な共存共栄ということとも少し違うように思われる。それは端的にある部分では必要以上一切干渉し合わないということの確認だからである。
共存共栄とは端的に社会政治性と、ビジネス戦略的な意図であり、それは個人毎の親近度とは違うレヴェルの判断だからである。
しかしかなりこれも一般的に言えることであるが、相手を必要以上にこれ以上そのことについて言及していくことは憚られるのではないかという構え自体が相互に交流において弊害として作用している場合もある、ということだ。そしてその内容が意外と多くが、語り合うことをしてはならないことよりも、語り合った方がいいことにおいてそういう風に構えることも多いということなのである。それはしかし相手次第であまり深入りすべきではない、とか、もっとそのことについては率直に語り合ってもいいという判断をその都度していくしか方法はないとは言えるだろう。
つまり一定の信頼を持って、思い切って核心的な質問を早期にすることによって、予め或る命題においては率直に、別のある命題においては差し控えるようにしたいということを相互に確認し合えば、対人関係的な意味での軋轢とか誤解を回避することが可能であろう。つまりそのような相互の立場の違いと、相互の共通性を知ることをしていれば、少なくとも予想外の失望感だけは回避し得る。つまり相手に対してそういった根本的なスタンスに関して早期に確認し合うこと自体こそが、相手に真意を無意味ではない形で伝達することへと直結するという観点からは、そういった探り合いとなるのであり、それこそが相手に対して意思疎通上での配慮となっているとも言えるだろう。
故に羞恥の正体とは明かすものではなく、そういうものが個人個人で異なったものとして存在するのだ、そして或る地点までなら容易に語り合えるということの確認を通して、逆に我々は相互に羞恥的対象とか内容を個的に所持しているということを確認し合うことを我々は親しくなると言うのである。つまり相手に対して知りたいということと、相手に対して知って欲しくないことに対する判定において親しさとは成立するのだ。
だから早期に知って貰っても構わないことと、そうではないことが別箇にあるのだ、ということに対する確認を相互に悟ることが親しくなることの暗黙のルールと言えば言えるだろう。
しかしある部分では一般性とまでは言えないが、真理に近いものとしては、いきなり何の運動もせずにプールに飛び込むような意味で、我々はある行為の是非を判定する際に、明らかに同じ行為を許せ合える仲というものを特別に親しい者だけであるとする場合、明らかに親しくなるプロセス自体もまた、いきなりどんな言動も、個人的な行為における告白も含めて全てを詳らかにする必要性を感じない、言い換えれば、どこかで現時点で告白し合えるかということと、どんなに親しくなっても告白する必要のないことと、親しくなれば告白し合っても別段問題ではないというようなこと自体の判定さえ個人毎に相違があるということだ。つまりそれは羞恥自体の対象の差異と、内容的差異ということである。
性に関して同一の嗜好を持つ者同士はその点に関して羞恥を感じずに済む。しかしそれは相互に親しくなってから後のことである。それは性に関してばかりでは勿論ない。モラル全般、政治的見解、個人的な人間的な対人関係観、あるいは個人の性格に対する判断といったこともである。つまりどんなことに関してであれ、我々は相手が自分とどれくらい近い考えがあり、どれくらい離れた考えがあるかを相互に確認し合えない内は本音を一切言わないものである。従って仮に全く世の中で変態的であると考えられている性的嗜好が仮にある個人にあったとしても、そのことを告げずにいた方がより安全であるだろうという判断を持つのは、表向きはあらゆる意味で社会内で決してアブノーマルではなく至ってノーマルであるという風に判定されたいと多くの者は望むからであろう。
しかしこの種の不安は実は全ての事柄に当て嵌まる。学生たちにとっての学習取得内容や実力とは他者においてより自分よりも優れていて、自分は大分立ち遅れているのではないかという不安は常に頭を擡げるものである。つまり端的にそれは対他的なこと、ピア・プレッシャーであると言ってよい。
しかしその不安の除去自体が一定程度他者と親しくなるということであるなら、羞恥を介在してしか語れなかったことが、相手との対話において徐々にここまでなら告白しても大丈夫であろうという目測を持つこと自体に対する直観的判定自体に対する個人内部での認識が他者との間の構えをその時々で固有の構えを形作る。
そして先述した通り、あまり性急に全てを告白し合うことを相互に強要しないということがある意味では親近度を深めるのに役立つと考えている者が多い筈だ。それは何故なのだろうか?
その一つの大きな根拠とはある事柄について関心があるかないかということを巡る関心事項の共通性と相違とを知ることが徐々になされることを可能とするものこそ羞恥であるとも言い得るからだ。つまりそのことを性急に相手に求めないこと自体が、自分とは異なったタイプの嗜好内容、関心事項を持っていること自体を容認し合うということに直結するからである。つまりいきなり知りたいと思うことを聞くことの質問に関わる内容や対象そのものも、個人毎に異なる。だからその個人毎に異なる何らかの事項自体に対する質問をし合うということが有益であると感じ取れるのであれば、我々はある意味では羞恥によって未然に相互に不快な感情自体を持たせないように前もって配慮している、ということになる。だからこそ「いきなり酒を飲もうよ」と言うべきではないかも知れないし、「君はポルノに関心があるの?」と質問し合わない方がいいということも事によればあり得るかも知れない。しかし同時にある状況下では率直にそういったことを、勇気を持って尋ねることが有益であると判断されることもあるかも知れない。
親しくなれるかどうかを探り合うこと自体に対する配慮の有無こそが我々を相互に羞恥的存在であることを認め合うということに他ならない。又或る意味ではどういう質問に対して顰蹙を買うことになるか否かということ自体に対しても、一定の成長過程における個人差もある。つまり何を奇異と感じ、何をそうであるとは思えないかという判断自体が一般化し得ないものだからだ。
だから逆に言えば、或る事柄を「~は~である」とか「~は~であることは当然だ」とか「~は~であることは常識だ」という判定自体がかなり個人差もあるし、一般化し得ないということに対する知を持っているか否かが少なくとも私にとっては価値を仮に全く異なった価値の所有者であれ理解し合えるかのバロメータなのである。
それは性悪説的な共存共栄ということとも少し違うように思われる。それは端的にある部分では必要以上一切干渉し合わないということの確認だからである。
共存共栄とは端的に社会政治性と、ビジネス戦略的な意図であり、それは個人毎の親近度とは違うレヴェルの判断だからである。
しかしかなりこれも一般的に言えることであるが、相手を必要以上にこれ以上そのことについて言及していくことは憚られるのではないかという構え自体が相互に交流において弊害として作用している場合もある、ということだ。そしてその内容が意外と多くが、語り合うことをしてはならないことよりも、語り合った方がいいことにおいてそういう風に構えることも多いということなのである。それはしかし相手次第であまり深入りすべきではない、とか、もっとそのことについては率直に語り合ってもいいという判断をその都度していくしか方法はないとは言えるだろう。
つまり一定の信頼を持って、思い切って核心的な質問を早期にすることによって、予め或る命題においては率直に、別のある命題においては差し控えるようにしたいということを相互に確認し合えば、対人関係的な意味での軋轢とか誤解を回避することが可能であろう。つまりそのような相互の立場の違いと、相互の共通性を知ることをしていれば、少なくとも予想外の失望感だけは回避し得る。つまり相手に対してそういった根本的なスタンスに関して早期に確認し合うこと自体こそが、相手に真意を無意味ではない形で伝達することへと直結するという観点からは、そういった探り合いとなるのであり、それこそが相手に対して意思疎通上での配慮となっているとも言えるだろう。
故に羞恥の正体とは明かすものではなく、そういうものが個人個人で異なったものとして存在するのだ、そして或る地点までなら容易に語り合えるということの確認を通して、逆に我々は相互に羞恥的対象とか内容を個的に所持しているということを確認し合うことを我々は親しくなると言うのである。つまり相手に対して知りたいということと、相手に対して知って欲しくないことに対する判定において親しさとは成立するのだ。
だから早期に知って貰っても構わないことと、そうではないことが別箇にあるのだ、ということに対する確認を相互に悟ることが親しくなることの暗黙のルールと言えば言えるだろう。
Wednesday, April 6, 2011
第三十一章 性に関する羞恥と価値
世の中には色々は考えの人もいるし、色々な考えの人がいていいと考えている人と同時に、それと同じくらいにそれではいけないと考えている人もいるらしい。
つまり自分にとって正しいことというのが相対的であると言える人、あるいは考えられる人というのがいる一方で、他方それではいけない、それでは信念とは言えない、従ってある考えを持っているのなら、それが絶対である筈だ、従って今自分が信じている正しいこと以外に一切正しいことなどないし、またそうあるべきだ、という考えで生きている人もいる。
しかしこれはある意味ではかなり個人において、その瞬間毎に要求される世界からの、つまり外部状況とか社会からの要請によってこの二つの態度は使い分けられていると言えるだろう。つまりある時には自分が今信じている信念を正しいと思っていても、それ以外のもっと正しい、あるいは正しいと自分では言えないにしても、間違っているとも言い切れない考えもあるのだ、とそう判断すべき時もあるし、逆にそれではまずく、あくまで自分の信念を正しい絶対のものであるとしなければならない時もある。後者は何か特定のことを行為として遂行している時とか、履行している時には相対的判断を差し控えることをする必要があるだろうからだ。
しかし正当的見解ということと、個人毎に異なっているし、一々他者に口外する必要のない多くの私的な思念、あるいは公にする必要のない性向、嗜好といったことはある部分ではかなり個人的な羞恥に抵触する部分である故、それを論じること自体は、論理的なことだけでは済まなくなるので、実はかなり難しいのである。
その一つは性の問題であろう。例えばホモセクシュアルとかレズビアンといったことは、それ自体少なくとも私にとっては悪ではない。つまりそれを理解出来なければ歪んだ正統主義だと言って、称揚すべきものでもなければ、それをしたら害悪であるとまさに聖書で触れられているような意味でモラル論的に悪と決め付けられないことである、と少なくとも私はそう思っている。
しかし聖書と言うか、聖書に対する解釈としてもそうだし、あるいは民族の結束とか国家の秩序を個人の幸福よりも優先するような立場、つまりそれらは崇高で、同性愛といったものは汚らわしいと決め付ける考えの中には、極度の羞恥が顕在化していると私には思える。
私自身は同性愛的な経験と言えば、親しい同性の友人との交友関係において、憧れの同性という形で抱く理想型としての偶像という意味でしか経験はない。ビートルズの若き日に憧れるとかそういうくらいのことである。従ってそれが即性行為へと直結したことは未だかつて一度もなかったし、心にそういう願望を抱いたこともない。あるいは心に同性に対して恋心を抱くことがあってもいけないとも思わないし、あるいは同性との性行為を憧れることもないが、憧れていても実行に移さなければよくて、実行に移せば悪であるとも思わない。あるいは思っていてさえ罪悪であるとも思わない。
つまりそれらは個人毎に異なったタイプの「そういうことがしたい」という気持ちがあっていいということだ。だからこれだけは言えることであるが、民族的結束とか国家秩序のような崇高なことに比してそれらは汚らわしいとも私は思わない。勿論民族の結束とか国家秩序それ自体も決して蔑ろしてはいけない問題であるが、同時にそういった公の問題だけが最も崇高であるとも思っていない。従って性的堕落者を社会の害悪であると決め付けて、弾圧したり、差別したりすることに対しても抵抗があり、それは端的に間違った考え方である。性的な肉体関係を一度も生涯持たない人がいたとしても、そのこと自体を「だから私は崇高である」と信じて疑わない限り、私はそれもまた一つの選択肢であると思うし、またそういう人のことを信じられない、気の毒にとそう思うこともおかしいと思う。
つまり自分以外の性的な選択肢は全てそれなりに尊重すべきであると思うし、私自身は、性的に大いに関心があるけれど、それが他の一切の関心を著しく上回っているとは自分自身思ってもいないし、しかしやはりそれらの関心や好奇心は必要なものである、とそう思っている。性的な妄想も他者に一切迷惑がかからない範囲で全て許されると思っている。
また性的堕落者に対して人間の屑であると思い、それよりは崇高なことを志向している人間を気高いと思っている人ははっきりと言って嫌いであるし、性的にモラル論的に実直であっても、国家主義的な秩序の方を、例えば戦争やその勝利を賛美して性的堕落者と性的嗜好の通常とは違ったと思われている(一体何が通常であると言うのだろう?)人を極度に差別する人は、端的に私の価値観の中ではかなり重度の精神疾患であると思う。
ニンフォマニアックも、サティライアーシスもそのこと自体で人生全体を精神的に崩壊に導かない限りで、殺人や戦争よりは害悪度はずっと小さいと思う。
確かに通常の社会生活において性的嗜好における極度の高次快楽追求は、危険性がないとは決して言えない。しかしそれらが社会生活に甚大なるマイナス要因にならない限りでそれらは一切許容される範囲内の嗜好である、と私は考える。またそういった嗜好のある人は、そのこと自体で深く自己嫌悪をし、そのことで深く後悔をしないのであれば、淫乱的多情ということさえ許されると思うし、それは個人内での判断に一切を任せるべきであると考える。つまり個人内部でそういった一切の通常ではない快楽追求を控えるべきであると思えば、それを勝手に実践すればいいのであり、その信条を他者に強要すべきではなく、また他者から強要されることもよくないことであると思っていていいと思う。
私自身は性的妄想においては殆ど全てのことを想像しさえするが、そうかと言って、それを全部は実践出来ないが、それを全て実践している人がいたとして、そういった人自身が深く後悔したり、不幸な感情に見舞われたりしないのであれば、それも許されるとさえ考えている。
私自身は端的に性的な妄想はそれ自体豊かな想像力を育むとさえ考えている。ギョーム・アポリネールの「一万一千本の鞭」というメルヘンティックな小説は端的になかなか優れたポルノである。そこに描出されている世界は、あり得そうで、あり得ないかも知れないと思わせる微妙な境界線上のものである。あるいはそう考えるのは私自身の性的嗜好があまり特別高次快楽を追求出来ないタイプだからかも知れない。
あるいは永井均は「マンガは哲学する」において性行為を他人に見られるのが恥ずかしく、食事する行為はそうではないということに対して何故だろう、と述べているし、中島義道は「今一番したいことは何ですか」と尋ねられて何故人は「セックスです」と言えないのだろうかと疑問に感じているが、それはそれで正直な感慨であると言ってよい。
要するに私は性行為とか性に纏わる嗜好性自体に関心のある者は関心を持ち、あまりそうではない者は持たなければそれでいいと考える。それは個人的羞恥の部類であるし、羞恥をあまり感じないということも個人差の問題だから致し方ない。
よく結婚生活を営み一定程度きちんと性的行為に満たされた者はあまりそういったことについて語りたがらないということは確かに一定程度言えることであるが、ここに仮に性行為を十分結婚生活とか恋愛生活において満たされてさえ、尚そのことに関してもっと高次の欲求とか願望を抱くことさえ罪悪であるとは考えない。つまりそうであることによって自己嫌悪に悩んだり、あまりそういうことに関心のない他者に関心を強要したりして迷惑をかけないのであれば、渇望もまた悪いことではなく、変態的であるとされる行為に対して強い関心を抱くことさえ罪悪ではない、と私は考える。要するに私はそれが羞恥に属することであるという見解自体も一定の社会的ステレオタイプであると考えるからである。
だから妄想の範囲内に留めずにそれを実践したとしても、それは相互のそういった嗜好を認め合う者同士であるなら許され得ることだと私は思うし、違う価値観の者に対して強要する権利は誰にもない、それは性的嗜好に格別の関心を持つ者に対して関心のない者が堕落であるとして糾弾したり、逆に関心のない者に関心を強要したりしてそれを果たし得ないことに対して軽蔑したりすることは、双方とも同じ罪を犯していると言える。
つまり自分にとって正しいことというのが相対的であると言える人、あるいは考えられる人というのがいる一方で、他方それではいけない、それでは信念とは言えない、従ってある考えを持っているのなら、それが絶対である筈だ、従って今自分が信じている正しいこと以外に一切正しいことなどないし、またそうあるべきだ、という考えで生きている人もいる。
しかしこれはある意味ではかなり個人において、その瞬間毎に要求される世界からの、つまり外部状況とか社会からの要請によってこの二つの態度は使い分けられていると言えるだろう。つまりある時には自分が今信じている信念を正しいと思っていても、それ以外のもっと正しい、あるいは正しいと自分では言えないにしても、間違っているとも言い切れない考えもあるのだ、とそう判断すべき時もあるし、逆にそれではまずく、あくまで自分の信念を正しい絶対のものであるとしなければならない時もある。後者は何か特定のことを行為として遂行している時とか、履行している時には相対的判断を差し控えることをする必要があるだろうからだ。
しかし正当的見解ということと、個人毎に異なっているし、一々他者に口外する必要のない多くの私的な思念、あるいは公にする必要のない性向、嗜好といったことはある部分ではかなり個人的な羞恥に抵触する部分である故、それを論じること自体は、論理的なことだけでは済まなくなるので、実はかなり難しいのである。
その一つは性の問題であろう。例えばホモセクシュアルとかレズビアンといったことは、それ自体少なくとも私にとっては悪ではない。つまりそれを理解出来なければ歪んだ正統主義だと言って、称揚すべきものでもなければ、それをしたら害悪であるとまさに聖書で触れられているような意味でモラル論的に悪と決め付けられないことである、と少なくとも私はそう思っている。
しかし聖書と言うか、聖書に対する解釈としてもそうだし、あるいは民族の結束とか国家の秩序を個人の幸福よりも優先するような立場、つまりそれらは崇高で、同性愛といったものは汚らわしいと決め付ける考えの中には、極度の羞恥が顕在化していると私には思える。
私自身は同性愛的な経験と言えば、親しい同性の友人との交友関係において、憧れの同性という形で抱く理想型としての偶像という意味でしか経験はない。ビートルズの若き日に憧れるとかそういうくらいのことである。従ってそれが即性行為へと直結したことは未だかつて一度もなかったし、心にそういう願望を抱いたこともない。あるいは心に同性に対して恋心を抱くことがあってもいけないとも思わないし、あるいは同性との性行為を憧れることもないが、憧れていても実行に移さなければよくて、実行に移せば悪であるとも思わない。あるいは思っていてさえ罪悪であるとも思わない。
つまりそれらは個人毎に異なったタイプの「そういうことがしたい」という気持ちがあっていいということだ。だからこれだけは言えることであるが、民族的結束とか国家秩序のような崇高なことに比してそれらは汚らわしいとも私は思わない。勿論民族の結束とか国家秩序それ自体も決して蔑ろしてはいけない問題であるが、同時にそういった公の問題だけが最も崇高であるとも思っていない。従って性的堕落者を社会の害悪であると決め付けて、弾圧したり、差別したりすることに対しても抵抗があり、それは端的に間違った考え方である。性的な肉体関係を一度も生涯持たない人がいたとしても、そのこと自体を「だから私は崇高である」と信じて疑わない限り、私はそれもまた一つの選択肢であると思うし、またそういう人のことを信じられない、気の毒にとそう思うこともおかしいと思う。
つまり自分以外の性的な選択肢は全てそれなりに尊重すべきであると思うし、私自身は、性的に大いに関心があるけれど、それが他の一切の関心を著しく上回っているとは自分自身思ってもいないし、しかしやはりそれらの関心や好奇心は必要なものである、とそう思っている。性的な妄想も他者に一切迷惑がかからない範囲で全て許されると思っている。
また性的堕落者に対して人間の屑であると思い、それよりは崇高なことを志向している人間を気高いと思っている人ははっきりと言って嫌いであるし、性的にモラル論的に実直であっても、国家主義的な秩序の方を、例えば戦争やその勝利を賛美して性的堕落者と性的嗜好の通常とは違ったと思われている(一体何が通常であると言うのだろう?)人を極度に差別する人は、端的に私の価値観の中ではかなり重度の精神疾患であると思う。
ニンフォマニアックも、サティライアーシスもそのこと自体で人生全体を精神的に崩壊に導かない限りで、殺人や戦争よりは害悪度はずっと小さいと思う。
確かに通常の社会生活において性的嗜好における極度の高次快楽追求は、危険性がないとは決して言えない。しかしそれらが社会生活に甚大なるマイナス要因にならない限りでそれらは一切許容される範囲内の嗜好である、と私は考える。またそういった嗜好のある人は、そのこと自体で深く自己嫌悪をし、そのことで深く後悔をしないのであれば、淫乱的多情ということさえ許されると思うし、それは個人内での判断に一切を任せるべきであると考える。つまり個人内部でそういった一切の通常ではない快楽追求を控えるべきであると思えば、それを勝手に実践すればいいのであり、その信条を他者に強要すべきではなく、また他者から強要されることもよくないことであると思っていていいと思う。
私自身は性的妄想においては殆ど全てのことを想像しさえするが、そうかと言って、それを全部は実践出来ないが、それを全て実践している人がいたとして、そういった人自身が深く後悔したり、不幸な感情に見舞われたりしないのであれば、それも許されるとさえ考えている。
私自身は端的に性的な妄想はそれ自体豊かな想像力を育むとさえ考えている。ギョーム・アポリネールの「一万一千本の鞭」というメルヘンティックな小説は端的になかなか優れたポルノである。そこに描出されている世界は、あり得そうで、あり得ないかも知れないと思わせる微妙な境界線上のものである。あるいはそう考えるのは私自身の性的嗜好があまり特別高次快楽を追求出来ないタイプだからかも知れない。
あるいは永井均は「マンガは哲学する」において性行為を他人に見られるのが恥ずかしく、食事する行為はそうではないということに対して何故だろう、と述べているし、中島義道は「今一番したいことは何ですか」と尋ねられて何故人は「セックスです」と言えないのだろうかと疑問に感じているが、それはそれで正直な感慨であると言ってよい。
要するに私は性行為とか性に纏わる嗜好性自体に関心のある者は関心を持ち、あまりそうではない者は持たなければそれでいいと考える。それは個人的羞恥の部類であるし、羞恥をあまり感じないということも個人差の問題だから致し方ない。
よく結婚生活を営み一定程度きちんと性的行為に満たされた者はあまりそういったことについて語りたがらないということは確かに一定程度言えることであるが、ここに仮に性行為を十分結婚生活とか恋愛生活において満たされてさえ、尚そのことに関してもっと高次の欲求とか願望を抱くことさえ罪悪であるとは考えない。つまりそうであることによって自己嫌悪に悩んだり、あまりそういうことに関心のない他者に関心を強要したりして迷惑をかけないのであれば、渇望もまた悪いことではなく、変態的であるとされる行為に対して強い関心を抱くことさえ罪悪ではない、と私は考える。要するに私はそれが羞恥に属することであるという見解自体も一定の社会的ステレオタイプであると考えるからである。
だから妄想の範囲内に留めずにそれを実践したとしても、それは相互のそういった嗜好を認め合う者同士であるなら許され得ることだと私は思うし、違う価値観の者に対して強要する権利は誰にもない、それは性的嗜好に格別の関心を持つ者に対して関心のない者が堕落であるとして糾弾したり、逆に関心のない者に関心を強要したりしてそれを果たし得ないことに対して軽蔑したりすることは、双方とも同じ罪を犯していると言える。
Monday, August 2, 2010
第三十章 無の壁
我々は目標設定をし、意志を明確化し、意志決定の合理化のために多くのデータを参照する。その際に確定的な真理に対してそれを価値として設定する。そして一旦設定した価値はそうたやすく設定基準もそうであるし、それ自体も解除することは出来ない。だからこそそれを価値と我々は呼ぶわけだ。しかしある意味では価値とはそれを基軸に、価値に相応しいこと、価値に近づくような行為や思想、言動、決心といったことが考えられていき、それは要するに「~らしさ」とか「生き方」を固定化させていく。つまり「あなたには~であることが価値であるのだから、それを心がけていくことが大切です」という言辞には確かにそれなりに有り難いものはある。しかしそういった物言いにだけ縛られていくことも往々にしてある。つまり言葉による規定(プリンシプル)が我々の行動意志を呪縛していくのである。その時我々は自由を疎外していく運命にある。これはかなり厄介なことなのである。何故なら我々は日常的にかなりの度合いで言葉によって全てを決定し、決心しているとも言えるからだ。だから言葉外的な決心というと生物的な野蛮な本能的判断という風に評定されかねないからだ。
しかし言葉、言語行為全般に対して我々はあまりにも過大な価値を、しかもそれも人間的価値、人間学的基礎的な価値として見過ぎているということを悟ることが出来る。
つまり言語自体がある意味ではかなり動物的行為でもある、という側面からの判断を一切忘れ去ってしまっているからである。つまり意思疎通欲求という側面から考えれば言語行為以上に本能的なことはない。しかしにもかかわらず、その本能的欲求がかなり大きなものであるために、それを自己正当化するために、それを人間学的最高の知性とか、理性という名において美化してきた、ということがある部分では哲学史の本質でもあるのだ。
つまり欲求が過大であること、そしてその欲求へと向けた未来を投企する場として設定して日々を送る我々にとって「~らしさ」(自分らしさでもいいが)、「生き方」といったこと、そういった全ての「心がけ」自体が一つの現実の現在的時点での我々にとって我々の内的欲求によって設定され、作られた無である。しかもその内発的欲求によって動因された設定基準自体が我々の未来へと差し向けられた行動の足枷となってしまうのである。
これは無自体の壁に我々が日々苛まれているということである。
このことは養老孟司氏は「バカの壁」と呼んだわけだ。あるいはマックス・ヴェーバーはそういったスタンスを理念型と呼んだわけだ。だから逆に我々はこの壁自体を切り崩すことを寧ろ諦め、それを活用することを考えた方がよい。つまり壁自体に自分自身を救って貰うように計らうのである。つまり自分で設定した意味の呪縛であるところの無の壁という設定基準自体に対してまるで神に対する姿勢であるかのように、「これ以上は今の私には出来ませんから、今後の成り行きを見守り下さい」と呼びかけるわけである。
だからその時寧ろその設定された「~らしさ」や「生き方」を否定するのではなく、自分自身がそこまでは到達し得ない無力を悟るために利用するわけだ。そしてその理想的設定基準よりも少し低めであり、もっと現実的で現時点での自分に相応しい基準をもう一度設定し直すわけである。そこから実存型とも言い得る知恵が発生するのである。
有り難い無の壁によって壁を乗り越えるための処方を見出すのではなく、ただその壁に寄り添って、とこまでも歩いていくということを考えるのだ。そうすれば、壁のない方向にこそ自己の進むべき地点が見出されるということもあり得る。それは別種の価値を見出すために、諦めるために設けられた取り敢えずの価値であると言える。つまり次のように無の壁を定義しておこう。無の壁とは壁を避けて別方向へと意識を差し向けるための方便である。
しかし言葉、言語行為全般に対して我々はあまりにも過大な価値を、しかもそれも人間的価値、人間学的基礎的な価値として見過ぎているということを悟ることが出来る。
つまり言語自体がある意味ではかなり動物的行為でもある、という側面からの判断を一切忘れ去ってしまっているからである。つまり意思疎通欲求という側面から考えれば言語行為以上に本能的なことはない。しかしにもかかわらず、その本能的欲求がかなり大きなものであるために、それを自己正当化するために、それを人間学的最高の知性とか、理性という名において美化してきた、ということがある部分では哲学史の本質でもあるのだ。
つまり欲求が過大であること、そしてその欲求へと向けた未来を投企する場として設定して日々を送る我々にとって「~らしさ」(自分らしさでもいいが)、「生き方」といったこと、そういった全ての「心がけ」自体が一つの現実の現在的時点での我々にとって我々の内的欲求によって設定され、作られた無である。しかもその内発的欲求によって動因された設定基準自体が我々の未来へと差し向けられた行動の足枷となってしまうのである。
これは無自体の壁に我々が日々苛まれているということである。
このことは養老孟司氏は「バカの壁」と呼んだわけだ。あるいはマックス・ヴェーバーはそういったスタンスを理念型と呼んだわけだ。だから逆に我々はこの壁自体を切り崩すことを寧ろ諦め、それを活用することを考えた方がよい。つまり壁自体に自分自身を救って貰うように計らうのである。つまり自分で設定した意味の呪縛であるところの無の壁という設定基準自体に対してまるで神に対する姿勢であるかのように、「これ以上は今の私には出来ませんから、今後の成り行きを見守り下さい」と呼びかけるわけである。
だからその時寧ろその設定された「~らしさ」や「生き方」を否定するのではなく、自分自身がそこまでは到達し得ない無力を悟るために利用するわけだ。そしてその理想的設定基準よりも少し低めであり、もっと現実的で現時点での自分に相応しい基準をもう一度設定し直すわけである。そこから実存型とも言い得る知恵が発生するのである。
有り難い無の壁によって壁を乗り越えるための処方を見出すのではなく、ただその壁に寄り添って、とこまでも歩いていくということを考えるのだ。そうすれば、壁のない方向にこそ自己の進むべき地点が見出されるということもあり得る。それは別種の価値を見出すために、諦めるために設けられた取り敢えずの価値であると言える。つまり次のように無の壁を定義しておこう。無の壁とは壁を避けて別方向へと意識を差し向けるための方便である。
Tuesday, July 6, 2010
第二十九章 神という価値
哲学者、永井均は、神とは全てを創造することは出来たとしても、その創造した個々の気持ちにだけはなれないと考えている。しかし神とはそもそも何らかの苦悩を背負い込んだ人類の誰かが、最初「神」と発した、結局自分以外の誰しも自分の苦悩を除去してもくれなければ、自分の苦悩を自分のように生きることが出来ないという現実を前に、藁をも縋る気持ちで自分を救ってくれる存在を仮想して生み出したものである。だから恐らく所詮自分の内部でどうにかする以外に一切の手立てがないということ(諦観)が神という概念を生んだのだから、最初からそんなものは実在するものの概念ではないということも了解出来る。
しかもそのことが図らずも永井均の疑問に答えることにはならないかも知れないが、少なくとも「何故世界中で、しかもある特定の時代に生きているこの自分だけが私であり得るのか」という疑問に対して理解の端緒となる考えとは全てを創造することが出来たとしても、その創造された個々の気持ちにはなれないということであるなら、全知全能という定義に逆らうことになるから、所詮神とは我々の心が生み出した幻想であるということを知るために世界中で、しかもある特定の時代(それは私にとってはこの文章を書いている2009年10月7日という時点を五十歳で生きるという現実)のこの私が自分であるということの理由かも知れない。つまり誰も私以外にこの自分であることが出来ないという論理的には決してその理由を語れなさが逆に藁をも縋る気持ちで神を生み出したが故に、その実在しない神によって我々は救われ得ない。すると必然的に神といういもしないものに縋るということもまた内心では自由なのだが、そういう気持ちになることで少しでも今のこの苦悩を除去出来るのであればそれはそれで自由である(私はそうは思えないタイプである)が、要するに全ての痛み、感情、苦悩の全ては所詮誰も助けられないということ、この孤独の中でそういう自分を生きる私を救えるものは自己責任(自分の気持ちにありよう)でしかないということを知るために神はいない、そして神がいたとしても、神にさえ自分で作った個々の存在者の気持ちにだけはなれないということを知るためだけに、世界中で、「この」特定の時代に生きるこの私だけがたまたま自分であるという超偶然を「神が与えた」と考えるしかなくなってくる。勿論それは同語反復的問いとなってしまうし、第一神などいはしない。するとその冷厳な現実を知らしめるためだけに「神は世界中で、特定の時代のこの特定の身体を生きることが私であるという現実を作り給うた」ということになるし結局無限後退を来たすようになる。神ではなくて自然でもよい。しかしそれでも尚しっくり来ない。要するに世界そのものとは世界を世界であると言えるこの私を置いて他ではあり得ない。だからこそ自分がこの特定のこの私でしかあり得ないことの理由となる。つまり自分以外の存在にはなり得ないということを知るためにだけ「恐らく」我々は自分以外の身体でも意識でも世界の他の誰でもないこの自分だけが私である(私だけが自分であるでもいい)という現実を付き付けている(無限後退を防ぐためにそれは神による思し召しではない)ということになる。
つまりそのようにしか説明し得ないという冷厳な現実から逃避するために、しかし少なくともその論理的逃避でしか自分を救えない者のためにだけ神という概念は価値的に存在し得る。それはだから実在概念であるかのように思えるが、実は価値概念、つまり世界中の誰をもこの自分にはなり得ないということ、誰も本質的にこの自分を救ってくれることはないということを知ることが、この弧絶を生き抜く上で一時論理的に考究し続けていくことの中で「それでも誰かはこの自分の苦悩を理解し、何とかしてくれる」とそう思い込むことを通して苦悩を乗り切るためにだけ「神」という概念には存在理由があるとしたら、それは端的に実在概念ではなく、価値概念に他ならない。
実は永井均以外でもエルヴィン・シュレーディンガーもまた似たようなことを「わが世界観」(ちくま学芸文庫、橋本芳契監修、中村量空・早川持信・橋本契訳)で語っている(第五章 ヴェーダーンタの世界像 より、特に97から101ページより)
しかしこのシュレーディンガーや永井均の問い自体は実はもう一つの問いを産出する。それはコリン・マギン(マッギンとも)が考えているコグニティヴ・クロージャー説である。つまり神は空間自体も作り、時間自体も、全てのものも作った。しかしその個々の空間や時間やものの気持ちにはなれない。それは私が絵を描くことをしても、一つ一つの作品の気持ちにはなれないという論理を編み出さざるを得ない。しかしその論理は一つある飛躍がある。それは我々にはこの身体を離れても魂があるのではないかという問いと、ものには果たして心があるのかないのか、という問いである。
仏教をはじめ全ての宗教は死後我々はどうなるのかと問うてきたし、勿論それを立証することなど一つの宗教も出来はしなかった。しかしその出来なさ自体が逆に死後の世界などないとも言い切れはしないことになるし、またそれこそデヴィッド・チャーマーズの言うようにサーモスタットにも心があるのかないのかも証明出来はしないという問いを産出する。それは空間とか無自体の性質を科学は決してこれまで証明してはこなかったというマギンの問いをもここで見直させる。
もしピカソが描いた数万点の絵画やアート作品のようの一点放射状に神が存在物を創り給うたということであるなら、確かに神にさえ空間とか無とかものの気持ちになれはしない。しかしそうなると八百万の神という発想にはかなり説得力が出てくる。つまりチャーマーズの問いのように全ての存在物には心があるのかも知れないという考えを通してである。だからその考えは死んでこの肉体が滅んでも魂は不滅かも知れないという考えの可能性をその問いは引き出している。
しかし興味深いことには、神とは自分自身に対して自信を喪失している時に縋るべき対象としての神と、そうではなくかなり自信に満ちている時に自戒の念を忘れずに、自己の慢心を予め抑止する意図から神を尊崇する時にでは異なっているタイプの感情と気分ではないかということだ。つまり縋る神とはどんな些細な能力の保持においても、縋る立場からすれば喜ばしいことであるし、感謝感激雨霰である。しかし自信に満ちている者にとっては神によるこれまでの自分自身の幸運とか恩寵に対する感謝の念が逆に神でさえ弱く、完全無比ではなく、絶対ではないということに対する諦観があり、それは神自体に対する思い遣り、あるいは完全無欠さ自体にある綻びに対するある種の覚醒によって、神自体へ憐憫さえ有している。この時自己内の他者に対する敬意とか配慮自体に内在する自己ではなかなか気づかないタイプの慢心、つまり尊大がある。
つまり感謝の念が子ども的心理である内はいいが、大人的な礼儀となっている時に寧ろ尊大が潜在的に潜んでしまうというアポリアがあるのだ。
つまり神はその点でも実在概念ではなく、あくまで価値概念、つまり我々の内心の自己に対する謙虚さに対するバロメータであると言える。
しかもそのことが図らずも永井均の疑問に答えることにはならないかも知れないが、少なくとも「何故世界中で、しかもある特定の時代に生きているこの自分だけが私であり得るのか」という疑問に対して理解の端緒となる考えとは全てを創造することが出来たとしても、その創造された個々の気持ちにはなれないということであるなら、全知全能という定義に逆らうことになるから、所詮神とは我々の心が生み出した幻想であるということを知るために世界中で、しかもある特定の時代(それは私にとってはこの文章を書いている2009年10月7日という時点を五十歳で生きるという現実)のこの私が自分であるということの理由かも知れない。つまり誰も私以外にこの自分であることが出来ないという論理的には決してその理由を語れなさが逆に藁をも縋る気持ちで神を生み出したが故に、その実在しない神によって我々は救われ得ない。すると必然的に神といういもしないものに縋るということもまた内心では自由なのだが、そういう気持ちになることで少しでも今のこの苦悩を除去出来るのであればそれはそれで自由である(私はそうは思えないタイプである)が、要するに全ての痛み、感情、苦悩の全ては所詮誰も助けられないということ、この孤独の中でそういう自分を生きる私を救えるものは自己責任(自分の気持ちにありよう)でしかないということを知るために神はいない、そして神がいたとしても、神にさえ自分で作った個々の存在者の気持ちにだけはなれないということを知るためだけに、世界中で、「この」特定の時代に生きるこの私だけがたまたま自分であるという超偶然を「神が与えた」と考えるしかなくなってくる。勿論それは同語反復的問いとなってしまうし、第一神などいはしない。するとその冷厳な現実を知らしめるためだけに「神は世界中で、特定の時代のこの特定の身体を生きることが私であるという現実を作り給うた」ということになるし結局無限後退を来たすようになる。神ではなくて自然でもよい。しかしそれでも尚しっくり来ない。要するに世界そのものとは世界を世界であると言えるこの私を置いて他ではあり得ない。だからこそ自分がこの特定のこの私でしかあり得ないことの理由となる。つまり自分以外の存在にはなり得ないということを知るためにだけ「恐らく」我々は自分以外の身体でも意識でも世界の他の誰でもないこの自分だけが私である(私だけが自分であるでもいい)という現実を付き付けている(無限後退を防ぐためにそれは神による思し召しではない)ということになる。
つまりそのようにしか説明し得ないという冷厳な現実から逃避するために、しかし少なくともその論理的逃避でしか自分を救えない者のためにだけ神という概念は価値的に存在し得る。それはだから実在概念であるかのように思えるが、実は価値概念、つまり世界中の誰をもこの自分にはなり得ないということ、誰も本質的にこの自分を救ってくれることはないということを知ることが、この弧絶を生き抜く上で一時論理的に考究し続けていくことの中で「それでも誰かはこの自分の苦悩を理解し、何とかしてくれる」とそう思い込むことを通して苦悩を乗り切るためにだけ「神」という概念には存在理由があるとしたら、それは端的に実在概念ではなく、価値概念に他ならない。
実は永井均以外でもエルヴィン・シュレーディンガーもまた似たようなことを「わが世界観」(ちくま学芸文庫、橋本芳契監修、中村量空・早川持信・橋本契訳)で語っている(第五章 ヴェーダーンタの世界像 より、特に97から101ページより)
しかしこのシュレーディンガーや永井均の問い自体は実はもう一つの問いを産出する。それはコリン・マギン(マッギンとも)が考えているコグニティヴ・クロージャー説である。つまり神は空間自体も作り、時間自体も、全てのものも作った。しかしその個々の空間や時間やものの気持ちにはなれない。それは私が絵を描くことをしても、一つ一つの作品の気持ちにはなれないという論理を編み出さざるを得ない。しかしその論理は一つある飛躍がある。それは我々にはこの身体を離れても魂があるのではないかという問いと、ものには果たして心があるのかないのか、という問いである。
仏教をはじめ全ての宗教は死後我々はどうなるのかと問うてきたし、勿論それを立証することなど一つの宗教も出来はしなかった。しかしその出来なさ自体が逆に死後の世界などないとも言い切れはしないことになるし、またそれこそデヴィッド・チャーマーズの言うようにサーモスタットにも心があるのかないのかも証明出来はしないという問いを産出する。それは空間とか無自体の性質を科学は決してこれまで証明してはこなかったというマギンの問いをもここで見直させる。
もしピカソが描いた数万点の絵画やアート作品のようの一点放射状に神が存在物を創り給うたということであるなら、確かに神にさえ空間とか無とかものの気持ちになれはしない。しかしそうなると八百万の神という発想にはかなり説得力が出てくる。つまりチャーマーズの問いのように全ての存在物には心があるのかも知れないという考えを通してである。だからその考えは死んでこの肉体が滅んでも魂は不滅かも知れないという考えの可能性をその問いは引き出している。
しかし興味深いことには、神とは自分自身に対して自信を喪失している時に縋るべき対象としての神と、そうではなくかなり自信に満ちている時に自戒の念を忘れずに、自己の慢心を予め抑止する意図から神を尊崇する時にでは異なっているタイプの感情と気分ではないかということだ。つまり縋る神とはどんな些細な能力の保持においても、縋る立場からすれば喜ばしいことであるし、感謝感激雨霰である。しかし自信に満ちている者にとっては神によるこれまでの自分自身の幸運とか恩寵に対する感謝の念が逆に神でさえ弱く、完全無比ではなく、絶対ではないということに対する諦観があり、それは神自体に対する思い遣り、あるいは完全無欠さ自体にある綻びに対するある種の覚醒によって、神自体へ憐憫さえ有している。この時自己内の他者に対する敬意とか配慮自体に内在する自己ではなかなか気づかないタイプの慢心、つまり尊大がある。
つまり感謝の念が子ども的心理である内はいいが、大人的な礼儀となっている時に寧ろ尊大が潜在的に潜んでしまうというアポリアがあるのだ。
つまり神はその点でも実在概念ではなく、あくまで価値概念、つまり我々の内心の自己に対する謙虚さに対するバロメータであると言える。
Tuesday, April 13, 2010
第二十八章 真理・欲求・親しくなること
人間とは何故他者と親しくなるのかと考えると、意外とそれは言葉を知って、言葉を利用してあらゆる思考をしているのに、その言葉の無力を感じた時、そのことに対して共感したということかも知れない。何故なら私たちの言葉とは端的にあるのかないのか本当は分からないのに、あるものとして「世界」と名づけたものに対して、それぞれ、個物に対して、あるいは現象に対して命名して、意味づける。つまり何物、何事に対してもそれを「あるもの」としてそういう枠組みの中に位置づけることこそが言葉の力である。すると我々は世界の実像を知る以前に言葉の力によって既にある程度の目星をつける。つまり世界を一つの性格とか性質の下で理解しようとする。その段で既に我々は意味づけられた秩序の下で全てを理解しようとしている。しかしそうすることはある意味では実(そんなものがあったとしての話しとして)自体と常にどこかでずれてもいることを我々は直観的に知っている。例えば異性に対して惹かれるということは、ある部分では相手の実に対する勝手な思い込み、要するに誤解からである。しかしある時自分が惹かれる異性が自分にとっての理想であることを感じていたことを裏切るような態度とか言動をその異性が自分に突きつける。その時私たちは自分勝手な相手に対する意味づけそのものが挫折したことを知る。つまりその意味づけに対する挫折体験の共有事実こそがある他者と共感し合うことであり、親しくなることなのだ。ふられた者同士が親しくなるような意味で、友人というものは理解し合うようになるという要素がある。
その意味では従来から哲学では真理とは不変なことであり、それに対して欲求とは常にころころと変わると、まるで真理を理想であるかの如く扱い、逆に欲求を低位に位置づけてきたと言える。しかしよく考えると常にころころと変わるという現実自体に我々が翻弄され続けてきたからこそ、我々は不変のものをどこかで求めてきたのだ。従って我々にとって真理とは求めるものである。つまり真理とは欲求であり、欲求が生み出しているものである、とも言えることになる。それに欲求というものが心の中に実際の実在物と同じようにではないにしても、存在するということを取り敢えず我々は真理としている。つまり真理と欲求とは実はかなり親縁的関係にあることが了解される。
つまりここで言う理想とか真理とは一つの価値である(例えばただ生きていたっていいのに中島義道+香山リカによる対談本のタイトルのように「生きているだけでなぜ悪い」と言いたい気持ちもあるが、どういうわけか我々は「生き方」を求めてしまうが、これもそうかも知れない)。そしてその価値は自分内部の勝手な思い込みでもある。だからこそその思い込みの度合いが気になるということそのものは他者存在自体への私内部の意識である。
例えば人間のすることで100パーセント正しいことなどあり得ない。しかし私たちはその都度最良の、あるいは最適な判断とか行動というものがある、と固く信じている。勿論その判断とか行為とは別の状況では成り立たないこととしてである。それはある意味ではかなり個々の状況自体が独立していて、まるで私という存在が他者とは一切違って感じられるということと似ている。このことを唯今論とか独今論と永井均は言っている。
しかしその都度正しい判断、適切な言動というものがあると信じていても、我々は同時に常に適切で正しい判断だけをする人間を信用するであろうか?寧ろ我々は積極的にそのように公平無私な人間を信用したくはないという気持ちを持つ。これは実は我々が理想とか真理を一方で信じていながら、実はそれは全く完全無比であるが故に現実離れしており、そのものが全て実現されたら、息が詰まるということをどこかで直観的に知っている証拠である。それら一切が幻想じゃないかと薄々知っている(そう疑っている)証拠である。
つまり完全とか完璧とか無誤謬ということ自体が実在的には一つの幻想であると私たちは皆知っているのである。個々の状況において正しいことは「全体的には正しくはない」ということを我々は知っている(だからこそ個々の人格としては素晴らしい官僚を指導していく政治的能力はかなり大変なものなのであるが)。
自分が何故存在するのか、何故あらゆる条件が付与されているということの存在理由(説明的理由、外在的価値、公共的原理)とは別個の私が存在し得るのかという疑問が永井均の哲学命題であるが、その疑問の解決の端緒となり得ることを敢えて探ろうとするとこうなるのではないか?
存在と無とか、意識存在とゾンビとかそういう意味づけ自体が既に一つの幻想であるとしたら、またその幻想をそれなりに理解していると自分で思っているのなら、その幻想の体験者が自分であることになる。しかしその幻想を気づくのは常に自分だけではないと私は思う。しかしそれを知っているのも自分だけである。つまり全ての自分以外の他者が自分と同じようにそう幻想しているということ自体も幻想であり得る。しかし少なくとも表面上では私にとって親しい他者は私の感じている不思議、つまり「世界」という枠組み自体が幻想であると感じることに共感している。いやそれどころかこの自分にだけしか理解出来ない固有の感じさえ説明すれば理解して貰えるようにも思う。しかしそれは相互に共感し合っているという幻想を持っているだけかも知れない。只の錯覚である可能性も常に残される。
そうなると我々はある地点から必ず他者が自分の言っていることを理解してくれていると「信じている」ことになる。つまり相手の言っている「君の言うことは理解出来るよ」という言葉を信じることが一つの私を作っている要素であるとは言える(永井均なら「それは公共的私」であり他者ではない私ではないと言い張るかも知れない。しかし実際のところそういった私自体もまた、実はそうやって相手を信じることにする私によって生み出されているのではないか?)。勿論相手はただ社交辞令でそう言っているだけかも知れない。しかしそれはそう疑えばいつまで経ってもきりがないことでもある。そのことにも我々は気づく。そしてある時決意する。相手を信じようと。しかしその決意とはもしそれが間違いであっても、自分は後悔しないということである。つまり「あの時相手を信じていなければこんなことにならなかった」と騙されたことを悔やむよりも、騙されても相手を信じてあげたことは間違いではなかった、少なくとも自分にとってはいいことであった、という決断、価値判断である。
しかしその価値判断はやはり誰かのためにすることではない。あくまで自分のためにすることである。だから相手が宗教的に悔い改めをすることを期待出来るから、一度は信じてあげるのではない。つまりあくまで「そう信じることはいいことである」という自分にとっての真理を価値とした判断である。その時そのように信じられる(それは私が見ている赤も、あなたの見ている赤も概ね同じである筈だという信念と同じであるが)という独在論、純粋自我論として我々は「信じる」という決断が一つの諦観、諦めであることを知る。だからこそそれは価値というものが自分にとっての価値であるという第六章の問いへと戻る。
つまり私とは何故他者と違うのかという問いは、永遠の問いであるから答えられない。故にそれをある一つの答えだけで答えようとすることには確かに欺瞞がある。それはあたかも世界があるかのように「世界」と命名することと同じであるが、その命名行為自体が大いなる一つの諦めであることを知る。そして諦めることを出来る、つまり「今自分が諦めている」と言えるのは私を置いて他にはいない。そこで私はデカルトの言説をこう言い換えることも出来る。「我諦める故に我あり」と。
つまり我々はある部分では問い続けることを諦めないが、一語で、一つの説明だけでは決してその永遠の問いに答えることなど出来はしないということを知り、尚且つ問い続けることだけは止めないという反復を決意する。その決意がまた一つの「信じる」である。
つまり私は私自身内部で抱えた問いを、他者と共感し合い、理解し合うということのために一旦問いに対して何らかの答えを出すことを諦めることによって全ての意思疎通を成立させるのだ。その時全ての局面、状況で私は私にしか理解出来ずにいて、しかしそれを誰か他者に告げても一切本当に理解し合えているかどうかは確かめらないということを知っていて、その自分にしか理解出来ないことを他者と分かち合うこと自体をどこかで仕方なく諦めていることを自分で知っている。そしてその気持ちも他者とは分かち合えない。
しかしその分かち合えなさ自体は恐らく他者にとっても恐らくそうであろう、とここでも信じることに「する」のだ。
実はこの「する」という決意自体が、その時々での真理であり理想と我々は位置づけているもののことだ。勿論無意識的にではあるが。そうなるとこの「する」ということ、つまり決意自体もあるものとして「世界」と名づけることと同じメカニズムであることになるし、また他者と親しくなることとも同じメカニズムであることになる。つまりあくまで「我諦める故に我あり」となる。そしてその諦め自体の自分にとっての固有の本質はやはり説明不可である。説明し尽くそうと思っても、それはこの世に完全無比が存在しないような意味でやはり不可能である。しかしそのようには行かなくても、どこかで我々は親しくしたい他者との間では手打ちに「する」。
ここで 「する」=決意(する)=信じる=親しくなる=親しくする=完全などこの世(世界)にはないと諦める=命名する(言語行為をする、参加する)という図式が成立する。すると実は言語行為をするという決意は、一方で言語の無力を知り、だからこそ相手(親しい人と)としているのに、その言語の無力自体を確かめ合うためにやはり言語以外のものでは表しようがないことを相互に覚醒することだから、「相互に諦めることを承認し合う」ということになる。
しかしここでも実は永遠に相互に理解し合うことに「する」わけだから、永井均の問いには答えられないことになる。つまりデカルトは出発点を用意しただけで決して私を解明したわけではないように、やはり「我諦める故に我あり」自体が他者との間で一般化されてしまう。しかしだからこそ我々は相手も「恐らく同じ気持ちでいるのだろう」と「信じる」ことに「する」のである。
しかし私には永井均のゼロ次元の問いをある部分で解決し得るのは、「信じる」ということ、つまりそれは「諦める」ことでもあるのだが、その心の決意からしかあり得ないように思われるのである。何故ならそうでなければ、いつまで経っても永遠に私とは解明され得ないということを誰よりも永井氏が知っておられるだろうからだ。つまりこの問いとは実は私とは誰かという問いであると同時に実は自分にとって他者とは一体何か、という問いと同じこととなる。つまりそれはある部分ではトートロジーなのだ。
それはあたかも真理と欲求を分けることが不可能なように、あるいはある人と親しくすることが、別の誰かとは疎遠となるということを意味しもするようにである。
その意味では従来から哲学では真理とは不変なことであり、それに対して欲求とは常にころころと変わると、まるで真理を理想であるかの如く扱い、逆に欲求を低位に位置づけてきたと言える。しかしよく考えると常にころころと変わるという現実自体に我々が翻弄され続けてきたからこそ、我々は不変のものをどこかで求めてきたのだ。従って我々にとって真理とは求めるものである。つまり真理とは欲求であり、欲求が生み出しているものである、とも言えることになる。それに欲求というものが心の中に実際の実在物と同じようにではないにしても、存在するということを取り敢えず我々は真理としている。つまり真理と欲求とは実はかなり親縁的関係にあることが了解される。
つまりここで言う理想とか真理とは一つの価値である(例えばただ生きていたっていいのに中島義道+香山リカによる対談本のタイトルのように「生きているだけでなぜ悪い」と言いたい気持ちもあるが、どういうわけか我々は「生き方」を求めてしまうが、これもそうかも知れない)。そしてその価値は自分内部の勝手な思い込みでもある。だからこそその思い込みの度合いが気になるということそのものは他者存在自体への私内部の意識である。
例えば人間のすることで100パーセント正しいことなどあり得ない。しかし私たちはその都度最良の、あるいは最適な判断とか行動というものがある、と固く信じている。勿論その判断とか行為とは別の状況では成り立たないこととしてである。それはある意味ではかなり個々の状況自体が独立していて、まるで私という存在が他者とは一切違って感じられるということと似ている。このことを唯今論とか独今論と永井均は言っている。
しかしその都度正しい判断、適切な言動というものがあると信じていても、我々は同時に常に適切で正しい判断だけをする人間を信用するであろうか?寧ろ我々は積極的にそのように公平無私な人間を信用したくはないという気持ちを持つ。これは実は我々が理想とか真理を一方で信じていながら、実はそれは全く完全無比であるが故に現実離れしており、そのものが全て実現されたら、息が詰まるということをどこかで直観的に知っている証拠である。それら一切が幻想じゃないかと薄々知っている(そう疑っている)証拠である。
つまり完全とか完璧とか無誤謬ということ自体が実在的には一つの幻想であると私たちは皆知っているのである。個々の状況において正しいことは「全体的には正しくはない」ということを我々は知っている(だからこそ個々の人格としては素晴らしい官僚を指導していく政治的能力はかなり大変なものなのであるが)。
自分が何故存在するのか、何故あらゆる条件が付与されているということの存在理由(説明的理由、外在的価値、公共的原理)とは別個の私が存在し得るのかという疑問が永井均の哲学命題であるが、その疑問の解決の端緒となり得ることを敢えて探ろうとするとこうなるのではないか?
存在と無とか、意識存在とゾンビとかそういう意味づけ自体が既に一つの幻想であるとしたら、またその幻想をそれなりに理解していると自分で思っているのなら、その幻想の体験者が自分であることになる。しかしその幻想を気づくのは常に自分だけではないと私は思う。しかしそれを知っているのも自分だけである。つまり全ての自分以外の他者が自分と同じようにそう幻想しているということ自体も幻想であり得る。しかし少なくとも表面上では私にとって親しい他者は私の感じている不思議、つまり「世界」という枠組み自体が幻想であると感じることに共感している。いやそれどころかこの自分にだけしか理解出来ない固有の感じさえ説明すれば理解して貰えるようにも思う。しかしそれは相互に共感し合っているという幻想を持っているだけかも知れない。只の錯覚である可能性も常に残される。
そうなると我々はある地点から必ず他者が自分の言っていることを理解してくれていると「信じている」ことになる。つまり相手の言っている「君の言うことは理解出来るよ」という言葉を信じることが一つの私を作っている要素であるとは言える(永井均なら「それは公共的私」であり他者ではない私ではないと言い張るかも知れない。しかし実際のところそういった私自体もまた、実はそうやって相手を信じることにする私によって生み出されているのではないか?)。勿論相手はただ社交辞令でそう言っているだけかも知れない。しかしそれはそう疑えばいつまで経ってもきりがないことでもある。そのことにも我々は気づく。そしてある時決意する。相手を信じようと。しかしその決意とはもしそれが間違いであっても、自分は後悔しないということである。つまり「あの時相手を信じていなければこんなことにならなかった」と騙されたことを悔やむよりも、騙されても相手を信じてあげたことは間違いではなかった、少なくとも自分にとってはいいことであった、という決断、価値判断である。
しかしその価値判断はやはり誰かのためにすることではない。あくまで自分のためにすることである。だから相手が宗教的に悔い改めをすることを期待出来るから、一度は信じてあげるのではない。つまりあくまで「そう信じることはいいことである」という自分にとっての真理を価値とした判断である。その時そのように信じられる(それは私が見ている赤も、あなたの見ている赤も概ね同じである筈だという信念と同じであるが)という独在論、純粋自我論として我々は「信じる」という決断が一つの諦観、諦めであることを知る。だからこそそれは価値というものが自分にとっての価値であるという第六章の問いへと戻る。
つまり私とは何故他者と違うのかという問いは、永遠の問いであるから答えられない。故にそれをある一つの答えだけで答えようとすることには確かに欺瞞がある。それはあたかも世界があるかのように「世界」と命名することと同じであるが、その命名行為自体が大いなる一つの諦めであることを知る。そして諦めることを出来る、つまり「今自分が諦めている」と言えるのは私を置いて他にはいない。そこで私はデカルトの言説をこう言い換えることも出来る。「我諦める故に我あり」と。
つまり我々はある部分では問い続けることを諦めないが、一語で、一つの説明だけでは決してその永遠の問いに答えることなど出来はしないということを知り、尚且つ問い続けることだけは止めないという反復を決意する。その決意がまた一つの「信じる」である。
つまり私は私自身内部で抱えた問いを、他者と共感し合い、理解し合うということのために一旦問いに対して何らかの答えを出すことを諦めることによって全ての意思疎通を成立させるのだ。その時全ての局面、状況で私は私にしか理解出来ずにいて、しかしそれを誰か他者に告げても一切本当に理解し合えているかどうかは確かめらないということを知っていて、その自分にしか理解出来ないことを他者と分かち合うこと自体をどこかで仕方なく諦めていることを自分で知っている。そしてその気持ちも他者とは分かち合えない。
しかしその分かち合えなさ自体は恐らく他者にとっても恐らくそうであろう、とここでも信じることに「する」のだ。
実はこの「する」という決意自体が、その時々での真理であり理想と我々は位置づけているもののことだ。勿論無意識的にではあるが。そうなるとこの「する」ということ、つまり決意自体もあるものとして「世界」と名づけることと同じメカニズムであることになるし、また他者と親しくなることとも同じメカニズムであることになる。つまりあくまで「我諦める故に我あり」となる。そしてその諦め自体の自分にとっての固有の本質はやはり説明不可である。説明し尽くそうと思っても、それはこの世に完全無比が存在しないような意味でやはり不可能である。しかしそのようには行かなくても、どこかで我々は親しくしたい他者との間では手打ちに「する」。
ここで 「する」=決意(する)=信じる=親しくなる=親しくする=完全などこの世(世界)にはないと諦める=命名する(言語行為をする、参加する)という図式が成立する。すると実は言語行為をするという決意は、一方で言語の無力を知り、だからこそ相手(親しい人と)としているのに、その言語の無力自体を確かめ合うためにやはり言語以外のものでは表しようがないことを相互に覚醒することだから、「相互に諦めることを承認し合う」ということになる。
しかしここでも実は永遠に相互に理解し合うことに「する」わけだから、永井均の問いには答えられないことになる。つまりデカルトは出発点を用意しただけで決して私を解明したわけではないように、やはり「我諦める故に我あり」自体が他者との間で一般化されてしまう。しかしだからこそ我々は相手も「恐らく同じ気持ちでいるのだろう」と「信じる」ことに「する」のである。
しかし私には永井均のゼロ次元の問いをある部分で解決し得るのは、「信じる」ということ、つまりそれは「諦める」ことでもあるのだが、その心の決意からしかあり得ないように思われるのである。何故ならそうでなければ、いつまで経っても永遠に私とは解明され得ないということを誰よりも永井氏が知っておられるだろうからだ。つまりこの問いとは実は私とは誰かという問いであると同時に実は自分にとって他者とは一体何か、という問いと同じこととなる。つまりそれはある部分ではトートロジーなのだ。
それはあたかも真理と欲求を分けることが不可能なように、あるいはある人と親しくすることが、別の誰かとは疎遠となるということを意味しもするようにである。
Wednesday, March 17, 2010
第二十七章 価値の固定化とその不安
私たちはある意味ではかなり惰性的に常に新たな価値の再考を億劫がるので、価値を固定化しておこうと思う。と言うより価値自体に対して一定の固定化可能なもののみを選別しようとする。しかしそれはそうしなければならないくらいに常にその価値判断が誤っていたのではないかという不安も付き纏っているということも意味している。人格とは端的にその最たるものである。つまりある重要な自己にとっての他者の人格を、そしてそういった他者たちに示し得る自己の人格とは陶冶された形で固定化を常に求めている。しかし常に人間には苦悩とか疑問が付き纏っているから、必然的に固定化された価値自体への懐疑も払拭しきることは出来ない。つまりその二つの相反する志向性を常に拮抗させる形で共存させているのが私たちだ、ということである。価値の固定化に帰するところの多い行為は記述であり、言語行為はその都度の価値の固定化を求めているとも言える。思考そのものは寧ろ常に試行錯誤的である。従って不安を払拭する観点からも思考というものの在り方を考えることは可能である。しかし思考とは常にそれを通して「思考されたもの」という固定化を提出すべく用意している。
ある部分では恋とか恋愛もこの価値の固定化に似ている。理想的相手とか理想的恋人とか異性ということでは、我々はかなり日常的な気安さとは別の価値を求めている。だから意外と結婚相手とは手堅く理想とは違っていても生活力とか日常的な親しみやすさとか、要するに観念的理想価値とは離れた実在に対して選択することが多い。つまりこのように理想の恋愛相手ということと、堅実な結婚相手を二重に価値して背負うことが出来るというところに人間の価値自体への捉え方の多義性がある。そして理想の相手という観念的存在の方がより不安を掻き立てることもあれば、逆に手堅いと考えていた存在の方に不安を感じることもあるだろう。あるいは理想自体かかなり堅実に変更不可であるような固定化された価値となっている場合もあれば、逆に理想というものが常に安定性を欠く現実離れしたものの方に視線が向けられるような価値判断も在り得よう。また堅実で現実的な他者こそ友人としても結婚相手としても真に理想であると認識する理性もあれば、そう思っていること自体へ変更や心変わりすること自体を人生の転機として理解する見方、つまり価値転換自体を価値的に捉え得る瞬間も人生にはある。それらは双方とも実は価値自体が固定化され然るべきであるという思想があり、またその固定化され得るからこそ、慎重に選別する必要性も感じ、その二つが常に不安という名の心理によって付かず離れずに内的に存在し続けているということが私たちの精神であると言ってよい。
つまり価値とは一定程度に揺ぎ無いものであるべきであるからこそ、ある時には一大決心において価値転換すべきであると同時に、価値選択には常に不安が付き纏い、また一切不安の付き纏わないものを価値として容認することが出来ないということが私たち多くの一致した観念であろう。
価値自体に対してそれが正当であるか否かを巡る不安があるということは、ある意味では価値自体が一方で自己独自の判断に起因するも、他方それだけではなく、他者の裁量をも合意として仰ぐという要素が心的に我々に備わっているということである。従ってカントが「実践理性批判」や「判断力批判」で示したことはある意味では他者存在そのものであったとも言える。つまり格律に関しても、美的判断に関してもそこに関わるのが他者だからである。
それに不安とは価値の正当を巡る判断の問題だけに留まらない。つまり価値自体が誰しも自己独自の判断をするということを通した共通関心領域として公に設定され得る故、我々は価値を語る時、個々の成員が孤独の内にいつかは死ぬということを忘却出来る。つまり死を巡る個々の弧絶性に起因する不安を相互に除去しようという無意識の内に起きる配慮こそが価値を共通関心領域としてたとえ二人でいたとしても公に設定することの深層心理的理由かも知れない。つまりそれこそが思い遣りの発生根拠である(だからこそ思い遣りとはややもすると甘えへと繋がりやすいとも言える)。つまり公に共通関心領域を設定し得るということの内には基本として親しくなるということがある。その心的作用とは実は個々の成員の死を巡る運命論的弧絶性が潜んでいる。それは共通関心領域に意識を集中させている間は少なくともその不安から除去され得るというところに親しくなる者同士の配慮があるのだ。
その背後には他人の気持ちになって考えるということが我々は想定上容易になし得る一方、実はでは自己同一性とは何かと問われれば、それに返答することの困難に直面する。それは次のシドニー・シューメーカーによる記述に顕著に示されている。(「自己知と自己同一性」前出と同じ)
(前略)昨日のある時点から現在のあいだ中断されない記憶を私が持っているとしよう。また、今私は昨日起こったある「観念」、例えばイメージを覚えており、その観念をもった、あるいは知覚した実体ないし主観をも覚えており、さらにそれがこの観念をもった時点以来、この実体を「見失って」いないことをも覚えている、それゆえ、何もそれと置き換えなれなかったし、それは私の現在の観念を知覚している実体と同一であると確信できるとしよう。私がこのことを覚えていることがありうるとすれば、逆に、ある時点で別の実体に置き換えられたのを覚えていることもありうるし、それが私の現在の観念を知覚している実体と同一ではないのを知ることもできることになろう。私がある事物を知覚できるとして、もし昨日から現在までに観察した(知覚した、覚知した、意識した)ことの記憶が、いま観察している事物が昨日存在していたのを覚えているものと同一であると教えてくれるならば、それは逆に、両者が同一ではないのを教えてくれることもあろう。第二章で述べたように、ロックは、われわれが常に同一の実体のままでいるという考えを疑う根拠として、よく過去の自己を「見失う」という事実に訴えるが、それを通して彼は、ある実体が別の実体によって置き換えられることは可能であり、もしわれわれの意識が中断することがなかったとすれば、この置換が生じたのを見つけることになろう、という考えを示している。というのも、そうした置換が見つかることなく起こるかもしれないと彼が考えるのは、ただ意識が中断するという理由のみによってだからである。だが、もしこの置換が生じたのを見つけるとはどんなことであるかをわれわれが知っているならば、たしかに、いつかそれを見つけるということは想像可能であろう。しかしながら、ここで、昨日その観念をもった(そのイメージを見た)実体が別の実体に置き換えられ、私の現在の観念をもっている実体と同一ではかったのを私が覚えているとしよう。もし人格の同一性が実体の同一性にあるか、それを本質的に含んでいるならば、この例において、覚えている観念が私とは別の誰かに属していたと言わねばならないことになろう。だが、ロックも了解していたように、これは不合理なのである。というのも、私がこのイメージを覚えているとすれば、それをもったのは私だったからである。したがって、われわれはロックと同じ結論を導いて、人格の同一性は実体の同一性を含意しないと言うか(この見解が理解不能ないし自己矛盾であることはすでに論じた)、それとも、物質的対象や他人が一定の期間同一であったとか、そうではなかったとかをわれわれが観察したり覚えていたりするのと同じ意味で、心的実体や自己同一であったとか、そうでなかったとかを観察したり覚えていたりすることはありえないと言うか、どちらかである。(第四章 自己同一性と記憶内容、164から166ページより)
このシューメーカーの記述から読み取れることとは、我々は恐らく皆他人に対してその行為を観察してそれを記憶しておくような意味で自分の行為を記憶するのではないということである。だからこそある物体が昨日見たものと今見たものが同じであるということが証明されることで人格の同一性が判断されるのではないという、内的自明性がここで語られているのである。それは自己同一性とは、他人を観察するようなある種の客観性を基準に判断することによって示し得る同一性では決してない(それは寧ろあなたと私が見たリンゴが同じであるかどうかということの査定にしかならない)ということ、即ち例外的、特殊的、超越的、唯一的なことなのだ。この考えはデカルトの考えを基本としているように思われる(ロックはそれを引き継いでいる)が、ラッセルによってもある部分では継承されてきていることをシューメーカーは明示しており、シューメーカーの考えをある部分で引き継いでいるのが永井均であると言える。
つまりだからこそ価値とは本来判断的には純粋に個人のものであるが、誰しもが自分以外の者に判断を価値的に委ねることが出来ないという事実において他者存在を浮き上がらせる仕組みにもなっている。それは哲学固有の二面性でもある。
つまり他者の判断など価値においは採用すべきではないという個の価値判断の持つ個の責任という考えが実は価値を常に不定であることを忌み嫌い固定化を必然的に自己内において求めるように作用するのである。自己内で作用する固定化はしかしそうすることによって他者に示すこともその気になれば出来るという性質を獲得する。価値を固定化しているのが本質的に自分だけではないことを個は既にとっくに覚醒しているからである。そして個におけるそのことの覚知こそが不安を生じさせてもいるのだ。だからこそこの不安の除去が勢い余って価値を権威付けるという挙に我々はつい出てしまうのだ。そこに法とかあらゆる価値基準が先験的に外在物であるかのような錯覚を我々は持つのだ。つまりだからこそ「あなたと私が見たリンゴが同じである」という外的観察可能なことと、価値をどこかから混同してしまうこともあるというわけだ。シューメーカーによって示されていた前述の記述からその誤謬に対する戒めを読み取ることは可能である。
ある部分では恋とか恋愛もこの価値の固定化に似ている。理想的相手とか理想的恋人とか異性ということでは、我々はかなり日常的な気安さとは別の価値を求めている。だから意外と結婚相手とは手堅く理想とは違っていても生活力とか日常的な親しみやすさとか、要するに観念的理想価値とは離れた実在に対して選択することが多い。つまりこのように理想の恋愛相手ということと、堅実な結婚相手を二重に価値して背負うことが出来るというところに人間の価値自体への捉え方の多義性がある。そして理想の相手という観念的存在の方がより不安を掻き立てることもあれば、逆に手堅いと考えていた存在の方に不安を感じることもあるだろう。あるいは理想自体かかなり堅実に変更不可であるような固定化された価値となっている場合もあれば、逆に理想というものが常に安定性を欠く現実離れしたものの方に視線が向けられるような価値判断も在り得よう。また堅実で現実的な他者こそ友人としても結婚相手としても真に理想であると認識する理性もあれば、そう思っていること自体へ変更や心変わりすること自体を人生の転機として理解する見方、つまり価値転換自体を価値的に捉え得る瞬間も人生にはある。それらは双方とも実は価値自体が固定化され然るべきであるという思想があり、またその固定化され得るからこそ、慎重に選別する必要性も感じ、その二つが常に不安という名の心理によって付かず離れずに内的に存在し続けているということが私たちの精神であると言ってよい。
つまり価値とは一定程度に揺ぎ無いものであるべきであるからこそ、ある時には一大決心において価値転換すべきであると同時に、価値選択には常に不安が付き纏い、また一切不安の付き纏わないものを価値として容認することが出来ないということが私たち多くの一致した観念であろう。
価値自体に対してそれが正当であるか否かを巡る不安があるということは、ある意味では価値自体が一方で自己独自の判断に起因するも、他方それだけではなく、他者の裁量をも合意として仰ぐという要素が心的に我々に備わっているということである。従ってカントが「実践理性批判」や「判断力批判」で示したことはある意味では他者存在そのものであったとも言える。つまり格律に関しても、美的判断に関してもそこに関わるのが他者だからである。
それに不安とは価値の正当を巡る判断の問題だけに留まらない。つまり価値自体が誰しも自己独自の判断をするということを通した共通関心領域として公に設定され得る故、我々は価値を語る時、個々の成員が孤独の内にいつかは死ぬということを忘却出来る。つまり死を巡る個々の弧絶性に起因する不安を相互に除去しようという無意識の内に起きる配慮こそが価値を共通関心領域としてたとえ二人でいたとしても公に設定することの深層心理的理由かも知れない。つまりそれこそが思い遣りの発生根拠である(だからこそ思い遣りとはややもすると甘えへと繋がりやすいとも言える)。つまり公に共通関心領域を設定し得るということの内には基本として親しくなるということがある。その心的作用とは実は個々の成員の死を巡る運命論的弧絶性が潜んでいる。それは共通関心領域に意識を集中させている間は少なくともその不安から除去され得るというところに親しくなる者同士の配慮があるのだ。
その背後には他人の気持ちになって考えるということが我々は想定上容易になし得る一方、実はでは自己同一性とは何かと問われれば、それに返答することの困難に直面する。それは次のシドニー・シューメーカーによる記述に顕著に示されている。(「自己知と自己同一性」前出と同じ)
(前略)昨日のある時点から現在のあいだ中断されない記憶を私が持っているとしよう。また、今私は昨日起こったある「観念」、例えばイメージを覚えており、その観念をもった、あるいは知覚した実体ないし主観をも覚えており、さらにそれがこの観念をもった時点以来、この実体を「見失って」いないことをも覚えている、それゆえ、何もそれと置き換えなれなかったし、それは私の現在の観念を知覚している実体と同一であると確信できるとしよう。私がこのことを覚えていることがありうるとすれば、逆に、ある時点で別の実体に置き換えられたのを覚えていることもありうるし、それが私の現在の観念を知覚している実体と同一ではないのを知ることもできることになろう。私がある事物を知覚できるとして、もし昨日から現在までに観察した(知覚した、覚知した、意識した)ことの記憶が、いま観察している事物が昨日存在していたのを覚えているものと同一であると教えてくれるならば、それは逆に、両者が同一ではないのを教えてくれることもあろう。第二章で述べたように、ロックは、われわれが常に同一の実体のままでいるという考えを疑う根拠として、よく過去の自己を「見失う」という事実に訴えるが、それを通して彼は、ある実体が別の実体によって置き換えられることは可能であり、もしわれわれの意識が中断することがなかったとすれば、この置換が生じたのを見つけることになろう、という考えを示している。というのも、そうした置換が見つかることなく起こるかもしれないと彼が考えるのは、ただ意識が中断するという理由のみによってだからである。だが、もしこの置換が生じたのを見つけるとはどんなことであるかをわれわれが知っているならば、たしかに、いつかそれを見つけるということは想像可能であろう。しかしながら、ここで、昨日その観念をもった(そのイメージを見た)実体が別の実体に置き換えられ、私の現在の観念をもっている実体と同一ではかったのを私が覚えているとしよう。もし人格の同一性が実体の同一性にあるか、それを本質的に含んでいるならば、この例において、覚えている観念が私とは別の誰かに属していたと言わねばならないことになろう。だが、ロックも了解していたように、これは不合理なのである。というのも、私がこのイメージを覚えているとすれば、それをもったのは私だったからである。したがって、われわれはロックと同じ結論を導いて、人格の同一性は実体の同一性を含意しないと言うか(この見解が理解不能ないし自己矛盾であることはすでに論じた)、それとも、物質的対象や他人が一定の期間同一であったとか、そうではなかったとかをわれわれが観察したり覚えていたりするのと同じ意味で、心的実体や自己同一であったとか、そうでなかったとかを観察したり覚えていたりすることはありえないと言うか、どちらかである。(第四章 自己同一性と記憶内容、164から166ページより)
このシューメーカーの記述から読み取れることとは、我々は恐らく皆他人に対してその行為を観察してそれを記憶しておくような意味で自分の行為を記憶するのではないということである。だからこそある物体が昨日見たものと今見たものが同じであるということが証明されることで人格の同一性が判断されるのではないという、内的自明性がここで語られているのである。それは自己同一性とは、他人を観察するようなある種の客観性を基準に判断することによって示し得る同一性では決してない(それは寧ろあなたと私が見たリンゴが同じであるかどうかということの査定にしかならない)ということ、即ち例外的、特殊的、超越的、唯一的なことなのだ。この考えはデカルトの考えを基本としているように思われる(ロックはそれを引き継いでいる)が、ラッセルによってもある部分では継承されてきていることをシューメーカーは明示しており、シューメーカーの考えをある部分で引き継いでいるのが永井均であると言える。
つまりだからこそ価値とは本来判断的には純粋に個人のものであるが、誰しもが自分以外の者に判断を価値的に委ねることが出来ないという事実において他者存在を浮き上がらせる仕組みにもなっている。それは哲学固有の二面性でもある。
つまり他者の判断など価値においは採用すべきではないという個の価値判断の持つ個の責任という考えが実は価値を常に不定であることを忌み嫌い固定化を必然的に自己内において求めるように作用するのである。自己内で作用する固定化はしかしそうすることによって他者に示すこともその気になれば出来るという性質を獲得する。価値を固定化しているのが本質的に自分だけではないことを個は既にとっくに覚醒しているからである。そして個におけるそのことの覚知こそが不安を生じさせてもいるのだ。だからこそこの不安の除去が勢い余って価値を権威付けるという挙に我々はつい出てしまうのだ。そこに法とかあらゆる価値基準が先験的に外在物であるかのような錯覚を我々は持つのだ。つまりだからこそ「あなたと私が見たリンゴが同じである」という外的観察可能なことと、価値をどこかから混同してしまうこともあるというわけだ。シューメーカーによって示されていた前述の記述からその誤謬に対する戒めを読み取ることは可能である。
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