セザンヌ 牧歌 1870

セザンヌ 牧歌 1870

Thursday, December 10, 2009

第二十二章 貨幣が生み出された瞬間人類の価値は魅力に取りつかれた

 私たちは商品を買う場合に殆ど二秒でそれを決めていると言われる。つまりその商品選択基準とは理性とか合理性とかではなく、あくまでもその商品に惹かれるということであり、魅力に惹きつけられているということ以外のことではないのだ。そもそも貨幣経済において何らかのサーヴィスを得るということから、魅力的な商品を購入するということに至るまで我々は心地よく騙されたいという心理が消費者の側にもあり、また生産者とかメーカーは挙ってそのように心地よく消費してしまうような魅力を商品に付帯させることを心がけるのだ。つまり魅力ある商品、魅力あるサーヴィスを得たいという欲望が価値となっていったわけである。
 私たちは貨幣を通して欲望を買う。これは欲望自体が生きていく上で必要であるからだが、その欲望を満たすこと自体に魅力を感じているからである。しかし貨幣はそれを通して何か特定の欲望を得るために必要ではあると考えていてもそれ自体に価値があるわけではないということを私たちは本質的には理解しているし、貨幣を通して得る全ての欲望も、その欲望自体が価値なのではなく、例えば食事をすることは、生物学的に私たちが生存するために必要であるという意味で食物に価値があるということと、食事を誰かと共にするということに価値があるということの双方から理解している。あるいは食事はそれを取ることによって明日以降の未来において生活する活力となるという意味で価値があると理解している。従って欲望はそれ自体に価値があるのではなく、その欲望を満たすことによってその先に何か行動するために価値があると考える。
 つまり食料を買うために必要な貨幣を、何らかの労働の対価として得ることを通して社会生活を営むということから利用することを通して社会秩序へと同化し、資本主義社会に賛意を示しているのだが、その賛意はそうすることで欲望を満たすことが自然であり、それ以外にいい方法がないことへも同意しているのである。そして消費すること、欲望を満たすために買い物をし、貨幣を支払うことによってお茶を飲み、映画を見たりすることを私たちは選ぶ。行為を実現するために貨幣を使用することを自然なものとして認識している。つまり消費することが食べて生きていくこと自体なのだということを知ることによって消費すること自体が魅力を伴っているということを知ったからこそ、労働へと勤しむわけである。つまり労働は労働の対価として得る報酬によってその報酬たる貨幣によって消費し、食料を取ること自体が魅力ある欲望であると我々は知っているから、労働するのであり、労働自体に価値があるからであるよりは、欲望を満たすことが可能であるから魅力があり、魅力があるから価値があるということになる。つまり欲望それ自体をも、その欲望を満たす行為が魅力的であるからこそ価値を付与しているのだ。貨幣はそれを実現させてくれる最大のツールなのだ。しかし料理はそれを作るための素材を得るためには貨幣が必要だが、後は工夫である。料理は味そのもののクオリアを得るためになされる工夫である。その工夫は、食事を取ること自体が欲望を満たす最大の魅力があるからである。
 つまり最大の欲望である食欲を満たすこと自体が魅力的であるからこそ、一人で飯を食っても、誰かと食ってもそれが楽しいのだ。それを実現させるために我々の祖先は貨幣を発明し、その貨幣を求めるために労働するようになったのだ。
 しかし欲望を満たすために貨幣を得ることが必要だった筈なのに、いつの間にか貨幣を得ること自体が魅力となってしまうことも人類は体験してきたのである。つまりそれを使用することによって欲望を満たすことが魅力であったのが、いつの間にかそれを得ること自体が魅力ある欲望となっていったのだ。それは社会がそのような行為の連鎖を意味あることであるとしてきたからであり、またその社会を作ってきたのも我々なのだ。それらの行為の連鎖が産業革命を起こしたのである。
 しかしそこには人間の生活実現というレヴェルでの不在感があった。そこで人間は哲学し、再び生活実体の方に目を向け始めた。貨幣とはそれを有効に利用して本来の欲望を満たすこと自体に価値があるとしだしたのだ。価値とはそれをすること、そのものを利用することが楽しく、快楽があり、魅力があるということから、与えられてきたものでもあるのである。それは映画や演劇やスポーツを鑑賞したり観戦したりして得るものでもあるし、食事そのものの味や行為が魅力あることであるという意味で価値があるとそれぞれに付加してきたのだ。ここで価値とはそれ自体に魅力があるということから与えられるということだけははっきりした。

 付記 本ブログは来年(2010年)正月明けまで休暇致します。またお会い致しましょう。(河口ミカル)

Tuesday, December 8, 2009

第二十一章 スキャンダルな出来事を起こした人たちこそ最も私たちの好奇心を煽ったという意味では価値がある

 ここ数年の間にも堀江貴文氏や守屋武昌氏、酒井法子氏といった面々こそマスメディアを最も賑わわせた張本人であり、つまり彼らの存在抜きにある時代さえ語れないという意味ではイチローのような本格的にポジティヴなヒーロー以外では彼らが最大級の貢献をある時代にした、と言っても決して過言ではない。つまり彼らをネガティヴなものとして批判していた学者、文化人、コメンテータ、司会者などに比べれば彼らが存在したからこそ、世相において我々は自分たち自身の社会に対する見方に対して反省材料を得たとさえ言い得る。その意味では私は彼らに対してこそ裏の国民栄誉賞を授けたい。
 つまり何も一切人々を楽しませたり、独創的な行為をしたりしなかった人たちに比べれば彼らの存在の方に遥かに存在理由があるというだけで偉大である。つまり事件を起こしたとしても、それが無名の市民であったなら私たちはニュースになっていることに対して話題にもしなかったであろう。価値というものはそのように懐疑的に見なければいけないものなのである。
 概して日本人は穢れを嫌う感情があるから、自然主義と言った時そこには哲学は不在である。しかし通例欧米社会では自然主義というものは常に懐疑主義と隣り合わせなのである。このことが極めて重要なのだ。
 つまりスキャンダラスであるということ自体が既にその真実の姿がそれまで、つまりスキャンダルになるまでは巧妙に隠蔽されてきた、ということを意味するから、あるいはそれらの存在を偶像として崇拝してきた、つまり大衆であれ、同業界における関係者であれ少なからず彼らの存在自体を称揚してきたからこそ、その期待とか、崇拝行為が裏切られたという形でスキャンダラスであるわけだから、必然的に彼らの存在自体が実はそう安易に偶像を崇拝してはいけない(まるで聖典の謂いのようである)のだと、つまり安易に或る人格を特別ものとして別格視してはいけないということを悟らせてくれるという意味からだけでも存在理由が大いにあると言い得るのである。その他にも薬害エイズ訴訟問題など幾多の問題があったが、それらに比べると、今挙げた三人に私たちは極めて巧妙に騙された、と言うより彼らを尊崇の対象としてきた周囲の事実に決して批判的ではなかったとだけは言い得る。つまりそれだけ彼らの存在があまり簡単に偶像を作り上げてはいけないという風に自戒の念を持たせるために役立っているのである。つまりアイドル視する我々の通俗的心理自体が常に理性と隣り合って存在しているのだ、ということを覚醒させてくれる意味で彼らの存在は大きいと言える。
 もし私たちの社会に一切のスキャンダルがなかったとしたのなら、私たちはそういう社会において何か時代を振り返ることが出来るだろうか?世相というものを感じることが出来るだろうか?無理だろう。私たちは彼らに共通した存在自体がスキャンダラスであるという事実に寧ろ積極的に魅力を感じてしまう、つまり彼らを一定の厳しさを込めて糾弾したり、批判したりすることを世間体的に行いながらどこかで忘れ難いというイメージを彼らに付帯させてしまうのであるが、実はそれこそが魅力というものなのである。魅力とはたとえどんなにポジティヴなものであっても、必ずどこかでは<やばい魅力>と接点があるのである。従って我々は価値と言う時倫理的に正しいというものに対して果たして「だからこそ最大の価値だ」と言い切れるだろうか?そうではないだろう。つまり常に正しいだけのものには実は一遍の価値もないということを誰しもどこかでは了解しているのである。
 つまり魅力自体が内包しているある種の<やばさ>つまりデカタンスこそが私たちにとって尊崇する対象に付帯するイメージとして価値的に捉え得るものなのである。
 それはただ健康的なだけの要素に取り囲まれて生活すること自体へと抵抗とか反発心といったものが私たちには生来から備わっているからである。例えば異性とも一切付き合わない、あるいは酒やタバコの類も一切しないというようなタイプの成員に果たして我々は魅力を感じ続けることが出来るだろうか?それもそうではないだろう。
 そもそも資本主義社会、自由主義社会に付帯する自由のイメージには偶像崇拝的気分をどこかで持ち続けそれ自体を精神的な活力剤にして生活に潤いを持たすということは性格上必然的なことなのである。しかもその偶像とはどこかで人間臭さを必要とされている。つまり最良のものとは常にどこかで悪とも隣接している。だから一歩踏み誤って品行方正な偶像が過ちを犯すということは必然的なことなのである。だから本質的にスキャンダルな報道をして視聴率を稼ぐ学者、文化人、コメンテータ、司会者といった人たちは彼らによって食わせて貰えているという意味ではスキャンダルな事件を起こす大物の存在へ感謝の念を持つべきなのである。そしてスキャンダルとはそれが不在であると退屈であるから時代毎に私たちは恣意的に発見してきてさえいるのである。それがないということは退屈であり、それは時代精神が希薄であるとさえ我々は実は密かに思っているのである。

Sunday, December 6, 2009

第二十章 個人の行動の自由と犯罪、社会自体の在り方の価値

 端的に麻薬、売春といったことはそれ自体憂えるべきことかも知れないが、もしそういった一切の犯罪を抑止することだけを至上目的とするのなら、いっそ資本主義社会、自由主義社会を全面的に撤廃するしか方法などない。端的に北朝鮮のような国家では国家が国民一人一人の行動の自由を保障していないのだから、逆に行動の自由の行き過ぎによる犯罪も起こり得ようもない。従って一切の自由もない。全てを統制的に国家が管理しているからである。だから我々資本主義陣営の国民にとって覚醒剤とか売春、買春といったものがたとえ憂えるべきものであったとしても、中国のように麻薬を所持しているだけで死刑に処せられるという現実自体にはある種違和感を抱かずにはおれないだろう。
 だから生真面目一本のイメージである経済学者が痴漢行為をして地位を失墜したり、清楚なイメージが売り物のアイドルタレントが覚醒剤で逮捕されたりするようなニュース自体に一喜一憂するような社会世相自体は未だ国家によって全てが管理されるような状態からすれば如何に憂えるべき状況であっても救いがあるのである。
 端的に殺人をも含めた個人の激情やら個人の自由放埓への貪婪な欲求によって引き起こされる犯罪の全てが仮に発生し続けていたとしても、それら一切の犯罪が起こり得ようもない社会が存在することに比べたら未だそれらの方がずっと好ましい状態である、と判断してもよいのではないだろうか?
 確かに自由主義経済が金銭的経済力を主軸とした勝敗やら、格差を極端に生み出し、賄賂などが横行していくこと自体は確かに憂えるべき事態であると言えるが、それでもそのような社会には未だ公正であるとか、不公平に対する権利主張とか、社会全体の弱者に対する保護を主張したり、あるいは新たな起業の人材を発掘したりするような気運を生み出す土壌自体は確保されていると言ってよい。しかしもし仮に一切のそのような投機的行動を慎む一切の競争の不在な管理統制経済、管理統制政治しか成立しない社会であれば、それこそ人間精神は自由も創造性も一切が失われるだろう。
 だから最年少の年齢で首相に着任した人が一年程度で政権を放り出したことで国民がその後の与党の成り行きに憂えたとしても、尚完全独裁国家であるよりは遥かにましである、とそう考える人の方が多い筈だ。だからこそあの時も全く自民党の支持者層に対しては失望感を与えたけれど、それでも民主主義が一応機能していることはしているのだ、と考え直した人も大勢いた筈だ。つまりあまり与党が無策であればいつか政権を交代させてやればいいのだから、とそう開き直ることが可能なように社会を見ることが出来るということである。
 つまり資本主義社会とか自由主義社会につき物の弊害として麻薬や売春、賄賂といったものさえ、それらを一掃するためにあらゆる行動の自由、職業選択の自由を奪ってもよいなどと殆どの市民が望んでいない。と言うことはそれら社会の弊害でさえ必要悪として容認したままでいようという認識をどこかで必ず全ての市民が抱いている筈である。従ってそれらの弊害をニュースソースとして提供する容疑者全般に対して、そういった存在全てが皆無になっていくよりは、四六時中そういう容疑者のニュースばかりでも困るものの、そういったニュースさえ皆無であるよりはよっぽど時々そういうニュースがあってくれるくらいの方が社会の自由が実感出来ていいと考えている市民の方が多いということが通常の資本主義、自由主義社会における市民による社会自体の在り方の価値基準なのである。
 つまりあらゆるネガティヴな事件の報道に対する熱狂自体には必ずこの前提が付帯しているのである。だから我々はこう言うことが出来る。一切の行動の自由を奪ってまで賄賂、談合、不正入札、裏口入学、売春、買春、覚醒剤売買と使用が消滅させたいなどと誰も思わない、そしてそういった一切の資本主義社会が発生させる悪さえ成り立たないような不自由な社会になど生活したくはない、ということなのである。いやそれどころか我々は建前上ではそれらを批判しながら、時々そういうニュースが飛び込んで来ること自体を密かに期待し、胸をわくわくさせてさえいるのである。事実ここ数年のことを振り返ってみてもライブドアショックなどの時に様々なM&A用語を覚えたのだし、風説の流布にしたって、そういった事態の一切ない社会の退屈さに既に我々は耐え得るのだろうか?そんなことはあり得ない。私たちは現実にはあらゆるえげつない好奇心まで満喫させてくれるだけの刺激のあるトップニュースを常に期待しているのである。そしてそのような好奇心を充足させてくれるメディアを飼い馴らしているとそう実感し得る社会で生活すること自体に、行動とあらゆる行為選択の自由を保障されている、と実感し得ているのである。

Thursday, December 3, 2009

第十九章 レッテルを貼ること(対他的・対自的)の価値

 例の有名芸能人の覚醒剤使用による逮捕事件に伴ってユーチューブ上では彼女がトランス状態でDJをしている映像へとアクセス数が殺到していることが話題になったが、実はこの種のアイドルのギャップへの関心は、本来マスメディアに乗せられているイメージが全て巧妙なる視聴率獲得のために戦略によって集団によって作られていっているということに対してすっかり忘却してしまっているファン心理に根差している。しかし当人はかなり若い頃からプロデビューしていても普通の女性なのである。つまり我々は何もアイドル芸能人に対してだけではなく、政治家に対しても人気経営者に対しても、文化人に対しても彼らのイメージをその偉業に相応しいものとしてレッテルとして貼り付けているということである。これはファン心理によるものであり、最初からバイアスが掛かっている。つまり必要以上に神聖化してしまっているのだ。だからいざそういう偶像が何らかの過失を犯すと途端に転落というイメージを持ってしまう。しかし本来誰しもそのようなレッテルに百パーセント同化し得る成員などいないのである。
 その点それらの偶像に付帯させてしまうイメージとしてのレッテルとは、しかし対他的なものだが、そのイメージづけを世俗的に自分に付帯させてしまおうということが、俗物根性として発生してしまう。件の私を苦しめた性悪な処女たちがそうであった。端的に自らの処女性を神聖化させてしまうということ自体は実は結婚制度と、結婚が一定の男性の側の経済力に伴った行為であるという通念によって得られているのだ。
 つまりファンがアイドルに対して付帯させるイメージ上の似つかわしい「在り方」は、そうすることを日常化する低レヴェルのファン心理によって支えられているが、そのファン心理が対自分ということになると、途端に自らが勝手に偶像に付帯させたイメージを相手の男性に強要させる、自分たちにとってのアイドルでさえそうなのだから、自分のような存在に対してはそれ以上の配慮を払えと男性に強要するのである。彼女らにとってミーハー的発想とは端的に勝手に自分たちの偶像に付帯させたイメージであり、本来自分に対して周囲の男性に付帯させておきたいイメージに他ならないのである。
 確かに覚醒剤を使用したりすること自体はよくないことだが、彼女らは未だそういう風に逃避行してしまうだけのキャリアはある。だがその偶像を追っかけするファンたちはただ勝手に追っかけをしているだけで、自分自身は何らキャリアを構成しているわけではない。にもかかわらず、その偶像に対して付帯させたイメージ自体は自分たちによる表象だから、その表象は自分のようなアイドルではない通常の存在にも適用されるのだ、という主張自体が、権利上彼女らの心理には支配しているのである。つまり彼女らは自分で勝手に自分たちにとってのアイドルに付帯させたイメージとはとりもなおさず、そういうものとして自分たちを取り扱って欲しいという男性から見られる自分の理想なのである。しかし彼女らには一切の彼女たちにとっての同性のアイドルほどの才能も力量もない。端的にノンキャリアであり、通常人である彼女たちは、だから対自的には完全に客観視を怠っているのである。
 しかし彼女らのこの図々しい心理を我々は笑うことが出来ない。何故なら自分たちは自分たちがマスコミの偶像として取り扱っている存在ほどの日々の緊張を一度も味わったことがないのに、いざ彼らが何か過失を起こしたら、途端に彼らを火炙りにすることを見て楽しむからである。つまりマスコミが与える偶像化された全てのイメージとは、只それを享受する我々自身をあくまで自分のことは棚に上げたままにしておき、勝手に賞賛したり、勝手に貶したりすることが出来る便利なイメージでしかないからである。つまりそこには一切の責任がない。だからマスコミに流通するイメージというレッテル張りには一切の自己の実存に対する問い掛けがないのである。その自己を取り巻く事情を一時忘れさせるという副作用が概ね少ない覚醒剤の役割を我々はマスメディアの流す情報とその情報に乗るタレントのようなアイドルに付帯させているイメージに求めているのである。だからこそマスメディアとは生きもののように振舞っているが、実際は生きた人間でも、我々が飼っているペットでもない全くの無生物であるところの絶対的他者なのである。しかし日常の卑近な話題とはその絶対的他者に対してなされることが多い。そのような話題こそが直接我々の日常生活の利害に絡むことが比較的少ないからである。
 そのように現代社会に生活する人間が絶対的他者である幻想であるメディア自体が流すイメージを利用するということの背景には実は私たちが常に死に対して怯えているという事実が浮かび上がる。マスコミ自体の泡沫のイメージを褒め称えたり、貶したりすることによって一切永続的価値ではないことを一方で認めておくことで、実は自分の人生自体はそれほど簡単に判断することが出来ないという事実を常に問い掛けずに保留にしておくという日常的な目論見こそがメディアに対する責任のない態度として現われているのである。
 従ってメディアに登場する様々な偶像に対して勝手なレッテル張りをすることの価値とは端的に気分転換であり頭休めであり気休めであり生き抜きなのである。そしてそのことは全てのメディアに関わり運営している側が前提として心得ていることなのである。だからこそそのメディアの提供するイメージを裏切るような過失が齎されると本当は私たちの生活に然程重要な出来事ではない事件でもトップニュースとして取り扱うような事態へと発展していってしまうのである。しかしそれももっと我々の生活上で深刻な影響を与えるようなニュースが不在の時に限られるのだ。だが我々はそういった例えば世界同時不況の発端となったリーマンブラザースの破綻から、サブプライムローンの破綻といった深刻な事件がトップニュースとなるような事態を忌避したいと常に願っている。そういったニュースを聞くくらいなら、いっそアイドルの転落とか、有名文化人の犯罪といった事件の方を積極的に好むようなところは実際にあるように思われる。勿論彼らに対して贔屓にしているのなら、より彼らが素晴らしい仕事をしてくれるのに越したことはないのだが。

Thursday, November 26, 2009

第十八章 人間は他者の不幸に感動し、幸福に嫉妬する動物である

 この文章を書いている最中にある有名女性芸能人が覚醒剤を使用していた嫌疑で逮捕されたニュースが各報道メディアでトップニュースとして大きく取り上げられ、高視聴率を獲得した。さてこの騒動で私が実感したこととは、端的にメディアでスターとなっている人は皆作られたイメージに酔いしれているのであり、本人もその要望に只応えているだけであるということである。そして本人がそのギャップに益々戸惑っていたのなら、却って逮捕されてしまったことでほっとしているのではないか、ということである(そもそも三十代後半で既婚者、子持ちなのに清楚なイメージで大衆が追っかけていたということ自体に既に無理があったのである)。
 しかも興味深いことには、その芸能人が清純なイメージで若い頃から売っていたということが逆にそれを裏切ったということでメディア全体がまるで実際に高額であるだろう覚醒剤などをどういうルートかは定かではないものの、闇のルートで入手していた事実が、清純な若い頃のイメージとかけ離れていること自体を視聴者に対して興味を掻き立てていたことである。まさに高視聴率を獲得し得たのだから、容疑者となったその芸能人にメディアは感謝すべきであるが、その芸能人のそれまでに出したCD他関連商品全てを回収したというプロダクションの措置自体もかなり掌返し的行為であるが、それら一連のメディアの扱いや、視聴者の関心の実体とは端的に成功した人が自堕落な生活を確保することが可能なくらいの経済力を持っていること自体への嫉妬感情をメディアが煽り、視聴者はそれに乗せられているということであった。つまりメディアは当該の容疑者がかつては清純なイメージであればあるほどそのギャップにおいて視聴率を稼げるし、しかもマスメディアの公正さ、つまり成功者であれ過ちを犯したなら様々な措置を講じられ糾弾され制裁を受けるということを見せしめ的に示すことで正義を保つことが出来るということである。
 人間は要するに成功している当該の対象に対してその成功に酔っている姿に対して醜悪さを感じるが、その実体とは嫉妬でしかない。そしてそこまで成功していないで健気に頑張っている姿に感動するということは、端的に他人の不幸には寛容になれる、そして応援したり、激励したり出来るということ自体が、自分より上位である者に対して嫉妬するのとは裏腹に下位にあることを目撃して安堵するくらいには残酷である、ということを示している。
 感動の本質が下位にある者に対する憐憫であることは間違いないのだから、逆にそれまで成功してきた者が転落することを「ざまあ見ろ」という風に溜飲を下げるためにメディア報道を見ているのである。それが厭であるならそういう報道に辟易している筈である(事実そういう人も大勢いたことであろう)。
 つまり我々が無意識にメディア報道を利用している時には、自分とはまるで関係のないニュースを見て、気分転換していて、自分の実生活上での苦悩を一瞬忘れている。しかもその安心出来るニュースにおいてより溜飲を下げられるものとは、誰かが偉業を成し遂げたことよりも、人気のある偶像が落ちていく姿を野次馬根性で見ることである。だからそれまで羨まれる存在であればあるほどその対象が転落していく姿を「してやったり」と感じながら見る楽しみを得ているのである。マスメディアのトップニュースとそれほどではないニュースとの差とはそのような新聞であれば購読者層の、あるいはテレビなら視聴者のえげつない好奇心を引くものであるか否かなのである。
 そしてその事実は、受け手の心理には明らかに誰しもが潜在的には他人の不幸を喜び、他人の幸福を嫉妬するという性向があるということを送り手が意識的に利用しているということを意味する。人間は犬や猫をペットとして可愛がるのは、それらの存在を愛おしく感じるのは明らかに彼らが知性において人間よりも劣っているからである。しかし成功者である人間は自分たちよりもいい生活をしているから嫉妬の対象以外のものではない。そこでそれらの存在が転落していく姿を報道して伝えることによって、一般市民に欲求不満を解消させてやろうという目論みがメディアには確かにある。
 つまり私たちが日頃色々な出来事を耳にしたり、悲劇を観劇したりして感動するのは、本質的にはこの他人の不幸を見て喜ぶ心理と寸分も違わない。だから今度は感動を与えてくれた功労者は彼らにとって成功者(自分たちとは違う)であるが故にその転落に、何だ、あんな偉そうにしていたって、自分たちとそう変わりないただの人間じゃないか、と安心することが出来るのだ。だから逆にマスメディアが報じる様々な視聴率を取りそうな番組や特集を挙って見ようとする行為が内実的にはその種の屈折した心理が介在していることを自覚的な人間はなるべくマスメディアに得をさせることを慎みたいという気持ちになることだろう。しかしついそういった報道を見て楽しんでしまうのである。これがメディアの伝える我々の好奇心を擽る戦略に進んで騙されることを選択する私たちのえげつない本音、成功者の転落を見て楽しむという惨めであるが唯一の確固たる欲求不満解消法なのである。それは安倍首相が突然辞任に追い込まれた時にも多くの視聴者が感じ取った心理である。首相さえ只の普通の人間である、ということをメディアの報道が立証して見せてくれた、というわけである。それは政権初期には期待をさせただけにそのギャップを見て好奇心を充足しているのである。期待をされた人の転落を見て他人の不幸に喜んでいるのである。それは安倍首相の前の小泉首相の時には氏がそれほどトントン拍子で成功した人ではないことを多くが知っていたから味わえないことだったのだ。
 このことを価値的に考えてみると、メディアを好奇の目で接するという行為自体が一時自己に纏わる現実的な苦悩を忘れることが出来るという存在理由しか見出せない。それは実質的価値ではなくて、副次的価値でしかない。つまりメディアの報道は政治や経済の動向を伝えるニュースであれ犯罪を報じるニュースであれ、世相とか社会の変化や動き自体を確認することを通して自分もその同じ社会の中で生活を保守しているのだ、という実感を得ることなのである。そして他人の成功を見て羨ましいと感じること自体に、既にその者が慢心していれば嫉妬して、いつか転落してしまえばいいのに、とそう感じることの萌芽があるのだ。そしてメディア自体はそれらの成功者の姿を報じると同時に、どんなに成功している存在であれ、転落したのなら差別することなくそのことを報じるという公正さをアリバイにしているのだ。それを私たちは知っている。つまり全てのからくりを知っていてそれに同意しているのである。そしてそうしながらマスメディアがそれを視聴する側のプライヴァシーを守ってくれるとそう信じているのである。しかしいつ何時自分が問題の渦中に巻き込まれ、逆に糾弾される立場に立たされるかも知れないということをどこかで知りつつも、それは滅多にあり得ることではないと高を括っているのである。
 つまり私たちは倫理的に他者の幸福や成功を祝う気持ちを持っているということを盾に逆に、いざとなったらそれまでどんなに贔屓にしてきた対象に対しても幻滅する権利を持っていることを実感しているのである。つまり税金を払っているのだから、当然その市民としての権利を享受し得るのだ、というわけである。これは選挙権にも顕著に示されている。あれだけ支持してきてやったのに裏切られたということになると、違う政党に投票するのだ。しかしいつまで経ってもそれでは同じことの繰り返しであることを薄々誰しも感じ取っている。しかしそうは言っても政治はその時その時のニーズと問題点に対する処方という形で進行しているものなので、その都度態度を我々は容易に変えられ得る。つまりそのイデオロギー的な意味で態度を固定化する必要のなさに自由を感じ取っているのだ。それはお金を払って観劇している者のような心理なのである。だから政治家に対しても、周囲からあまり相手にされていなかったり、強力な敵に相対したりしているという事実に対してある政治家を贔屓にして、支持するのだ。これも他人の不幸に感動することの本質に適っている。しかし一旦強大な権力を手中に収めると途端に今度は批判の眼差しを注ぐようになる。要するに他人の幸福に嫉妬しているのである。批判とは端的に嫉妬が一点も介在していないとは絶対に言い切れないのである。勿論批判自体にある誰に対しても分け隔てなく賞賛すべき時はして、そうではない時には批判するということが一方で言い得よう。しかし相手があまりにも相手にされていないような場合批判するだけの価値がある、と我々は通常思うだろうか?つまり多くの支持を得ていたり、成功の美酒に酔っていたりする状態の人間に対して批判的眼差しを注ぐのである。従って批判する対象に対する感情という意味では明らかに批判の仕方自体が公正であることとは裏腹に嫉妬が介在している。しかもそういった皆から羨まれている存在をこき下ろす行為自体を賞賛する人たちもいるに違いないという目算も手伝っているのである。つまり偶像を転落させることで溜飲を下げる嫉妬者同士の共感と運命共同体意識を獲得しようと試みているのである。
 しかし重要な真理はもう一つある。どんなにセンセーショナルな報道内容であっても繰り返し報道されることで次第に全ての視聴者から飽きられるということをメディアは知っている。だからそうならない内に先手を打ってもっと衝撃的なニュースを、そうでなければほのぼのしたニュース(あまりセンセーショナルな内容が続くと逆に新鮮に感じるから)を用意するのである。だからこそトップニュースであったものは徐々に第四、第五のニュースへと降格していき、常にその日その時に多くの関心を集めるニュースに座を明け渡させるのである。それはある偶像に対する批判にしても同じである。一度は徹底的にこき下ろした後は逆に「しかし批判はしたものの」という口調で始まるようにさせて、今度は批判したものに対する存在理由を評価しようと画策するのである。そうしなければたちまち批判者の方の真意、つまり嫉妬感情が読まれてしまうからである。そこら辺の駆け引きの巧妙さこそが全てのケースで求められるというわけだ。
 しかし重要なこととはニュースの価値のタイムリーさであれ、そこには他人の不幸を喜ぶ、即ち自分の幸福を感じて安堵するという心理を我々が最大限に利用しているものこそメディアの報道内容の取捨選択であるということなのである。ここにも我々が価値として認めるものには本質的に悪が控えていることが了解されよう。

Tuesday, November 17, 2009

第十七章 倫理的であることは人間的であることに対する考えである

 第十二章における「倫理的なこととは倫理的でないものに対する規制である」としたことについて考えると、倫理的でないものと我々が考えることとは、曰く人間的ではないことと意味づけているように思われる。人間的ではないこととは、理性的であり、道徳的であり、責任論的であるというように、要するに人間社会の生きるということはどういう意味があるのかということに対する価値から外れていくことを意味するように思われる。例えばあと何年しか、何ヶ月しか生きられないということが分かっている人にとって残された時間をどう過ごすかということは、常に生とはいつ死が到来してもおかしくはないということに対する今更ながらの覚醒によって自分独自の回答が出されるだろう。だから今人間的ではないということを敢えて規定すれば、その自分独自である回答を考えずに生きていくこと、あるいはそういう回答を個人が得ようとすること自体を容認しないような理不尽さを言うと考えてもいいだろう。価値から外れるということは、何らかの回答を自分なりに用意すること、そういう心的な作業を怠ることであり、他者のそれを侵害することである。そしてそれは直観的に私たちが理解してきていることでもある。
 だからもうあまり長く生きられない人にとって生きること自体が分析的価値であり、その分析的価値を全うするために、ではどういう風に残された時間を過ごすかということにおいて、何か特定の遣り残したことをしようと考える時、そのためにどう計画を立てるかということが綜合的価値であると言えるだろう。

 学界という場所はかなり徒弟制度的不文律しか通用しない世界である。例えば哲学などは一定の人生経験を要する学問のように一般には思われている。しかし実際には哲学固有の論理に対してマナーを習得するようなタイプの学問なので、よく言われる三十四、五歳くらいまでに准教授のポストに尽かなければ出世は覚束ないような閉鎖的なサークルなのである。つまり職業ということから言えば、日本以外の国の事情はよく知らないが、やはり若い世代の頃からずっと続けてきていなければその世界で大成することは極めて困難であり、転職とか再出発があったり、別の分野との交流によって相互に批判や別分野の専門技術を応用したりする可能性がかなり低い。この現実は、本来学問や専門分野とは広く一般に門戸が開かれているべきである、というのはあくまで建前であり、内実的にはその狭い世界で生活を成り立たせている一部の人たちの利権確保だけが目的である、という価値における狭い綜合的目的だけで成り立っていると言うことが出来る。
 あるいは結婚自体を職業的地位とか、社会的地位を維持していくためのものであるという価値判断から考えると、例えば結婚前に難病を抱えていたことを隠蔽して結婚した場合、恋愛とは違って離婚する時に、そのことが難病の事実を隠されていた側は考慮されるかも知れない。その難病を隠されていた側が両親から継いだ経営をしていかなければならないというような場合、難病を隠蔽してきたことがたちまち愛を獲得するためだけではなく、夫や妻の経済力を期待するという目論みという形で理解される可能性があるからだ。
 本来愛ということを動機的なことからだけ言えば、相手の難病という事実は労わり合うべきことなのかも知れないが、結婚生活という現実の前ではその克服すべき難題に対してそれを対処していく責任が求められるので、巧妙にそのような難題を隠蔽してきたという事実(難病以外にも借金というようなことも考えられる)は結婚生活の維持を困難にするために仮に離婚へと縺れ込んだ場合、かなり隠蔽された側の正当性に対する証明という意味では考慮されて然るべきである(特に難病を隠されていた側が自分がその難病で子供が得られないことを承知でいる配偶者に、子供を後継ぎとして必要であるから結婚したいということを事前に報告していたのなら完全に考慮されるだろう)。
 つまり人間の愛情とか倫理といったものさえ、現実の社会生活では法規的、規約的な契約の公平性という考えの下では総合的価値となって判定される。つまり確かに難病を抱えている人とか、両親から受け継いだ莫大な借金という事実は人間学的には相手に対して配慮したり、援助すべき性格かも知れないが、現実問題他人の受難に対して援助したり、介護したり、結婚して配偶者として難題を分かち合うということ自体はあくまで理想であり、要するにその実現ということを前提に考えると、それを可能に出来る成員とはかなり経済力や社会的地位が求められるということがあり得る。だから恋愛してその結果結婚するという場合と、そうではなくあくまで何か特定の現実、例えば両親から受け継いだ事業をしていかなければならないというような目的のためにしなければならない結婚の場合とでは明らかに相手に対してしておかなければならないことの内容は変わってくる。これは恋愛と結婚とがどちらに価値があることであるかということの人間的な判断にまで縺れ込むこともあるが、常識的にはそういったことは机上の空論として見捨てられ、本来人間的な判断とか、倫理的判断とは現実の対処能力、個人に付帯する現実的な生活能力を前提とするのである。だから責任倫理的には慈愛よりも先にまず実現能力が求められるのだ。
 つまり人間的であることとは、ただ単に相手に対する同情とか憐憫とかにおいて持たれる感情を寧ろある部分では積極的の排除していく責任倫理において実現されることなのである。だからこの責任倫理を慈愛といかに結びつけることが出来るかという部分に我々にとって最大の苦悩がある。またそういう風に考えざるを得ない。何故なら責任倫理は時として相手に対して冷酷非情であることを積極的に求められるからである。従って慈愛とは全てのこちら側の損失を覚悟で相手に尽くすことであるので、責任倫理とは対立していくこともある。ある責任ある地位にある人間が自分の社会的地位をかなぐり捨てて遠地へと赴いたり、家庭を放り出したりすることは、その遠地やそこに住む人々との出会いにおいては慈愛に満ち溢れていても、捨てた社会的地位によって損失を蒙る人たちや家庭の人たちにとってはただの裏切りでしかないからである。
 つまり全てに対して私たちは責任を取ることも、全ての人に対して慈愛をかけることも出来はしないのである。従って「倫理とは人間的であることに対する考えである」と言う場合、それはあくまでケース毎に異なる結論を導き出すことを求めるその苦悩を背負い込むことを意味する。倫理とは苦悩に他ならない。
 それは何を取り、何を捨てるかということに纏わる選択の苦悩であるし、ある時には苦悩せずに瞬間的に迷わず選択してしまうことに纏わる冷酷非情に対する呵責でもある。だから人間的な決断とか人間的な選択と言う時、それは必ずしも人情味溢れるということを意味しない。それどころか人情味溢れる選択こそ最大の誤りであることの方が多いのだ。
 つまり「私は慈愛を持ちたい。しかし全ての人に慈愛をかけることなど出来ない。従って私はその慈愛を殆どの人に対してかけられない無能力を宣言することこそ責任であると心得ている」ということ自体が、人間的である場合そこには人情味を一切排除するという決意であることになるからである。従ってこの場合自分の無能力を知りながら相手に慈愛をかける人情味は無責任以外のものではないことになる。それは人間的でも倫理的でもないのだ。
 
 ここで個人の幸福感情ということから言うと、価値自体が悪を含有しており、感動も他者に対する徹底した不干渉と自分とかかわりさせないことから、相手に対して憐憫を感じることを言うのだとしたら、その感動させる相手の苦悩をそれまではあると知っていながら実際自分の能力の限界から助けることが出来ないでいる自分の不甲斐なさを承知で得る感情であるから必然的に感動には感動する時点で身勝手がある。感動をしたいと思っているのならその時点でエゴイスティックなのである(本質的に全ての人間が幸福であることを望むのなら悲劇を見て感動するということを諦めなければならない)。そういう意味では個人の幸福とはその幸福を得られないでいる段階で必死にそれを掴もうとしている場合は周囲から応援され、激励されるし、それは美として判断されるが、一旦それを獲得すると成功と同様、周囲から嫉妬の対象となってしまい、丁度人間がものを食べる時の仕草はどんな美女であれ、幻滅させてしまうようなところがあるような意味で、幸福の享受は周囲から見て美的に判断すれば醜以外のものではない。つまり人間は不満を感じるのは未充足であることを覚知しているからだが、一旦その欲求が充足されてしまえば、享受することで得る倦怠が待ち構えている。では一体そのようなことを知っているから逆にそういう充足を求めることを慎む、節制するということが美徳となっていく。それが一つの価値となってしまう。しかしその価値を認め、節制し、欲求を慎むこと自体が周囲から賞賛されることもあると、今度はそのように周囲に節制的美徳実践をアピールすることで得るメリットを求めてそういう態度でいることは醜以外の何物でもない心性となる。カントの言う根本悪となってしまう。つまりこの態度は十五章で述べた価値の孤絶性から言えば極めて矛盾してしまう。つまり他者に価値として認められることを前提にしてしまうとそれは既に価値ではないということだ。特に日本人に見られる周囲に不平を漏らさないことによって欲求充足にあまりにも貪婪ではないということを暗にアピールしていることにもなるし、そうすることで利発であると認識されることを権利上暗に容認して貰うということ、つまり十三章における倫理的価値自体を悪用することでもあるからだ。日本ではこれさえも悪であるとは通常認識され得ない。これはあくまでキリスト教文化圏での話である。しかし私たちにもこの考えは十分理解することが出来る。すると成功者につきものの周囲からの嫉妬に対して、「それは自分で努力して掴み取るしかない」という冷たい突き放しにある特権的な優越的快楽が成功には付き纏うから、十四章における成功者の復讐を遂げたことで得る「あなたは苦労したのだから、それくらい享受してもいいのですよ」という周囲からの認可という既得権を根本悪として認識することもたやすい。だから十六章での一般的価値を志向するものには、最初からこの既得権を容認し合う紳士協定が介在している。しかしそうではなく個人的価値を追求することは、ある意味では個人の幸福享受以外に何か価値があるか、とか、それが周囲から見れば幸福を、快を貪ることであるから醜と映ってもそれは自分自身が満足しているのだから一向に構わない(気になんてしない)という宣言性も要素として秘めている。
 つまり若い頃私が苦しめられた実際はかなり俗物根性旺盛で、処女であることだけを武器にして教条的に異性を訓育しようとする女性のような態度もまた、ある意味では個人的価値を追求することに極めて素直な生き方である、と言ってよいだろう。つまりこういうタイプの人間の真意は幸福感情や快を貪ることを真意レヴェルでは完全に理想としているのである。「女は経済力」と言って好きな異性に肉体関係を絶対に結ばせないままにしておき、それでいてその異性が自分以外の異性に関心を持つと急に未練を持つのである。常に禁欲を強いる相手の異性の存在を宙ぶらりんにしておくことによって、いいように利用されることを未然に防止するのだ。つまり担保としてその異性がいい働きといい稼ぎをしてきた時に少しだけ肉体を提供するという娼婦性こそが、男女同権になったはいいが、その娼婦性を兼ね備えている女性が多く昔ならそういう職業に就くところを、一般職業人に中に紛れ込んでいると思わずにはおかないような態度を一般女性に取らせてしまうのだ。全ての売春を廃止すれば必然的に自己防衛を女性に抱かせることになるのだ。
 だから逆にそこには精神的な意味では全く節制も禁欲的美徳もない。美徳がないから正直ではある。つまり相手が、簡単に自分が肉体を提供してしまうことを知っていいように利用されることを承知で悪辣な男性に奉仕してしまうようなタイプの男運の悪い女性であることを逆アピールしてしまうことを未然に阻止するタイプなら、この損失回避という意味では正直であるが、逆に相手がそういう悪辣な男性である可能性を薄々感じつつもその男性に惹かれていく感情に正直であることもまた別の意味で正直であると言える。つまり一切の保険と担保を拒否する選択もまたあり得るからだ。尤も女性の場合対男性ということになると、どちらが節制的であるかは俄かには判断が尽かない。精神的にはガードを緩くして自分の肉体を奉仕してしまうタイプの後者の方がずっと節制的であるが、肉体的にはそうではないし、逆に前者の(私が苦しめられたタイプの)女性の方がより精神的には正直であるが、肉体的快楽は将来に持ち越された快楽や幸福のためにとっておくという意味では節制的である。
 尤も愛に関してもそれは幻想であるから最初からあまり貪婪に求めないという決意もまたあり得る。これが女性なら相手に簡単に肉体を許させないということも、容易に関係も結ばないということでもない、一切異性を求めないという選択肢もあり得るからだ。

 だから完全に節制し、既知の真理の実践者として、あくまで欲求を大きく抱くからこそ、それが未実現であることから失望感を得ると考え、予め少なく欲求することを心がけていることが倫理的に正しいとしても、それは他者には強要しないし、自己信条を他者にひけらかすことがない限りで確かに正義論的には倫理に適っているが、ではそれだけで生活を成立させていることは、ある意味では前記の女性のような正直さは一切ないのであるから、ある意味ではかなり冷徹であり他者に対して一切の真意を隠蔽しているから、確かに前記の責任倫理レヴェルでは正しいにせよ、それは心情倫理レヴェルでは冷淡であり悪である。(賢者固有の悪)従って責任倫理的に正しいことは心情倫理的には冷淡である悪を内包し、そうではなく逆に心情倫理的に正しいことは責任倫理的には無責任な悪であるが、他者に対する接し方に関しては友愛的であり人情味もありそういう対他的感情という観点から言えば正直であるから人間的である、というここでもまた二つに乖離した価値の葛藤が持ち出される。だから完全なる倫理的正しさとか善などというものは所詮幻想以外の何物でもないということになる。完全なる悪もだから当然存在し得ない。価値は全て他方で悪があり、そしてこちら側から完全なる悪であると思えるものにも必ず善や倫理的正しさがあることになる。倫理的であることは完全ではないことの別名であり、人間的であることは善悪両面を引き受けること以外のものではない、ということになるのである。

Saturday, November 14, 2009

第十六章 価値はそもそも一般的なものとして志向するものとそうではないものとの間に最初から差異がある

 何か必死に仕事をしている人の間は何らかの想定され得る価値を支柱にして行為に勤しんでいるわけだが、全ての仕事に、私には一般的に認められ得る価値を支柱にしてする仕事と、そうではなくほんの一部ではあるが、そして自分の仕事を理解してくれる他者が極めて少ないことを承知で敢えてその価値を認めてくれる人が少ないということを承知でする仕事の二通りがあるように思えるのである。そのいずれが後世に長く語り継がれるかということになると、それは一概にどちらのタイプであるかとは言い切れないだろう。
 しかしその仕事をしている人自身はどこかで恐らくそのどちらのタイプの属しているかということだけに関しては自覚的であるように私には思えるのである。
 例えば私の信条とはたった一人でも私がしていることに対する理解があるのなら、生涯私はその仕事を辞めないという意図があるのである。
 私は若い頃私のことを誰よりも理解している、とそう私に常に伝えようとした女性と知り合っていた。しかしにもかかわらず、私は少しでも肉体的に彼女に関心がある素振りを示すと、彼女は私に経済力だけが女性に対して男性が接する権利を持つ指標であるようなことを強調し頑なに接触を拒絶した。そんな彼女の私に対する態度から私は他の女性に積極的に接しようとすると、彼女自身は一度も私と何の関係もないのに、必死に私が別の女性と接しようとすることを諫めようとしたものだった。私はその女性の、ある女性特有のエゴと、自分自身の肉体的欲望を持て余しているのにもかかわらず、それを躍起になって否定しようとする醜さが忘れられない(その女性は大学院まで進学した人だった)。たった一人の凡庸なる悪女に振り回された青春こそ私が過ごした若かりし頃である、と言ってよい(もう二度と会わないと決心するまでに費やした年数は実に八年にも及ぶ)。
 そしてその女性から逃れるように一時期、別の女性と友人となったがその女性は私よりも一回り以上年長だった(大学講師だった)。私の方の欲求を一切理解してくれないその女性は、私がそのことで覚めていった頃、今度は向こうから何故私を求めないのか、とそう尋ねたのだ。女性とは恋人にもなり難いが、友人同士にもなれない、私はその時ほどそう思ったことはない。
 私は面食らってしまった。男性の側からの女性への欲求と女性の側からの男性への欲求が如何に異質のものであるかをはっきりと悟った。私はそれから多く商売で体を売る女性たちと泡沫の快楽を求めた。そういう時期もかなり長く続いた後に、再び本気で恋愛したいと思った。そして今振り返ってみると、先に述べた醜い女性たちとの遣り取りよりは刹那的であり泡沫の快楽の時間の方が遥かに貴重だった、と言ってよい。そしてその後に出会う女性との出来事は確かに現在にまで精神的に継続するものを植えつけた。しかしそのことは未だ語らないでおこう。
 渡辺淳一氏の好む清楚という言葉が私は大嫌いである。広辞苑によると、「きよらかでさっぱりしたさま。飾り気のないさま」とあるが、私から言わせれば女性とは貪欲な性欲に取り付かれた女性と(尤もそれはそれで結構可愛い)そうでなければ、処女性だけを売り物にする俗物根性でありながら自分だけが清らかであると信じて疑わない醜い悪女の二種類しかいない。その中のいずれかにたまたま結婚していい妻として収まっているタイプの女性もカテゴライズされるだけのことである。特に一生男性とかかわりを持たなかったと言われるある女性政治家によって売春禁止法が施行されてから、日本男性の運命は変わった。そして続いて男女雇用機会均等法である。
 尤もそれらが悪法であったとまでは私も言わない。しかし根本的に男性が男尊女卑である精神的傾向はそうたやすく根絶やされるものではないとだけは言っておきたい。これは生物学的に仕方のないことなのである。

 話を最初の醜い女性へと戻そう。
 つまり端的に私自身、あるいはその信念にその女性は関心があったのである。しかし終ぞ彼女のようなタイプの女性は、私にとっての信念である男性にとって生涯命を賭ける仕事の意味ということを理解することは出来ないということを意味した。しかし人間とは自分にない要素自体に、積極的に自分自身を同化させたいと願う変身願望もあるのである。いや自分とは全く縁のない相手を手練手管で所有したいという悪辣な欲望さえ人間にはあるのである。しかし女性の方がより男性よりもその欲望を聖人ぶった装いの下で展開させることが巧いということは言えると思う。
 私はだから相手が娼婦であるとか、異性経験が豊富であるとか言うことが倫理的に正しくないと思っていたその女性の肉体関係を持たない前に既に母親化した態度に憤るほど醜さを感じ取ったのである。母親など腐れ縁の実の母親一人でいい。男女の仲とは端的に倫理など関係がないのである。端的に極めて悪女である処女も大勢いるのである。だから私は渡辺淳一氏が男性は清楚な女性を先天的に欲情する、というようなことを述べる(「欲情の作法」幻冬社刊)と、何故か反発を覚えるのである。清楚であることに如何程の価値があると言うのか?
 しかしそれすら私が私固有の経験から得た真理であるに過ぎない。全く逆の経験をなさっている方も大勢おられるであろう。だからその常に相反する真理がある、という一点に関心があって、記述する もの書き がいたとしたら、それは私とは正反対のタイプである、と言える。少なくともそういった価値観とか、経験から得た真理ということにおいて、私は自分が経験していないことに対しても理解を示すような書き方が一切出来ないし、そのことに対して正直でいたいのである。
 だからこそ私は私が書くものの性格は、ある意味ではかなり少数の人からしか共感も、理解も得られないのではないか、ということに対して常に自覚的なのである。そういう意味では私はどちらかと言うと小浜逸郎氏よりは中島義道氏にスタンスは近いと言えるかも知れない。しかしスタンスが近いからと言って、私は自分の良心に対する非難とか、家族に対する中傷などを中島氏のようには一切したくはない。勿論父はとっくに亡くなっているし、母は未だ健在であるが、そのことを取り立てて書きたい(どんな家族にも葛藤くらいは存在する)とも思わない。幾つかの蟠りがあったとしても、それは死ぬまで心の奥底に秘めたままにしておきたい。それが書くことにおける私の価値観と言えば価値観とも言える。 
 十二章から本章までかなり主観的な流れで書いてきたが次章ではそれらのことを今度は少し第一章で触れた分析、綜合的観点から、意図的に体系的に捉えて考えてみたい。