セザンヌ 牧歌 1870

セザンヌ 牧歌 1870

Wednesday, January 27, 2016

第七十四章 言葉は作られるPART3 意味は単独と接合とで在り方を変える

 語とはそれ自体の意味と、その意味を使用して一つの文を構成する時とでは意味の在り方を変える。存在する意味を変えると言ってもいい。
 殺人は語としてはネガティヴな意味だ。社会的に人類的に殺人は人類発生以来最も典型的な悪であり、にも関わらずずっと継続して無くなりはしなかったものだ。
 だが我々は他方「彼は売れっ子なので、殺人的スケジュールで動き回っている」等と言う時、その殺人はそういった人類の原罪的な悪の意味合いで使っている訳ではない。彼自身のエネルギーを消耗させ、彼を遂には働き過ぎで死へ至らしめるのではないかという懸念も手伝って言っているからだ。
 語、単語、語彙とはそういった意味では相対的な在り方をしている。一つの語彙がそれ単体で何かを語る度合いは、印象としては強烈だけれど、それが多くの文字の配列の中のほんの一部になればなる程、印象は薄まる。殺人は何時の時代でも存在したし、そういう事実関係へと転落する。実際に特定の時間に特定の殺人事件に就いて報道されていて、それを視聴している場合に抱かれる我々にとっての殺人の意味(それは今という時点が今正に今だと思う時と似ている)と、殺人は昔からずっと在った、と語る場合の意味とでは、前者は哲学、とりわけハイデガー的にアクトゥアリテート等と言ってもいいある種の生々しさとしての、リアルな感情が殺人ケースを目の当たりにした時に持てるのが、他方、多くの犯罪事例を紹介する時に殺人を放火や強盗と対置させて語られる時ではまるで言葉の持つ意味の衝撃の度合いは違う。
 言葉の価値は単体としての意味と、それが文字配列の中の部分、要素として機能する時とで大きく在り方を変えるという側面と、今正に殺人事件に就いて報道され、或いは人から聞かされたりして、その様子を知っていく過程で持つ印象と、そういった殺人事件の件数に就いて論じている時の平坦な印象との格差から二つの意味の存在理由の在り方を示唆する。言葉は感情・情動を其処から引き出す装置であると同時に、全く客観的に感情・情動を誘引させない様にさせる装置でもある。
 これは概念の提示、概念の確認という意味合いとして後者を捉えるなら、前者は明らかに概念を通して概念で指示されている事態を想像したり、再現させたりすることと言えるだろう。
 となると意味自体が、事実確認的志向性と、確認され指示された事態への情動的判断志向性という二つの全く異なったヴェクトルを喚起する様に待ち構えているとも言い得る。
 これは自己意識等とも当然関係がある。つまり自分自身がダイレクトに何かにある感情・情動、意味規定的な志向性を持つことと、そういった自分自身の在り方を、それ自体ではない視点から再認する(これを認知科学ではメタ認知と呼ぶ)ということ、つまりダイレクトな志向性と、インダイレクトな志向性とを我々は使い分けもするし、同時に使うことも出来る。自己がダイレクトに何かに向き合っていることと、その向き合っている自己をそういった向き合い自体からすれば外部から観察する様な視点を持つことは、全く違うことでありながら、何の不自然さも無しに我々が同時にも出来ることである。
 ある意味ではそれが両方出来るからこそ、林を縫って歩いている時に虎と出くわし、びっくりしてはらはらどきどきしながら、何とか食われまいとして逃げる方法を考えているという様な場合でも、それはあり得る。虎自体は虎という語彙であり、虎に出くわし、何とか逃げなくてはならない、という文章を心的に我々は同時に介在させることが可能だからだ。
 次回はこの語、単語、語彙の単体性と、文章文字配列の中の要素との両義性を実際の文章から考えていってみよう。

Wednesday, January 6, 2016

第七十三章 言葉は作られるPART2 日本語接合語(爆~)の応用の仕方から読める驚嘆感情への向き合い方2

 1980年代後半以降定着した語彙は(空爆)だ。これは冷戦終結と共に連合軍、つまり英米仏等に拠るイスラム教文化圏の独裁主義国家やその内乱等へ行われてきた。アフガニスタンに侵攻したソ連への抵抗から生み出された語句だった。
 日本ではそれより早く(爆発的ヒット)(爆発的売れ行き)等の語句も多く使用される様になった。これはかなり昔から言われてきたが、恐らく70年代以降定着した言い方だろう。当時の日本は高度成長が極まった時期であり、だが70年代後半から低成長が叫ばれる様になってきた。
 2015年の流行語大賞が中国人に拠る(爆買い)だったのも凄く興味深いけれど、この語彙はそのことで個人経営の店舗等が一兆円以上の収益を上げたことで定着していったが、この様に日本語では既に(爆)を使用する何のためらいもない。空爆と今では言うことが大半だが、太平洋戦争中ではこれはあくまで(空襲)だった。これはだから太平洋戦争の一般市民への無差別攻撃に対してのみ使用される永久欠番的な語句である。
 似た感じの言い方は70年代の池波正太郎の時代劇<必殺仕掛け人><必殺仕置き人>等のシリーズに於ける(必殺)である。これも殺し自体は悪であり忌むべき意味だけれど、それを敢えて使用することで緊迫感を出す一つの言葉の工夫である。でもこの語彙も先に(必死)という語彙があったればこそ発想し得た語彙とも言える。
 つまり否定語や忌み語として使用される語彙を敢えて接合させることで、その臨場的切迫感を出すのは語彙の作り方としては常套手段と言える。 因みに接合されている必は(必見)、(必勝)、(必定)、(必然)、(必聴)、(必読)、(必要)、(必用)等で使用されるが、それをしなければかなり損失するとか、そうでなければ可笑しいという合理を畳みかけて、印象付ける役割の接合語だ。
 これ等のことから価値は是や正とされることでだけ構成される・させるのでなく、非や誤、善だけでなく悪との接合で構成される・させるものだと言い得る。
 (爆弾)(爆薬)はあくまで軍事目的且つ産業目的のものだし、(自爆)は自決や自殺同様異常決心を示す語彙だが、(爆)がそれ等に於いて使用されていることを承知で敢えてそれを日常的な心理に置換させて使用されている(爆笑)(爆発的ヒット・爆発的売れ行き)等はそれ自体肯定的な意味合いなので、否定的な印象を植え付ける語彙を敢えて使用することで、逆説的にその反転した価値を印象付ける目的が我々には暗黙の内に認められていると言うことが出来る。
 今日正に北朝鮮が四回目の核実験を行い、それを水爆実験成功という形で北のテレビが放映した。爆という音の不穏さ、不気味さが原爆、水爆等の語彙が齎していることは確かだが、日本語では爆笑・爆発的ヒット等の語彙が消滅する事は無いだろう。自爆テロと水爆が現況で最大の不安を掻き立てているが、言葉をネガティヴであるが故に逆利用する工夫も無くならず、そのことは我々の思考が常に最大級に避けるべき事態をも、観念上では想定させずにアイロニカルな説明論理を構築し得ない存在であることを教えてくれる。
 つまり我々は一方では自分は誰しも最悪の状況を避けたい思惑を持ちながらも、他者の幾分かはその被害に遭ってしまうだろうという憶測から、それを避けたいという形でアイロニカルに忌むべき意味の語を利用してしまうし、それを悪い事とは思わないのである。
 何故ならそういう風に極端なケースを想定することから想像されることを暗にそういった語を使用することで促進する様に説明論理とは成立しているからなのである。説明論理とは最悪の残酷的状況をも含ませ示すことで説得力を醸成させているのである。

Saturday, October 3, 2015

第七十二章 言葉は作られるPART1 日本語接合語(爆~)の応用の仕方から読める驚嘆感情への向き合い方

 (爆)という語彙は日本人にとっては明らかに歴史的には太平洋戦争の空襲と爆撃に拠って定着したものであろう。それ以前でも爆弾という語彙は在っただろうが、爆撃、つまり空襲の物理的事実をこう呼ぶことはこの時期だったと思われる。事実日清戦争と日露戦争は本土空襲という事態は無かったからだ。そして日本は終戦直前に広島と長崎に原爆が投下され、水爆実験がその後、戦後レジームの中でアメリカ、フランス、中国等に拠って盛んに行われた。
 だが他方で日本人は言葉遊び的感性をどんどん拡張してきた。その一つは明らかに70年代以降、80年代バブル期を頂点とした(爆笑)という語彙である。つまり自分達の民族的記憶の中でトラウマとして君臨する爆という語彙を積極的に肯定的な雰囲気の語彙に適用してきたのだ。90年代にはその流れの中でテレ朝の深夜番組でエロス的雰囲気を振りまいた<トゥナイト2>等の影響もあり、(爆乳)という語彙が(巨乳)という語彙に連続して定着した。巨乳がウルトラ級だとすれば爆乳は超ウルトラ級だということだ。
 その当時にそれと連動して定着したもう一つの語彙が(爆睡)である。これも我を忘れて熟睡することの極致で(熟睡)も、その語彙が出来たての頃はそれなりに衝撃度があったと推察されるが、(爆睡)はより過激に夢さえも見ないで眠り続けるイメージを大きく打ち出した。
 そして昨今より定着しつつあるものとして(爆買い)がある。これは巨大な経済大国化してきている中国人が来日にして日本のマーケットで日本商品を買い走る姿を揶揄して使われている。
 これ等の例から鑑みて、実は意味というものは語彙使用を中心に考えれば、明らかに内的理解ではなく、外部に規約として、時代のモードを反映すべく我々が示し合わせて使用するという実態も浮かび上がる。つまり哲学で考える意味とは理解して我の心へ植え付けることというニュアンスが強いが、語彙使用に関しては決してそうではなく、自由に個々人が使うものではなく、あくまで使用規約と使用状況選択はきっちりと決められているということだ。そして皆で協働してそれを使用するという意味では共同注意的な使用の仕方と言ってよい。つまり語彙を使用し意味を伝達する分では明らかに外部的なものとして意味は規定されている。それを個々で念頭に入れて、例えば中国人観光客に拠る爆買いを巧く誘導して、或いは商品が巧く流通する様に取り計らうという時には、意味は決して内的ではない。その語彙使用を促す状況や事態自体を反省的に振り返る時初めて意味は内的になるだけだ。
 本章で私が提示した~爆という悍ましい歴史的記憶を呼び覚ますこの語彙を、片や完全に軽いノリで(爆笑)(爆乳)(爆睡)(爆買い)と使用する日本人。日本民族にとっての言葉選び、語彙選択の感性は明らかに連動的、協働的、慣用的な規約を軽い、従って気安く使え普及しやすく、言いやすく、一挙に同時代的な共時性を呼び覚ます語彙の発明に長けていると言うことが出来る。勿論他方では哲学的認識論は重要だし、人類にとって必要なのだが、その本質論とか要点主義に対してディテール印象主義的な語彙の使い方を好む民族性は、語彙文化自体を活性化させ、サブカル的アイディアや商法を普及させるのに大いに役立ってきているということも紛れもない事実なのである。
 それは幾分日本人が笑い的センシビリティで驚嘆的事実をも取り込もうという意識が在ることを証明してもいる。つまり笑いや笑う日常生活上での軽いノリを、よりシビヤなビジネスや競争社会での潤滑油にしようという殆ど自動的な配慮が社会全体に漲っていると捉えることが出来る。

Friday, July 3, 2015

第七十一章 時代は作られるPart8 生活者の感性は時代が作る①甘えの依存

 時代は我々の感性が作ると言えるが、我々の感性も時代が作るとも言える。相互フィードバックでありシナジーである。又それは集団的な連動が齎しているとも言える。つまり個人の感性は言語活動であれそれ以外の全ての社会活動自体であれ、それ等が集団全体の総意で動く以上、その総意の下に個人の感性も作られるということだ。
 先月の6月30日に起きた新幹線放火殺人事件は自殺をする為に71歳の老人が自らの身体にガソリンを被り、それに火を点けて新幹線全体を密室化された空間へと変貌させた事件だったが、ある意味でそれは結局個人の自由なんかより、個人に慰安自体が集団を巻き込む形でしか成立しないある種の徹底した無責任的行動の中で初めて開放感を得られるという歪な感性が現代人に定着していることをまざまざと見せつけた。つまり七十歳を過ぎた老人が社会全体への迷惑を顧みずにそういう行動をとれるという事自体に、甘え、つまり死ぬ時に他人迄巻き添えにすることさえ何処かで期待するからこそし得る行動を読み取れるが、それはそういう風にして迄ある社会全体の連動から外れたくはないという孤独に弱い、個人主義と自由の権利の無化を意味していたからである。
 時代は確かに便利な社会インフラに取り囲まれている。しかしどんなことをしてでもSNSの仲間との結束とかTwitterで言えばフォロワー数だけを増やす事に意識の上で血道を上げる生活習慣では、より社会的連動に於いてたった一人の頭でたった一人の行動で何かをするより、より集団全体の視線や関心に自己を巻き込んでいく方がずっと楽であるという選択眼が予め用意されている。つまり仮に会社内で孤立していても、SNSではそうではないという安心が誰しも用意されている。Twitterが合わなければPinterest、Tumblr、LINE等幾らでも選択肢があるのだ。昔はその点では会社で巧く行かなかったなら、別の会社に移るしかその辛さから逃れる方法がなかったし、だからそれが出来なければ集団全体の連動に自己も寄与し得る様に自己改善するしかなかった。しかし現代では仮に集団全体の連動に寄与出来なくても、それが仕事能力に支障をきたすものでない限り、会社が終わって一緒に必ず飲み会へ行く義務はないと高を括っていても、それを理由に解雇される心配はない(或いはそういうタイプの職種もあることはあるのだろうが、そういう職場にはそれに耐えられる人しか就職することはないだろう)し、又仮に対人関係が余り巧く行かないでも仕事全体に支障を来さない限り、対人関係的なことまで経営者が従業員に強制することは基本的には出来ない。結局仕事以外のあらゆる対人関係的繋がりがたとえSNSの様にリア充的なものでないにせよ、それが最終的に失われることなく確保されてさえいれば基本的に孤独感を抱く心配は要らない。
 と言う事は却って本質的に孤独の辛さに絶えなければいけないという試練自体が現代人には成立しない。それが却って集団全体の連動への弛まぬ意識が増長され、集団連動に寄与し得ないなら、逆に破壊することで寄与すればよいという短絡した決心をも生み易くなっているとも言える。それは何も今回の日本の大事件だけでなく世界的にもそうだ。
 その一つがアメリカで数十人の黒人を教会で射殺した白人のヘイトクライムであり、IS等のカルト宗教的原理主義だと言える。それは何等かの形で自分や自分達が帰属するメジャー集団への意識の過剰が生み出した何等かの形で集団に寄与し得ないなら、鬱憤自体を集団全体へアピールするしかないという短絡思考的な決心を助長する時代の感性が控えている。それは甘えることさえ集団全体へ影響を及ぼすなら、何もしないよりはずっといいし、ましであると言うより、それをせずには居られないという決定的な時代の感性である。
 自己の対話に於いて徹底的に孤独に耐えるという修業的な機会を現代人は与えられていないし、自ら率先してそれをしようという意志へ直結し難い様に社会全体が個人を脅迫している。そんなことをする時間を持つことは無職で求職中であることを人へ示す様なものだから、それだけは耐えたいという虚栄心こそが短絡的であっても犯罪的暴挙に出る方がずっとましだという価値倫理を醸成しているのである。
 と言うことは外面的で外在的な価値、それは往々にして社会全体がそういうものがあるかの様に個人に幻想されるものであるのだが、それだけが価値であり、内面的、内在的な価値等人の目に触れるものではないのだから、そんなものを後生大事にしたって、金に換わらないではないかという価値判断が優先されている証拠である。
 社会的地位、金銭的報酬に拠る経済力といった外在的外面的価値のみが最大級に優先されるかの如く個人を脅迫する時代は明らかにある部分ではアメリカ合衆国の国民のワーカホリックと世界経済的牽引図式が作り上げた。と言ってかつての共産主義の様な先祖帰りは既に人類が出来ない地点迄追い込まれている(と言うか進化した)。
 つまり情報伝達的なメッセージの遣り取り自体が既に単純な目的を外在的外面的に持ったものとしてのみ認識される唯社会目的的な存在理由だけしか個人が持ち難い様に社会や国家や世界情勢全体が機能している証拠である。だからこそ昨今数日置きくらいに勃発するテロ行為が繰り返されているのである。つまり全ての行為が社会を意識した社会行為であり、それは単純に名目的な目的を与えられていなければ安心出来ないということであり、その根底には他者への疑心暗鬼が極点に迄達している証拠であり、ビジネスもゆとりがあってはならず、あくまでビジーネスでなければいけないのである。それこそがアメリカという国が世界へ齎している現代という時代のコモンセンスなのだ。
 そういう風に個人にお仕着せてしまう時代の感性に於いて個人が選択する余地のあることは勝者になれないのなら敗者に甘んじるか、それを虚栄心が許さないならいっそ新幹線内で放火テロをするという暴挙に及ぶかということなのだろう。それが七十歳を超えた老人に迄、又現代の七十歳はかなり健康的にも体力的にも優れているものだから、勢い余ってそうしてでも社会に関わりを持てるなら、孤独死だけが待っている老人に転落するよりはずっとましであるという価値判断を構築しているのだ。
 これは極点迄他者への疑心暗鬼が作られてしまった後の人類のその息苦しさから解放される為の回路に唯一暴挙的行動を通した甘えしか残されていないという切羽詰った状況認識なのだろう。
 だが人類は個人というものを未だ余り多く掘り下げてはいない。それは国家や社会全体はそれを阻止する様にだけしか機能してこなかったからである。だから個人の感性のかなりの部分が民族や国家が個人に運命論的に強制してきた慣習や習慣の様な価値判断から誰しもがそれ程自由ではないのだ。つまり宗教的なコードから独立した自己の本質的姿を見据えようとはしていない。理性とは孤独そのものなのだが、それは個人の純粋な内面からのものなのだ。他者を疑心暗鬼になるということは他者を信用出来ない分自分も信用出来ないからなのだ。それは自己への甘えであり、それが他者引いては社会全体への甘えを作り易くしているのだ。
 次回は本質的な個人内面や内在的な価値を巡る問い、つまり思想や哲学が成り立ち得るかという問いから進めていこう。

Thursday, February 5, 2015

第七十章 時代は作られるPart7 現代社会に固有の時代性を乗り越えるには?①

 年間の自殺者数は恐らく交通事故より今も多いであろう。鉄道へ飛び込み自殺するケースが多い。それはある意味では現代社会の全ての矛盾に現代人の確実に一部を生きていくことを辛いと思わせる何かがあるということを意味する。
 現代社会はあらゆる意味で昔なら残存していた友愛的共同体の名残がない。和気藹々自体が成立し難い社会となっている。結婚も人に勧めることが出来ない。何故ならLGBTの差別問題等も表面化しているからだ。日高パーティーの様なものは今後も復活しないだろう。又監視社会化され盗聴されているかも知れない恐怖心は必要以上の自然な他者への感情表出を差し控える事で抑圧されている事の方が発散する事より多くなってきていると誰しもが自覚し得るので、その抱え込まれたストレスがどう処理されていくかの方策もなかなか見出し難いのだ。ちょっとした発言が失言として受け取られかねない社会様相では、閉鎖的なコミュニティが無数に林立する状態を社会に生む。
 情報摂取の欲求より使命感が益々加速度的に増し、ウェブサイトと各種電子機器利用の日常は徐々に自然状態というもの自体の像をぼやけさせ、消滅させる方向に人間精神を持って行く。
 それは営業成績でもサーヴィスでも従業員を成果主義へと翻弄させ、そのビジーネスに順応しきれない成員を必ず一定数産出する。だから2008年の秋葉原通り魔殺人事件や片山祐輔遠隔操作事件でも、前者は鬱憤の晴らし方で幼稚さを見せつけ(幼稚さが極端な暴力へと発展したケースである)、片山事件では他人に罪を擦り付けるというやはり動機的な幼稚さが異様に目立っている。つまり野々宮龍介元議員の統合失調的応対会見に観られる現代人固有の我慢の出来なさが顕在化したケースが昨今ではメインとなっている。それが栄光を求める形であれば佐村河内守と新垣隆のケースとなっていくし、ある意味では功を焦ることが小保方晴子ケースの様なものになっていく事が必然性である様なある種の現代社会の成果主義と秒刻みの社会的ニーズの変化に拠る虚実の混淆した社会様相を形作る。
 だがもし現代人が其処迄幼稚化せざるを得ないとしたなら、それは現代の情報化社会と電子機器の利用全体へ未だ完全に慣れきっていない感性を合わせるしかないという使命感から生み出されている現象として、その幼稚性を認識することは容易いであろう。事実自殺者はこの格差社会で独楽鼠の様な生活状況を強いられている精神性への回答として自殺を選び取っているのであり、その不可避的社会状況を逆用するしか其処から精神的苦悩を脱する可能性は見出せない。
 率直にSNSにもろに下品な本音を書き込む様な幼稚性を逆利用するしかないのだ。つまり正式とか本格的とかきちんとしたという体裁ではない幼稚な本音を吐き出す機会に異様に恵まれた現代人は最早その幼稚性を逆利用するしかないのだ。
 極度の暴力という意味では湯川氏と後藤氏を殺害し、ヨルダン人パイロットを焼殺したISILの行動こそ世界的レヴェルでのテロリズムの方法論的幼稚性を示している。それは大義的行動ではない。しかもその人質殺害がウェブサイトで知らされると、即座にヨルダン政府はサジダ・エルシャーウィ死刑女囚を処刑するという国家装置の機転にも、それが読み取れる。報復的な応酬の連鎖が世界的規模で垣間見られる。
 正式なる、正統なる、正当的なということ自体全体へ感性的に懐疑的になっている現代人には既に非正統的な、非正式なものだけをメソッド的にも頼りにするしかない。何故ならそれ以外の社会インフラやシステムの全ては厳格に科学主義的にそれを援用しなければ社会が運営されない様に管理されているからである。
 感性的な意味での逸脱への欲求を仕事やビジネスにも応用していくしかない。それはいい意味での幼稚性と、ISIL的暴挙の幼稚性を厳密に峻別する意志と努力にあると言ってもいい。昨今頻発する多くの殺人事件も衝動的な現代人の感性を表出させていると言えるし、人類全体が統合失調的な様相を呈していると言える(その点では国家指導者層、つまり政治家や為政者自身さえもがそうである。彼等はリーダー的態度と言うより、大勢の無力の市民の欲求の代弁者にしか過ぎない)。
 道徳に関して日本教育界では大きな変革を為すと言う。その際に私が提案したいのは、SNSの持つ本音吐露的な容易さの中から、汲み取るべきいい意味での下らなさ、つまりジョークやブラックユーモアと、他者への誹謗中傷の識別的感性を磨く事こそ求められている。シャルリ・エブドは確かに自由友愛を標榜するフランスでは正統かも知れないが、恐らくそれはイスラム教徒全般迄含み込むユニヴァーサルな正統性では無かった可能性はあるのだ。何故ならフランスでもドイツでも異様なる移民排斥デモ等の空気に満たされているからである。政教分離自体が欧米先進国モデルの理念なのだ。教室ではスカーフを外せという訓戒自体がアラブ社会やイスラム教世界の文化を無視した主張なのだ。
 次回はSNSツイート的な容認され得、しかも表現の可能性を進化させ得るものとしての下らなさ、つまりフランクさとは何かという言葉の使用の仕方に就いて考えていってみよう。(つづき)

Monday, February 2, 2015

第六十九章 時代は作られるPart6 未完成は悪の魅力である

 前回述べた様な不完全性にリアリティを感知する現代人にとってもし仮にウェブサイトにだけ本音メッセージを求め過ぎるとしたなら、それは社会全体が素直な欲求を他者に示す事を憚らせる固有の歪な禁欲的空気が蔓延している証拠である。発信し難さが、一方でウェブサイトで幾らでも本音を書き込めるにも関わらずリア充的対人関係では支配的な証拠である。
 だがそれは危険である。つまり情報発信力と本音吐露的な自由さ自体が却ってリア充的な抑制的空気を醸成しているのなら、ウェブサイトに過剰に依存することを悪しきバロメータとする様な倫理観とか生活感情を持つべきである。ウェブサイトの有効利用とは、ウェブサイトの利用に依存し過ぎないということに尽きる。
 ウェブサイトで余りにもいい子ぶって演技し過ぎても、それはそれで策略的なメッセージしか発信出来なくなるので控えた方がいいが、余りにもその都度の突発的な情動に従順にメッセージを発信し過ぎると、リア充的対人関係や社会生活で、その鬱憤晴らしの反省から偽装的態度に陥りやすくなる。リアル社会生活で欲求を圧殺し過ぎても、逆にウェブサイト上で良い子ぶり過ぎて偽装的態度を取り過ぎても危険なのである。
 実は我々がある部分では心地良い本音的メッセージに惹かれるのは、ある種本音的な原初的メッセージ自体に、社会的通念や常識や良識といった検閲されたものではない生の欲求、つまり悪も多く含む本音が控えているからなのだ。
 無修正の未完成メッセージこそ、あらゆる意味で善も悪も一緒くたになった混沌とした原始的パワーを秘めている。それは無修正ポルノを一人密かにPCの画面で観るのと似た迫力を感じ取れるのだ。
 出版社とは言ってみれば検閲機構の最たる存在である。社会一般で受けるとか、社会一般で良識ある意見しか出版させない。それは用意周到な検閲機構なのである。校閲といった所業は生なメッセージの毒抜き作業である。それはあらゆる層に万遍なく伝達されるメッセージが共感されることを旨としている。しかしロングテールビジネス定着以降の現代社会のメッセージ伝達は各層にそれぞれ全く異なったメッセージコンテンツを配信する事に拠って成立している。西松屋は子供服専門のホームセンターであるし、薬局から大型スーパーに進出したウェルパークもマツモトキヨシもダイエー商法も参考にしてきただろうし、その店舗形態の多様性にビジネス的命運を賭けてきただろうと思われる。
 ロングテールビジネス的な展開は恐らく全分野で応用されている(何もアマゾン商法だけではない)。
 この多様化と一部の消費者のニーズに拠って細分化させて多層的に経営する戦略は完成という形態が社会全体に適用されないということを意味している。勿論日本の場合伝統的な地方毎の産業基盤は存在する。だがその地方毎の特色を維持する為にもあらゆる新機軸的なイノヴェーションを要求されている。つまり稲作であれ畑であれ農業全般が減反政策的な範疇から逸脱する様に展開していくしか生き残りの道はない。
 完成とは例えば先述の出版物での完成形態のタイプだけでなく世界、社会全体のインフラにも言えるのだ。何故なら検閲された前例踏襲主義的なタイプの商法やイノヴェーションを作為的な欺瞞を感じ取ってしまうということが現代人類の顕著な特徴だからである。
 矯正的威圧から解放されたいと感じているのは個人の感性だけでなく消費者自身が各人サーヴィスに対しても感じていることなのだ。
 そのアイディア的な発見を我々はSNSで仕入れている。これは確かである。其処ではあらゆるタイプの情報が発信されている。当然自分が理想とするものばかりでなく玉石混淆なのだ。その雑居、同居性に意味がある。端的に怪しげな情報やガセネタ的に悪辣なもの、如何わしさや危うさも沢山閲覧出来る。その雑多なリアルから掴み取る自己にとって真に重要な情報という選択努力に意味がある。
 この不完全性、未完成性こそ悪の履行をも可能とする人類の感性の磁場となっている。何故なら本当に説得力ある善とは観念的な善ではなく、小さな悪とも共存している。悪の一滴も含有されていない善は偽善的なるもの、欺瞞的なるもの以外ではないと我々は充分承知しているからだ。魅力とは不良性にある。率直に検閲される時削除される要素こそが魅力なのだ。
 もっと言えば魅力ある何かとは小さな悪を含有している。これをSNSでは読み取れるからこそSNSは無くならないのだ。校閲、検閲とは言ってみれば小さな悪を根こそぎ欠点のないものにしていく志向がある。つまり小さな悪や多くの欠点もあるけれど、何か一点凄く魅力があるという事態から、悪も無ければ、欠点も一切無いけれど大いなる魅力も一切感じられないものこそ検閲済みのものである。善を一切損なって迄も一切の悪を除去しようとする校閲、検閲自体は律儀な官僚のする最も一般的な作業である。
 迫力ある魅力ある何かとは必ず凡庸な正しさにはない悪があるのだ。これをまず認めていく必要がある。これは精神的な意味で必要不可欠な必要悪なのである。詰まらないものは無性格なものである。それは悪がなく健全かも知れないが、それだけなのである。
 本格的な長所や大いなる魅力とは必ず悪と抱き合わせであると認める所からあらゆる商品やメッセージやサーヴィスを考えていくべきである。勿論此処で言う悪とは社会的な意味でインモラルな何かである訳ではない。
 要するにある意味では不首尾で微々たるクレームに対しては確かに欠点も多いが、一部の徹底的に絞られたニーズでは最大の価値である様な何か(世間ではスリムやグラマーな女性、イケメンの男性だけがニーズがあるとは限らない)を個々別箇のアイテムとして用意しておくべきなのだ。
 不完全性、未完成性に魅力を感じる現代人は一方ではアート抽象絵画作品等で極めてスキルの高い完成度を求める感性と実は抱き合わせである。そういうものを一方で求めるなら、逆にそれ以外では不完全で未完成なものを愛好するという感性でもある。音楽で完全性を求める者はアートでは荒削りなものを感性的に求めるということもあり得る。そういった相互転換的な完成思考と未完成思考の共存は無限なヴァリエーションがあり得る。価値は多元的であり、多層的なのである。(つづき)

Monday, January 26, 2015

第六十八章 時代は作られるPart5 整えられた秩序に懐疑的になる現代人

 意図論の(第三十六章 正論と邪論の混淆した情報社会)で私が示したSNSで現代人に拠って呟かれる本音的部分とは近代迄はずっと人類が抑圧してきた部分であり、それは言ってはいけないことも多く含んでいる。だが現代人は既に表現の自由等の権利を普通に享受しているので、それを呟く事も、呟かれたものを読む事も自然な感性で生活している。つまりそういう風に格式ばった言説から能天気でどうでもいい様な空談、暴言に到る迄何でもありのSNSの掲示板、TLを閲覧する事を自然なものとしている。と言うことは、近代迄人類は只管そういった雑然とした事をいけない事だ、きちんとした正式なもの以外には価値等ありはしないと決め込んでいたのだが、それは可笑しい、日頃の本音的部分のメモなんかの方がずっとある意味では価値があるということを気づき始め、それを誰しもが自由に閲覧することを可能とする様に現代ウェブサイトが機能する様になったのである。
 正式の論文にする前のメモは凄く面白いのに、実際にきちんとした形にしてしまうと、メモにはあった面白さが全て省略されてしまう、つまり省略した部分こそが一番読み応えがあるのに、正式とかきちんとしたという整えられた秩序の方を重んじる事自体が近代社会の一つの理想だったのかも知れない(尤も絵画等では文章より早く印象派の様な自由な表現の空気は訪れていたのだけれど、芸術はあくまで形式的常識的社会に対するアンチテーゼ的な認識をアーティストが持ちやすかったのだが、文章の世界ではそうは行かない、もっと保守的な通念がなかなか払拭し得なかったのだ)。だが現代になってようやくアーティスト達が近代に様々な冒険をしてきた事を文章でも出来る様になった。しかもそれは一部のインテリ達の手に拠ってではなく、全ての普通の市民誰しもが自由にそれを出来る様になったのだ。そして一旦そういった自由を獲得すると、きちんと整えられた秩序の方を不自然だと思う様な感性が定着しつつある様になってきている。
 一人の人間が一見統合失調的である様に思える部分さえ、実はそうでなく、それは誰しもが持っている事なのだが、それを必要以上に抑圧する事で得られている安定自体が、恣意的で不自然な事であると思える感性の方が伸してきている。それは去年の県会議員の公費私的流用疑惑に返答する前県議である野々村竜介氏の泣き喚き会見でも顕在化していた。ああいった態度で臨む事は理性のレヴェルでは大人気無く恥ずかしい事であるが、恥ずかしい事を敢えて自己陶酔しながらする事で却ってそちらへあの会見を観ている人達の意識を移行させる巧みな、と言うより狡い選択を敢えて彼は取った。だからその敢えて狡い事を履行する事にそうしながら段々自己陶酔し、無我の境地になる事自体で自己存在をアピールしようとする。それはどうせもう辞めていくのだから、それぐらい許された然るべきだという傲慢も控えている。しかし実際あの会見の統合失調的態度は皆の記憶の中に残ったのだ。それは彼が議員としては怠慢であったにも関わらず、ああいう辞め方をしていったという意味で印象付けられてしまったのだ。
 寧ろあの時凄く理性的に会見での質問に応答していたら、あの議員のことだけなく公費私的流用の件自体も徐々に忘れられていっただろうが、実際はそうでなく、寧ろあの醜態に拠って鮮明に我々の記憶に残っている。つまり彼は世代的にもネット社会に極めて普通に順応出来る世代で最初の中年だったので、現代人の整えられただけの秩序に不自然さを感じる感性をストレートに出しても自分自身としては何等可笑しい事ではないという存在主張をしている。
 現代人はSNSを見慣れていて、正式とか格式ばったこととか、きちんと本格的である事自体へ懐疑的感性を巣食わせてしまっているのだ。一旦そういった自由な感性をかなりそういった手段の無い時代では堅物で押し通してしまっていた様な全ての成員が、そんなものに本当の出会う価値等無いのだと思える様になっていくと、正式とか本格的とか秩序立った理性等の方がずっと疑わしいぞという価値判断さえ我々は持ってしまえるのだ。
 統合失調でない健常である状態とは、実は本来凄く存在的にも矛盾している我々が勝手にでっちあげてきたいい子ぶった態度でしかないのだ、というメッセージとして全てのSNSのTLが日々延々と閲覧可能であることの現代情報社会では統率されている、きちんとマナーを踏襲する様に教育されていること自体を不自然でしかないという、まさに東浩紀が<動物化>と言った事の方が却って人間らしく、人間らしいと言う事の方がずっと不自然で訓育されているだけの事であると判断する様になってきている、とは言える。
 それは恐らく様々な局面で大きな文化的転換点を人類に齎しているのではないだろうか?ゲームソフトが映画の内容や編集等の感性に大いに影響を与えている様な意味でSNSの呟きの解放的な気分が正式であること、本格的であること、きちんと仕上げられていること、つまり完成されたという感性自体を大きく転換させていると言える。
 従ってこれから数十年後では論文であれ公式文章であれ、以前迄の様な型通りのものさえかなり大きく変化していくものと思われる。だが儀礼性とか伝統とかそういう事は、ではどうなるのだろうか、という問い自体もかなりきちんと論議される様にはなっていくだろう。それはかなり保守的見解からの危惧という形でも噴出するだろうし、だがやはり変えていくべきは変えていくべきだという観念でその論議に参加する人達もかなり多いだろう。そういった喧々諤々の論争の時代はもう直ぐ其処迄来ている。