Thursday, April 24, 2014
第五十七章 現代人は現代社会の異常さを熟知していながら昔へ戻ろうとしないし、戻れないと知っている②
アメリカ合衆国内では富裕層が自治体を独立させ、契約社会的コミュニティを形成し、各州でその試みに拠って税収が半減し過疎化し公共サーヴィスを削減させられるエリアが創出され、富裕層コミュニティとスラム街とに分断されているというリアルが全国的問題となっているらしい。しかしもしこの侭唯この二分化を放置しておけば、いずれスラム街化してしまった地方自治体では疫病やエイズが蔓延し、犯罪も多発し、次第に富裕層コミュニティに迄影響を与えずにはいないだろう。
つまり富裕層コミュニティの治安維持に次第に莫大の予算を富裕層がつぎ込まなければいけなくなってしまい、そのリアルに富裕層自体が憂慮し、中間層を創出するニーズに目覚めるだろう。従ってアメリカ合衆国の富裕層エゴイズムだけで国全体を維持し切れない臨界点を通過すれば、逆に富裕層が公共性を自覚しだし、中間層を創出する努力をして、あるレヴェルではスラム化したエリアからアルカイダ等へスカウトする様な動向自体を封鎖すべく国が動くだろう。
日本人も活性化しているアルカイダの要員として隠密裏に参加していないという保証もない。日本からもアメリカからもスパイ的要員が本国へ送り込まれている可能性は否定出来ないし、中には富裕層でそれに資金提供している者さえ絶無であるとも言い切れない。
そして我々は既に東京でもロンドンでも北京でもNYでも何処でも、カフェテリアでもバーでも隣りに座る紳士淑女が第三国のスパイであるかも知れない、或いはイスラム原理主義者の送り込んだ先進国VIPを狙うスナイパーであるかも知れない可能性を否定し得ない都市空間自体にある解放感と憩いさえ見出している。何故なら本当にそういったスパイだとかスナイパーであるなら、あくまでスリーパーとして自分がそうであるという事を表面上は示すことはないだろうし、それを誰しもが知っているからである。
現在の世界経済では誰しもが二重スパイとして活動しているかも知れないというリアルに逆らう事が出来ない。多国籍企業であればある程そうである。そして都市空間固有のそういったリスクを却ってスリルを味わう為の怖いもの視たさでもある事はかつてのNYでもそうだったし、しかし余り危険になってしまうと治安維持を求める様になり、日本の新宿の歌舞伎町でも一斉にヤクザを放逐しようとする様になる。勿論その煽りを食らった当のヤクザ達は何処かに潜伏して合法的ビジネスでマネーロンダリングをしているかも知れない。
しかしその様に何処迄もアメリカの現今の富裕層とスラムの二極分離が進むとも思えない。と言ってそれを模倣する世界各国の分断構造もある時点迄は加速化するだろう。そして資本主義の経済循環の様にその様に景気と不景気とを繰り返すシステム自体は今の処どうすることも出来ない。それは核兵器保有のリアルと同様だ。
つまり完全に世界中から軍隊も核兵器も絶無になることはないし、資本主義がインフレとデフレを反復する事も消滅することはないし、何か余程人類全体を究極の食糧危機へと陥れない限り、人類全体は一致団結することもない)だろう。
つまりそういう様相を維持しつつ、常に一方向にだけシフトし続ける世界構造にもならなければ、と言って常に安定して平和で殺人一つない世界にもならない、と世界中の市民がイスラム原理主義者であれアメリカのトップ富裕層であれ、中国の少数民族であれ、ドバイの富裕層であれ、フィリッピンの最下層の貧困層の市民であれ、全世界的にこの変わりなさへどうする事も出来ないという思いだけが共有されている。そしてその合間に空ろなウェブサイトの液晶画面だけが明滅している、それが二十一世紀というものの実態であると言える。WikiLeaksもエドワード・スノーデン氏もワシントンポストとガーディアン紙がピューリッツァー賞を受賞するリアルとNSAとコンサヴァ的WASPとが抱き合わせでアメリカアズナンバーワンを維持し続ける為の共犯関係を誰しもが黙認していく様な空ろさを北朝鮮市民さえ消滅させ様とはしないのだ。何故なら適度の敵対者に拠る性悪的リアル自体が、敵対者のレゾン・デ・トルを鮮明化させている、と知っているからである。
人類は旧石器時代に既に価値が一元化される事に拠って闘争のない世界構造にはならないと決定されていたのかも知れない。つまり意図論にも示した様なツールとディヴァイスの進化過程自体に武器の携帯というリアルが必要だった様に、世界に国連憲章を創設させる為にアメリカ合衆国に広島、長崎に投下する核兵器を使用させたのかも知れなかった、と過去形に対してなら言い得る。しかし未来の不確実性も確率的には、今迄だってそう変わる事など無かったのだから、これからもそうであろうと、どんな立場の人達さえ何処かで自覚していなければ日々を過ごす事は出来ないと知っているのだ。時計の針を元へ戻しガンジー首相を生き返らせる事もジョン・レノンの殺害を防止する事も出来ない。スティーヴ・ジョブズの死去した理由である癌細胞を消去される様に医療的措置を今から施す事は出来ない。
だが今の処隣りに座る紳士淑女がイスラム原理主義のスナイパーかも知れないし、北朝鮮のスパイかも知れないし、ロシアが米国政府へ送り込んだスパイかも知れないそのスリル自体をまるで映画を鑑賞する様に楽しむ都市空間での他者との場共存を、今後も維持していく為に、原理上では二極分離社会を臨界点迄は推し進めても、臨界点を超えてしまった時点からは、引いていく潮の如く、一定程度の公共性の名に於いて分配する理論に追随する様にして、合衆国の撲滅だけは阻止するという方向にシフトしていくだろう。そしてその反復の変わりなさへの自覚に於いてのみ中国の少数民族もジャスミン革命以後の中東市民も、北朝鮮人も皆共通しているというリアルだけはどんな立場の世界市民も既知であるという現実を、後何十年継続していくのだろうか?
その反復的継続を阻止し得る事は、何等かの形での自然災害の頻発に拠るカタストロフィからの食糧危機的状況だけであろう、とはあくまで私の推測ではあれど可能性としては最も高いものであるとだけは言い得る様に思われる。(つづき)
Saturday, April 12, 2014
第五十六章 現代人は現代社会の異常さを熟知していながら昔へ戻ろうともしないし、戻れないと知っている
我々は既に自分自身をかつての地域社会がほのぼのとしていた時代へ戻れないと知っている。日本でも地域社会の地縁性を利用する部分は確かに今でも残っているが、それはあくまで隙間である。かつてはそうではなかった。葬儀も祝いの儀式も共同体ぐるみに行っていた。しかし今はそうではない。それよりは対人関係はウェブサイトの登場に拠ってありとあらゆる他者と知り合える可能性に満ちていて、決して閉鎖的地域社会の成員としてのみの生活を潔しとしない。他にも他人は大勢居るし、知り合う機会も凄く多いからだ。
そしてある時は確かに50年代から60年代迄は辛うじてあったけれど、70年代以降急速に失われ、80年代以降はその先行きの傾向が決定的になって以降今迄は、最早かつての共同体社会を復活させたいとすら思わなくなっていった。
確かに文藝の世界、出版界、学術界等は閉鎖的コミュニティとしても機能している。しかしそういった閉鎖性を唯一価値として生活していこうと其処の帰属成員さえ考えている訳ではない。誰しもが多層的な対人関係のネットを維持して、それを一々家族にも親友にも報告する必要もないと割り切っている。そしてそういった相互不干渉主義的個人性維持可能な生活を心地良いとすら思っている。最早昔に戻りたいと誰も思ってなどいない。
だからこそ『四丁目の夕日』シリーズの様な映画が一種のノスタルジーを提供するのである。しかしその憩いもあくまで一時のものであり、継続的にああいった時代へ戻そうとその時代に育った者さえ思う事はない。私が生まれ育ち生きてきたこの半世紀と数年の間でもそうでない他者とは一人として出会わなかった。そしてそれは欧米の何処の国でもそうであり、アメリカ合衆国の言う事をことごとくかつての様に聞く事もなくアメリカがスーパーパワーから衰退していったとしても尚、世界はかつてのアメリカを模倣する様に追いつけ追い越せで国を維持しようとしている。その点ではウクライナもアフガニスタンもロシアも中国も韓国もそうである。
世界は各学術界が専門毎に自己閉鎖的にアカデミズムが相互不干渉主義である様な意味で国家自体が各公用語で自己閉鎖的に個別的にGDP数値を競い合い、勿論一部では凄く民族主義的嵐は吹き荒れている。中国国内の漢族以外のウィグル族もだし、クリミア半島やドネツクやルガンスクのロシア人もだし、世界中でナショナリズムも隆盛を極めているけれど、それはかつてどの国にもあった地域社会の共同体結束的なそれとも性質が違う様に思われる。事実世界中の人々はウェブサイトを止めて素朴なコミュニケーションへ戻そうとは言わないからだ。
要するに現代世界でのナショナリズムや民族主義的嵐は、実はかつての共同体復活的意識とは性質が異なるものなのである。それらのどの国でも政変や内乱を来している理由とは、却ってウェブサイトを利用して幾らでも自由気儘に「我慢を態々することなく」自分勝手にegoistically結束ゲームを楽しんでいる、そして人類固有のマシーンやツールを利用し捲るある種の道具制御者tool manipulator, controllerとしての快を得んが為に自動小銃を携帯し、その傍らにスマホを携帯している訳である。それは政治や経済活動(それも資本主義ゲームである)に拠る格差(個人もそうだし、国家やや地方や民族もである)が生じている事への不満、鬱憤をシューティングゲームをし合う様に実現させているのである。
我々は便利なツールを利用する事に於いて過去へは戻れないのである。だからこそその過剰なる利便性の中から、幻想的な価値としての過去の像を追い求める事へ中毒化、慢性化しているのだ。つまりそれは政治を変える事、経済活動での落差をそれで埋めようとする現代固有の世界全民族に拠るゲームなのである。そのゲームはそれを維持し続ける為に固有の過去の幻影をおかずにしているのだ。この現代固有のゲームは、社会ゲームであるし、コミュニケーションゲームであるし、テロリズムもその為の方便だし、メソッドなのだ。
人類全体が共時性を獲得していった経緯は確かに60年代から80年代へかけて構築されてきた人類の共同意識であるが、それがウェブサイトの完成に拠って加速化した。そして現代人にとっての共有価値とは権利に伴う義務以上に、グローバリズムが所詮アメリカの資本家の画策する世界戦略の貢献する形での従属でしかないと世界中の市民が覚醒していく中で求められている「誰しもがアメリカの富裕層の様になる権利がある」という認識に拠って誘引されているのだ。その権利を我慢する必要性を現代人は全世界的規模で持てなくなってきたのだ。だから誰しもがアメリカ合衆国カリフォルニア州のビヴァリーヒルズの様な高級住宅街に住みたい訳ではないが、恐らくマカオ人も香港人も台湾人もタイ人もブータン人もネパール人も個々固有の理想の富裕層的生活(それは広大な土地を持ちプールを所有する事ではなく、個々異なった性格の理想である)があって、それを誰しもが世界的経済ゲームの中で自己主張していいのだ、ということ、そしてそれこそが最初アメリカが仕掛けたゲームであり、アメリカだけがその成り行きに自分達自身で仕掛けたのにも関わらず狼狽している、という事が今の世界情勢なのである。
人類にとって生活でも人生観でも全ての重要な価値とは、そういう風に民族性や国民性や地域社会性に拠って維持されているけれど、それはかつての様に戻る事では決してない。何故なら仮にそうして過去の再現をしても現在は既に二十一世紀の十四年という年である事を変えられないからである。価値は過去にどんなに栄華に包まれた時代を持っていた民族であれ国民であれ更新させていくべきものであり、改変させていくべきものなのである。それはそういう風に語り合って我々が同意しているのではなく、生きている以上全ての世界市民にとっての暗黙の了解事項なのである。それは凄くリアリスティックに各個人にとってプライヴェートなのである。しかし誰もが同じ様にプライヴェートである事を了解し合うという事に於けるプライヴェートだと知っている。それが野生ではない、ということだからだ。
人類は社会的インフラのテクノロジーを価値を再編、価値を更新する為にリニューワルし、進化させてきたのか、それともツールやディヴァイス等全ての社会生活上でのインフラを進化させたくて、その為に価値の方を更新していかざるを得ないのかは分からない。恐らくどちらでもあると言い得て、どちらかでもないとも言い得るであろう。(つづき)
Thursday, March 6, 2014
第五十五章 現代人は頭を休める時間には、少なくとも言葉を求めていない
現代人は情報摂取に凄く忙しい。其処ではもう殆ど四六時中、文字と記号とで頭をフル回転させている。そのフル回転の読み取り的な知覚衝動を喚起させるもので満ち溢れているのが都市空間であり、都市空間に流されるBGMであり、エレベーターのボタンであり、各種ATMの機械の応答であり、要するに我々は既に覚醒時に於いて応答可能性のある多くのツールとディヴァイスに取り囲まれている。ウェアラブル端末中心の時代になってもその本質は変わらないだろう。もう既にそういった全てのデータと必要なものは何かを即座に教えてくれる機器の海の中に居る我々は、ある意味では睡眠時間でだけそれらから自由になると言い得る。
だからこそと言うべきか、我々は頭を休める時間には少なくとも文字や記号を求めてなど居ない。絵画は記号的なものを対象として扱っていても記号ではない。映画も言葉とか台詞が多く作品の中で登場させていても、やはり記号ではない。しかしそれらはやはり一つの娯楽ツールとしての役割を担った文化的なことである。
その点では自然の情景は、どの情景を選び取って其処に憩を見出すかは個人差もあって、それは遠因としては確かにある種の文化的な営みと無縁ではないだろう。それでも尚そのチョイスはもっと長い人類の感性のDNAとも関わっていて、それ自体言葉的であるとは言えない。仮に凄く言葉的な側面のある情景のチョイスであっても、それは文字記号的な認識とか理解とは違ったもっと原始的な何かに突き動かされている筈だ。
色彩や明暗それ自体、正月の初日の出を観たいという欲求もそういった一つの原始的な衝動だし、日の入り自体の映像的な感動は映画とかメディア、ツールで観られる動画性とも勿論違うもっと生の感動と言っていいだろう。
絵画とは言ってみればそういった直の知覚的感動、色彩とか明暗(この二つは明確には分離出来ない)と形態とかの素朴な把捉を元に描かれている。その絵画の素ととなるリアルな存在者としての把捉を我々は頭を休めている時に求めている。要するに日頃からのPC、PDF端末からの呪縛から逃れたいと望む。
映画ではやはり言葉化された台詞が多く登場してさえ言葉化され得ないものを我々は映像から読み取ろうとする。その読み取りは文字記号に対するそれとも違っている。恐らくそれは流れだろう。その流れは論理的なそれともやはり違う。もっと実在的に確認し得る動きである、だからこそ映画をかつて活動写真と呼んだのである。
論理にも流れがあるが、それはやはり原始的な流れとは違う。全ての原始を封印するものこそ認識であり、論理である。論理とは論理という一つの説明なのである。
写真も然りである。写真は言葉ではない。言葉的なものを誘発する写真であってもそれ自体はやはり言葉ではないし、写されているものもたとえそれが看板の文字であっても本の見開きであっても言葉それ自体ではない。
写真の一瞬として切り取られた映像は非言葉的、存在の刹那の心の叫び、目という臓器から把捉された空間に居合わせることに固有に付き纏う孤独の記録である。その孤独の瞬間を写真を観る我々は読み取る。この読み取りも言葉、つまり文字記号的なことではない。
従って実際の風景や実際の広大な空間、或いは凄く密閉された遮蔽空間に閉じ込められていることも含めての身体的な存在的居合わせ体感とでも言える何かとは非言葉的である。
その非言葉的なことを思い出させてくれるものが映画であり写真である。そしてその映画や写真を言葉自体が補足する。言葉は非言葉化された空間的共有や居合わせる存在事実自体を反省的地平へと送り込む。その反省的地平はやはり言葉的なことだけではない。
と言うことは要するに我々は言葉の中でさえ既に非言葉的な何かを掴み取ろうとしているのだ。演劇とか劇空間は映画や写真よりもっと言葉としての文化や文明を喚起させる。寺山修司の詩や演劇は完全に言葉自体の文化的な営みの反省である。美輪明宏の世界もそうである。
しかしジェームズ・タレルの空へ開け放たれた窓のアートはそうではない。それは寧ろ映画館とか映画の枠としての四角形を食み出たものへの誘いである。枠自体は時間芸術の場合には観ている間は意識しない。しかし映画が終了すればまさにそれだけであったことを知る。映像とか映画の体験とはだから当然実在風景を前にした時の何か(体感的、存在者としての空間居合わせ感)と言葉の文字記号性との中間に位置しているとも言い得る。
我々は言葉に拠って言葉化されたものや言葉の文字記号性自体をも追求してきたが、同時に言葉に拠って非言葉的感動とか、言葉からは得られない体験や経験の切実さも追求してきたのだ。それは基礎としては現代人にとっては端末利用と都市空間闊歩のリアル(それはビジネス的にもだし、余暇的にもである)から一時離れたいと望む脳の欲求の前では、決して言葉化され得ない、言葉を連想させないモノやコトをも多く望んでいる、その切実な願いそれ自体をずっと見据えてきた、ということでもあるのだ。 言葉を使うことの中に既に原始的な営みもあって、しかし言葉それ自体はそれを用意周到に隠蔽する。その隠蔽的な悪辣な言葉それ自体の戦略に一時休憩を、休息を我々は申し込むのだ。だから日頃悪辣な言葉の原始性の隠蔽に付き合っている我々は、一時(その一時こそ業務でも、営業成績でもない完全な非言葉化された世界であり、社会の有象無象の与える我々からの生生しさとは違う何かである)頭休めに、言葉でも文字記号でもない明確にフォルムを積極的にこちらからは与えない侭にしておきたい何か、つまりその何という部分に概念化、観念化、説明し得ない様なNANIKAを凄く切実に望み欲するという訳なのである。
Wednesday, February 5, 2014
第五十四章 人類は夢の拡張から内部で閉じたシステム管理へと意識を移行させ始めた
21世紀を生きる我々はコミュニケーションをする相手の顔を観られないことを嘆いてもいない。率直に言って相手とはそもそも抽象的な存在であると目覚めてしまっているからである。つまり他者性とは即ち仮に顔が見えていても真実に相手を理解し得るものでないということである。その事実の必然性を隠蔽し続けることの不可能性というパンドラの箱を開けてしまった人類は、コミュニケーションとは即ち文字という記号の羅列を通してその時々の感情をぶつけ合うことであると既に骨身に沁みて知っている。
現代のアートが何処か凄く完成されたハーモニーに対して懐疑的(skeptic)であることは、このことと関係がある。要するに完成ということ、全体ということへ懐疑的であることはまず現代を普通に生き抜く前提であると我々は知っている。自然科学の様々な発見がそれを実証している。
その代り我々は何処かで常に拡張されてきた夢を放棄してきたと知っている。アメリカ大陸の発見、月へ飛行士が到着したことを最後に、常に人類が外へ外へ拡張してきた夢を何処かで宇宙ステーションを実現しているにも関わらず放棄していることとは、ウェブサイトビジネスに於いてWindows8に於いてよりPDF端末化させたPC端末へ移行させたことに拠っても如実に示されている。それは地球内部で閉鎖的なコミュニケーション情報ツールを完成させることでそれら端末ディヴァイスを利用させ、その結果監視盗聴傍受社会の持つ管理徹底化そのものの功罪を暈す意味合いがあった訳だ。何故なら様々なアプリを通した情報を各人へ配送することで、その情報接種の快を与えれば、管理システムそれ自体への批判が躱せるからである。我々は町中に仕掛けられた盗撮傍受に拠る監視カメラ映像の集積、つまりビッグデータ収集を、各人が自由に情報接種することを選択することで同意している。一切の監視のない社会自体を既に望んでさえいない。
宇宙の果てに太陽系と酷似した条件の系が仮に無数に存在していても、実質的にそれらの惑星の高等知性生命体と邂逅し得る訳ではないと知っている。そこで我々は地球内部での閉じたコミュニケーションだけしか対高等知性生命体との交信は実質上可能でないと暗に悟ったのだ。
この様な拡張の外へ外へ一方向性から内へ内へという逆の後退を積極的に推進するベクトルの取り方は明らかに人類に於いて、閉鎖的内部管理性の完成、つまりそれ以前的なテロルへの徹底沈静化という方向へとシフトしていることを意味する。それは大型スーパーで決して容易に万引きをさせはしないという管理的徹底化と、実質上監視カメラ、盗聴システム等の全てがビッグデータ収集の為に利用される現代社会の在り方自体が人類のある種の能力的限界とそのことに於ける諦念を象徴している。
確かに監視されていること、盗聴されていること、そしてそれを助長しているものは我々自身が各人であらゆる情報摂取していること、多様化されるアプリを選択する自由を捨てて迄その傍受社会を崩壊させる気すらないということに於いて、我々は監視者へも盗聴者へもその人格とか顔を察知することも出来ない。にも拘わらずその顔を知りたいという気持ちにさえ我々はならないのだ。既にそういう風に顔の見えない者同士のコミュニケーション自体へ免疫が成立していて、その顔の見えなさへ恐怖心も放心状態も持っていないのが今の我々なのである。
つまり我々は価値というものの在り方をツールとディヴァイス利用を維持していければ、それ以外の多くの精神的な呪縛されていないという感情さえ反故にしてもいいと思い始めているのだ。それはやはり決定的に我々自身が決して異常ではないものとして我々が我々内部で閉じた監視をし合うマゾヒスティックな相互呪縛性へ自然な眼差しを持っているということ、だってそれは全人類が程良く平和で安定していられる為なら仕方ないではないか、と理解している証拠なのである。コンビニにある監視カメラと同様のものは全てのマンションに設えられているが、それを管理するのはマンションの住人全員であり、必ずしも特定の誰かである必要はない。要するにそこに固有の顔を要す訳ではないのだ。
そしてその監視し合うということが極度に推進されていったのがスノーデン氏へ告発へと向かわせ、スノーデン本人を最後の告発者としてのポジションを与えつつも寧ろ何も変わりないということだけを証明してみせたアメリカのNSAと同様のものを日本に導入しようとしても所詮アマチュア的なものだよ、と揶揄しても、その本家本元のアメリカのものでさえある種の脆弱さを示しつつある今日、元祖とか本家という発想自体がある種の幻想であると知りつつも、そういう風にヒエラルキー的に認識したがるという本性自体もどうすることも出来ないという認知を全人類的に共有している。
英語だけがグローバルランゲージであること、商業公用語としてではそれ以外のどの言語を英語に置き換えられるだろうとも思って黙ってそのグローバリティに賛意を示している全人類にとって、只管拡張しつつあった戦争と領土拡張の歴史自体が二十世紀後半以降大きくベクトルをシフトさせていった様に、その拡張の原理を内部閉鎖的管理の徹底化へ奉仕するベクトルであらゆるテクノロジーの進化を見守るスタンスを選択したということを教科書的にだけでなく各人の内心の本意としても認識している、と言えないだろうか?
それは相互呪縛社会の持つサディスティックな人間性悪性の相互確認と、その相互呪縛社会の顔の見えなさの前で自ら全羞恥を曝け出すマゾヒズムを自然な本性として我々が認めたということでもある様に思われるのである。(つづき)
付記 あらゆる手続きが全て通信に於いてのみ履行される現代社会で我々は寧ろ積極的に相手の顔の見えなさをATM利用的に選び取っていると言える。
Thursday, December 19, 2013
第五十三章 顔の見えない文字オンリーのメッセージの本質とは?No.2 ツール・ディヴァイスを使いこなす万能感/判断力と行動力のテスト
今多くの役所では電子ファイル化が進み次第に職場はスペース的に簡素化されてきているし、そもそも全ての国家試験的な大きなことから大学受験等もペーパーテストにしている昔ながらの方式自体が大きく変貌と遂げていく未来展望は今既に垣間見られる。
マシーン、ツール、ディヴァイスを利用することへ快楽を抱く人類にとって、その魁的な悪の誘惑として前回銃器の発明を挙げた。拳銃は今日益々老若男女分け隔てなく利用しやすいものへと改良されてきている。この事実はそれ自体は人類の悪そのものであり、悪を認める形での性悪的ニーズに応じて銃器メーカーがアメリカ、タイ、フィンランド、ブラジル等には存在するということだ。
銃器の発明の前はその扱いに訓練を異様に要する剣、弓矢等が古代からずっと部族社会では存在し続けたし、それらの利用には体力的な鍛錬を要した。その訓練の最小限の簡素化こそが拳銃の発明であり、これによって体力の衰えた老人、そもそも非力の多くの女性や子供でも容易に暴漢から防備可能となっただけでなく犯罪、つまり殺人殺傷も可能となった。
しかしそういったネガティヴなリアルも今も存在するが、もっとずっとグローバルな形で、そしてユニヴァーサルな形で情報摂取と通信的な送受信を可能とさせたものこそスマホ(PDF端末)やタブレット端末の進化であり、PCの多種多機能、ロングテール的なニーズに対応した各種分化である。
しかしもっと心理学的にも人類学的にも人類を認識的な価値規範、価値考察的な哲学を一足飛びに飛び越した実用性の猛威は、寧ろ人類を非哲学的に推し進めている。要するに現代のマシーン、ツール、ディヴァイスの過剰利用こそ、コミュニケーションの各自に拠る権力をリアルに持てなくても、あらゆる大勢の個人とネット上で繋がっていられると幻想し得るし、事実そのリアルな出会いをも既にかなり広範囲へと拡張しているし、時間的にも短縮させられる。人類は既に万能感をマシーン全般を日常的なコミュニケーションの武器とすることで快楽的にも得てしまっているのだ。
ウェアラブル端末がもっと普及し進化すれば(文字オンリーのコミュニケーションももっと進化し、グラフ、数値参照的なものとなって瞬時の判断と選択を個に可能とする様になることが実現すれば)、既に出回り切っているとスマホ全般さえ衰退し、その内姿さえ消すだろう。そうなれば今は未だ権力のない人でも大勢の他者と交信し得るし、その際にリア充的な人格査定や社会的地位を問われることを他者へ気を遣う必要がなくなっているだけのことが、もっと受動的にウェブサイト上での交信をリア充以上に選択している部分さえ消滅し、その内アグレッシヴに自分自身の主観にだけ忠実に全ての他者を選択する様な交信を非リア充的に電子機器にだけ依存させるマナーが徹底化され、あらゆるペーパーテストが不要となり(従って不必要な記憶力重視の教養主義も影を潜め)、会社の入社試験も完全にウェアラブル端末利用をベースとした瞬時判断力速度テストとか行動力のテストをビッグデータを利用して行う時代はもう直ぐ其処迄来ている。
銃器の進化とコンパクト化に拠って各人の強さの定義を一変させてきたテクノロジー人類学的な人類全体の時代的移行で既にスピリチュアルな部分でマシーンとマインド自体を共存させるというベクトルを人類は選択している。この様に無差別的(いい意味でも悪い意味でも)なコミュニケーションを実現させた人類は、個の世界へ沈潜するということ、個の好き嫌い的な選択をこそ優先させ、公共性の遵守は最低限のレヴェルに押し留め、日常生活の大半の時間を孤独空間(其処に大勢の他者が居合わせてさえ)を独り占めするスピリチュアルな独我論を完全に実現させてしまっている以上、そのデジタルコミュニケーションの一人遊び的中毒性は、万能感の無差別的全人類的個に拠る所有と、フレックスタイム選択的な行動アスペクトに拠るパンドラの箱を開けてしまったのであり、過去へ遡行することは、私の予想では既に何度か述べたが、今の流れが三百年くらい持続していくその後でしかないのではないだろうか?
何らかの極めてネガティヴな事態の到来、つまりビッグデータ利用に拠る極度の独裁政治や恐怖政治に拠って19世紀迄の植民地が経済的パワーその他に拠って履行されることで人類のヒューマニティに深刻な影響を与えでもしたなら、全ての電子機器を葬り去ろうという気運が人類を突き動かす時代も到来する可能性は充分にある。しかしその時にはこのブログの文章を目にしている全ての来場者も私もこの世界には存在しないだろうし、又余程の奇跡でもない限りこのブログも世界中の誰からも存在すら気に求められなくなっている。本ブログをはじめブログなるものさえ、その時の人類には全く無関係のものとして事実凄く過去にそういう時代もあったであろうと一部の歴史家によってのみ記述されているに過ぎまい。(つづき)
Monday, December 16, 2013
第五十二章 顔の見えない文字オンリーのメッセージの本質とは?No.1
国家それ自体は、そして国家権力自体が我々一人一人の人間の孤独の弱さや虚栄心を代表し(ある意味では反映象徴し)その個自体の弱さ、無力さを暈す為に用意周到に支えられ(それを助長しているものこそマスコミ、マスメディアである)、その装置の直接運営者である為政者はその孤独を一手に請け負っているわけだが、為政者の孤独はマスコミの無性格的集合性によっても支えられていて、その内実は極めて常に脆弱である。対しマスコミ、マスメディアの無性格性は強靭である。
一方個人としての性格は、我々一人一人が全く無責任で責任転嫁であり、メッセージ的交信行為をダイレクトに為政者へは向けられず、一方では為政者による政府、他方では野党とかマスコミ、マスメディアに担わせている。その無責任性と無性格を助長しているものこそ実は現代のウェブサイト、サイバースペース上でのコミュニケーションだと言える。あらゆる青少年のいじめを可能にして、相手を自殺へと追い込めるこのネットコミュニケーションは実はその基本が文字情報オンリーであることによって完遂されている。つまりメッセージの送り手本人の顔の見えなさ、その顔を確認することの無意味さに於いて既に我々による現代生活が送られている以上、文字オンリーの交信手段は如何にFacebookによって写真画像が多種交信されても尚Line上で即時的な文字のやり取りが頻繁となれば、瞬間的幻想へと後退する。
個人内部の野心も虚栄心も全て一瞬で文字化されることによってメッセンジャー自身の持って生まれた固有のアウラが雲散霧消される。この匿名性は既に人類では銃器の発明によって殺傷手段がその暗殺者とか殺人実行者の腕力によってではなく、あくまで機械の有効な使用の仕方によって実現するという歴史的快挙(?)によって可能となっていた。しかし銃器の発明とは、それ自体現代社会では最期手段へと後退し、既にロボット兵器によって国家権力レヴェルでの実力行使を可能としているし、個人のメッセージ投函的欲求は完全にあらゆるディヴァイスの利用によって充足されていて、それは文字自体のアウラの雲散霧消によって可能となっている。
お前が嫌いだ、という一言は特定の個人によって発せられた場合、それを言われた本人は確かにいい気持ちはしないけれど、そう言った相手の人格とか日頃の行動によってその言葉の意味を理解しようとする。しかしそれが液晶画面の内部に点滅する文字情報によって示された場合、その相手が全くリア充的に顔の見えない場合は、匿名性を帯びて相手の性格や人格は全く理解出来ない。そしてその無性格性にも関わらず相手の悪意だけは充分伝わる。つまりそれは無言電話とか2ちゃんねるでの悪意ある書き込みに性格的には相同の性格を帯びているのだ。これはマスコミ報道に振り回される現代人の無性格性、つまり群集心理、集合性の無性格行動選択と同様の性格を付与されているのだ。
しかもLineではそのタイムラインのリアルタイム性が相手の悪意の無責任性、迎合的無性格性をより助長し、そうメッセージを伝えられた者をより孤独へと突き落とす。
つまり文字情報オンリーの無記名性とは、それ自体それに参画するゲームプレイヤーもその文字メッセージの裏の悪意に対して贖罪心理を抱かせ難く、それでいてそれを突きつけられた者へは固有の意気消沈を助長する。それは偏に文字の持つ観念的な意味読み取り誘引装置性に拠る。要するに文字とはそれ自体その文字を入力する行為者の虚栄心を生な形で伝えることを避けさせ、言葉と感情とが結びついている実在的発話と異なり、そういったリアルタイムの表情読み取りを不可能とさせ、メッセンジャーの感情を無化させる。思想家や批評家の思想表明の言葉の散文から読み取れる主張や感情さえ、短文メッセージにはない。それでいて短歌や俳句の作者の短文へ込めた感情も混入されていない。悪意ある短文による書き込みは、文学でも批評でも時代的メッセージコピーでもない。要するにそれらは明らかに無性格、無責任の垂れ流し的な液晶画面内部の落書きである。
この液晶画面内部の落書きの受信者へ齎す精神的な鬱とは、現代を生き抜くことが、固有の孤独感、つまりそれくらいのことは誰も深刻になんか受け止めないという現代のネットユーザー全般による総意、暗黙のノンシャランス的同意の前では個人内部の処理を求められている。従ってそういった文字情報の悪意ある書き込みで精神的に消耗することは、そのメッセージ受信者の日頃の精神的ストレスの解消の仕方が悪いだけだというリア充的な健康維持の怠慢と受け止められてしまうし、そうならざるを得ないとも言える。そこで猛烈な勢いで似非的なネット上の勧誘を受ける全てのネット受信者達は、そもそもリア充的な意味での本物の(?)出会いをサイバースペースでは求めるべきではない、という暗黙の現代人の同意の中で、全ての無責任な悪意とは受け流すしかないと判断する。
しかし精神的に病苦にある人間はそう容易に全てを受け流すことは出来ない。精神的病苦とは、即ちリア充のストレス解消によって無責任で無性格な落書きを一切受け流すということを困難にすることそのものだからだ。とりわけ青少年期、思春期ではそれは困難である。大人の様な健全なストレス解消手段をそもそも境界人とは持ち難いからだ。
確かに現代社会は北朝鮮の様な特殊な国でない限り、価値とは多元的である。しかし価値自体があまりにも近代迄と異なって多種多様化してしまっている以上、選択するということがかなり受け流し能力をリテラシー的な意味でもツールやディヴァイス利用の俊敏さに於いても向上させなければ履行不能である。つまり現代人とは、要するに自分自身とは無関係で居てもいい全てを適当にミーハー的に短小軽薄に受け流す為の固有のスキル、つまり考え込み過ぎない、と言うことは便利さそれ自体に懐疑的な問いを持ち込まないという無知性性を求められているのである。
つまり非哲学的存在者であることを積極的に求められている現代人は無性格な悪意ある書き込みの衝撃を大都会の駅のトイレの落書きの様に現代固有の都市現象同様受け流し、全く意に介さないという文字情報オンリーの弊害を巧みに自己責任に拠って回避することに於いてのみ知性と哲学を要求されるという状況を生きている、と言えるのである。生物の世界では弱者程いじめられ虐殺される。ネット空間上では相手へ弱みを見せないはったりだけが精神的平衡維持に求められていると言えよう。
付記 今年日本で起きた広島市の少女暴行リンチ殺人死体遺棄事件、そして中学生監禁性的虐待事件の背後には全てLine上のネットコミュニケーション、サイバースペースカンヴァセーションがある。しかしこの種のディヴァイス依存度の強い青少年の生活を改善する為にも積極的に幼少時から雑多なことへ慣れる、純粋培養ではない鈍感力を価値とする人間教育が求められている(現代の大半の大人は既に雑多な不純な真理に就いての教育を受けていない)と言える。又現代人の悪意ある書き込みに逃避する行為の常習化とは、言ってみれば深層では偶像へ逃避することと同じだ、と言える。その逃避それ自体を一々悪として駆逐することを考えるより、受け流しに慣れることへ心身を鍛えるという鈍感力がヒューマニティを損なう形ではなく持てるか否かが現代人に突き付けられた固有の哲学と思想を見出すのではないだろうか?
Tuesday, November 19, 2013
第五十一章 エロスと虚栄心/通信傍受社会から読み取れること② 孤独に弱くなっている現代人類、そして国家No.1
現代人類を決定的にある方向へと大きく舵を切らせたのがウェブサイト利用、つまり通信手段としてのネットコミュニケーションを世界中に張り巡らせたことだ。しかし一見人類がウェブサイトを獲得したことで、孤独に強くなったと思えるのは表面的な見方で、その実却って孤独に弱い性向を助長させた、と言える。何故なら一人で居る時もネットを通して誰かしらとコミュニケーションを取ってしまっているからだ。人と会う以外では一人で居る時はTVを見るか、本を読むかしかなかったかつてと違って現代では対話さえネット上で可能となったからだ。
そのことは個人の中でどうメッセージを示すかという虚栄心を膨張されもしたが、その事実はこと個人の行為だけでなく、個々人の集合体であるあらゆるコミュニティへも、そして国家自体へも波及していったと言える。世界の通信傍受システム開示に最も貢献したアメリカ合衆国自体が最も孤独への恐怖に打ち震えていることは、ドイツのメルケル首相への通信傍受が問題となり、国際問題化したことに拠っても証明されている。あらゆるウェブサイト関連のコングロマリット(アップルを頂点に、マイクロソフト、グーグル等)自体が人類の孤独への弱さを企業全体で体現させてしまっているという実態にこそ、企業であれ世界防衛システムに於いてであれ、アメリカ合衆国とアメリカ巨大企業が孤独への恐怖を率先して示してしまっているという現況が語る。
孤独に弱いのに、あたかも孤独に強い様に他者へ見せる虚栄心こそが現代の世界防衛と通信傍受システムのスキル最前線を担っているアメリカのウェブ関連のコングマリットである。そこではサイバースペースへ関わる一日の時間配分が大きければ大きい程エロス的コンタクトを失っていくが、その喪失を世界中の市民が共有しているという実感を得る為にこそアメリカ合衆国のSNAの活動とウェブ関連企業の市場独占的リアルがある。つまり一見ウェブサイトの世界制覇が世界中の市民が最大のコミュニケーション利便性を得ている様に思えるも、内実的にはアメリカ合衆国とアメリカウェブ関連企業の越境性の中にアメリカアズNo1のプライドとその実現に世界中のシステム進化の必要性への焦りが総動員され、アメリカ人の孤独恐怖感情に世界中が付き合わされている(カナダもフィンランドも日本も韓国も中国も)というリアルは否定し難い。
権力の頂点に君臨するということは、国家であれコングロマリットであれ、巧妙に支配者が最も孤独に強いと思わせ、その実その権力者の欺瞞的責任倫理が丸事世界市民を巻き込むという図式が仄見える。要するにアメリカの孤独解消法に世界中が付き合わされてきたと言える。それは中国国内でチベット民族やウィグル民族が漢民族による共産党本部と人民解放軍の孤独解消法に付き合わされているのと構造的には同じである。
虚栄心は個人内部である内は、それ程周囲に大きな影響力を持たないが、集団化されると民族にせよ、国家にせよ、企業にせよ、巧妙にその全体自体が孤独を感知しているという事実を隠蔽する様になる。その巧妙な正義的理由に世界平和とか世界治安のテロ撲滅の意図が供せされていると解釈すべきである。勿論オバマ大統領一人の権力と指導に拠ってもそのリアルがどうなるというものではない。
SNS過剰利用に拠るネット空間でのいじめが各国で顕在化しているが、同じことが集団、民族、国家全体の中でも個人の虚栄心がシンボル化された巨大なパワーで世界を制覇しつつある。そして厄介なことには集団化された虚栄心が最も観念的正義のメッセージとして常套化されやすい、ということである。エロスの喪失はウェブサイト上でのコミュニケーションの多用に拠って明らかであるが、その病的な依存自体がどの個人に於いても共通した経験である様にどの国家、企業でも共有されているのだ、という歪な安心感が世界のウェブサイトコミュニケーションに拠って証明されている。
精神的なリアルに対してインポテンツ化しているというリアルだけが世界市民に共有されている、という訳だ。ヴァーチャルである時間を多く共有するというリアルだけであらゆる宗教、宗派、政治信条の違いを超えて世界が一つとなっているという歪な実感に現代人類は脆いが、絶対的なある歪な安心感を得ている。この安心感がスピリチュアルな危機であるという危惧自体をネットコミュニケーションの利便性が成立し難くしている。いいじゃないか、世界がどんどん便利になっていくのだから、という訳だ。
しかし世界全体がアメリカ化された社会を望んでいるのでもビヴァリーヒルズでの生活を望んでいる訳ではない。ブータン人も中東の多くの国民もアメリカされた文明を理想としている訳ではない。と言ってウェブサイトコミュニケーションは共有したい、その事実こそがスピリチュアルな危機の到来に耳も眼も塞ぐというリアルを作っている。
現代人類の共有価値とはとりもなおさず世界では様々な文化差、生活習慣差があるにも関わらずそのある種絶対的壁を一瞬ウェブサイト利用では忘れられるという奇妙な幻想を世界中で共有し得るというリアルとなっている。しかし利便性が向上進化すればする程その絶対的壁は不動のものであると我々を実感させる。言語の違いもそうである。しかしその事実を忘れたいと願う心理こそがアメリカアズNO1とアメリカコングロマリットの恒常的世界支配を許す結果となっている。
ジュリアン・アサンジもエドワード・スノーデンもそのリアルへ楔を打ち込むことで、アメリカ合衆国やアップル、マイクロソフト、グーグルの世界市民への共有幻想と対となり得るもう一つのリアルを世界中へ共有させている。この二項対立は恐らく今後三百年はずっと延長されるのではないだろうか?
エロス的対人関係をネット利用に拠って世界中の市民が喪失していることに於いてのみあらゆる文化差を超え得ると幻想すること、そして孤独へ絶対的に弱くなって一人で他者と多くネット利用時間帯に繋がっているという実感を得ることで、文化差、生活習慣差を嫌が上でも実感することを回避しようとしていることが、アメリカ合衆国のSNAとアップル、マイクロソフト、グーグルを個々人が凄く孤独へ弱くなっている人類の性向を各人全てが忘れたい願望に拠って巨大化させている、ということは現代人類の決定的な精神的ベクトルである。
国家、民族、コングロマリットの決定的性格とは、その巧妙に個々の成員の虚栄心を代表し、暈し、それ自体の実はかなり孤独に弱いという欠陥を巧妙に隠蔽する装置である、ということを我々一人一人の市民が実は覚醒しているにも関わらず誰もその決定的事実に触れたがらないということに現代人類の精神的病理の性格が如実に顕れていると言うことが出来る。(つづき)
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