セザンヌ 牧歌 1870

セザンヌ 牧歌 1870

Tuesday, November 19, 2013

第五十一章 エロスと虚栄心/通信傍受社会から読み取れること② 孤独に弱くなっている現代人類、そして国家No.1

 現代人類を決定的にある方向へと大きく舵を切らせたのがウェブサイト利用、つまり通信手段としてのネットコミュニケーションを世界中に張り巡らせたことだ。しかし一見人類がウェブサイトを獲得したことで、孤独に強くなったと思えるのは表面的な見方で、その実却って孤独に弱い性向を助長させた、と言える。何故なら一人で居る時もネットを通して誰かしらとコミュニケーションを取ってしまっているからだ。人と会う以外では一人で居る時はTVを見るか、本を読むかしかなかったかつてと違って現代では対話さえネット上で可能となったからだ。
 そのことは個人の中でどうメッセージを示すかという虚栄心を膨張されもしたが、その事実はこと個人の行為だけでなく、個々人の集合体であるあらゆるコミュニティへも、そして国家自体へも波及していったと言える。世界の通信傍受システム開示に最も貢献したアメリカ合衆国自体が最も孤独への恐怖に打ち震えていることは、ドイツのメルケル首相への通信傍受が問題となり、国際問題化したことに拠っても証明されている。あらゆるウェブサイト関連のコングロマリット(アップルを頂点に、マイクロソフト、グーグル等)自体が人類の孤独への弱さを企業全体で体現させてしまっているという実態にこそ、企業であれ世界防衛システムに於いてであれ、アメリカ合衆国とアメリカ巨大企業が孤独への恐怖を率先して示してしまっているという現況が語る。
 孤独に弱いのに、あたかも孤独に強い様に他者へ見せる虚栄心こそが現代の世界防衛と通信傍受システムのスキル最前線を担っているアメリカのウェブ関連のコングマリットである。そこではサイバースペースへ関わる一日の時間配分が大きければ大きい程エロス的コンタクトを失っていくが、その喪失を世界中の市民が共有しているという実感を得る為にこそアメリカ合衆国のSNAの活動とウェブ関連企業の市場独占的リアルがある。つまり一見ウェブサイトの世界制覇が世界中の市民が最大のコミュニケーション利便性を得ている様に思えるも、内実的にはアメリカ合衆国とアメリカウェブ関連企業の越境性の中にアメリカアズNo1のプライドとその実現に世界中のシステム進化の必要性への焦りが総動員され、アメリカ人の孤独恐怖感情に世界中が付き合わされている(カナダもフィンランドも日本も韓国も中国も)というリアルは否定し難い。
 権力の頂点に君臨するということは、国家であれコングロマリットであれ、巧妙に支配者が最も孤独に強いと思わせ、その実その権力者の欺瞞的責任倫理が丸事世界市民を巻き込むという図式が仄見える。要するにアメリカの孤独解消法に世界中が付き合わされてきたと言える。それは中国国内でチベット民族やウィグル民族が漢民族による共産党本部と人民解放軍の孤独解消法に付き合わされているのと構造的には同じである。
 虚栄心は個人内部である内は、それ程周囲に大きな影響力を持たないが、集団化されると民族にせよ、国家にせよ、企業にせよ、巧妙にその全体自体が孤独を感知しているという事実を隠蔽する様になる。その巧妙な正義的理由に世界平和とか世界治安のテロ撲滅の意図が供せされていると解釈すべきである。勿論オバマ大統領一人の権力と指導に拠ってもそのリアルがどうなるというものではない。
 SNS過剰利用に拠るネット空間でのいじめが各国で顕在化しているが、同じことが集団、民族、国家全体の中でも個人の虚栄心がシンボル化された巨大なパワーで世界を制覇しつつある。そして厄介なことには集団化された虚栄心が最も観念的正義のメッセージとして常套化されやすい、ということである。エロスの喪失はウェブサイト上でのコミュニケーションの多用に拠って明らかであるが、その病的な依存自体がどの個人に於いても共通した経験である様にどの国家、企業でも共有されているのだ、という歪な安心感が世界のウェブサイトコミュニケーションに拠って証明されている。
 精神的なリアルに対してインポテンツ化しているというリアルだけが世界市民に共有されている、という訳だ。ヴァーチャルである時間を多く共有するというリアルだけであらゆる宗教、宗派、政治信条の違いを超えて世界が一つとなっているという歪な実感に現代人類は脆いが、絶対的なある歪な安心感を得ている。この安心感がスピリチュアルな危機であるという危惧自体をネットコミュニケーションの利便性が成立し難くしている。いいじゃないか、世界がどんどん便利になっていくのだから、という訳だ。
 しかし世界全体がアメリカ化された社会を望んでいるのでもビヴァリーヒルズでの生活を望んでいる訳ではない。ブータン人も中東の多くの国民もアメリカされた文明を理想としている訳ではない。と言ってウェブサイトコミュニケーションは共有したい、その事実こそがスピリチュアルな危機の到来に耳も眼も塞ぐというリアルを作っている。
 現代人類の共有価値とはとりもなおさず世界では様々な文化差、生活習慣差があるにも関わらずそのある種絶対的壁を一瞬ウェブサイト利用では忘れられるという奇妙な幻想を世界中で共有し得るというリアルとなっている。しかし利便性が向上進化すればする程その絶対的壁は不動のものであると我々を実感させる。言語の違いもそうである。しかしその事実を忘れたいと願う心理こそがアメリカアズNO1とアメリカコングロマリットの恒常的世界支配を許す結果となっている。
 ジュリアン・アサンジもエドワード・スノーデンもそのリアルへ楔を打ち込むことで、アメリカ合衆国やアップル、マイクロソフト、グーグルの世界市民への共有幻想と対となり得るもう一つのリアルを世界中へ共有させている。この二項対立は恐らく今後三百年はずっと延長されるのではないだろうか?
 エロス的対人関係をネット利用に拠って世界中の市民が喪失していることに於いてのみあらゆる文化差を超え得ると幻想すること、そして孤独へ絶対的に弱くなって一人で他者と多くネット利用時間帯に繋がっているという実感を得ることで、文化差、生活習慣差を嫌が上でも実感することを回避しようとしていることが、アメリカ合衆国のSNAとアップル、マイクロソフト、グーグルを個々人が凄く孤独へ弱くなっている人類の性向を各人全てが忘れたい願望に拠って巨大化させている、ということは現代人類の決定的な精神的ベクトルである。
 国家、民族、コングロマリットの決定的性格とは、その巧妙に個々の成員の虚栄心を代表し、暈し、それ自体の実はかなり孤独に弱いという欠陥を巧妙に隠蔽する装置である、ということを我々一人一人の市民が実は覚醒しているにも関わらず誰もその決定的事実に触れたがらないということに現代人類の精神的病理の性格が如実に顕れていると言うことが出来る。(つづき)

Wednesday, October 23, 2013

第五十章 エロスと虚栄心/通信傍受社会から読み取れること

 我々は観念的理想を脳内で追い求めることは出来るけれど、それは必ず実現してみていいものではない。そういった意味では実在の、現実の理想には必ず居心地のいい、それを快として許容出来る欠陥とか短所を伴っている。そうでないものはあり得ないし、又あったとしても、其処に温かみを感じることは出来ない。
 アートは美的観念の図像化なので、当然実在への観察が感謝の念としても息衝いていることもあるが、幾分必ず実在への不満から理想化されている。昨今展覧会で鑑賞した竹内栖鳳もレオナール・フジタも実際の猫や裸婦を絵画的美へと送り込んでいることを確認し得て、絵空事として絵が実在からヒントを得た作り事である感をより強くした。
 実在に憩いを感じることと、不満を持ってより理想化された今は体験出来ない実在(それは幻想かも知れないが)を追い求めることを我々は脳内で絶えず行っている。
 しかしそういった理想的美は実在の実際の外交的軍事的諸問題を抱えた国家とか社会では絵空事であり、絵空事がリアリティを持つのも、そういった有象無象の実在の国家や社会の汚穢があるからである。
 まさにその汚穢の中で右往左往している我々は、しかし同時にエドワード・スノーデンが愛国心と理想との狭間で義憤に駆られ告発した監視社会(NSCに拠る通信傍受の一切のプライヴァシーと個人の権利を踏み躙ることへの告発対象としての)も、一面ではその様に監視されればこそ初めて意識し得る個人の秘密とか個人の権利というものもある、と知っている。
 要するに一切の監視のない社会ではそもそも個人の権利であるとか秘密を特別のものとして意識すること自体がない。そういった精神的ストレスが発生しようがない。監視することだけを考えればそれは社会の側(つまり監視することが治安維持目的の為に正当化され得る)の正義が悪意へ変貌する危険性を我々は察知し得る。
 しかしその様に個人がテロその他の反社会的行為へと赴く危険性とその能力を一切信じていない社会に既に現代人は満足してもいない、とは言い得ることなのだ。
 もっと率直に言えば、我々は何処かで人から存在(それは社会へ何事かを齎す能力自体である)を認可されたいという欲求もあるということだ。そしてその人から良く(能力があると)見られたいという欲求は、自分がある程度存在感がある存在と見られるのなら、自分が気づいていない瞬間に見知らぬ他人から覗かれているかも知れない、その状況を密かに愉悦的に歓迎している、そういった一種のマゾヒスティックな快楽をも我々は心底では否定していないのだ。
 それはブログで既に自分で書いて自分だけが読む日記を公開することによってある程度誰しも実現しているのだ。ブログの記事が個人的なことであればある程、我々は自らの切実で、それを他者に知られることに羞恥を覚えること迄暴露したくなるマゾヒスティックな願望もあると知っている。だからこそ昨今全世界的問題となっている悪乗り投稿サイトが検索回数をヒットさせているのだ。
 これは監視社会におぞましさを感じることと対比的であるが、そうではなく監視社会自体を密かに愉しむという性質をも我々が持っている証拠である。
 実は純粋なプライヴァシーという観念そのものが統制される社会とか国家という存在に拠って生み出されているとも言えるのだ。だからこそビジネスで会社員として関わる人がビジネスオンの時間帯では一切のプライヴァシーは許されぬからこそ、オフの時間帯ではビジネスに関係する誰からも(顧客であろうとも)干渉されたくはないという気持ちを持てるのだ。それは一種の社会との契約関係でもあるし、プライヴァシーを価値として認識する為に拘束が必要だ、ということでもある。
 ではエロスとはここでどう捉えたらよいだろうか?
 エロスとは男女の異性愛を基調とするものであるなら、それは俗的なことであり、観念的なことではない。しかし或いは監視社会に拠って性行為迄覗かれているのではないかという懸念こそが、異様なるプライヴァシーという形で性やエロスを純粋な秘め事、二人の(或いはそれ以上の人数での)孤独へと作り替えている。しかしここでもマゾヒスティックに自分の秘め事を覗かれてみたいという欲求をも我々が手放していないことを我々は気づくのだ。
 覗かれていても覗かれていなくても個というものの存在論的差異は他者と自分自身とでは決定的だとするのがアヴィセンナ以降の全ての独我論(独在論、solipsism)という哲学命題である。自分自身の存在は自分にとっては決して他性一般へは組み込まれず、そうであると知っていて、言語行為ではそれを無効化させずにはおかない(永井均の命題はそこであるが)、つまり個的な孤絶的なこととはそれを言葉化させることで一般化されてしまい、それはその孤絶を感知する存在論的差異と矛盾するという命題が昨今の(と言うより初期からずっと)永井均の哲学である。
 しかしその命題は永井に拠って昨今作られたわけではなく中世哲学者アヴィセンナ以降の伝統的見解である。しかしそういった問題意識以前的に現代人は監視されたくはないと言いつつ、つまり自分自身の社会的存在理由を一切与えられないということには耐えられず、覗かれるということすら自分が覗かれていると気づかない限り(そういう場合は相手へ不快感を持つ場合はやめて欲しいとストーカーの被害者よろしく感じる)全くあり得ぬよりはあった方がいいとも内心で思ってもいる(これはスノーデンの様なエリートには気付き難い点である)。
 関心を持たれたいという心理は虚栄心が生み出している。虚栄心と羞恥は表裏の関係である。公的ではあるがオフレコなこと、私的なことの全ては会話事実であれ性行為的秘め事であれ、それを直接誰しもが知り得ることにはさせたくはないからプライヴァシーとなっている。それが現代人の権利である。そして自分自身にとって快く思えない他者からそれを知られることを嫌がる感情は虚栄心が生んでいる。従ってこちらに関心さえない他者の視線を疑心暗鬼で気になるという精神状態は虚栄心の病理的状態に拠って形成される(ところで虚栄心それ自体は羞恥と関係があり、率直によく見られたい軽度のマゾ的心理と虚栄心と、しかしここから先は覗かれたくはないというのが羞恥である。そして独我論の問題ともこの虚栄心と羞恥の問題は無縁ではないと思われるが、それは又別の機会に論じよう)。
 監視されているけれど、その監視システムの全貌を知ることは出来ないが、方々から監視されているかも知れないし、そうである可能性を否定し得ないので、誰からも監視されまいぞと死角を探して歩行するというスリルを満喫することも決して不快とも言えないという心理状態に慣らされている現代人であればこそ、逆に一部では人間心理の中にマゾヒスティックに覗かれてみたい願望も我々は発見するからこそ、悪乗り投稿サイトが社会現象化するのだ。
 監視されているかも知れないという社会状況を何処かでもうそれをどうにかすることは個人の力ではどうにもならぬので楽しもうという心理を恒常化させることに吝かではない現代人は、無意識のマゾヒストとして生活することを選択している。
 それをなかなか認めたがらない(人間理性という観念がそうしているのか?)からこそ監視社会を社会問題化しようとするのだし、それを正義論理的な極点迄突き詰めた人こそスノーデンなのだ。彼は端的にエリートであり、インテリなのである。しかし一般市民はそこ迄考える余裕自体を与えられていはしない。
 見られたい欲求が既に他性との相関の中で我々にはあるのだから、いっそテロリストに反社会的行動を取らせぬ治安維持の為にプライヴァシーを覗かれない権利を国家へ売り渡したって、それはそれでいいではないか、という選択を我々は事実しているのだ。
 視姦ということは、そういった他者からの関心を一切されないで存在さえ確認されていない状態よりよっぽどましである、という価値判断を我々は確固とした形で認めている。
 他者から存在さえ無視されることへの一抹の淋しさこそが視姦されることをそんなに悪いことではないと我々に心理させている。これは決定的な自他認識の化物である人間の性質である。
 確かに人間は自分だけが監視されているのだとしたら、それは耐え難い、恐らく誰にとっても。しかし自分だけでなく全ての自分以外の他者も又そうである、という状況を我慢する方がテロリストにとってテロ行為をするのに自由であるよりずっとましだ、という選択を例えばアメリカ国民は採っているのだ。
 通信傍受はテロの標的にされやすい社会や国家では一般市民の同意を得やすい。しかしそのことと、他人から自分が何処かでは自分が気づかない侭注目されているのだ、とは思いたいという心理があることは、全く別のこととして両立し得る。
 人間の虚栄心は男女の異性愛、同性愛を問わず、LGBT全てであり得る。肉体的エロス、視姦されるこの身をよく見られたいということはあり得る。それは相手が~であればこそ、特別にこう見られたいという形で発揮される虚栄心である。
 人は人前ではこれなら見せてよいという形で行為する。ゴフマンの儀礼的無関心もそのことを言っている。しかしある瞬間ふとしたことで、絶対に人には見せたくはない仕種を見られてしまうこともある。格好悪い処を目撃されることはある。その偶然に見られてしまう、見つかってしまう無様さこそが羞恥を生む。
 従って誰からも注目されないことには不満を持つ(物足りなく思う)ことと、格好悪い処(自分で気に入っていない自分の姿や仕種)を見られたくはないということの双方とも虚栄心の父であり母である。
 勿論それが決して無ではないけれど、極めて微弱な人も居る(例えば私も比較的そうだ)。
 しかし通信傍受されていることそれ自体にある種の気持ち良さは感じられぬけれど、一応治安維持の為に同意しようと思っても、その監視盗聴が悪用されたら恐ろしいとは誰しも思う。その悪用可能性こそがスノーデンの考えた義憤の発端であったことだろう。
 傍受者の魔を刺させる状況的可能性こそ、極めて悪辣で巧妙な独裁的権力者に拠る意図である。そういった権力者の登場は充分可能性があるのだ。
 次回は独裁的政治手法と国家的規模の集団的な虚栄心に就いて考えてみよう。それはコングロマリットとか大企業の経営的独裁も含む。そして虚栄心とは独裁に拠って育まれるのだ。(つづき)

Thursday, October 17, 2013

第四十九章 監視されるエロスとその告発者と現代社会対人関係の虚栄心と孤独

 現代社会を極めつけのプライヴァシー維持不可能な時代へと突入させたのが3.11であったこと、そして世界同時多発テロと言いながら、それが端的にアメリカ国内で起きたことだったということ、NYの持つ国際的性格からそう呼ばれたが、アメリカ型自由主義と資本主義競争社会へ何の疑問も持たない人達にとって、それは「世界」であった。要するに監視カメラと盗聴システムが、スパコンの進化とビッグデータ確保に伴って進化の速度を増さしめたのが3.11であったことは紛れもない事実である。
 日本で特定秘密保護法案が可決されそうになっている背景には2010年9月7日に勃発し、同年2010年11月4日にYoutube上で40分の映像として流出した尖閣列島沖の中国漁船衝突事故で国家機密を暴露した海上保安官が居たという事実に拠っている。
 要するに我々は既に個人のエロスを満喫することすら、国家機密維持と、その為にそれを脅かすテロ勢力を未然に防止する為の監視盗聴システムの網の目の中で安堵の気持ちでは可能ではない地点に立たされているのだ。
 現代人は孤独ではなくなっている、と述べたテレビのコメンテータも居たが、都市生活者はとりわけそうであるのはエロス的充実からではなく、短文メッセージに拠る受信送信システムに拠ってである。それは寧ろ社会心理学的には現代人がウェブサイトとそれを可能とするツールのシステムを保持していなかった時代より、より孤独に弱い性質と体質を保持してしまっているという証拠である。
 恐らく近日中には、Twitter、Facebookでのなりすましを防止するシステムさえ監視カメラとスパコンのビッグデータベースに拠って可能となるであろう。
 監視カメラは当初はテロ未然防止システム開示の為に進化したとしても、その結果進化してしまった監視カメラは盗聴器同様、次第に当初の目的から離れて自立して、他人のプライヴァシーを覗き観ることすら可能とさせる様に人類に悪を目覚めさせている。既にその誘惑に抗しきれない資質を露呈しているからこそ他人のPCに収納されたデータを盗み見るハッキングテクニックが進化してきたのであり、その事実と監視カメラと盗聴システムを悪用することさえ、それを白日の下に晒さなければ自由であるとさえ言える状況は、国家に拠って個々人の市民のプライヴァシーをチェックすることと、国家という意識とは無縁の個人が覗きを楽しむことを同時に可能とさせる監視カメラの安価供給と利便性の進化に依っている。
 マーク・ザッカーバーグはある意味では先述の現代人はそれ程孤独ではなくなってきているという逆説的な現代人のウェブサイトとツール利用に拠る孤独感の倍増に漬け込んで成功を収めたビジネスパーソンである。既にFBでは友達相互に自己の対人関係的ネットワークを自慢しひけらかすことと、それをFBでの友達に紹介することでつながり依存症を加速化している。それを助長するシステムとして挨拶(pokeと呼んでいるが、これは英語俗語では性交の意味さえある)を頻繁に友達間で行わせる仕組みが挙げられる。
 それに対してジュリアン・アサンジとエドワード・スノーデンは自由というものの市民性としての権利と国家主義とかそれを象徴するビジネス的な社会的自己の虚栄心とは正反対のエロス的個人の権利、秘密を保持する倫理的モティヴェーションという義憤に駆られて世界を告発したのである。アサンジに拠る反国家主義一辺倒への批判と、スノーデンに拠る国家保全、治安維持の為の個人主義とプライヴァシーを破壊してまでも遂行する国家監視システム(NSC)への告発とは同時代的倫理思想に根差していて、マーク・ザッカーバーグの行ったビジネスクリエーション(それは監視システムを強化する国家主義へ迎合的である)と正反対である。
 エロスは監視されるものであってはならない。しかし国家は治安維持の為だけにそれを犠牲にすることを選び、それを何とも思わない世界市民を育て様としている。しかしFBもTwitterもSNS一般は明らかに世界市民の中で真に平和で安堵あるエロスを享受し得るのがほんの一部の資産家や富裕層だけであり、それ以外は全的に監視され盗聴されていることを承知でSNSで現代人固有の孤独解消システムに参加して、その内容が監視されていることに何とも思わない不感症に馴らされていっているのだ。
 現代人は精神生理学的には既に極めて歪な性格のマゾヒズムに浸っているとさえ言えるのだ。それは精神の疲労と疲弊を喜んで受け入れる不健康な老化を許さぬ意識至上主義的な性格の国家資本主義戦略の一翼を半強制的に担わされていると言えるのだ。
 SNSに参加することは一面では本音を語る孤独な自由の確保を可能としているけれど、本質的にはそれは予め見せるという意識に拠って維持されているシステムなので、必然的に自主規制的本音というものを恒常的に維持することを強いられている。それはそのシステムに参加している間は明らかにリア充的なエロスを放棄することに同意していることだからである。
 だからSNSに拠る禁欲的自主規制習慣の保全とは、言ってみればエロスの放棄を世界的レヴェルで世界市民に強いるものである、という意味ではウェブ的ヒューマンネットの強制という意味ではどんな会話の内容でも、どんな個人的な呻きであっても国家に拠って監視され盗聴されることで辛うじて治安を維持し得る歪な現代社会の禁欲主義(つまりそういう日常に感性的に積極的に慣れてしまうことで、国家<主義>に却って依存する)と同時代的な意味で同一志向の構造を持っている。
 そしてそのリアルに疑問符を突きつけたという意味でジュリアン・アサンジとエドワード・スノーデンはマーク・ザッカーバーグや柳井正や三木谷浩や堀江貴文達とは正反対の意識のベクトルで世界へ対峙した、という意味で一世紀後にも名前が残っていることだろう。対しザッカーバーグ達の様な存在は手を変え品を変え登場し続け、個人の名前は残らないだろう。
 勿論そのネット上のコミュニケーションを可能化させたスティーヴ・ジョブズやビル・ゲイツの様なエンジニア的感性の経営者達はザッカーバーグ達とは別の位相のパイオニアとして名前が残るだろうが、一世紀後にアサンジやスノーデンの考えてきた個人の自由という理念に対して、ジョブズやゲイツはそれを助長させたのか、それともそういった自己反省をもザッカーバーグ、笠井型の現代資本主義社会の中での個人の孤独に漬け込んだシステムと共に招聘させた張本人達であるかということは、その時点での人類の立たされている個人の自由の状況如何だ、とも言い得る様に思われる。
 しかしここで次回以降の論説へも引き継がれる問題として、実はエロスという観念そのものが実は完全なる社会から隔絶された自由な空間という発想に拠って現代では助長されていて、ギリシャでスポーツ、哲学、民主主義が形成されていた時代のエロスと性格的にはかなり乖離してきてしまっている、という厳然たる事実も忘れてはならない。
 それこそがSNS利用で助長される自己のヒューマンネット誇示の虚栄心とも関係のあるサディズムとマゾヒズムとも大きく関係する歪な性格のエロスへの渇望とも関係があるものと思われる。しかしそれを論じる為には精神生理学的な歪なエロスとアート的美的観念の関係性へも着目する必要がある様に思われるが、それこそ次回以降の論議を続行させ得るものであろう。(つづき)

Friday, September 13, 2013

第四十八章 媒介価値とは行為のことである/現代、そして未来を思想する・第一部

 永遠不変を観念としては理解しつつも、人生は短く、生きている間に何かアクションを起こしたいのが我々の願望である。にも関わらず我々は惰性的に押し流されやすく、そのことを我々は昔から承知で、哲学ではそのことをアクラシアと呼んできた。それは不変の価値とは対極の「生まれ変わり難さ」のことである。
 それを告発することで打破しようとしたのがエドワード・スノーデンであり、情報摂取をネット空間に拠って当たり前のこととしている我々の日常への批判行為としてスノーデンの告発を認識する必要がある。彼は一面では凄くオーソドックスな愛国主義者であり、だからこそ通信傍受の実態を無視してうっちゃっておけず、国家犯罪を告発したのだ。それはオリヴァ・ストーンの言葉を借りればもっと高いレヴェルでの倫理的な使命感だったと言えよう。
 何かに受け流されていくことの最たるものこそスマホの過剰利用である。最早中毒症状を呈していて、nomophobiaという語も定着した。その為にデジタルデトックス(digital detoxification)を現代人は求める様になった。アメリカと韓国で顕著な現象も次第に日本をも蝕んできている。そして次第に一過性の流言飛語へ飛びつきやすい性格を現代人へ醸成させている。そしてその事実への反省もしないという習慣も身についている。
 ネット帝国主義はある意味では無思考的にツールを利用し、その中毒性を歓迎する。人間が無思考的に文字情報のみを信頼すること、図式とグラフの数値に拠るフラグで示されたデータ参照のみに自己理性を預けてしまっていることが、よりネット空間を支配するコングロマリットの世界制覇と資本帝国化を加速化している。しかし恐らく後三百年の間人類は20世紀以降我々に拠って生み出されたスティーヴ・ジョブズ型の天才を持て囃すかも知れない。
 しかしある日人類は情報摂取の為だけのネット空間を全て捨てようと言い出すかも知れない。勿論そうなる前迄に多くのサイバービジネス定着以前に確立していた既得権益的コングロマリットの解体作業を人類が模索して、その為にサイバービジネスの方を肯定し、益々ネット帝国主義は巨大化していくだろう。
 しかし前回から述べている媒介価値へと常に目線をシフトさせる我々にとって、それは行動である、という想念が我々の中でサイバービジネスの帝国主義化の加速に伴って醸成されることも確かである。そして行為は既に価値的創造以外の過剰創造を忌避していく方向へと収斂されていくのではないだろうか?
 スマホの登場に拠ってどういう情報をどういう方法に拠って摂取するかということ自体を考える心の余裕を我々はある部分では捨てた。つまりスマホ一つあればそれでこと足りるとしたのだ。しかし本当にそうだろうか?真に価値ある情報は本からでもネット空間からでもなく、直に人と接したりする為にも、イヴェントや実際のランドスケープを体感する為にあらゆる現場へ自己の身体を伴って赴くことに拠ってである、と既に我々はスマホを片時も離すことのない日常の中で個々人では密かに気づいているのではないだろうか?
 つまりスマホの携帯とは言ってみれば、そのことに気づいているのに、容易に誰しもが世界中を旅して回る時間的余裕も経済的余裕も、そういった機会を得る為に必要な社会的地位も獲得出来ないということへの諦めが生じさせている現象とも言えるのだ。
 人間は創造されたものの上に胡座をかくことを自らに許さない。故に創造と真に言えるものとは、一度創造されたものを破壊することに拠って、やっと創造の基盤を得たと言えると知っている。伝統というものも実は一つの行為のパターンの読み直し、組み換え(それを現在、歌舞伎<花柳界>ではしようとしている)に拠って初めてその基盤を得ることが出来る。
 しかし今はどんなにnomophobiaが深刻化して社会問題であろうと、既存の既得権益コングロマリットへの批判勢力拡充に人類はイエスを言い続けねばならない。そこで優雅に雄大な風景を眼前にして過ごす時間の余裕を得るだけの金銭的循環を一般市民が得ることが容易ではない以上、スマホ携帯に拠って、その欲求実現不可能性に拠るフラストレーションを解消させようとするだろう。かくしていよいよネット帝国主義は加速化する。時には情報操作に拠って非革命的精神を植え込むことを画策する天才的なアジテーター、ネオナチ的な情報操作に拠って国家主義を定着させようとするハッカー集団、それを軸として政権迄樹立する時期も我々人類は経験するだろう。要するに全てのネット帝国主義の精神的弊害を訴える輩を既存勢力(ネット空間拒絶的感性の世代の人達に拠る保守主義)打破の為に人類が結束することを邪魔する勢力と見倣す国家主義的扇情的右翼(ネオナチ的な情報操作集団とそれを結託した政治勢力)が再度人種問題、世界の宗派別闘争を加速化する時期も到来しよう。
 勿論見かけ上ではイスラム教文化圏とキリスト教文化圏、ヒンドゥー教文化圏等は巧く懐柔策を見出していくことだろう(今現在のシリアを巡る米露その他の関係の様に。尤も未だこの問題も未来の行く末は不確実ではあるが)。しかしそのことと人種間対立感情とか、宗教別の倫理的感性のずれは深層意識の上では深刻となっていく可能性の方がより強い(その兆候は既に日本の温泉に先住民族のマオリ族の人が入浴出来なかった最近の事件でも物語られている)。
 上記のネオナチ的サイバービジネスはSNSのゲシュタポ化に拠って加速化される恐れは大いにある。要するに凄く魅力的ツールを通して凄く魅力的ワンフレーズで民族主義的相互監視空間へとSNSが変貌する兆しは既に現在でもある。それはSNSの利用者が既に自己主張より、SNS固有のコミュニケーションメソッドへの追随的中毒者化しているからである。そこでは身のあるツイートや情報より型通りの挨拶の常習化、より大企業的新製品のツールの宣伝と、それに阿った上級ユーザーとしてのナルシシズムの有効な活用者のみ大勢の友達やフォロワーを獲得するという無思考的なユーザー間のゲームと化しているからである。
 スマホ利用とSNS利用の過剰的な頻度に拠って、より無思考的、無思想的な大勢追随者の群れを作っているのが現況の社会である。その実態の平均化に拠って表面上は確かにイスラム教文化圏もキリスト教文化圏も差がない様な幻想も作り上げられていこう。しかし言語的壁も相互に払拭されていないし、イスラエルとパレスチナとの間の感情も解決してはいない。そこでアルジャジーラの様なメディアとYoutubeとの連携の様な現在でも既に確立されているトライアルが部分的には世界中のインテリとか特定の思想信条的な人々をこれからも結びつけていくだろう。しかし恐らく行為を媒介価値として最大のパワーと自覚する人類はネット空間、サイバースペース利用自体を建前化させ、真実には相互に暗号を送信し合う便利なツールでよいということにしていくだろう。
 何故なら今は未だスマホもタブレット端末も目新しい段階であるが、あと数十年後にはそれは使い古されたものと化し、暗号通信的傍受を専門とする知の体系が世界中で進化していくことに拠って既存のグローバリズムともインターナショナリズムとも無縁の極めて特殊なバイアスのかかった思想集団や利権集団に拠ってネットが利用されていく、それも合法的に国境の枠を超えて結束してネオナチ的な排他主義と閉鎖的特権的集団となり、SNSに拠って未通女い(おぼこい)ユーザーを誘惑したりして、多少未来へのヴィジョンを持った者を潰しにかかる監視集団となっていく可能性は充分にあるからである(ブラック企業の現今の社会現象もその兆しであるし、ブラック企業自体も消滅することなく維持されていくだろう。規制すればするほど地下化、SNS化することに拠って)。
 人類から悪が消滅しないのは、振り込め詐欺(例の母さん助けて詐欺とかいう呼び名は定着していない)からも理解出来る。
 そして私自身の予想では三百年後に人類はやっとサイバースペースという媒介自体に支配されることを捨て去ろうと意志する集団が登場するのではないだろうか?そしてそれより早く非核化(エネルギー戦略的にも軍事戦略的にも)が実践し得ていたなら、サイバースペースは有効利用されている可能性があるが、そうでなければまずサイバースペース自体を破壊しようという動きが顕在化する様に思えてならない。
 今回は行為とはまず悪への誘惑から出発する、そしてそれでも尚アクラシアよりましだと人類は志向するという観点からと、SNS利用者の無思考性、無思想性から捉えたが、そのことが前回示したエロスの問題とどう関わるかに就いて次回は取り組んでいこう。(つづく)

Tuesday, August 20, 2013

第四十七章 媒介価値の肥大化とエロスPart1

 前回は媒介的価値の目的に対する優位と肥大化、そして目的を超えた手段とかツールの方の肥大化に就いてスノーデンショックと絡めて論じた。
 それはしかし今年春に東大本郷キャンパス小柴ホールでのスウェーデン哲学者ラビノヴィッツ氏の思想と相反するという訳では決してない。私は次の様に『価値と倫理Part1』で述べた。「もし公共的価値と個人的価値双方で重複している部分を規定するなら、それは真に価値的であり、実現されて然るべきだと誰しも思おう。/従ってそれは極めて実践的、プラグマティックな事であり、具体的な事である筈だ。先月中旬東大本郷キャンパスで行われた国際会議(international conference)でスウェーデンから来日されたWlodek Rabinowicz氏は価値とモラルは別者であり、一致しないとレセプションで私が質問すると返答された。氏の発表ではto be valuable is to be desirableという一節を挿入していた。/この事はモラルとはそれ自体一種の便宜的な(expedient)社会ツールであり、価値化するだけの大仰なものであるべきではないという思想の表明と受け取る事も可能である。」
 つまりラビノヴィッツ氏がそう考えるのは我々が媒介的価値を肥大化させ過ぎることを熟知されているからなのである。
 しかしこの実在こそが切実で我々の生に最大の影響力を齎すと知っていて、それでも尚且つ非実在的媒介価値を重んじてしまう(それは倫理自体もそうだし、何かを価値化して崇拝することもそうであるし、宗教的行いへの自己陶酔的美学的な自己日常習慣への自画自賛とか耽溺でも言えるが)ということは、裏を返せば、実在への我々の本質的な懐疑心の内在的存在を示しているとも言えないだろうか? 我々は本来実在自体がどうであるかより(自然科学に於いてさえ)、どうあり得るのかより、それをどう捉える(べき)かを常に優先している。或いは実在自体が問題であるかの様に思える時でさえそのどう捉える(べき)かの方を優先させている。 だからこそ我々は常に知覚され得る実在とはフェノメノン(phenomenon)として、それを本質的に(真理的に)支えるものをヌーメノン(noumenon,カントの言った物自体)と捉えてきたのだった。
 それはある意味では完全に実在など(と言うことは、その実在への知覚自体もだが)一切が幻想(illusion)であるかも知れない、という我々自身の深層での思いこそが、媒介的価値の方を実在より重んじ、過大視させるべく心の傾向を作っている。
 我々はほんの些細な企業のキャッチフレーズとかコピーとかに印象づけられている様な要するに文学や哲学を待たずとももっと日常的に経験する言葉への愛着の全てもこの実在懐疑に端を発する媒介価値の方の優位と優先的視点と密接に関係している。
 そればかりではない。我々は欲情的エロス、愛欲的なこともそれを示しているのだ。
 中国でも韓国でも整形手術が大流行であるという社会現象を引き合いに出さずともあらゆるファッションセンシビリティがそれを示している。
 例えばファギンズ、レギンス、スキニー、スパッツ、タイツの類は、全てそれを着用する女性の元の体型的なことより、どんな体型の女性が着用しても美しく扇情的に性的刺激をヴィジュアルに異性たる男性へ送るべくデザインされている。このことはどんなに美形の顔の女性と一夜を共にしても、その女性から吐き出される言葉が余りにも陳腐だと男性の欲情が一瞬にして萎え鎮静化されてしまうこととも関係がある。
 つまりどんなに美形の臀部でも腰つきでも、その見せ方がエロスを誘い込むものでなければ魅力が半減するからである。つまりヴィジュアルのアピールとはそれ自体、実在がどうであるよりも媒介的価値認識のものだからである。 異性へ惹かれることは、その異性の人格的(つまり倫理的)善に対してだけでは断じてない。その(自己自身の性的な)見せ方が視線を惹きつけるという意味では常に最大である。
 つまりエロスとはそれ自体媒介的価値のヴィジュアル的、もう少し男女が親密になれば明らかに触覚的(tangible)な媒介的価値(つまり肌と肌が接触する際の指使い、腰の動かし方等の全て)そのものなのである。
 我々が恋愛やセックスでパートナーを惹きつける上で重要なことは言葉であれ仕種であれ絶頂へと至る音声であれ、端的に振る舞い、もっと言えば演技である。それは媒介的価値のものである。
 確かに現代社会では卓越したエロスの名作という文学芸術作品を我々一般市民が模倣するということがあるけれど、起源論的には明らかに全ての文藝、舞台芸術、音楽といった表現の類は、我々自身の生来的に持っているこの異性への惹きつけという作為に内在する演技性、媒介的価値を模倣してきたのである。
 あらゆる文藝、表現はまさに我々自身持ち前のエロス的作為、エロス的な演技的本能を模倣するのだ。だからこそ現代のファッションデザインはそのことを承知して、我々の性的なパートナーを惹きつけるべく、その行為それ自体を演出する様に図られている。
 フルクサス等の20世紀のアート運動とは、ある意味では権威化されたアートの形骸的なアカデミズムへの反抗に拠って作品からでなくパフォーマンスを通した運動に拠って、固定化された権威を瓦解させるべく意図されたものだったのだ。
 そして現象学者であるミシェル・アンリ等はそういったトライアルを、問うことを拒否する哲学として(本来哲学とは問いに対する返答であるというギリシャ以来の伝統に逆らい)エロスをクローズアップすることで(その際、自己触発というレヴィナス用語を巧みに用いた)、学術的営みと表現との間の垣根を乗り越えようとした、と捉えることが出来る。

Sunday, August 18, 2013

第四十六章 価値と倫理Part5 スノーデンショックから読み取れること②

 エドワード・スノーデン容疑者が結局南米へは旅立たずずっとロシアに滞在し、ロシアで職も見出してしまったことで、アメリカは身柄引き渡しをロシアへ交渉すれど、ロシアはそれにダーと言わず、そのことで米露関係がこじれてきている。
 しかし何故そこ迄アメリカはスノーデン容疑者に拘るのか、それは国家自体が情報摂取に血眼となってきていて、その事実へ羞恥を感じているからに他ならない。
 別ブログ『意図論』でも述べたが、人類は言語を習得し、保持した瞬間、そして貨幣を発明し利用した瞬間等幾つかのエポックイヴェントに拠って人類固有の性格と欲望を決定的なものとしてきた。
 現代社会が情報摂取に本文があるとすれば、言葉・貨幣・情報というこの三つが人類が自己に齎した最大の価値となると言ってよいだろう。
 スノーデン容疑者の行った告発が如何に衝撃的なものであろうとも、次第にアメリカの個人情報傍受システム自体が進化していかざるを得ないので、スノーデン容疑者の知る情報自体も無価値となっていくだろう。しかしそれでもアメリカという国家自体は二度とスノーデンの様な告発者を国家の側から出さぬ為に彼を帰還させて罪状をはっきりとさせたいのであろう。
 私がこれら一連の問題で最も関心を抱いたこととは、我々人類は情報それ自体ではなく、情報を傍受しているというリアルの方を常に優先させている、という事実である。
 これは人類が、言葉とはそもそも何か実在の存在しているものへ名付けられている(名詞は特にそうであるが、動詞や形容詞も、その行為、動き、状態を命名しているので、結局実在の現象、事象へ名づけていると言える)のだが、その実在そのものより、実在へ命名し、それを伝える行為の方を優先させてきたと言い換えられる。
 貨幣とはその媒介を通した商品を入手する為のものであるが、その入手する当のオブジェより、そういった一連の何かが欲しい時その欲しいオブジェを入手する為の手段であるお金の方に我々は魅力を持つ。お金に拠って交換されるオブジェそれ自体は替えの利くものであると心得ている。
 言葉、貨幣に並んで情報も、その情報摂取に拠って得られた情報もだけれど、それ以上にそうやって情報摂取し、情報入手する行為それ自体に魅力、魅力と言ってもそれを決してやめられない中毒性のもの、現代の若者が二十四時間スマホ画面に意識が釘付けとなっている依存症をも招聘する行為の連鎖、情報ネットワークと四六時中関わっているというその日常的事実の方を優先させている。
 これら一連の言葉、貨幣(或いは貨幣経済)、情報との関わり合い、それのない社会では生きられない、ネットと緊密に自己を関係させずにはおられない、という事実は、対象それ自体ではなく、要するに対象へと関わる媒介(media)それ自体の方を価値的に見做している証拠である。オブジェとはそれ自体は何でもいいし、替えが利くものでしかない。
 この我々自身の媒介価値のものにしか関心もなければ、欲しもしないという驚くべき事態は、思念とか思想でも言えるし、それは全宗教の本質でもある。哲学的思考がそうである。
 我々は思想・哲学・宗教等に拠って、要するに知の制御、知そのものの取り扱うには膨大過ぎるその観念的なオブジェ(或いはオブジェそのものを支える観念)を追い求めてきている。知の獲得とはとりもなおさず知の制御のことなのである。
 デカルトがコギトと呼んだものとは、ある部分では自己というものの扱い得られやすさの実感出来なさそのものであり、その癖その扱いきれない代物を世界とか、社会とか、要するに関係のネットワークの中で位置づけざるを得ないという事実への驚きを持った、しかしその驚きからミニマルな疑い得なさの獲得への希求、切ない迄の耐え難い欲求である。
 キェルケゴールはそういった自己の扱いきれなさそのもので世界へのあらゆる謎へ対峙するその事実へのデカルトへのそれなりの応答の仕方へ、それを記述する主体の側から記述する者の韜晦的で欺瞞的な心の振る舞いに就いて反省的に語っている。そのベースにはヘーゲル流の主人と奴隷とか正否の関係という安穏では済まされないもっと込み入った対自的懐疑と、そのことへの耽溺それ自体を愛すことを辞さないある種の精神的オナニズムがあり、それはショーペンハウェルの持っていたペシミスティックな迄の世界への希望の持てなさへの共感がある。
 キェルケゴールのシニシズムを受け継いで世界の構図を欺瞞的な悪へ閉じ込めたのがニーチェで、彼が言う超人とはデカルト的主体でなく、そういった懐疑とか反省とかを可能とさせる誠実な自己の在り方などでなく、要するに世界自体の腐敗の変わらなさそれ自体への自然主義の提唱である。
 その点では分析形而上学のデヴィッド・ルイスが最もデカルトコギトから遠ざかっている分、ニーチェ的形而上学の継承者だと言える。様相は実在し、あらゆる可能性は可能性として存在し続ける、未来永劫に。それはニーチェの現代版の腐敗の変わらなさをも含めた無時間化された自然主義、全的に眺望し得る神の如き視点の体系性の復活を旨としている。
 現象学ではメルロ・ポンティもポール・リクールも、もう一度関係の網の目に於ける自己とか主体を模索している。その関係は物自体として意識主体である我々が関係そのものをも関係として自己へ位置づける欲望として存在することはカントに拠って既に指摘されていたし、ベルグソンは純粋持続という形で意識主体こそが時間をも作ると考えたのだった。
 ハイデガーはその様にして手に入れた世界そのものが自己であり、サルトルはその考えを引き継ぎつつ、世界に望まずに放り出された我々の責任はあくまで自己決済にのみ存すると考え、そのことで救済されることの絶対的な無さを訴えた。ガブリエル・マルセルはそのニヒリズムへ存在への感謝の念という形で希望を見出そうとしたのだ。
 こういった一連の哲学的思想とはあくまで世界の実在が主役なのではなく、実在を認識の網の目の中に取り込み、そのことに関する言葉の遣り取り、営み自体が重要であり、そこで得られている哲学的認識も、そういった情報の摂取、哲学的認識自体への情報的価値化とその価値化の止められなさである。
 ある部分スノーデン容疑者の本国帰還を望むアメリカの躍起も、個人情報傍受を国家事止められなさそれ自体への羞恥の隠蔽にこそあり、個人情報という(これも又実在的でありながら観念的な非リア充的なことであるが)実体無き実体への摂取が、好奇心とも猜疑心とも見分けのつかない状態で国家自身が臨んでいる証拠である。
 好奇心と猜疑心の境界を明確に指摘出来る者は居ない。
 アメリカはもっと有効な情報傍受の仕方を進化させていくか(スノーデンの様な裏切り者が出難いもっと何か別の有効なシステムを開発させていくか)、この様な傍受は何もアメリカ一国ではないけれど、アメリカの傍受はそれなりに進化して世界の傍受システムのモデルと少なくとも世界が見做していること自体への明白さを少しでも世界から逸らせたいという国家羞恥に拠ってスノーデン引き渡しをロシアへ打診しているのだろうか?そっちでもそういうことがあれば、こちらも直ちにそっちへ容疑者を帰還させる、とそう約束し得るだろうか? エドワード・スノーデンの行った告発は、媒介価値に魅せられ、それから離れられぬ人類の真の意味での羞恥的部分の暴露そのものであった。しかし彼がしなくても他の誰かに拠ってそれは行われていただろう。
 認識と思考の連鎖へ没入させる言葉、実質的社会生活を成立させる貨幣、生活を保守する為の防衛としての情報それら全ては、それ自体と言うより、それらを援用し得る能力とその能力を保持しているという信用の方に比重が移行しており、それが電子書籍、クレジットカード、プリペイドカード、電子マネー、ハッキングスキル等をより重視させる方向へと我々の意識を固定化させている。それは一々全ての本を読むことを我々に放棄させ、金もそれで買う商品というオブジェ(それはポップアーティストの偉業に任せておけばよい)より、金自体より、貨幣的数値を収支決算的に産出されるだけである。
 信用という一語の為にあらゆる言語行為、貨幣流通、情報摂取が行われ、その過剰に拠って信用から他者への極端な懐疑へと発展していってしまう連鎖を反復してきたのが人類史だったと言えるだろう。
 媒介価値それ自体への比重の移行以上に、人類史にとって重大な事実はない。信用も懐疑もその媒介価値への追認から生まれる。そして80年代に丸山圭三郎等に拠って持て囃されたフェティッシュの原理は、実体より厄介なものとはその実体を追認するシステムという媒介価値だという思想だった。つまりオブジェへのフェティッシュよりある意味で媒介システムへのフェティッシュの方が強く病巣が深い。
 その病巣の深さこそが現代の若者を一日中スマホ画面へ意識を釘付けにして、その危機的状況を察知したエドワード・スノーデンをして国家情報戦略へ謀反を起こさせたのである。

Saturday, July 20, 2013

第四十五章 価値と倫理Part4 スノーデンショックから読み取れること

 今世紀以降恐らく人類の間で熾烈に吹き荒れる事とは、国家主義と世界市民主義との間の葛藤だろう。その未来予測を成立させるものこそビッグデータの猛威だ。監視カメラ、そしてエドワード・スノーデンに拠る国家、政府に拠る盗聴、SNSその他のあらゆる発言の監視等の事実が対テロ対策的意味で白日の下に晒された事でもある。
 我々の精神は何処かでは必ずアナーキズムを志向する。それはウェブサイト利用に於いて反社会的意見をツイートする現代人の心的傾向からも読み取れる。それで職を失ったり、自殺したりした官僚や政治家も居る。そういった公務に就く人達さえそういう隠された本音を何処かでぶちまけたいという欲求を携えて生活しているという部分にこそ人間本来のアナーキーな性質を読み取れる。
 しかしそういった本音吐露だけでなく現代のSNSでは明らかにミーイズム、つまり著名人と繋がりを持ちたいという渇望も大きい。しかしTwitterでもFacebookでも著名人になりすまし大勢のフォロワー、友達を獲得しているケースもかなり多い。所詮これらのツールでも人的繋がりは満たされぬ虚栄心、しっかりとした発言権を何処にも求められない多くの現代人の心の隙間に芽生えた不満の矛先を収めようとしている気持ちを擽る事に貢献しているに過ぎない。
 国家主義と世界市民主義(つまり一切の国境を超えた時代的同時性、共時的意識での個人主義)との対立以外に我々は完全なるアナーキズムを認める事も出来る。日本なら日本という国家の存在を一切価値的に認めないばかりか、世界市民全体で共有されるものさえ信じないという心の在り方もあり得る。
 アナーキズムでも完全孤立主義的個人主義と、国家よりも地方とか所謂閉じたローカリズム、つまり習俗的な居心地の良さを国民意識より優先させようというものとがある。そしてこの両者はある個人に於いては両立し得るだろうが、別のある個人に於いては両立し得ないだろう。
 何故なら前者のアナーキストは集団内協調は然程苦ではないが、国家主義、政府主導的国民生活の在り方への不満はあって、それは認められないという気持ちでいるのに対し、後者のアナーキストは形式的には国家がしっかりとしていて、しかしその中で集団の協調性とか同時代的意識の共有等一切なくたっていいどころか、積極的にそういった全体主義的雰囲気を無くしてしまえ、とそう思うだろうからだ。しかしその二つのアナーキストは何処かでは集団とか人々の集合それ自体は認めている。
 極稀に地域共同体も国家もあってもいいが、所詮内心では世界とは自分個人内部で閉じているのであり、地方の習俗も国家的民族伝統の全てが潰えさっても一向に頓着しないとう人達だけがいずれのアナーキズムでも構わないというスタンスを取るだろう。
 しかし後者のアナーキストもいざSNSをする時には日本人であるなら日本人同士、日本語で遣り取りするなら、日本語固有の時代的言葉の使い方を採用するだろうし、英語で英語園の人達だけでなく英語を母国語としない、しかし互いに英語でしか意思疎通し合えない国の人達とネットで繋がっている場合、意識的に自己の民族的アイデンティティを消去しようとするだろう。それこそが意図的なグローバリズム的意識の選択であるが、そういう風に意図的に、意識的に消去せざるを得ない処に、なかなかしぶとく残存している我々の民族的意識や気分があると言っていいだろう。
 例えばエドワード・スノーデンは二度と祖国アメリカの土を踏めずに生涯を終えるかも知れない。しかしそういう風に自分の人生がなるかも知れないと知って、あの様にNSAの暴挙を告発したのは紛れもなく自民族意識からであり、同時に世界的共時性への加担的意識でもある。NSAに拠って国民の、そしてアメリカ以外のアメリカに拠って傍受し得る限りの外国の個人データを集積する事にアメリカを血眼とさせてきた根拠は明らかに9.11である。ブッシュ前大統領に拠る愛国者法(9.11の45日後に制定された)に拠って監視国家アメリカが構築された。そのウェイヴに多くの先進国も<右に倣え>してきた事も現実である。勿論それを加速化させてきたものこそスパコンの進化だし、スパコンの進化を9.11ショックがアメリカ人主体に齎したと言ってもよい。
 しかしそういったリアル社会、リアル世界での動向より、それ以前的に我々は生まれてこの方、自ら居心地の良さを価値として認める感性の中に明らかに国家民族的倫理感や地方風土的感性を携えて生活してきているという事の方が重要である。確かに前述の様に地方習俗的な感性とは国家主義的伝統とは対立する部分はある。しかし結託している部分もあるのだ。地方の習俗は日本では神道的所作や伝統と結託して育まれてきたと言えるし、それは仏閣でも同じである。神道と仏教自体が結託してきたのが日本の宗教精神史なのである。
 ところでアートは高次の鑑賞能力を鑑賞者へ強いる文化である。
 それを踏まえて現代日本アートの20世紀以降の遺産に就いて触れると、高松次郎のアート作品(彫刻、絵画、インスタレーション、パフォーマンス、絵本等)は彼自身の日本人である事の民族的アイデンティティは省略の美学だとか抑制された色彩感覚だとかでは活かされているけれど、彼の出身地であるとか、そういった幼児体験とも密接な風土性とは無縁である。その意味では高松のアートの仕事とは、グローバリズムを認めている。要するに抽象空間概念に拠る単純化とアートメッセージの無国籍性を容認している。
 その点ではカンディンスキーがロシア人としての民族性も土着的風土性も十二分に発揮していた様な意味で高松の後輩の世代の関根伸夫はずっと高松より土着風土性を表出させている。そして我々は高松とかアメリカのアーティストで言えばソル・ルウィット等の作品からは風土性から体感するものを得る事は出来ない。その点でカンディンスキーも関根伸夫も前者はロシア人にとって恐らく外国映画を観ていて突如そこにロシア語が登場したりした時に、又後者では日本人にとってアメリカ映画を観ていて、そのある場面で突如向こうの人が日本語を喋り出す時に覚える固有の身震いに似た民族的現象性を得るのと似た何かを直に作品を鑑賞する時に感じるだろう。
 要するに高松やルウィットの仕事はアート言語を読み取れるのに対し、カンディンスキーや関根の仕事では民族的共同性を体感し得るのだ。
 アートに対して時代の共時性をもっと実社会的リアルに即して鑑賞させるものこそ芸能である(その点では音楽でもJ-popは明らかにクラシックや現代純音楽よりも芸能に近い)。テレビドラマでは主に二種類のタイプのものがある。一つは芸能ネタ等に拠る脚本家にとっては最も書きやすく且つ無難なドラマだ。これは芸能界自体が特殊な体制迎合的営業性を持っているので、息抜きとして鑑賞される。対し企業ドラマでは多かれ少なかれ全ての企業がコスト削減等の為に企業秘密を保持していて、酷い場合には企業と関連業界全体で隠蔽体質もあるので、それらを戯画化して固有の社会的リアル感を持たせて鑑賞させるタイプのものである。青年世代の登場人物に拠る俗に月九と呼ばれるトレンディードラマは前者に属す。
 これらのドラマは端的に本質直観とは真逆の寧ろ積極的に現実批判を逸らす、要するに現実肯定の心的作用へ加担している。息抜きという事自体がそういうものだからである。だから芸能それ自体には思想は要らない。それがないという事に息抜きの息抜き足る所以がある。息抜きとはそれ自体本質直観を決定的に逸らし、現実肯定を促進するものであり、息抜きをする個人からあらゆる哲学的問いを消すもの以外ではない。そうする事に拠ってどんなにシリアスな企業告発ドラマでもそれを鑑賞する者から現実容認以外の心的志向を持たせない様にするものである。この部分ではアートと決定的に芸能の大衆性は異なっている。
 しかしこの息抜き提供の齎す作用を見越してあらゆる宣伝媒体も動いていて、それは資本主義の一種の慣例である。そしてだからこそウェブサイトでは日頃のお堅い職務を一時離れた個人に拠る「隠された本音」がSNS等に拠って発露されるのだ。つまりきちんとした社会的地位の保持者であれ失業者やメンヘラやニート(彼等も一種のメンヘラであるけれど)であれ一時現実から逃避する事をテレビドラマが提供する鑑賞者にとっては完全な受身である態勢で楽しむ娯楽にはない切実な本音吐露の出来るメディアとして2ちゃんねるもSNSも現代人に拠って暗黙の内に容認されている。ウェブサイトビジネスの全ては新種の息抜き提供装置である事を免れない。
 だからこそそういった気軽な本音の中で時折読み取れる真実にリアルな思想的行動を誘発する発言とか固有の人的繋がりをNSA等の国家諜報機関は日夜傍受しようとしているのである。そして政府直属のそうした機関にそういう行動を取らせているものこそ実は我々諸個人に拠る暗黙の一時の本音発信の欲求、つまり匿名的な個へ現実逃避する事を自然と各個人へと選択させるSNS的ネット空間の中毒作用以外ではないと言い得るのではないだろうか?
 確かに哲学者も芸術家が居酒屋で話題にするのが同じ芸術家やその仕事である様な意味で本や論文の中で問題にするのが同じ哲学者や哲学史だけである。しかし少なくともリル社会での固有の欺瞞性に就いてずっと告発してきた学問メディアとして哲学者はリアル社会の確固たる幸福追求さえも、その欺瞞的虚飾に就いては主張してきた。
 そこで次回はデカルト、カント、ショーペンハウウェル、キェルケゴール、ニーチェ、ベルグソン、ハイデガー、ジャン・ポール・サルトル、メルロ・ポンティ、ガブリエル・マルセル、ポール・リクール等の系譜からこの哲学者からの実社会への告発を読み解いていこう。