セザンヌ 牧歌 1870

セザンヌ 牧歌 1870

Saturday, July 20, 2013

第四十五章 価値と倫理Part4 スノーデンショックから読み取れること

 今世紀以降恐らく人類の間で熾烈に吹き荒れる事とは、国家主義と世界市民主義との間の葛藤だろう。その未来予測を成立させるものこそビッグデータの猛威だ。監視カメラ、そしてエドワード・スノーデンに拠る国家、政府に拠る盗聴、SNSその他のあらゆる発言の監視等の事実が対テロ対策的意味で白日の下に晒された事でもある。
 我々の精神は何処かでは必ずアナーキズムを志向する。それはウェブサイト利用に於いて反社会的意見をツイートする現代人の心的傾向からも読み取れる。それで職を失ったり、自殺したりした官僚や政治家も居る。そういった公務に就く人達さえそういう隠された本音を何処かでぶちまけたいという欲求を携えて生活しているという部分にこそ人間本来のアナーキーな性質を読み取れる。
 しかしそういった本音吐露だけでなく現代のSNSでは明らかにミーイズム、つまり著名人と繋がりを持ちたいという渇望も大きい。しかしTwitterでもFacebookでも著名人になりすまし大勢のフォロワー、友達を獲得しているケースもかなり多い。所詮これらのツールでも人的繋がりは満たされぬ虚栄心、しっかりとした発言権を何処にも求められない多くの現代人の心の隙間に芽生えた不満の矛先を収めようとしている気持ちを擽る事に貢献しているに過ぎない。
 国家主義と世界市民主義(つまり一切の国境を超えた時代的同時性、共時的意識での個人主義)との対立以外に我々は完全なるアナーキズムを認める事も出来る。日本なら日本という国家の存在を一切価値的に認めないばかりか、世界市民全体で共有されるものさえ信じないという心の在り方もあり得る。
 アナーキズムでも完全孤立主義的個人主義と、国家よりも地方とか所謂閉じたローカリズム、つまり習俗的な居心地の良さを国民意識より優先させようというものとがある。そしてこの両者はある個人に於いては両立し得るだろうが、別のある個人に於いては両立し得ないだろう。
 何故なら前者のアナーキストは集団内協調は然程苦ではないが、国家主義、政府主導的国民生活の在り方への不満はあって、それは認められないという気持ちでいるのに対し、後者のアナーキストは形式的には国家がしっかりとしていて、しかしその中で集団の協調性とか同時代的意識の共有等一切なくたっていいどころか、積極的にそういった全体主義的雰囲気を無くしてしまえ、とそう思うだろうからだ。しかしその二つのアナーキストは何処かでは集団とか人々の集合それ自体は認めている。
 極稀に地域共同体も国家もあってもいいが、所詮内心では世界とは自分個人内部で閉じているのであり、地方の習俗も国家的民族伝統の全てが潰えさっても一向に頓着しないとう人達だけがいずれのアナーキズムでも構わないというスタンスを取るだろう。
 しかし後者のアナーキストもいざSNSをする時には日本人であるなら日本人同士、日本語で遣り取りするなら、日本語固有の時代的言葉の使い方を採用するだろうし、英語で英語園の人達だけでなく英語を母国語としない、しかし互いに英語でしか意思疎通し合えない国の人達とネットで繋がっている場合、意識的に自己の民族的アイデンティティを消去しようとするだろう。それこそが意図的なグローバリズム的意識の選択であるが、そういう風に意図的に、意識的に消去せざるを得ない処に、なかなかしぶとく残存している我々の民族的意識や気分があると言っていいだろう。
 例えばエドワード・スノーデンは二度と祖国アメリカの土を踏めずに生涯を終えるかも知れない。しかしそういう風に自分の人生がなるかも知れないと知って、あの様にNSAの暴挙を告発したのは紛れもなく自民族意識からであり、同時に世界的共時性への加担的意識でもある。NSAに拠って国民の、そしてアメリカ以外のアメリカに拠って傍受し得る限りの外国の個人データを集積する事にアメリカを血眼とさせてきた根拠は明らかに9.11である。ブッシュ前大統領に拠る愛国者法(9.11の45日後に制定された)に拠って監視国家アメリカが構築された。そのウェイヴに多くの先進国も<右に倣え>してきた事も現実である。勿論それを加速化させてきたものこそスパコンの進化だし、スパコンの進化を9.11ショックがアメリカ人主体に齎したと言ってもよい。
 しかしそういったリアル社会、リアル世界での動向より、それ以前的に我々は生まれてこの方、自ら居心地の良さを価値として認める感性の中に明らかに国家民族的倫理感や地方風土的感性を携えて生活してきているという事の方が重要である。確かに前述の様に地方習俗的な感性とは国家主義的伝統とは対立する部分はある。しかし結託している部分もあるのだ。地方の習俗は日本では神道的所作や伝統と結託して育まれてきたと言えるし、それは仏閣でも同じである。神道と仏教自体が結託してきたのが日本の宗教精神史なのである。
 ところでアートは高次の鑑賞能力を鑑賞者へ強いる文化である。
 それを踏まえて現代日本アートの20世紀以降の遺産に就いて触れると、高松次郎のアート作品(彫刻、絵画、インスタレーション、パフォーマンス、絵本等)は彼自身の日本人である事の民族的アイデンティティは省略の美学だとか抑制された色彩感覚だとかでは活かされているけれど、彼の出身地であるとか、そういった幼児体験とも密接な風土性とは無縁である。その意味では高松のアートの仕事とは、グローバリズムを認めている。要するに抽象空間概念に拠る単純化とアートメッセージの無国籍性を容認している。
 その点ではカンディンスキーがロシア人としての民族性も土着的風土性も十二分に発揮していた様な意味で高松の後輩の世代の関根伸夫はずっと高松より土着風土性を表出させている。そして我々は高松とかアメリカのアーティストで言えばソル・ルウィット等の作品からは風土性から体感するものを得る事は出来ない。その点でカンディンスキーも関根伸夫も前者はロシア人にとって恐らく外国映画を観ていて突如そこにロシア語が登場したりした時に、又後者では日本人にとってアメリカ映画を観ていて、そのある場面で突如向こうの人が日本語を喋り出す時に覚える固有の身震いに似た民族的現象性を得るのと似た何かを直に作品を鑑賞する時に感じるだろう。
 要するに高松やルウィットの仕事はアート言語を読み取れるのに対し、カンディンスキーや関根の仕事では民族的共同性を体感し得るのだ。
 アートに対して時代の共時性をもっと実社会的リアルに即して鑑賞させるものこそ芸能である(その点では音楽でもJ-popは明らかにクラシックや現代純音楽よりも芸能に近い)。テレビドラマでは主に二種類のタイプのものがある。一つは芸能ネタ等に拠る脚本家にとっては最も書きやすく且つ無難なドラマだ。これは芸能界自体が特殊な体制迎合的営業性を持っているので、息抜きとして鑑賞される。対し企業ドラマでは多かれ少なかれ全ての企業がコスト削減等の為に企業秘密を保持していて、酷い場合には企業と関連業界全体で隠蔽体質もあるので、それらを戯画化して固有の社会的リアル感を持たせて鑑賞させるタイプのものである。青年世代の登場人物に拠る俗に月九と呼ばれるトレンディードラマは前者に属す。
 これらのドラマは端的に本質直観とは真逆の寧ろ積極的に現実批判を逸らす、要するに現実肯定の心的作用へ加担している。息抜きという事自体がそういうものだからである。だから芸能それ自体には思想は要らない。それがないという事に息抜きの息抜き足る所以がある。息抜きとはそれ自体本質直観を決定的に逸らし、現実肯定を促進するものであり、息抜きをする個人からあらゆる哲学的問いを消すもの以外ではない。そうする事に拠ってどんなにシリアスな企業告発ドラマでもそれを鑑賞する者から現実容認以外の心的志向を持たせない様にするものである。この部分ではアートと決定的に芸能の大衆性は異なっている。
 しかしこの息抜き提供の齎す作用を見越してあらゆる宣伝媒体も動いていて、それは資本主義の一種の慣例である。そしてだからこそウェブサイトでは日頃のお堅い職務を一時離れた個人に拠る「隠された本音」がSNS等に拠って発露されるのだ。つまりきちんとした社会的地位の保持者であれ失業者やメンヘラやニート(彼等も一種のメンヘラであるけれど)であれ一時現実から逃避する事をテレビドラマが提供する鑑賞者にとっては完全な受身である態勢で楽しむ娯楽にはない切実な本音吐露の出来るメディアとして2ちゃんねるもSNSも現代人に拠って暗黙の内に容認されている。ウェブサイトビジネスの全ては新種の息抜き提供装置である事を免れない。
 だからこそそういった気軽な本音の中で時折読み取れる真実にリアルな思想的行動を誘発する発言とか固有の人的繋がりをNSA等の国家諜報機関は日夜傍受しようとしているのである。そして政府直属のそうした機関にそういう行動を取らせているものこそ実は我々諸個人に拠る暗黙の一時の本音発信の欲求、つまり匿名的な個へ現実逃避する事を自然と各個人へと選択させるSNS的ネット空間の中毒作用以外ではないと言い得るのではないだろうか?
 確かに哲学者も芸術家が居酒屋で話題にするのが同じ芸術家やその仕事である様な意味で本や論文の中で問題にするのが同じ哲学者や哲学史だけである。しかし少なくともリル社会での固有の欺瞞性に就いてずっと告発してきた学問メディアとして哲学者はリアル社会の確固たる幸福追求さえも、その欺瞞的虚飾に就いては主張してきた。
 そこで次回はデカルト、カント、ショーペンハウウェル、キェルケゴール、ニーチェ、ベルグソン、ハイデガー、ジャン・ポール・サルトル、メルロ・ポンティ、ガブリエル・マルセル、ポール・リクール等の系譜からこの哲学者からの実社会への告発を読み解いていこう。

Thursday, May 30, 2013

第四十四章 価値と倫理Part3 革命への失望と断念とアートパフォーマンスとモブフラッシュ

 コミュニケーションが求められる事は、有益なそれとそうでないそれとを分ける認識に拠ってである。要するにそこにはメッセージとして残すという意識が生じている。それはあるメッセージを権威付け、別のメッセージを捨てて忘れ去る事である。
 しかしそもそも言語行為を、コミュニケーションを我々は残す為にしてきたのではなかった。だから東浩紀に拠るハンナ・アーレント等へのオマージュ的な動物化という語彙とは要するにコミュニケーションとメッセージへの権威化を無効化させる欲求を現代人は抱いてきているという言及であった。それを更に宇野常寛がネットコミュニティでオタク的にクラスターを我々が形成し本論を求めるのでなく、余剰のみを精神的に追求すればいいという考えを推し進めた。これは言い換えれば革命の断念である。要するに社会はもう変わり様がないのだから、社会機能や社会機構をその侭にして余暇とかルティン的時間以外の余剰を精神的豊かさを持つべき時間へと変質させていけばいいという思想である。
 しかしこの様な意識の変換を提唱したのは宇野が最初ではない。既に二十世紀にはアーティスト達がハプニングとかパフォーマンス等の確立に拠って残す為の行為でなく、その時の瞬間的出会いの感性を育もうと考えたのであった。何故そういうトライアルをしたのがアーティストであったかと言うと、アートとはそれ自体が作品提示行為なので、モノを残す、モノを作れば残ってしまうというアーティストの自我と、それがもしそんなにないものであってもモノ自体が残ってしまうという社会現象に興味があったからである。
 その点ではアーティストは哲学者以上に残す事、残る事への観念の洗い直しに関しては哲学的であった。フルクサス等のグループが世界的規模で展開し、草間彌生も若き日々にはNYでパフォーマンスをしていたのだった。それは言ってみれば意識の変革を促すトライアルであったのだ。つまり貴方がアート作品を創造し制作する事は、それを残す為なのか、というニッチマーケット的地位であるところのアート市場が市場価格という形で資本主義社会の中でアートをコレクターとディーラーとクリティックとキュレイターが共謀してある作品を権威化する事でそれ以外の作品を取るに足らぬものとしてきたそのアート市場と文化コード全体への懐疑主義がアーティストに刹那の瞬間的出会いのハプニングとかパフォーマンスへと意識を向かわせた。そしてアート史的には明らかにパフォーマンスの進化過程に於いてインスタレーションという仮設的な空間装置の創造行為が進化していく。
 その行為をアーティストだけでなくデザイナーも応用し、スポンサーがついて企業包みで行ったりヘヴンアーティストやミュージシャン達が競合したりして今日のモブフラッシュ等のムーヴメントが行われる様になってきているのだ。
 現代のきゃりーぱみゅぱみゅ等のモブフラッシュは作詞作曲家、衣装選びの最新鋭ファッション仕掛け人、ダンス振り付け指導者、アートディレクター、録音技師等の芸能パフォーマンスのスタッフ全員が一方では音楽を配信するサイトビジネスと共謀して執り行っている。それはしかしかなり積極的な既成の社会インフラの利用に拠ってであるので結局資本主義社会の貨幣と金融の循環システムを肯定した態度であり、初期アートパフォーマーに拠る社会全体への問題定期であるよりは、より娯楽提供の意識が強まっている。それは東京都がヘヴンアーティストを容認しだした頃から既に革命の断念という意識の恒常化に拠って促進されていた。要するに初期アーティストに拠る発明はモティヴェーションのアート哲学性を剥奪され様式化され社会の時間論的インフラ、つまり瞬時の娯楽提供へと転換され応用されてきたのだ。これはアートの追求とか思索メッセージではなく反映的資本ゲームプレイへの転換と読み替えられる。その読み替えが何故いけないという形で示したのがシンディー・シャーマンであり森村泰昌であり、アートとは個人が個の内面を描く自我論的ツールではないとして近代アートの個性主義神話と個神話をぶち破ろうとして中世の工房システムを復活させメディアを取り込んで戦略的に行ったのが村上隆である。彼のメディア戦略の中から価値を見直された草間彌生、後発世代では会田誠、やなぎみわ、できやよい等がそれらの戦略を踏まえて登場してきたのである。
 しかしここでもう一度メッセージを残すという事の意味に就いて考えてみる必要がある。
 つまり一体我々人類は言葉を残す為に利用してきたのだろうか?
 そうではないだろう。
 人類が言葉を残そうとする様になったのは人類史全体から言えば比較的最近の事であろう。生物学的に言えば今現在を大晦日とすればほんの師走も暮が差し迫るクリスマスくらいの頃からであろう。
 人類が言葉をきちんと残す様にしだしたのは法の明文化からであろう。社会進化、とりわけ貨幣の発明に拠って利子その他の制度が確立して以降人類はバーター交易では生じなかった様々な貧富の差と金融システムを保持してしまっていて、その為に法を要した。そして政治が交易その他の行為を取り締まる様になっていく。政治が司法秩序を維持する為だけでなくなっていくプロセスで初めて人類は国家を所有する様になり、必然的に政治行為を記録化する様になる(議事録その他)。言葉がそれ自体として残される為に書かれる様になっていく過程で聖書も初期原型を形作られた。グーテンベルグの登場はそれを欧州諸国へ聖書を印刷する形で普及させる。言葉が「残す為のもの」として明示される過程では交易の為の貨幣の発明と、国家の成立と政治秩序の形成等を要した。
 やがて人類は産業革命を経験し、写真を発明、録音機材を発明、電話、映画等を発明する。ハードとソフトが分業し始め、聖書以外に辞書や小説等が一般市民に読まれる様になっていき、映画を観る様になり、新聞で写真を眼にする様になる。その過程とはとりもなおさず公文書しかない状態から一般書籍が普及する過程である。
 しかしそれでも尚我々が言語行為をするのは、何かを残す為にだけなされてきているわけではない。その事のメッセージを初期アーティストに拠るハプニングやパフォーマンス(50年代以降)のトライアルは志していた。
 だからモブフラッシュの行為はアートに拠って出された問題提起自体がマスメディアや政治的国家的統一それ自体が変数的に揺らぎがあっても関数的には革命に拠って倒される可能性が著しく希薄化していく過程で、そのトライアルがデザインやフッションへと置き換えられていく過程を経て初めて成立している、と言える。革命に拠って国家や社会を変革する事への失望やそれを断念する事で新たなフェイズへと意識を向かわせる為に一瞬の日常の驚きを得る事が価値化されていった過程とは、そういったアートモティヴェーションに拠るパフォーマンスを経てもアート市場の、ある作品は素晴らしく高価でどの国家もオークションで欲しがり権威化されるというリアル資本主義社会の変わりなさへの暗黙の精神的抵抗がベースにある。
 権威化とは他者の偶像化から始まっているが、それがアートという宗教儀礼性と密接に進化してきた世界でも顕在化していく事に拠ってマイスター的地位の天才とそうでない人とが分離していく。他者偶像化を政治でも経済でも経験してきた人類は偶像化を今度は自己、自分へも応用し始める。その際に重要なロールを担ってきているのがウェブサイトがブロードバンドの施設される過程で確立していくSNSであろう。
 つまりそこでも既に人類は誰しもが最早既に言葉を残したくなくても残っていってしまうネットコミュニケーションでのリアルなるオブセッションに見舞われているのだ。そこでほんの一時だけでも世界の日常とは変わり得るという幻想を享受する事に快楽を見出し始めた。そこで本来はアート作品を残す事のみを正業としてきたアーティストが残す事は写真とか動画とかだけで作品本体はパフォーマンスの時間内だけで跡形もなく消え去る事に愉悦を見出した。そしてそこに眼を付けたのが企業のプロパガンダと音楽業界とであった。そしてYoutube、WikiLeaks等を日常的に保持した人類は非商業的行為と商業行為との境界自体を無意味化させる方向でそれらの行為を認識し始めた。 要するにモブフラッシュの登場に拠って我々は国家や議会への革命だけを志向する事は今日的な意味ではテロリズムへ行くしかないと知っているので、そういったバイオレンス抜きで行える日常的認識とか判断に内在する因襲性の打破をパフォーミングに拠って見出す活路を見出したのである。そこに脈打っているものとは20世紀アーティストが否定するべく命題化させた権威化されたモノ(作品)という制度への懐疑にも内在していた権威化と偶像化への問い直しそれ自体である。
 権威化とは必ず偶像化され得る他者に向けてなされるという事実へのネームレスな市民の突然のインプロヴィゼーション的参加という形での「残すもののみが価値なのではない」という形での「一瞬で終わるパフォーマンスの刹那的日常の喜び、快楽の発見も又精神にとっては価値である」というメッセージなのであり、それは残さない事の人類に拠る美学への覚醒であるとも言えるのではないだろうか?
 付記 尚初期ハプニングは意外性という状況内反社会的メッセージ示唆性に本論があり、パフォーマンスは造形的美に本論がアート史的にはあったと言えるが、今日のモブフラッシュはその双方を巧みに接合させより娯楽性の強いものとしている(昔アーティストの行った事はそれ程洗練されていないが故に新鮮な驚きをその場で観客となった人々は得ていたのだった)。暗黒舞踏派等の人達の活動もこのパフォーマンスと実験演劇・アングラ演劇の試行と共謀していたと言えよう。

Saturday, April 27, 2013

第四十三章 価値と倫理Part2 未来展望から鑑みる価値と倫理

 Symbol、notion、abstractionは我々の価値判断を他者へ説明する為のツールである。倫理や道徳も自主価値判断、自主道徳を持つ事を促す教育ツールであった。しかしそれが教条的な権威へと転化しやすいという事が前回の論旨であった。
 我々は生まれてきた時特定の民族、性別、家系や遺伝子を受け継いでいる。その点ではあらゆる我々の日常に付帯する物事の考え方の流儀は特定の方向性へと権威付けられている。つまり憧れや敬意の対象が暗黙の権威となっている。そういうもの一切のない家庭環境はない。たとえ犯罪者や盗人の家系でもそういう反社会的誇りを暗黙の内に受け継いでいる。それは正当的権威であるかやお上に容認されてきているのかという事とは無縁に固有の視点を全個人に与えている。
 つまりそういった固有の条件のない存在者はおらず、それは実存的に生活しているという意味で全存在者の共通する性格、つまりその制約に対してどう自己を考えて行動していくかという事である。
 それは一人の大人がどういう家庭環境で育ってきたかという事以外でも、歴史的に後から考えられる時間軸的な意味でどういう時代に育ってきたかという事を抜きにその考えや思想、信条の出発点を語れないという意味に於いてもそうである。
 要するに完全に全ての条件から自由な存在者は居ない。
 その点から考えれば、確かに現代社会でのウェブサイトを通したサイバー空間、ネット空間は様々な意味で情報摂取とウェブ上でのコミュニケーションを日常生活で不可欠のものとせざるを得ないという意味で我々はどんな個々人も固有の条件と制約を引き受け生まれ育ってきたという事をウェブ上でのコミュニケーションマルキシズムに於いて無効化させる幻想を強制的に全ユーザーが享受している。
 インターネット利用とはかつて大きな会社であったヒエラルキーが今でも厳然と存在するのに、少なくともウェブ上ではそういった階級差とか社会的地位の高低さえそれ程重要な事ではないかの様なウェブサイト利用時での共通した幻想へと全ユーザーを運んでいる。
 この点は寧ろ最早社会システムの階級差とか経済格差等の全てがどうにも大きな変革等期待すべくもなく恐らく殆ど変わりなく存続していくであろうという固有の諦観が、だからこそ一時ウェブサイト上で全ユーザーはそういった固有の個人の条件を引き受けた社会での個人の内的心情を隠蔽し対外的には偽装した日常の自己欺瞞的なゲームで休憩を取り、もう一つの社会的リアルの変えられなさからの逃避的心理で集う別のゲームとして我々にインターネットを通したコミュニケーションが提供されていると考えてもよい。
 だが本当に何時迄も我々はこの社会的実際としてのリアルとウェブサイト上での全ユーザーに拠るコミュニケーションマルキシズムを続行していくであろうか?少なくとも百年単位で考えれば、何時迄も21世紀前半の侭で人類が居続けるとも私には思えないのである。
 確かにウェブサイトを通して我々は固有の単発的メッセージの送受信、つまり短いフレーズでの言葉の遣り取りを絵文字等と共に日常生活で不可欠のツールへと昇格させてきた。
 しかしそういう風に言葉と密接ではなく日常生活を過ごす事等出来はしないという事実への覚醒は、一面では全世界的規模で人類全体にとって言葉とは何かという哲学思想的思惟を与えずにはおかないし、それは益々個々人の間で痛烈な命題となっていくだろう。
 資本主義は欧米では王政と貴族制度の成熟と崩壊とを並行させて、キリスト教倫理の人民への精神的支配と呪縛それ自体への自問と共に成立してきた勤労観や人生全体への価値規範の意識の芽生えと共に17世紀以降徐々に確立しつつあった産業革命と、その大量生産、そして倫理的政治理念的には公平と平等と自由との兼ね合いで次第に商業活動の自由という形で定型化され、それと並行して国家的理念も絶対王政的秩序の崩壊と期を一にして定型化されていく議会制度等と共に国内でのグローバルスタンダードを各国が模索していく様になる(アフリカ、中東や中国、インド等は異なる歴史であるが)。
 20世紀は戦争の世紀であり、それは産業革命以降の技術革新と国家的権威とが結託して兵器を主とした軍需産業の確立に伴って起きた事であり、そのテクノロジーは鉄道や自動車へと徐々に主産業的アイテムとしては移行していく(勿論現在でも航空産業と軍需産業の技術的提携は益々確固となっているし、宇宙産業とそれらも密接である)。
 しかしウェブサイトが個々人の世界市民に個人主義的精神的憩いを見出させた事は、一面では社会的な規約がどの分野でも定型化され、そこで求められるスキルへの評定基準が益々数値化され(日本では偏差値教育、各種プロに求められるスタンダードがTOEIC等で何点以上であるとかあらゆる技能的に求められるスキルが数値化されている)、しかし一方精神的安らぎをアートや音楽、芸能へ求める現代人は、殊にアートというニッチマーケットでの価格設定が一般耐久消費財的なグローバリティとは全く異なった常識と根拠で同居させる如く、要するに一方では極めてグローバリティある普遍的基準を正当としながら他方では益々価値規範的にはオタク的なスタンダードを幾つもそれ等グローバリティとは別個に別腹で用意している。音鉄(録り鉄)、撮り鉄、乗り鉄、時刻表鉄 等様々に細分化させる事にあらゆるオタク領域で憩いを見出し悦に浸る。それは言ってみればグローバリティとオタク的スペシャルスタンダードとの全く正反対のベクトルへと益々現代人の意識が乖離していっている証拠である。
 しかしこの先百年、二百年とずっと人類はこの二曲分離的な分裂、統合失調を持続し得るだろうか?まさにそれこそが問題である。
 鉄道マニアをそれぞれ分野別の呼称をつけてカテゴライズする感性は日本人に顕著だが、これはある意味では現代分析哲学の唯名論者であるネルソン・グッドマンの哲学的思想を現代人が体現してみせた、と言うことすら出来る。
 しかしこの飽きもしない既に大きな秩序、国家とか組織とか集団の論理は変え様もないという諦念が齎すオタク的趣味とSNS等を通した擬似コミュニケーション、つまり文字と文字の遣り取りだけに費やされる送受信行為がリアル社会の変わらなさへのうんざり感からの逃避的シェルターとなっている。
 数日前私は次の様なツイートをFB.とTwitterで呟いた。
 「現代社会はある部分では一切細かい部分を気にしない感性でないと気楽には生き抜けないが、私は普通の人なら見過ごせる部分をどうしてもそう出来ない。故に時々全てを破壊したい願望に駆られるが、その勇気もないので全てから逃げ回る。常に自分だけのシェルターを探し回っては失敗し続けている。」
 このツイートは現象学者よろしく全世界市民が自己の日常的行為を反省的視点を携えつつ現在行為を観察すれば誰しもが結果的に見出す像であろう。つまりウェブサイト上での送受信行為は投稿サイトであれ似非的なニュースであれ、全てそれを送受信する事であたかもリアル社会へ参画しているかの幻想を個々人に与えつつ着々と無自分化を果たしている事に全ユーザーは気付いていて、しかしそのリアル社会のリア充的様相からの逃避を止められなくなっているのだ。しかしそれでいてそれを深刻に受け止めもしない。しかしリアルな我々の肉体は確実に個々人で老化していて、何時かぷつんと送受信は止む。これも間違いない。
 しかし個人が呟いた膨大なツイートはウェブ上で確実に残っていってしまう。残したくもないものさえ残されてしまうのである。ブログは作っていた本人が死ねば永遠に消す事が出来ない。
 この事が齎す我々の内的変化とは、この侭でよいのだろうか、コミュニケーションとは逃避的に一人で送受信する行為への没入の侭で真に果たされていると言えるだろうか、という事である。
 私は最近先のツイートより前に次の様なツイートも別々の時に呟いた。
 「現代社会はテレビでどんな番組を見ても視聴率が分かったり、街中至る所に隠しカメラ(監視カメラ)が仕込んであったりして、要するに何から何迄メカによって張り巡らされていて、そういう技術がどうなっているかという事を一々気にしていたら生きていけない様になっている。要するに利便性を享受しつつ無関心的に都市空間を闊歩し生活するしかないと皆分かっているのだ。自分に関心ある事だけにかまけていればいいと決め込んで生活するしかないのだ。」
 「SNSでも携帯でも余りにも多機能だと却って食傷気味になり、もっとシンプルなのがいい、心地良く使いやすいという気持ちは現代人に固有だと思うけど、よく分かる。四六時中その過剰サーヴィスに応対して享受サーフィンだけが得意な奴って何処か阿呆みたいに見えないだろうか?」
 前者ツイートでは全市民をゆったりとしたリズムの牧歌的生活に於いて老成させないありとあらゆる新機種登場と、システムの改変に目配せせねばならぬ現代情報化社会市民性を、後者ツイートではそれを只管喜んで便利だと享受するタイプの市民を揶揄している。
 ガブリエル・マルセルに拠る『存在と所有』では現代人の堕落を堕罪等で象徴させているが、21世紀の現代人にとってそれは安穏としたシステム改変に伴う利便性向上への享受とシステムのテクノロジーの全てを把握しきれぬが故に好奇心が何時迄も止む事のない老成させない社会故に派生する決め込み型的無関心心理であろう。  
 20世紀以降今日迄はあらゆる意味で天才の才能の独占の時代だった。商業資本主義スキルの才能の独占者としてハワード・ヒューズ、投資資本主義スキルの才能の独占者としてウォーレン・パフェット、コミュニケーションツール提供型資本主義スキルの才能の独占者としてビル・ゲイツ、スティーヴ・ジョブズ、マイケル・シュミット、ジュリアン・アサンジ、マーク・ザッカーバーグ等々。彼等は明らかにビートルズ、マドンナ、マイケル・ジャクソンといったロック&ポップスの世界の精神と、セルゲイ・エイゼンシュテイン、スタンリー・キューブリック、スティーヴン・スピルバーグ、デヴィッド・フィンチャーといった映像の鬼才達の精神をコミュニケーションスキルに於いて統合した。
 恐らくこれからも短期的に大きな話題を攫う堀江貴文型の鬼才は登場しては消えていくだろう。しかし基本的にコミュニケーションマルキシズムが全世界市民へ浸透していくにつれ、よりミニチュアサイズの准天才がごろごろとあらゆるエリアを闊歩する時代へと突入するのではないだろうか?
 その意味では個々人の精神に多大にインスパイアされた言語認識的な精神の変革者として上記の資本家やアーティストと並行してルードウィヒ・ウィトゲンシュタイン、アラン・チューリング、リチャード・モンタギュー等の考えた認識論や観念図式や数式は無意識の内に21世紀人の精神へ浸透し、彼等のスピリットが現代社会全体の様相へと体現されていると言っても過言ではない。
 それ等に加えてC.Sルイス、ガブリエル・マルセル、マイケル・ダメットといったキリスト教精神の思想改変者達が上記言語認識的改変者と同時代を生き思想提供した事実が、無神論者と有神論者の壁をぶち破る方向へと今後の人類を誘引していくのではないだろうか?
 以前私はこうツイートした。
 「恐らく刹那に対する考え方に有神論者と無神論者とでは決定的に異なっていくのではないだろうか?つまり刹那に永遠を感じ取れる感性は無神論者の方が多いのではないだろうか?」
 基本的にこの考えは変わっていないが、永遠性への希求という意味で両者に何か明確な境界がある訳ではない。20世紀の思想哲学は多くが否定論理に拠って成立していたが、その点でも今後人類はもう少し素朴な肯定論理を見出そうとしていくのではないだろうか?認識論的な観点から20世紀思想哲学と各種コミュニケーションツールでのスキルが否定論理に拠って多大の進化を遂げた事は確かだ。芸術表現でもジョン・ケージ、ジャン・リュック・ゴダール、寺山修司等多くの逸材、天才達は否定論理に拠って表現の認識に改変を加えてきた。
 しかし我々は内的な自然としての肯定を求めていく必要性に目覚め、そこで再度20世紀思想哲学、そして表現を振り返るのではないだろうか?
 金融資本主義は確かに当分は続くだろうが、商品価値やサーヴィス提供価値自体の金銭化のイデアそのものを改変させていく事に於いて参考となるのは、ニッチマーケット的アートが浮き沈みの大きな毀誉褒貶的反動主義から学んだ事であり、とことんロングテールビジネス化させるいい意味での袋小路ニーズに対応したニッチマーケットとそれを支えるオタククラスターの自然性である。
 科学的合理性は徐々にヒッグス粒子やダークマター等のより高次の抽象化された理論物理学の宇宙起源論に拠って、アートと理論物理学の境界が曖昧化していく方向へとシフトしていくだろう。そこに従来型の哲学や認識論、存在論迄もが統合されていくのではないだろうか?勿論完全融合するのには後数百年はかかるかも知れない。
 20世紀型管理職然としたソーシャリティは一部SNS等に拠って残存していくだろうが、益々個々人は不干渉主義的に徹底化していくものと思われる。つまりそれだけ人類は全スキルや全テクノロジーを熟知していられぬという知識と情報の完全制覇への諦念から先程述べた無関心性を自然なものとしている以上、個々人の対人関係もより不干渉主義が徹底化していくだろう。
 要するに相互干渉主義的モラルは少なくとも市民生活からは徐々に消滅していく。それは国家主義でも二三百年はかかるだろうが、人類が絶滅を未然に防止する意図と知性と理性で臨むのであれば柔軟なものへと改変されざるを得ないだろう。
 ある部分伝達意図を相互に汲み取る様なコミュニケーションセンシビリティはリア充回復的な意識へと目覚め、テレビのスポンサーとか制作者に顕著であり続けてきた業界的な特権意識や階級意識がより雲散霧消していき、SNS等のサイト運営自体も国家に対する地方の発言権の様になっていかざるを得ないのではないだろうか?それをなし得ればテレビ等のメディアがよりウェブサイトと協調していけるだろう(そうでなければ全放送局は淘汰されるだろう)。
 全メディア、全ウェブサイトを人類から放逐される可能性を今度は考えてみよう。
 それは要するにコミュニケーションの根本原理であるフェイス・トゥ・フェイスコミュニケーションへの覚醒に拠ってであろう。
 メディアもウェブサイトも健在である時点でも恐らく人類は誰かと会話する時相手の顔の表情から相手の感情を読み取るという判断の仕方を変える事はないだろうからだ。
 確かに現在はより20世紀と違って自己世界への没入が日常化している。しかしそういった自己没入とフェイス・トゥ・フェイスコミュニケーションとは常に日常生活ではどの個人でも反復されている。唯今の時代では自己没入が旧態依然的な集団や組織の論理へと批評性を獲得している。しかしそれすら時代と共に旧態依然的なものの一つへと格下げされていく事は間違いない。
 人類全体の意識はウェブサイトを通したコミュニケーションマルキシズムがより時代の必要性としてクローズアップさせられるエポックと、逆にそこで見られる自己没入を各種ツールを消滅させず温存させつつつも、リアル対面型の個々の共同体的回帰志向が価値化され、自己没入の価値化を転倒させるエポックとが反復して暫く二頭制として定着していくのではないだろうか?
 しかし原発事故等が自然災害に拠って勃発するなどすれば、自然回帰的なテクノロジーの開発がより叫ばれ、自然科学全般が生命倫理や医療と密接に自然還元的システムとしての社会インフラを模索していくことだろう。つまり文明崩壊的インシデント(例えば二年前に日本で起きた原発原子炉のメルトダウン等とそれに拠る放射能汚染区域の発生等の)が今後どの程度人類を襲うかに拠ってその改変スピードも決定されていくと言える。
 文明破壊欲求的なデカタンスとかインフラ消滅を叫ぶ自然回帰的なメッセージが詩人やアーティスト全般で隆盛を極める文化的様相も予想し得るが、それ等のスピリチュアルなムーブメントが如何に自然科学や言語理論等の社会インフラ接続型のスキルと融合していけるかが人類の生存のキーとなるものと予想される。要するに人類生存にとって何を全世界市民に共通した価値とし得るかという事が、リアル社会での実用性と形而上性との相補性に於いて何を求めていくべきかという自問自答をする事こそが殆ど無意識の倫理命題となり、それこそが価値の全体であるという個の意識となっていくのではないだろうか?
 価値は実用的で個人的であってよい、という在り方から無意識の世界市民共通の倫理と同質的であろうとする意識は、現在にとっての前時代の倫理とは必然的に異なった位相の認識ではないだろうか?それはある意味で全ての個にとって自己内での言葉の遣り取りという意味では20世紀の偉大なる言語的認識の天才の仕事を全個人が反芻する機会を時代と生存の意識が提供するという事である。或いは倫理基準の個々人性とその他者との共有可能性の模索という発想へ人類は強制される事なく目覚めていくという事である。
 その意識の中でどんなコミュニケーションが今最も求められ正当であるかが個々人の中でその都度判定されていく様な未来が私には見える気がするのである。

Saturday, April 13, 2013

第四十二章 価値と倫理Part1 自主道徳や人類の未来と個人の愛着、価値は倫理や道徳と一致するか?①

 価値が固有の偏見へと結びつきやすく、価値と偏見の共生は避けがたいにも関わらず我々は他方では常に価値を更新させ、その価値へ従って行動したいと望む。つまり価値とはそれ自体行動原理であり、行動規範である、と言うより、そうあるべきだと考え我々は語彙化し、言説化する事で行動しやすくしようと考える部分では我々は言葉に拠って決心しようとする生き物だと言える。あらゆる政党の選挙公約、マニフェスト等はそういった宣言してその通りに履行する事が行為者への信頼を構築してきた一つの政治史的なリアルである。
 しかし公約とか約束手形とかの資本主義ツールとしてのプロミスだけが行動規範ではなく、我々は感性的趣味嗜好型の生き物でもある。それこそが愛着という事だ。愛着は常に実践的であるとは限らない。
 例えば価値とは公共的価値を基準に考えれば個人の愛着は二の次とされて然るべきと誰しも公平や正義の原理としてはそう思う。しかし同時にその公共性が使命だけが崇高でも何処か居心地の悪いものを感じたなら誰しも抵抗を試みる。沖縄の米軍基地を基地関連の産業に従事しその恩恵を被っていない市民にとっては四六時中飛ぶ軍用機やヘリコプターやオスプレー等の導入へ反対したい感情も極自然なものだろう。
 しかしそれは個人的な感慨も多く手伝っている。危険性という事で言うなら成田空港も羽田空港も同様であるし、日本中の空港は危険と隣り合わせである。
 しかしもし公共的価値と個人的価値双方で重複している部分を規定するなら、それは真に価値的であり、実現されて然るべきだと誰しも思おう。
 従ってそれは極めて実践的、プラグマティックな事であり、具体的な事である筈だ。先月中旬東大本郷キャンパスで行われた国際会議(international conference)でスウェーデンから来日されたWlodek Rabinowicz氏は価値とモラルは別者であり、一致しないとレセプションで私が質問すると返答された。氏の発表ではto be valuable is to be desirableという一節を挿入していた。
 この事はモラルとはそれ自体一種の便宜的な(expedient)社会ツールであり、価値化するだけの大仰なものであるべきではないという思想の表明と受け取る事も可能である。プロテスタンティズムの本家でもあるスウェーデンの哲学者である氏のナショナリティを象徴しているかの様だと言ったならレイシズムとなるだろうか?
 従って個人固有の愛着だけを最大限優先したなら個人の偏見にもなり得る個人的価値とは、それ自体公共的な人類の未来への視点とは別個に成立し得る。だから個人の愛着とは個人の思い出とか趣味同様エゴイスティカルである。
 しかし同時に誰しもが等しく(勿論出来る限り)不快ではなく心地良いものであるべきだ、とは公共的価値では言い得るし、それに反意を示す社会人は少ないだろう。つまり建築も都市計画も全て少なくともそうあるべきであるという努力に拠ってはなされてきた(その中でナチスの様な誤りも在ったとは言え)のだ。つまりそれこそがRabinowicz氏の主張でもあったわけだ。
 そもそも倫理とは欧米では元々は旧約聖書世界観であるところのユダヤ選民思想、つまり約束された土地への祈念に満ちたエスノセントリズムでありレイシズムだったのだ。旧約聖書から新訳迄アラブ人とは異邦人だし異教徒(misbeliever)で在り続けてきたし、今でもそうである事はイスラエルとパレスチナ問題一つ取っても明らかである。預言者エイブラハムとモーゼとその思想の伝授というヤハウェ思想が根幹に在るユダヤ教起源のキリスト教倫理は個人の価値を認めるていのものではない。カソリックでも最後の審判に拠る神に拠る決裁から決して自由ではない。
 だからこそプロテスタンティズム以降の倫理思想はマックス・ヴェーバーを待たずともプラグマティズムを志向する性質のものであるという事自体が歴史的必然であった。
 要するに問題となるのは倫理や正義を何処迄遵守すべきかという判断の問題である。そして判断自体が既にどんな場合でも個人に拠るものでありながら、本ブログで口を酸っぱくして述べてきた様に集団とか他者一般という意識を介在させずに下す事がないという事こそが問題なのである。そしてそれは価値それ自体ともずれるのだ。
 日常的に些細な事では我々は価値とは個人的な嗜好を優先する事も多い。ある部分では我々は誰しもかなり日常的な行為の大半は個人的価値に従って行っている。
 しかし倫理とは正義とは、なるとがらりと様相を変える。これらは要するに集団(組織、法人、国家、民族)の共同幻想なのである。そこには固有の精神病理性さえ見出せる。倫理や正義への恭順、殉じる意識の全ては集団ヒステリー的な愉悦を伴っている。モブメンタリティ以外の快楽は三島由紀夫の自決にさえなかっただろうと読み取れる。勿論彼の場合はアナクロ的に過去の軍国主義的幻想が脳内に育成されていたし、こんな筈ではない日本のあるべき姿という観念が柱としては在った。
 集団ヒステリー的な郷愁は時代の移り変わりと共に実感される。東急渋谷駅の蒲鉾駅舎への郷愁が都市再開発の流れで掻き消されていく姿を脳裏に止めておきたいという事は、ある種の前時代を知る者によるエゴイズムでもあるし、愛着である。
 三島の自決等に見られるナルシシズムはアナクロ的な前時代へ遡行出来なさへの痛恨、前時代で兵役を逃れた彼自身の贖罪、その時代に国家奉仕出来なかった事の後悔と未練が見て取れる。
 集団ヒステリーは多くは自己犠牲的美学で自己の最期を飾りたいという観念性を帯びている。しかしこれは価値の中の極めて特殊な集団同化衝動であり、よく冷静沈着に考えれば回避し得る事だ。アートや文学作品創造のモティヴェーションにはこの種の衝動的なクリエイティヴモメントがある事は確かである。しかしその創造的衝動も一種のヒステリックなものであり、それと日常的なルティンや安定した生活への欲求はそういうものとは切り離されている。仕事自体が一種の精神的幻想である。しかし生活とか人生全体は仕事の没頭や熱中とは切り離されて認識されている。そこに敢えて仕事とか家庭とか幸福的充実的な何かを我々は人生を意味づけて納得しようとする。
 ある部分では風景への愛着もかなり個人的な事である。個人の思い出に好きな風景とは当て嵌められている。それが個人と集団への同化と時代への未練が加われば東急渋谷駅蒲鉾駅舎への郷愁が形作られる。それは要するに個人の感慨での憩いのある風景であれ集団の一員として都市空間の代表的風景であれ、見慣れたものを変えたくはないという願望である。それは保守的な価値である。
 従って個人的価値とは一方では全ての自分にとって気に入らない因襲的な事はどんな事でも変えたいと内心では思うのに、他方では保守的に見慣れたものを変えたくはないという心理へも志向する。だからこそ価値は自己信条や理想に準じた革新的部分と、逆に見慣れた風景やツールやディヴァイス等の使い慣れた仕方とかツールそれ自体を変えたくはなという保守的部分とが共存するし、自分は多くの人は変えて欲しいものでも、とりわけそこに住んでいるのではなく近所の散歩ルートとして憩いの風景として発見しているものは住民本位で変えていかれる事を望まないという身勝手なエゴイズムでもある。
 しかしそのエゴイズムこそが倫理や正義の宗教的因襲性や雁字搦めの保守的社会制度へも食い込んだ保守的通念をぶちやぶっていきたいという自主道徳的な観念をも生んでいる。些細な自己に拠る日常的発見こそが理念型の理想主義とか正義とか倫理に対して待ったをかける事を時として可能にする。だからこそ価値とは実践的で自由なものであり、アナクロニスティックな集団同化幻想に拠る自己犠牲へも発展し得るも、理念だけで全てを履行する際に伴われる四捨五入的な切り捨てに拠って失われるものへの価値再発見も促す。
 要するにある種の社会正義とか常識の教条性への謀反をアウトロー的に意識革命する部分の精神とは個人の愛着とか、日常的習慣に拠って形成されている個人的行動パターンとか日常的生活の個人的理想と言った行き着けの居酒屋から好みの散歩ルート迄含む個人にとっての価値それ自体である事が多いものと思われる。そしてそれを失っている事は社会全体を全体主義とか唯理念主義へと退行させていく危険性と常に隣り合わせである事を我々は歴史から経験的に学んでいるとも言えるのだ。
 今回の論旨を纏めておこう。
☆倫理とは常に正しいとは限らない。→倫理が持つ教条性への懐疑(歴史から学んでいる我々の経験的判断)
☆宗教倫理的な伝統的思考の持つ陥穽への着目→結果、価値(value)=行動規範(action normativity)とは倫理それ自体とはずれる。
結論的に、価値とは最終的には自己に拠る価値であり、行動規範とは自己固有の行動規範である(それは集団同化や烏合の衆への批判的眼差しを形成する)。
 価値(個人に拠る価値判断)とはpragmatic、practical、concreteであり、symbolic、notional、abstractではないという事である。

Saturday, September 15, 2012

第四十一章 価値と判断Part2

 価値は常に偏見と隣接しており、相補的でもある。それは感動と残酷が隣接しており相補的であるという第二章 価値には悪も含まれる で述べたことである。
 つまり価値自体が既に偏見を含んでいるのだ。それは価値が偏見と結託して共犯関係にあることを物語っている。
 ある人間が正常であり、健常であるということ自体が既に別のある者が異常であり障害を抱えているという認識ともなっている。これは初歩的な哲学的真理だ。
 例えば日本では精神科医とは医師免許があれば誰でも開業も出来る。しかし麻酔医だけは別の資格を要する。精神科医とは一日中精神疾患とセッションに明け暮れている。そういった職務から彼等以上に精神的に困憊する医師はいないであろう。それはフィジカルな面で治癒に当たる外科医や内科医とも本質的に違う。
 従って精神科を訪れた人なら誰しも感じることであるが、精神科医とは精神科で診療してもらっている時にだけ人間味がある様に思え、それ以外の日常で彼等と対峙した時、こちらが精神的病を抱えていることを知ったなら、一番差別的眼差しを注ぐ。つまり彼等は日頃から精神疾患ばかりを相手にしているから、彼等を日常生活では警戒しているのだ。
 これは検察官が被疑者に対して対等な人間として相手を扱えないのと同じである。或いはもっと極端に言えば死刑執行ボタンを押す公務員がその瞬間には死刑囚を人間だと思わない様にしているのと同じである。  
ある精神障害者が障害者となるのは、端的に障害認定によってである。それは最初にカルテを書いた医師の裁量に拠る。医師という職務は自分のところに診せにきたクランケに対し、前にかかりつけの医師があった場合、そのカルテを見たいと望む。従ってどの様なタイプの疾患者にとっても医師から見れば治癒対象でしかなく、そこに心の交流はない。これは真理である。何故なら、そうしなければ彼等は職務を遂行出来ないからである。
 各種依存症の人も全く同じである。彼らも一旦精神科の門を叩いたら、再依存率という統計的データの餌食になる。中には完全に依存から脱した人もいるだろうが、そういった人達も再依存率の網の目という偏見から自由にはなれない。  
これは統合失調症でも何でも同じである。或いはもっと分かりやすく言えば犯罪者となってしまった者が刑期を終えて出所しても尚再犯率というデータの網の目から自由にはならないということである。これは保護観察などの制度からも語られている。
 これ等は一重に統計的数値データ主義という科学主義の神話に拠る。科学的データの信憑性こそが人をデータ的な対象としか見ない習性を彼等に与えている。
 前章でも述べた様に所轄の警察ではそれぞれ固有の不文律があり、たとえ憲法や法律(特に刑法)に遵守していたとしても、極めて微妙な判断は全て個々の警察官に委ねられている。その時々での警察官の気分から職務質問から逃れようとして(別段悪いことをしていなくても)逃走する者を追う警察官は逮捕特権がある。公務執行妨害という名に於いてである。
 これは個人レヴェルの裁量権であり、要するにその時々での警察官(彼等も人の子である)の気分に委ねられている。青年警官などは前日に恋人と喧嘩してむしゃくしゃしている時には、厳しい眼差しで一般市民を監視する眼差しに変貌するかも知れない。
 個人レヴェルでなくても集団組織レヴェルでも気分というものは大きく左右する。ビートたけし氏が「テレビタックル」で述べていたことらしい(又聴き)であるが、自分が税務署の批判をテレビですると途端に税務署員が彼の自宅を調査しようとするということらしい。つまり集団組織レヴェルでも何となく虫の居所が悪いと、そういう決裁になっていくということは充分にあり得る。これは大阪地検特捜部の書類改竄と証拠隠滅事件でも明白ではないだろうか?
 警察などは特に一斉手入れとかをすることがあるが、これなども警察組織全体のその時々での一般市民からの警察への眼差しに影響を受けた状況的な気分に左右されている。今の時期これこれこういうことは少し取り締まろうという決裁は全て警察上層部によってのみ委ねられている。顕著な例が風俗営業法に関する取締りである。
 精神科医は科学的データ主義の神話に拠って、警察官や警察組織は個人や集団レヴェルでのその時々での気分(世論からの彼等への期待などもそうである)で偏見を巣食わせながら彼等固有の価値観を構築している。
 これはアーティストが一般市民よりも反体制的考えを抱きやすいということにも言えるし、文学者がモラル的にアンチ的生き方をする人を称揚しがちであるということにも言えることである。これ等は一重に職務とか職業的行為性格的な習慣が齎す固有の思考法に拠る。つまりそういった行為習慣による思考法とはある固有の方向へと傾きやすいのだ。これこそが偏見を巣食わせやすいことなのである。従って価値観とは端的にその人に固有の偏見と共生していると言うことが出来る。

Sunday, September 9, 2012

第四十章 価値と判断Part1

 マスコミは今年新たにプロに仲間入りした野球選手から、ゴルフの選手にしても、離婚した芸能人でも全てイケメン面、イケ女面にだけ焦点を当てて報じる。それが「俗がある」ものとして前提された社会の実相である。イケメンもイケ女もそのことをロールプレイングとして意識しているし、それを追っかけるマスコミもロールプレイヤーである。
 しかし本質論とは常に俗とは別地点にある(或いは我々自身でそう思うことにしている)。それを知っていればこそ俗はいい意味で保たれる。俗が俗として生存し得るのは、世界が清いこと、我々の脳内で思い描く理想とは別地点にだけ実在や実存があると我々が妙に真理論的に、公理論的に納得しているからである。しかしそれは当然である。一人一人の脳内に思い描かれる理想や理想的世界とは必ず個々でずれていて、それを統轄することは実質上不可能であると皆知っているからである。
 この世界には多くの障害を持って生まれる、或いは後天的に障害を背負わされる人達もいる。しかし障害が一体何処から何処までなのかという判断は常に恣意的である。時代的にも地域・地方毎にもそうであるし、認定者の裁量や個人的見解に於いてもそうであるが、実際は逮捕される時は何らかの個人的決裁でそうなるのだし、病院に入退院することも全てそうである。身体的・知的・精神的いずれの障害認定もそうである。
 我々は仮に一つの障害が何らかの形で克服されても、その障害の克服から生じる新たな難題に直面するだろうし、仮に一切その障害が生涯克服されずにいたとしても、その事実と現実自体への受け入れに対する難題が待ち構えている。
 だから社会で各大学で毎日頻繁に行われているワークショップやシンポジウムが学的な純粋培養主義なのは、法律セミナーやアーティストやミュージシャン、デザイナーの養成機関の教育方針が純粋培養なのと同じ理由に拠る。それは端的に医療の現場でも教育の現場でも法曹界でも画壇や画商の世界でもCD制作業界でもウェブデザインの世界でも何でも社会が、或いは世界が俗でしか運営されていないからである。
 それは行政に於いても障害者として認定されるとか、前科のある人として認定されるとかのレッテルづけ、要するに名指しによってある個人のアイデンティティが明確な形を示されて、それが社会で通用してしまうという運命的事実に於いても立証される。
 ある警察組織の末端である所轄区域では伝統的にある犯罪に対しては他区域と違って目くじらを立てるということはあり得る。各地域、地方毎に微妙に不文律は異なる。するとそういった地域、地方には固有の社会的判断が成立する。それはある行為事実に対して、それは犯罪にまでは至らないという決裁と判断が成立する臨界点が各地域、地方毎に微妙にずれ込む。そこに当然時代性も混入する。するとある時代の犯罪は別の時代に於いては美談とか正義になり得るし、逆にある時代の正統的行為は別の時代にはモラル論的非常識となり、犯罪にさえなり得る。
 それはある行為事実への判定に於いても精神異常であるか否かの判断にも直結する。そしてそれらの総括的事実世界に我々は直観的にあざとい。であるが故にせめてワークショップやシンポジウムに於いては純粋培養を標榜するのだ。
 俗とは地域や地方での不文律と、その中を掻い潜って我々が生活していかざるを得ない現実の強制に対する暗黙の容認、それは当然その現実を我々が変えていくことが途方もないことであると予め予想し得るし、だからこそそれをおおっぴらには公言し難いという心理に根差す。
 それは端的に人間社会がどの社会でも出世競争社会であり、その勝利者と敗者が常に共存しているが故に、管理職的成功者の目線と、その目線自体への批判をも含め上から目線と、管理される立場の下から目線との共存に於いて、その共存事実自体を俗と受け取る我々のもう一つの目線が、安易な批判とか安易な共感、反感を表明し難くしているのだ。
 この二重の目線の交差は権力者、非権力者、管理者、被管理者、それらいずれにも属さないタイプの成員全員が持っている。つまりある部分では権力者ほど非権力的である。それは弱者性に於いてそうである。或いは被管理者でも出世コースに乗り将来が約束された立場の人とそうでない人の間にも落差はある。又その様な約束された将来自体も出世コース、非出世コースとの間に内実的に然程の落差はないとさえ言い得る。 
 障害に就いて触れたが、障害自体を少年少女期から携えている人や青年期から携えることとなる人以外の全ての社会成員はいずれ身体障害を老いという形で背負わされる。或いは精神的にも死への恐怖や不安に苛まれる。
 その点に於いて各個人間に差別はない。この非情なる無差別性こそが生や性の実相である。
 確かに障害者というレッテル、前科者というレッテルは生涯付き纏うかも知れない。しかし全ての何らかの形でのレッテルに於ける当事者達は、そう名指されることで、外部と緊密に連絡を取り合えるとも言える。或いはそういったレッテルの一切ない者は、その一切のレッテルづけの拒否とか社会全体から見忘れられているという事実に於いてレッテルを頂戴している。そこにはあるレッテルを生じさせる社会的要請が何らかの形で作用してレッテルとして機能せしめられている事実自体が、我々は固有の価値を常に設定せずに生存し得ないことを物語っている。そしてその価値と価値に包含される内容の選択と設定という判断が常に各自に委ねられている。
 つまり権力者であれ非権力者であれ、当事者性としては常に単一であり、その逃れられなさに於いては平等である。或いはこうも言える。俗受けすることを狙うマスコミが一般大衆という完全に各自の意識に於いては不在な対象に向かって放つメッセージの杜撰なクローズアップ性、つまりこれ見よがし性は、そうされることに常に忸怩たる思いを抱く成員にとってさえ、自己保身的なステイタス保持にはなくてはならないものなのである。
 それが俗が一方で存在し得ることで自己を非俗的位置に押し留めることを可能化しているのだから。
 当事者の気持ちが理解出来るわけがないと決めてかかっている者がいたとして、それに対してそれではいけないと言い放つ者と、言い放たれる者、つまり障害者とか非差別者に対して、障害認定や差別実態への告発であるとか、社会参入と社会復帰というリハビリテーション自体の存在理由が一つの大いなる差別であると捉える者と、否それは違う、やはり何とかその当事者とそうでない人達との間の壁を突き崩す必要性の主張は真っ向から対立している様で、実はそうではなく相補的であり、相互依存的である。或いは何らかの当事者であること自体が、その当事者ではないという事実に於いて、全て何らかの形で何かの当事者であること自体が、どの世界で名指されカテゴリー化されるかということで、内部と外部を各自に認識される段で既に俗と純粋培養との間の相補的締結、取引が成立している。
 ある時はある事実が俗となり、しかし同じそのものが別の時には純粋培養的対象と見做される。その逆もまた化なりである。最初から資本主義社会の競争原理に晒されているある行為が逆に極めて聖職的なこと、或いは純粋社会福利厚生的原理の名の下で理解されることもある。そもそも法曹的現実自体がそうであったし、教育現場もそうであった。
 教育も法律的決裁も、一定の俗的現実が純粋性と峻別される以前的には無法状態と、無教育状態が存在した筈なのであり、だからこそ三十八章でのドライヴァーとしての快に於いて我々はアウトロー性を蘇らせているのである。それはインターネットやツイッターやブログ、フェイスブック、WikiLeaksなどの利用に於いても、権力者も非権力者も無力で平等である利用実態からしてそうである。
 しかしドライヴァーの快はドライヴァーとしてのポジションを獲得している者、或いはそうしたいという欲望を抱く者にしか訪れない。
 ユーザーの快が非ユーザーにとって快不快の規準になり得ないということでは、テニスに関心のある者にとってのウィンブルドンの動向も、ゴルフに関心のない者にとっての全米オープン、全仏オープン、全豪オープンとかの動向も、サッカーに関心のない者にとってのワールドカップやアジアカップの動向も無関心者にとって<存在しているのに存在していないのと同じ・性>で世界の大半が埋め尽くされているという事実があり、その意味で全人類は平等である。だからある者が被差別者であったとしても、その差別は別の世界では成立し得ないし、ある者がある世界で優位にあり、権力や管理義務も遂行権や決裁権があったとしても尚、それはその世界に於いてのみである。そういった一個一個のコミュニティの価値が犇き合っていて、林立していて、隣接していて、或る一個のコミュニティに帰属していたり、参加していたりする事実は一重に単なる偶然でしかない。それは全ての世界で平等である。出会いと別れの偶然性に於ける徹底的平等が世界の実相である。
 これはある意味では極めて低次元の俯瞰主義かも知れないが、紛れもなく真理である。従って差別する側もされる側も、それは差別しながら差別され、差別されながら優位に立ち、その言説的な名指し、レッテル付け自体の持つ意味合いは狭いコミュニティでの止むに止まれぬその時点での判断にしか過ぎない。
 ここに価値に参入すること、つまり一個のコミュニティに帰属、参加、参入、参画すること自体の偶然的出会いとそれを一定期間永続的に持続することの判断と、その判断を誘引する価値認識ということに於ける世界の平等的均一性がここに持ち出される。Part2ではその価値認識を誘引するものとは何かに就いて考えてみたい。

Friday, July 20, 2012

第三十九章 俗とは何か?俗としての価値

 我々はある部分では俗なものを常に共存させ続けてきた。つまりそれを「そういうものがあってもいい」という形で。しかしこれはある部分は上から目線的発言である。いやそうではないかも知れない。何故なら我々は一個の人格の中に上から目線であることと、下から目線であることの二つを常に共存させてきているからである。
 若手プロスポーツ選手の誰それが年間ギャラランキングで一位を取ったこととか、有名芸能人同士の結婚のニュースが週刊誌や写真週刊誌やワイドショーネタになる一方そういったことには一切無関心なエリートとかインテリたちは実はそれらの大衆ネタ的情報が飛び交っている現実自体を歓迎しているのである。何故ならそれらがなければエリート階級とかインテリ的知性が差別化され得ないからである。
 日経平均株価や東証株価に一喜一憂したり、自社株とか個人所有の株価の推移に一喜一憂したり、株式市況ニュースや日経新聞を、目を皿のようにして眺め入るビジネスパーソンたちにとって寧ろそういった一切のビジネスサークル的現実外の大衆マスコミネタに一喜一憂している大衆という存在(実はそれ自体が最も実体があるようでいてない存在でもあるのだが)を一方で積極的に必要としている。つまりこういうことだ。俗っぽいこと、スポーツとか芸能ネタとは端的にそれを軽蔑しているインテリ層やら、それらは大衆のニーズであるとして上から目線でそういった一喜一憂を見守り、その大衆の安寧を祈願するようなタイプの管理者たちにとって積極的に自己の優越性を大衆に対して誇示するために必要なアイテムなのである。
 もし仮に毎日多くの購読者が目にする新聞のトップニュースが常に論理学や言語学、哲学などの最新情報であったなら、概して学者一般はおまんまの食い上げである。あるいはこうも言える。全国に放映される全てのニュースのトップニュースが常に株式中心であり、全てが企業経営者とか株式投資家のための内容であるなら、率直に言って彼等の存在理由はなくなるのである。時にはあまり極端に悲惨なニュースも深刻な経済状況は政治状況のニュースのない時には昔活躍したマスコミで著名な人物の訃報がトップニュースになったりするからこそ、経済通とか専門家がその存在理由を保持し得るのである。
 だから俗とは実は俗な内容のニュースソースに一喜一憂するような大衆のためにあるのではなく、端的に管理者層、中間管理職層、経営者層、あるいはインテリ層のためにあるのである。その証拠に俗なニュース自体に対して最大のアレルギー反応を示すのは今列挙した層に属さない普通の市民たちだからである。一般の市民たちの大半が自分自身は大衆であるとも、庶民でもあるとも一切考えてなどいはしない。つまり彼等は自分自身のことを大衆であるとか民衆であるとか庶民であると上から目線で見られることを欲するわけがない。もし自分自身で他者に「私のような庶民は」などと言辞したとしても、端的にある種の社交辞令的建前主義的慎みというマナーにおいてであり、真意ではないのだ。それはその人間の本当の資産とか経済力とは一切関係のないことである。それらは自己本位を巧妙に包み隠すこと自体を美徳とするようなタイプのある種の儀礼的慎ましさの表示行為でしかないのである。それをそう儀礼上言われる立場を人間の不文律的に心得ていなければならないというところにある種の現代都会人的儀礼上の建前的自己欺瞞がある。
 俗とは俗ではない自分を各個人が発見するために設けられたマスメディアを、そういうものを流通させる存在としてマスコットのように存在させる我々全ての現代人的存在者にとっての必須のアイテムなのである。それはそういう風に常に自分とは無縁のものとしておくためになくてはならない子飼いのアイテムなのである。