セザンヌ 牧歌 1870

セザンヌ 牧歌 1870

Sunday, January 10, 2010

第二十四章 価値とは判断の固定化と同意を他者に求めることである

 ここで価値の発生論として一つの結論が出たように思う。それはつまり価値とは判断そのものを固定化しようとする試みによって成立するということ、そして価値の固定化とは必然的に他者に同意を求めることであるということである。価値自体はある意味ではかなり固定化されてはいるものの常に絶対ではなく変更可能性を含んでもいる。従って常に価値であるためには他者間での同意が必要だし求められてもいる。価値が価値であるためには、必要な手続きがあり、またそれを経たものであるなら同意せざるを得ないということでもある。同意すること自体があるものや行為を固定化された価値の下で見ることを意味するからである。価値が客観性を有しているのは、同意することを通してそれが真理普遍化されるからである。価値とは従って常に先験的なことではない。それは形成されるものである。ある行為が美徳があり、他者間で共有されるだけのものであるということの価値はそれ自体真理普遍化されて然るべき性質を有していると考えてよい。
 しかし何故そのように判断を固定化されなければならないかと言うと、それは一重に判断とはその都度のフィードバック的な反射的行動であると同時に、その都度いつ何が来てもおかしくはないということから来る構えだからである。しかしある部分では常に流動的ではない形ででも何らかの習慣的な到来はあり得る。その習慣的到来において私たちはそれに対する固有の構えをすればよいのだとしたなら、それはフィードフォワード的な構えであると言える。つまりそのような固有の構えをその都度の反射的構え以外にも所有するということは、常に固定化させずにいることをある部分では放棄した方がよりスータブルであるということを意味し、そこで価値として固定化された状態を私たちは望むこととなるのだ。従って価値による判断の固定化とは、そのように固定化された形で概ねは巧くゆくということを意味しても、必ずではなく例外も常に存在し得るということの表明でもあるのだ。そしてこの概ねそれに付き従っておればよいのだが、時としてそれでは巧くゆかないこともあるという二つの事柄に対する同意が価値には常に付帯しているということになる。つまり固定化されているが故にスータブルであることと、そうであるがために障害とならないようにするという二つの相矛盾する真理の同居こそ価値に付帯する条件である、ということになる。
 だから価値とは常に相対的であるということだ。それは絶対ではないということを意味する。しかしそれだからと言ってそれはどうでもいいことなのでは絶対になく、やはり固定化されて然るべき性質のものである。そしてそのために一定以上の同意を常に他者間において必要であり、しかしその決定には変更可能性を常に含ませておかなければならないのである。真理普遍化されていくべき資格が価値には確かにあるが、同時にそれは変更可能性も含んでいるということだから、必然的に価値は真理そのものではない。しかしそれは真理ということであれば何も問わずに問答無用であることを意味しない。そもそも価値自体に恣意的に変更可能性が求められているわけだから、真理でさえも翻され得る余地が常に残されていなければならないということを価値の相対性は訴えている。
 つまり価値とはそれ自体が存在を賭けて真理が限りなく絶対に近いものの、絶対と言うことが何にあってもそうはあり得ないし、また真理であってさえ絶対であり得なさを念頭に入れておくために求められているものであり行為であるということである。つまりそのためにこそ強制ではなく他者間の同意であるべきなのである。つまり主体的にそれを待ち望むということにおいて価値には固定化された判断であり、判断し続けることに対する保留の意図があるのである。つまり他者の同意ということにはそれが絶対ではなく常に相対的な固定化であるという意味合いがあるのである。しかし勿論価値が価値である意味においては、それは概ね正しく、概ね信頼出来るということでもあるから、しかしそれでも尚そこに絶対間違いはないとは言えないと敢えて価値自体が自己に対して主張することを通して真理の絶対性に対する無自覚で安易な依拠を未然に防止するような意図が価値にはあるのである。それは恐らく自然物理法則から人間にとって最高のモラルであれ、何であれ例外などないということでもある。勿論だからと言って真理自体が価値の最高の水準において君臨していることには何の変わりもない。
 要するに諸価値という信頼に足ることと、真理という概ね絶対的事実とのコンビネーションを維持していくために常に存在自体にも誤りはあり得るということの内に、他者間の同意が必要であり、しかもこの場合他者と言っても、その同意がありさえすればほぼ完璧に近い判断が下せるという意味で求められているものなのだ。つまり存在とは思惟可能である存在者を必要とする、つまりたった一人でも存在者が存在することによってのみ存在が存在である、つまり意味化されたもののミニマルなものとして存在が規定し得るということである。そのためにこそ存在自体さえ誤り得るという一つのほぼ絶対的真理において、私たちは他者間の同意を必要とするという意味で価値自体が他者からの同意を常に求めるということが価値自体を出来る限り誤りから救う只一つの方策であると言える。

Sunday, January 3, 2010

第二十三章 価値と魅力

 そもそも私たちの祖先は何かを得るための貨幣を生み出したのだが、貨幣を必要としたくらいには欲望が全ての生存している市民にとって等価なものとして存在するということを認可していたことを意味する。そして価値自体が魅力を生み出したのか、それとも魅力があったからこそ価値がそこから見出されたのかということ自体も一つの難問である。
 つまりある行為、ある事物、ある存在するもの全てには何らかの存在理由があり、だからこそ行為として事物として存在するものとして把握されてきているのだ。価値自体はそれが存在理由を保持しているからこそ価値なのだが、価値があるとしたからそれが魅力的に映るのか、それとも魅力的であるものを価値としてきたのかということを一つ考えてみよう。
 価値であると何かを規定する時明らかにそれが認識上で、それ以外のものよりも良い筈であり、あるいはそれ以外の行為では、方法では適切ではない、つまりそれこそが適切である、理に適っている、存在理由があり、意味があると思っている。またそう思えるからそのものや行為は価値があると考えることが出来る。一方そのように意味があるし、行為やもの自体が魅力的に思えるから価値があるとも思う。勿論その魅力的であることは、誰にとっても正当であると思える魅力から、きっとそう多くその魅力に気づくことなどないだろうと宛ら思えることの両方があるだろう。すると魅力には価値と規定されることによって醸し出されるという側面があると同時に、先験的に魅力あるものや行為に対して価値付けていくという私たちの規定の仕方があることになる。
 価値として規定されるということの内には自分以外の他者がそこに絡むということが言える。規制の価値を信用しているわけだ。それに対して魅力あるものを価値付けていこうと言う時そこには主体的に自分から働きかけていこうという気持ちがある。故に前者は幾分権威主義的な見方も加わる。しかし後者には権威にしていこうということでは権威主義であるが、予め他者によって権威づけられているわけではないから、信用という形で意味づけているのではない。自らの感性に忠実である。
 しかしこの二つの捉え方は常に相手との間で相補的である。何故ならあるものや行為自体が、自分にとってもそうだが、他者にとっても存在理由を問えるものだからである。所詮我々が自分と言う時明らかに他者を前提にしているし、他者と言う時それは私たち一人一人の自分にとってのそれでしかない。だからある時には価値だけ共有し合えるということがあり、一方魅力に関しては個々違いがあるに違いないと誰しもそう思う。つまり誰しも他者は自分と同じように規制の価値として信用出来るものや行為と、自分自身で価値があると思えるものに対して魅力を感じ取っているのだろう、と思うのだ。
 するとあるものや行為における魅力が価値があると思えるということとは常に自分にしか理解出来ないかも知れないが、それがかなり可能性としてある場合、少数ではあるが、自分に対する同調者を求めることになるだろうし、一方既にそれを認可している者が大勢いるだろうとする価値に対して、それはそれで認めておこうという考えの下で、自分を前者に関しては魅力があるので価値があるとし同調者も求める心理になり、後者に関しては価値があるから魅力があるする。故に必然的に価値と魅力の関係は前者の自分で思えることを少数かも知れないが、同調者を探す中で自己を形成するということと、後者の他者に対して自分を位置づける自己を自分ではどう思えるか、つまり他者全般が価値と認可したものや行為をそのまま受け入れるか、それとも自分は別の価値を内的には追求するかということにおいて、自分を自己と他者の関係に組み込むということが成立する。つまりそのような内的心性を実現するものとして価値と魅力の二項は利用されている、ということだ。
 価値自体に魅力がある場合私たちは幾分他者全般の意見に対して配慮しているということと同時に、その価値自体を容認している自分を他者全般に同化させているという実感を得ることが出来るが、そういった価値を知る以前に自分でそのものに魅力を感じ取っていたということであるなら、魅力があるので価値があるのではないかと考えていたら、既にそれは他者全般によって認可されていたものとか行為だったということが多く、逆に価値があると認可されていた筈だと思っていたが、実際には誰によってもそのように認可されているということをいつまで経っても知ることが出来ないようなものや行為に対しては、私たちはそれが既に公認済みであると思っていたのにただ自分だけが惹かれていることを知るということになる。
 だから価値があるとされていても、それに納得出来ないとか実感し得ないということがある一方、逆に魅力があり価値があるとしたいのに多くの自分以外の他者はそれを容認していないという状況もあり得る。前者の場合どこかで価値一般に対する世間の風評に対して抵抗の意欲を促進するし、後者の場合自分の判断の正当性に対して他者全般に対して主張したいという欲求を促進する。だからこそ価値にとって魅力が価値を価値として自分の内的世界において認可することにおいて重要な役割を演じ、逆に魅力にとって価値はそれを魅力あるもの(私がものと言う場合それは存在する者も含まれる)や行為であると自分にとって思えること全般に対する正当性の認可を求める自我的、自己主張的指針ということになる。

Thursday, December 10, 2009

第二十二章 貨幣が生み出された瞬間人類の価値は魅力に取りつかれた

 私たちは商品を買う場合に殆ど二秒でそれを決めていると言われる。つまりその商品選択基準とは理性とか合理性とかではなく、あくまでもその商品に惹かれるということであり、魅力に惹きつけられているということ以外のことではないのだ。そもそも貨幣経済において何らかのサーヴィスを得るということから、魅力的な商品を購入するということに至るまで我々は心地よく騙されたいという心理が消費者の側にもあり、また生産者とかメーカーは挙ってそのように心地よく消費してしまうような魅力を商品に付帯させることを心がけるのだ。つまり魅力ある商品、魅力あるサーヴィスを得たいという欲望が価値となっていったわけである。
 私たちは貨幣を通して欲望を買う。これは欲望自体が生きていく上で必要であるからだが、その欲望を満たすこと自体に魅力を感じているからである。しかし貨幣はそれを通して何か特定の欲望を得るために必要ではあると考えていてもそれ自体に価値があるわけではないということを私たちは本質的には理解しているし、貨幣を通して得る全ての欲望も、その欲望自体が価値なのではなく、例えば食事をすることは、生物学的に私たちが生存するために必要であるという意味で食物に価値があるということと、食事を誰かと共にするということに価値があるということの双方から理解している。あるいは食事はそれを取ることによって明日以降の未来において生活する活力となるという意味で価値があると理解している。従って欲望はそれ自体に価値があるのではなく、その欲望を満たすことによってその先に何か行動するために価値があると考える。
 つまり食料を買うために必要な貨幣を、何らかの労働の対価として得ることを通して社会生活を営むということから利用することを通して社会秩序へと同化し、資本主義社会に賛意を示しているのだが、その賛意はそうすることで欲望を満たすことが自然であり、それ以外にいい方法がないことへも同意しているのである。そして消費すること、欲望を満たすために買い物をし、貨幣を支払うことによってお茶を飲み、映画を見たりすることを私たちは選ぶ。行為を実現するために貨幣を使用することを自然なものとして認識している。つまり消費することが食べて生きていくこと自体なのだということを知ることによって消費すること自体が魅力を伴っているということを知ったからこそ、労働へと勤しむわけである。つまり労働は労働の対価として得る報酬によってその報酬たる貨幣によって消費し、食料を取ること自体が魅力ある欲望であると我々は知っているから、労働するのであり、労働自体に価値があるからであるよりは、欲望を満たすことが可能であるから魅力があり、魅力があるから価値があるということになる。つまり欲望それ自体をも、その欲望を満たす行為が魅力的であるからこそ価値を付与しているのだ。貨幣はそれを実現させてくれる最大のツールなのだ。しかし料理はそれを作るための素材を得るためには貨幣が必要だが、後は工夫である。料理は味そのもののクオリアを得るためになされる工夫である。その工夫は、食事を取ること自体が欲望を満たす最大の魅力があるからである。
 つまり最大の欲望である食欲を満たすこと自体が魅力的であるからこそ、一人で飯を食っても、誰かと食ってもそれが楽しいのだ。それを実現させるために我々の祖先は貨幣を発明し、その貨幣を求めるために労働するようになったのだ。
 しかし欲望を満たすために貨幣を得ることが必要だった筈なのに、いつの間にか貨幣を得ること自体が魅力となってしまうことも人類は体験してきたのである。つまりそれを使用することによって欲望を満たすことが魅力であったのが、いつの間にかそれを得ること自体が魅力ある欲望となっていったのだ。それは社会がそのような行為の連鎖を意味あることであるとしてきたからであり、またその社会を作ってきたのも我々なのだ。それらの行為の連鎖が産業革命を起こしたのである。
 しかしそこには人間の生活実現というレヴェルでの不在感があった。そこで人間は哲学し、再び生活実体の方に目を向け始めた。貨幣とはそれを有効に利用して本来の欲望を満たすこと自体に価値があるとしだしたのだ。価値とはそれをすること、そのものを利用することが楽しく、快楽があり、魅力があるということから、与えられてきたものでもあるのである。それは映画や演劇やスポーツを鑑賞したり観戦したりして得るものでもあるし、食事そのものの味や行為が魅力あることであるという意味で価値があるとそれぞれに付加してきたのだ。ここで価値とはそれ自体に魅力があるということから与えられるということだけははっきりした。

 付記 本ブログは来年(2010年)正月明けまで休暇致します。またお会い致しましょう。(河口ミカル)

Tuesday, December 8, 2009

第二十一章 スキャンダルな出来事を起こした人たちこそ最も私たちの好奇心を煽ったという意味では価値がある

 ここ数年の間にも堀江貴文氏や守屋武昌氏、酒井法子氏といった面々こそマスメディアを最も賑わわせた張本人であり、つまり彼らの存在抜きにある時代さえ語れないという意味ではイチローのような本格的にポジティヴなヒーロー以外では彼らが最大級の貢献をある時代にした、と言っても決して過言ではない。つまり彼らをネガティヴなものとして批判していた学者、文化人、コメンテータ、司会者などに比べれば彼らが存在したからこそ、世相において我々は自分たち自身の社会に対する見方に対して反省材料を得たとさえ言い得る。その意味では私は彼らに対してこそ裏の国民栄誉賞を授けたい。
 つまり何も一切人々を楽しませたり、独創的な行為をしたりしなかった人たちに比べれば彼らの存在の方に遥かに存在理由があるというだけで偉大である。つまり事件を起こしたとしても、それが無名の市民であったなら私たちはニュースになっていることに対して話題にもしなかったであろう。価値というものはそのように懐疑的に見なければいけないものなのである。
 概して日本人は穢れを嫌う感情があるから、自然主義と言った時そこには哲学は不在である。しかし通例欧米社会では自然主義というものは常に懐疑主義と隣り合わせなのである。このことが極めて重要なのだ。
 つまりスキャンダラスであるということ自体が既にその真実の姿がそれまで、つまりスキャンダルになるまでは巧妙に隠蔽されてきた、ということを意味するから、あるいはそれらの存在を偶像として崇拝してきた、つまり大衆であれ、同業界における関係者であれ少なからず彼らの存在自体を称揚してきたからこそ、その期待とか、崇拝行為が裏切られたという形でスキャンダラスであるわけだから、必然的に彼らの存在自体が実はそう安易に偶像を崇拝してはいけない(まるで聖典の謂いのようである)のだと、つまり安易に或る人格を特別ものとして別格視してはいけないということを悟らせてくれるという意味からだけでも存在理由が大いにあると言い得るのである。その他にも薬害エイズ訴訟問題など幾多の問題があったが、それらに比べると、今挙げた三人に私たちは極めて巧妙に騙された、と言うより彼らを尊崇の対象としてきた周囲の事実に決して批判的ではなかったとだけは言い得る。つまりそれだけ彼らの存在があまり簡単に偶像を作り上げてはいけないという風に自戒の念を持たせるために役立っているのである。つまりアイドル視する我々の通俗的心理自体が常に理性と隣り合って存在しているのだ、ということを覚醒させてくれる意味で彼らの存在は大きいと言える。
 もし私たちの社会に一切のスキャンダルがなかったとしたのなら、私たちはそういう社会において何か時代を振り返ることが出来るだろうか?世相というものを感じることが出来るだろうか?無理だろう。私たちは彼らに共通した存在自体がスキャンダラスであるという事実に寧ろ積極的に魅力を感じてしまう、つまり彼らを一定の厳しさを込めて糾弾したり、批判したりすることを世間体的に行いながらどこかで忘れ難いというイメージを彼らに付帯させてしまうのであるが、実はそれこそが魅力というものなのである。魅力とはたとえどんなにポジティヴなものであっても、必ずどこかでは<やばい魅力>と接点があるのである。従って我々は価値と言う時倫理的に正しいというものに対して果たして「だからこそ最大の価値だ」と言い切れるだろうか?そうではないだろう。つまり常に正しいだけのものには実は一遍の価値もないということを誰しもどこかでは了解しているのである。
 つまり魅力自体が内包しているある種の<やばさ>つまりデカタンスこそが私たちにとって尊崇する対象に付帯するイメージとして価値的に捉え得るものなのである。
 それはただ健康的なだけの要素に取り囲まれて生活すること自体へと抵抗とか反発心といったものが私たちには生来から備わっているからである。例えば異性とも一切付き合わない、あるいは酒やタバコの類も一切しないというようなタイプの成員に果たして我々は魅力を感じ続けることが出来るだろうか?それもそうではないだろう。
 そもそも資本主義社会、自由主義社会に付帯する自由のイメージには偶像崇拝的気分をどこかで持ち続けそれ自体を精神的な活力剤にして生活に潤いを持たすということは性格上必然的なことなのである。しかもその偶像とはどこかで人間臭さを必要とされている。つまり最良のものとは常にどこかで悪とも隣接している。だから一歩踏み誤って品行方正な偶像が過ちを犯すということは必然的なことなのである。だから本質的にスキャンダルな報道をして視聴率を稼ぐ学者、文化人、コメンテータ、司会者といった人たちは彼らによって食わせて貰えているという意味ではスキャンダルな事件を起こす大物の存在へ感謝の念を持つべきなのである。そしてスキャンダルとはそれが不在であると退屈であるから時代毎に私たちは恣意的に発見してきてさえいるのである。それがないということは退屈であり、それは時代精神が希薄であるとさえ我々は実は密かに思っているのである。

Sunday, December 6, 2009

第二十章 個人の行動の自由と犯罪、社会自体の在り方の価値

 端的に麻薬、売春といったことはそれ自体憂えるべきことかも知れないが、もしそういった一切の犯罪を抑止することだけを至上目的とするのなら、いっそ資本主義社会、自由主義社会を全面的に撤廃するしか方法などない。端的に北朝鮮のような国家では国家が国民一人一人の行動の自由を保障していないのだから、逆に行動の自由の行き過ぎによる犯罪も起こり得ようもない。従って一切の自由もない。全てを統制的に国家が管理しているからである。だから我々資本主義陣営の国民にとって覚醒剤とか売春、買春といったものがたとえ憂えるべきものであったとしても、中国のように麻薬を所持しているだけで死刑に処せられるという現実自体にはある種違和感を抱かずにはおれないだろう。
 だから生真面目一本のイメージである経済学者が痴漢行為をして地位を失墜したり、清楚なイメージが売り物のアイドルタレントが覚醒剤で逮捕されたりするようなニュース自体に一喜一憂するような社会世相自体は未だ国家によって全てが管理されるような状態からすれば如何に憂えるべき状況であっても救いがあるのである。
 端的に殺人をも含めた個人の激情やら個人の自由放埓への貪婪な欲求によって引き起こされる犯罪の全てが仮に発生し続けていたとしても、それら一切の犯罪が起こり得ようもない社会が存在することに比べたら未だそれらの方がずっと好ましい状態である、と判断してもよいのではないだろうか?
 確かに自由主義経済が金銭的経済力を主軸とした勝敗やら、格差を極端に生み出し、賄賂などが横行していくこと自体は確かに憂えるべき事態であると言えるが、それでもそのような社会には未だ公正であるとか、不公平に対する権利主張とか、社会全体の弱者に対する保護を主張したり、あるいは新たな起業の人材を発掘したりするような気運を生み出す土壌自体は確保されていると言ってよい。しかしもし仮に一切のそのような投機的行動を慎む一切の競争の不在な管理統制経済、管理統制政治しか成立しない社会であれば、それこそ人間精神は自由も創造性も一切が失われるだろう。
 だから最年少の年齢で首相に着任した人が一年程度で政権を放り出したことで国民がその後の与党の成り行きに憂えたとしても、尚完全独裁国家であるよりは遥かにましである、とそう考える人の方が多い筈だ。だからこそあの時も全く自民党の支持者層に対しては失望感を与えたけれど、それでも民主主義が一応機能していることはしているのだ、と考え直した人も大勢いた筈だ。つまりあまり与党が無策であればいつか政権を交代させてやればいいのだから、とそう開き直ることが可能なように社会を見ることが出来るということである。
 つまり資本主義社会とか自由主義社会につき物の弊害として麻薬や売春、賄賂といったものさえ、それらを一掃するためにあらゆる行動の自由、職業選択の自由を奪ってもよいなどと殆どの市民が望んでいない。と言うことはそれら社会の弊害でさえ必要悪として容認したままでいようという認識をどこかで必ず全ての市民が抱いている筈である。従ってそれらの弊害をニュースソースとして提供する容疑者全般に対して、そういった存在全てが皆無になっていくよりは、四六時中そういう容疑者のニュースばかりでも困るものの、そういったニュースさえ皆無であるよりはよっぽど時々そういうニュースがあってくれるくらいの方が社会の自由が実感出来ていいと考えている市民の方が多いということが通常の資本主義、自由主義社会における市民による社会自体の在り方の価値基準なのである。
 つまりあらゆるネガティヴな事件の報道に対する熱狂自体には必ずこの前提が付帯しているのである。だから我々はこう言うことが出来る。一切の行動の自由を奪ってまで賄賂、談合、不正入札、裏口入学、売春、買春、覚醒剤売買と使用が消滅させたいなどと誰も思わない、そしてそういった一切の資本主義社会が発生させる悪さえ成り立たないような不自由な社会になど生活したくはない、ということなのである。いやそれどころか我々は建前上ではそれらを批判しながら、時々そういうニュースが飛び込んで来ること自体を密かに期待し、胸をわくわくさせてさえいるのである。事実ここ数年のことを振り返ってみてもライブドアショックなどの時に様々なM&A用語を覚えたのだし、風説の流布にしたって、そういった事態の一切ない社会の退屈さに既に我々は耐え得るのだろうか?そんなことはあり得ない。私たちは現実にはあらゆるえげつない好奇心まで満喫させてくれるだけの刺激のあるトップニュースを常に期待しているのである。そしてそのような好奇心を充足させてくれるメディアを飼い馴らしているとそう実感し得る社会で生活すること自体に、行動とあらゆる行為選択の自由を保障されている、と実感し得ているのである。

Thursday, December 3, 2009

第十九章 レッテルを貼ること(対他的・対自的)の価値

 例の有名芸能人の覚醒剤使用による逮捕事件に伴ってユーチューブ上では彼女がトランス状態でDJをしている映像へとアクセス数が殺到していることが話題になったが、実はこの種のアイドルのギャップへの関心は、本来マスメディアに乗せられているイメージが全て巧妙なる視聴率獲得のために戦略によって集団によって作られていっているということに対してすっかり忘却してしまっているファン心理に根差している。しかし当人はかなり若い頃からプロデビューしていても普通の女性なのである。つまり我々は何もアイドル芸能人に対してだけではなく、政治家に対しても人気経営者に対しても、文化人に対しても彼らのイメージをその偉業に相応しいものとしてレッテルとして貼り付けているということである。これはファン心理によるものであり、最初からバイアスが掛かっている。つまり必要以上に神聖化してしまっているのだ。だからいざそういう偶像が何らかの過失を犯すと途端に転落というイメージを持ってしまう。しかし本来誰しもそのようなレッテルに百パーセント同化し得る成員などいないのである。
 その点それらの偶像に付帯させてしまうイメージとしてのレッテルとは、しかし対他的なものだが、そのイメージづけを世俗的に自分に付帯させてしまおうということが、俗物根性として発生してしまう。件の私を苦しめた性悪な処女たちがそうであった。端的に自らの処女性を神聖化させてしまうということ自体は実は結婚制度と、結婚が一定の男性の側の経済力に伴った行為であるという通念によって得られているのだ。
 つまりファンがアイドルに対して付帯させるイメージ上の似つかわしい「在り方」は、そうすることを日常化する低レヴェルのファン心理によって支えられているが、そのファン心理が対自分ということになると、途端に自らが勝手に偶像に付帯させたイメージを相手の男性に強要させる、自分たちにとってのアイドルでさえそうなのだから、自分のような存在に対してはそれ以上の配慮を払えと男性に強要するのである。彼女らにとってミーハー的発想とは端的に勝手に自分たちの偶像に付帯させたイメージであり、本来自分に対して周囲の男性に付帯させておきたいイメージに他ならないのである。
 確かに覚醒剤を使用したりすること自体はよくないことだが、彼女らは未だそういう風に逃避行してしまうだけのキャリアはある。だがその偶像を追っかけするファンたちはただ勝手に追っかけをしているだけで、自分自身は何らキャリアを構成しているわけではない。にもかかわらず、その偶像に対して付帯させたイメージ自体は自分たちによる表象だから、その表象は自分のようなアイドルではない通常の存在にも適用されるのだ、という主張自体が、権利上彼女らの心理には支配しているのである。つまり彼女らは自分で勝手に自分たちにとってのアイドルに付帯させたイメージとはとりもなおさず、そういうものとして自分たちを取り扱って欲しいという男性から見られる自分の理想なのである。しかし彼女らには一切の彼女たちにとっての同性のアイドルほどの才能も力量もない。端的にノンキャリアであり、通常人である彼女たちは、だから対自的には完全に客観視を怠っているのである。
 しかし彼女らのこの図々しい心理を我々は笑うことが出来ない。何故なら自分たちは自分たちがマスコミの偶像として取り扱っている存在ほどの日々の緊張を一度も味わったことがないのに、いざ彼らが何か過失を起こしたら、途端に彼らを火炙りにすることを見て楽しむからである。つまりマスコミが与える偶像化された全てのイメージとは、只それを享受する我々自身をあくまで自分のことは棚に上げたままにしておき、勝手に賞賛したり、勝手に貶したりすることが出来る便利なイメージでしかないからである。つまりそこには一切の責任がない。だからマスコミに流通するイメージというレッテル張りには一切の自己の実存に対する問い掛けがないのである。その自己を取り巻く事情を一時忘れさせるという副作用が概ね少ない覚醒剤の役割を我々はマスメディアの流す情報とその情報に乗るタレントのようなアイドルに付帯させているイメージに求めているのである。だからこそマスメディアとは生きもののように振舞っているが、実際は生きた人間でも、我々が飼っているペットでもない全くの無生物であるところの絶対的他者なのである。しかし日常の卑近な話題とはその絶対的他者に対してなされることが多い。そのような話題こそが直接我々の日常生活の利害に絡むことが比較的少ないからである。
 そのように現代社会に生活する人間が絶対的他者である幻想であるメディア自体が流すイメージを利用するということの背景には実は私たちが常に死に対して怯えているという事実が浮かび上がる。マスコミ自体の泡沫のイメージを褒め称えたり、貶したりすることによって一切永続的価値ではないことを一方で認めておくことで、実は自分の人生自体はそれほど簡単に判断することが出来ないという事実を常に問い掛けずに保留にしておくという日常的な目論見こそがメディアに対する責任のない態度として現われているのである。
 従ってメディアに登場する様々な偶像に対して勝手なレッテル張りをすることの価値とは端的に気分転換であり頭休めであり気休めであり生き抜きなのである。そしてそのことは全てのメディアに関わり運営している側が前提として心得ていることなのである。だからこそそのメディアの提供するイメージを裏切るような過失が齎されると本当は私たちの生活に然程重要な出来事ではない事件でもトップニュースとして取り扱うような事態へと発展していってしまうのである。しかしそれももっと我々の生活上で深刻な影響を与えるようなニュースが不在の時に限られるのだ。だが我々はそういった例えば世界同時不況の発端となったリーマンブラザースの破綻から、サブプライムローンの破綻といった深刻な事件がトップニュースとなるような事態を忌避したいと常に願っている。そういったニュースを聞くくらいなら、いっそアイドルの転落とか、有名文化人の犯罪といった事件の方を積極的に好むようなところは実際にあるように思われる。勿論彼らに対して贔屓にしているのなら、より彼らが素晴らしい仕事をしてくれるのに越したことはないのだが。

Thursday, November 26, 2009

第十八章 人間は他者の不幸に感動し、幸福に嫉妬する動物である

 この文章を書いている最中にある有名女性芸能人が覚醒剤を使用していた嫌疑で逮捕されたニュースが各報道メディアでトップニュースとして大きく取り上げられ、高視聴率を獲得した。さてこの騒動で私が実感したこととは、端的にメディアでスターとなっている人は皆作られたイメージに酔いしれているのであり、本人もその要望に只応えているだけであるということである。そして本人がそのギャップに益々戸惑っていたのなら、却って逮捕されてしまったことでほっとしているのではないか、ということである(そもそも三十代後半で既婚者、子持ちなのに清楚なイメージで大衆が追っかけていたということ自体に既に無理があったのである)。
 しかも興味深いことには、その芸能人が清純なイメージで若い頃から売っていたということが逆にそれを裏切ったということでメディア全体がまるで実際に高額であるだろう覚醒剤などをどういうルートかは定かではないものの、闇のルートで入手していた事実が、清純な若い頃のイメージとかけ離れていること自体を視聴者に対して興味を掻き立てていたことである。まさに高視聴率を獲得し得たのだから、容疑者となったその芸能人にメディアは感謝すべきであるが、その芸能人のそれまでに出したCD他関連商品全てを回収したというプロダクションの措置自体もかなり掌返し的行為であるが、それら一連のメディアの扱いや、視聴者の関心の実体とは端的に成功した人が自堕落な生活を確保することが可能なくらいの経済力を持っていること自体への嫉妬感情をメディアが煽り、視聴者はそれに乗せられているということであった。つまりメディアは当該の容疑者がかつては清純なイメージであればあるほどそのギャップにおいて視聴率を稼げるし、しかもマスメディアの公正さ、つまり成功者であれ過ちを犯したなら様々な措置を講じられ糾弾され制裁を受けるということを見せしめ的に示すことで正義を保つことが出来るということである。
 人間は要するに成功している当該の対象に対してその成功に酔っている姿に対して醜悪さを感じるが、その実体とは嫉妬でしかない。そしてそこまで成功していないで健気に頑張っている姿に感動するということは、端的に他人の不幸には寛容になれる、そして応援したり、激励したり出来るということ自体が、自分より上位である者に対して嫉妬するのとは裏腹に下位にあることを目撃して安堵するくらいには残酷である、ということを示している。
 感動の本質が下位にある者に対する憐憫であることは間違いないのだから、逆にそれまで成功してきた者が転落することを「ざまあ見ろ」という風に溜飲を下げるためにメディア報道を見ているのである。それが厭であるならそういう報道に辟易している筈である(事実そういう人も大勢いたことであろう)。
 つまり我々が無意識にメディア報道を利用している時には、自分とはまるで関係のないニュースを見て、気分転換していて、自分の実生活上での苦悩を一瞬忘れている。しかもその安心出来るニュースにおいてより溜飲を下げられるものとは、誰かが偉業を成し遂げたことよりも、人気のある偶像が落ちていく姿を野次馬根性で見ることである。だからそれまで羨まれる存在であればあるほどその対象が転落していく姿を「してやったり」と感じながら見る楽しみを得ているのである。マスメディアのトップニュースとそれほどではないニュースとの差とはそのような新聞であれば購読者層の、あるいはテレビなら視聴者のえげつない好奇心を引くものであるか否かなのである。
 そしてその事実は、受け手の心理には明らかに誰しもが潜在的には他人の不幸を喜び、他人の幸福を嫉妬するという性向があるということを送り手が意識的に利用しているということを意味する。人間は犬や猫をペットとして可愛がるのは、それらの存在を愛おしく感じるのは明らかに彼らが知性において人間よりも劣っているからである。しかし成功者である人間は自分たちよりもいい生活をしているから嫉妬の対象以外のものではない。そこでそれらの存在が転落していく姿を報道して伝えることによって、一般市民に欲求不満を解消させてやろうという目論みがメディアには確かにある。
 つまり私たちが日頃色々な出来事を耳にしたり、悲劇を観劇したりして感動するのは、本質的にはこの他人の不幸を見て喜ぶ心理と寸分も違わない。だから今度は感動を与えてくれた功労者は彼らにとって成功者(自分たちとは違う)であるが故にその転落に、何だ、あんな偉そうにしていたって、自分たちとそう変わりないただの人間じゃないか、と安心することが出来るのだ。だから逆にマスメディアが報じる様々な視聴率を取りそうな番組や特集を挙って見ようとする行為が内実的にはその種の屈折した心理が介在していることを自覚的な人間はなるべくマスメディアに得をさせることを慎みたいという気持ちになることだろう。しかしついそういった報道を見て楽しんでしまうのである。これがメディアの伝える我々の好奇心を擽る戦略に進んで騙されることを選択する私たちのえげつない本音、成功者の転落を見て楽しむという惨めであるが唯一の確固たる欲求不満解消法なのである。それは安倍首相が突然辞任に追い込まれた時にも多くの視聴者が感じ取った心理である。首相さえ只の普通の人間である、ということをメディアの報道が立証して見せてくれた、というわけである。それは政権初期には期待をさせただけにそのギャップを見て好奇心を充足しているのである。期待をされた人の転落を見て他人の不幸に喜んでいるのである。それは安倍首相の前の小泉首相の時には氏がそれほどトントン拍子で成功した人ではないことを多くが知っていたから味わえないことだったのだ。
 このことを価値的に考えてみると、メディアを好奇の目で接するという行為自体が一時自己に纏わる現実的な苦悩を忘れることが出来るという存在理由しか見出せない。それは実質的価値ではなくて、副次的価値でしかない。つまりメディアの報道は政治や経済の動向を伝えるニュースであれ犯罪を報じるニュースであれ、世相とか社会の変化や動き自体を確認することを通して自分もその同じ社会の中で生活を保守しているのだ、という実感を得ることなのである。そして他人の成功を見て羨ましいと感じること自体に、既にその者が慢心していれば嫉妬して、いつか転落してしまえばいいのに、とそう感じることの萌芽があるのだ。そしてメディア自体はそれらの成功者の姿を報じると同時に、どんなに成功している存在であれ、転落したのなら差別することなくそのことを報じるという公正さをアリバイにしているのだ。それを私たちは知っている。つまり全てのからくりを知っていてそれに同意しているのである。そしてそうしながらマスメディアがそれを視聴する側のプライヴァシーを守ってくれるとそう信じているのである。しかしいつ何時自分が問題の渦中に巻き込まれ、逆に糾弾される立場に立たされるかも知れないということをどこかで知りつつも、それは滅多にあり得ることではないと高を括っているのである。
 つまり私たちは倫理的に他者の幸福や成功を祝う気持ちを持っているということを盾に逆に、いざとなったらそれまでどんなに贔屓にしてきた対象に対しても幻滅する権利を持っていることを実感しているのである。つまり税金を払っているのだから、当然その市民としての権利を享受し得るのだ、というわけである。これは選挙権にも顕著に示されている。あれだけ支持してきてやったのに裏切られたということになると、違う政党に投票するのだ。しかしいつまで経ってもそれでは同じことの繰り返しであることを薄々誰しも感じ取っている。しかしそうは言っても政治はその時その時のニーズと問題点に対する処方という形で進行しているものなので、その都度態度を我々は容易に変えられ得る。つまりそのイデオロギー的な意味で態度を固定化する必要のなさに自由を感じ取っているのだ。それはお金を払って観劇している者のような心理なのである。だから政治家に対しても、周囲からあまり相手にされていなかったり、強力な敵に相対したりしているという事実に対してある政治家を贔屓にして、支持するのだ。これも他人の不幸に感動することの本質に適っている。しかし一旦強大な権力を手中に収めると途端に今度は批判の眼差しを注ぐようになる。要するに他人の幸福に嫉妬しているのである。批判とは端的に嫉妬が一点も介在していないとは絶対に言い切れないのである。勿論批判自体にある誰に対しても分け隔てなく賞賛すべき時はして、そうではない時には批判するということが一方で言い得よう。しかし相手があまりにも相手にされていないような場合批判するだけの価値がある、と我々は通常思うだろうか?つまり多くの支持を得ていたり、成功の美酒に酔っていたりする状態の人間に対して批判的眼差しを注ぐのである。従って批判する対象に対する感情という意味では明らかに批判の仕方自体が公正であることとは裏腹に嫉妬が介在している。しかもそういった皆から羨まれている存在をこき下ろす行為自体を賞賛する人たちもいるに違いないという目算も手伝っているのである。つまり偶像を転落させることで溜飲を下げる嫉妬者同士の共感と運命共同体意識を獲得しようと試みているのである。
 しかし重要な真理はもう一つある。どんなにセンセーショナルな報道内容であっても繰り返し報道されることで次第に全ての視聴者から飽きられるということをメディアは知っている。だからそうならない内に先手を打ってもっと衝撃的なニュースを、そうでなければほのぼのしたニュース(あまりセンセーショナルな内容が続くと逆に新鮮に感じるから)を用意するのである。だからこそトップニュースであったものは徐々に第四、第五のニュースへと降格していき、常にその日その時に多くの関心を集めるニュースに座を明け渡させるのである。それはある偶像に対する批判にしても同じである。一度は徹底的にこき下ろした後は逆に「しかし批判はしたものの」という口調で始まるようにさせて、今度は批判したものに対する存在理由を評価しようと画策するのである。そうしなければたちまち批判者の方の真意、つまり嫉妬感情が読まれてしまうからである。そこら辺の駆け引きの巧妙さこそが全てのケースで求められるというわけだ。
 しかし重要なこととはニュースの価値のタイムリーさであれ、そこには他人の不幸を喜ぶ、即ち自分の幸福を感じて安堵するという心理を我々が最大限に利用しているものこそメディアの報道内容の取捨選択であるということなのである。ここにも我々が価値として認めるものには本質的に悪が控えていることが了解されよう。