Tuesday, February 2, 2016
第七十六章 意味と意味の使用は全く異なるPART2
市街地を歩くと看板が多く目に入ってくる。それはその看板で示された商店や役所等の建造物の目的を示している。それは文章ではない。標示(表示)である。目的がこれ以上に明確な在り方の文字は無い。駅なら必ずその駅名と駅とが接合されている。
だが一つの纏まりとして文章の体を為すものは、全て伝達者の意図が示されている。緊急の場合の走り書きはブラックな智恵で相手を騙そうとするものでない限り、伝達者は受け身である。被伝達者が能動的にそれに対応する必要がある。
しかし著作物は違う。それは完全に著者が能動的に自ら書いた文章を読んで貰おうと画策している。読む人は読む行為自体が能動的であるという解釈は成り立つが力関係的には選ぶという行為を通して受動的である。自ら受動的立場に身を置くことを選ぶことが読書である。
最近では(水曜日のカンパネラ)(ゲスの極み乙女。)(水中、それは苦しい)といった文章や名詞節を其の儘ユニット名にしている人達が多くなった。それはTwitterのユーザー名でも言える。(フォローからはずしてください)(使われていません)等の命名にはあるアイロニーがある。ネガティヴに自己を示しながら、そのことへの共感でフォロワー数を増やそうという戦略を隠しもしない所がユニークである。(猫になりたい)という人も居るが、これもユーモラスで面白い。
これ等はキャッチコピーからの影響であろう。キャッチコピーは商品を宣伝する為の文句(それは看板の目的に近い)でありながら、同時に商品セールスに一役買っているコピーライターの感性を選んで貰おうという戦略なので、当然著作物的要素も在る。
つまりキャッチコピーは看板の文字と著作物との中間に位置すると言える。
現代社会は文字使用自体に目的のはっきりしたものと、文字はあくまで思想を伝達する為の要素でしかなく文章全体を読まそうとするものとが両極だとすると、その中間的なものが異様に増殖した時代と言える。SNSの遣り取り自体が既にそうである。ブログはSNSと著作物との中間に位置している。
文字自体は記号であるという解釈を最初に示したのはアウグスティヌスだった。エラスムス等を経てソシュールに至る言語学の系譜では我々は記号をどう解釈すべきか、ということが主題であり、我々は記号をどう活かすかへ直結させたその後の歴史を歩んできたと言える。言語学は古代ギリシャのヒエロニムスに迄遡れるが、一つには記号に対してどう向き合うかという哲学的思索と宗教的要請をどう受け止めるかということから発生してきていると言える。
だが現代社会は基本的に国家宗教に於いてはどの国でも慣習・習慣に堕しているとも言えるが、個人の心ではどんな考えを人が持っているのかという関心に尽きる。しかし著作物は出版ビジネスに一定の収益を上げられるものだけが選ばれている訳だから、かなり部分的なことだと現代人は知っているので、完全に受け身的に自己を持っていき読書するところ迄は行かないが、その手前でキャッチコピーや看板とは明らかに性質の違う文字を使用した行為を現代人は不特定多数の世界市民へ求めている。其処で成立しているのがSNSであり、ブログは更に無料で立ち入ったことを知りたいと願うニーズに支えられている。
しかし重要なことは資本主義社会インフラである所のあらゆる金融機関でも銀行でも、或いは資本主義社会経済活動の一旦を為す各種商店や機関も又一つの強制的に社会人を束縛する仕組みだということだ。それを我々は何処かで重々承知していて、しかし社会インフラとしての看板の文字直撃的な機能を受け入れて生活している我々は、心の余剰に強制的に都市空間に従属するだけでない何かを求めているからこそ、と言って詩集や句集を買うのはお金もかかるし、かなり立ち入って色々な教養を身に付けなければいけないので、態々そこ迄しなくても済む安価で日常的に容易にコンタクトが持てる意味合いでSNSが隆盛を極める訳だ。
著者に拠る読者の独占を自発的に選択する読書の持つ著述活動のスピリットを受け継ぎつつ、しかし著者が完全支配することではない、もっと安易にコンタクトを取れるささやかな日常的娯楽としてSNSでの文字を目で拾うという行為が成立している。それは看板の様な知覚直撃的な強制ではない、内在的な心の余剰に侵入してきているツイートの文句、それは精神的な共産主義を何処かで現代人が暗黙に世界市民性の上で求めているということも言える。SNSにアップするツイートや投稿内容は収入を得る為のことではない。そういう仕方で収益を上げることも可能だが、少なくともSNS自体は前提として収益を上げる為に参加するものではない。
この点でコピーライターが一見看板表示にはないある強制的ではない一つの街頭歩行者の選択に委ねられていても、それは都市空間では巨大であり、かなり知覚的には強制的なものである。又大きな看板で示されるキャッチコピーは都市空間で雑居ビルが密集しているエリアしか成立しない。その点これ等の文字は明らかに経済活動上での政治性に根差している。
看板の不可避的存在理由と違って、其処に展開するキャッチコピーは世相や時代的な潮流全体への市民の同意ということが前提されている。従って其処にはアナーキズムは成立し得ない。しかしSNSやブログはその点ではアナーキズムさえ成立し得る。この違いから読み取れるものの差異は大きい。
意味は確かに語彙の辞書項目的な全体的な成立基盤での階層や意味規定の役割分担に支えられている。しかし愛とか恋とか憎しみといった語彙自体が個人に直撃する<個人的>意味は概念的意味とは違う性質が必ず在る。誰しもにとってそうであることから、その意味が個人的に違うという部分での主張は著作物で示される。そしてこの基本的な差異、つまり意味それ自体と意味を使用して文章が成立し、その文章が集合するものとしての文章執筆行為との中間地帯に心の余剰を見出す現代人がSNSで匿名的性質をユーザー全員が同意する形でウェブサイトヒューマンネットが成立している。それは東浩紀の言う様な動物化と言っても行為規定としては正しいかも知れないが、その文字を拾う行為に内在する性質としては全ての権威主義からの逃避と、シェルター的役割があることは見逃せない。
この点を次回は考えていきたい。つまり逃避とかシェルター的意味合いに於ける言葉の遣り取りから意味と意味の使用、つまり語彙概念的意味と、その意味の使用に就いて考えていってみよう。
Sunday, January 31, 2016
第七十五章 意味と意味の使用は全く異なる PART1
前回は次の様なことを述べた。言葉に於いて語それ自体だと意味の持つ情動喚起的側面を我々は常に受け取ろうとする。だが、意味使用は長い文章であればある程個々の語の意味を通り一遍の認識の一部へ摩り替える。それは一つの事実確認である。事実確認は冷静沈着を我々に齎す。客観的思惟は全てそうだ。だから文章というものは報告することを通して、報告される者の精神を鎮静化させる様に成立する。文章とは従って情動の高まりを調節し、高揚し過ぎることを抑制させる作用を齎す。文章に内在する論理的構造がそうする。
俳句が情動喚起を大きくさせるとすれば、それはより一語の持つ比重が大きく、それ故に意味自体が喚起する情動を引き出しやすいからだ。語の意味とは語という文字に意味を通して意味を作っている我々の情動を吹き込み、内在的な意味を感知する心を、語を聞き、語を言うことで確認する際に認知されるものである。
文章は個々の意味を高次の次元で再認する為の一つの配列を通した報告秩序の数式と言える。数式とは何も数字に拠るだけではない。そういった配列が顕現された秩序全体を言う。だから意味はその配列=数式の持つ構造が生み出しているとも言えるし、個々の情動喚起的側面が意味を担い、配列=数式の構造を成立させているとも言える。
文章は事実関係の叙述を包摂する配列=数式だが、語はその要素でもあるが、文章が方や存在しているからこそ、その配列=数式の中で示される指標として認知される。だがそれは文章で伝えるという前提が行為として存在しているから認知されるものなのか、それとも語で示される認識が意味として存在しているから文章が伝えるという行為形式を存在させているのか、どちらかである、とは言い切れないが、語自体の意味認識へ誘う我々の心的作用と、語を包摂した伝える為の文章を成立させる統語秩序を誘う我々の心的作用は、恐らく別箇のものとして把捉されているけれど、それは絶えず相互に侵食し合う様に隣接してもいる、と考えてもいいだろう。
意味と意味使用とはそういった心的作用の環境に取り囲まれている。意味は情動喚起、意味使用は事実確認(報告促進)を旨とする。言語には絶えずこの二つの異なった志向性を持つ心的作用を我々は集約させる。個々のエレメントでは情動喚起を齎しつつ、エレメントの集合(∨)では事実確認(再認。経験則からある事態を理解している以上、常にある出来事の認知とは再認である)を齎す。言語自体に性質的に相反する志向性を両立させるという事が在ると言える。
だから個々の語彙は配列=数式が一つの関数とすれば、変数であり、その捉え方自体は言語を何かの為の写像と認識してのことと言える。何かの為にとは理解・伝達・報告等と考えてよいだろう。
ところで意味は意味自体、社会的記号として社会的事実として認識されたツールだが、意味使用はその意味を使用することを通して意味使用者、つまり文章作成者、報告者の意図を顕示する意味合いがあるから、情動を抑制する意図である文章を使用した一つの内在的な野心の顕現だとも言える。つまり語彙自体は受け取る者は情動喚起的だが、語彙提示は一番即物的であり、「火事だ」「殺人だ」(人殺しだ)と告げることに自己意図顕示性は精神的には強くない。それは緊急の伝達意図以上の精神性は無い。
だが「あの火事は放火だった様だ」「あの殺人事件から犯罪の流れが変わった」と告げること、つまり文章化されると、それを受け取る者は受け取る者の自己を控えさせ、理解しようと努めるが、その文章の伝達者・報告者は自己意見を告げる伝達意図の顕示が最大となる。それは精神的な意味で内在的野心の行為だからだ。
この反転現象がもう一つの言語の性質である。つまり緊急伝達意図は社会奉仕であり、文章提示は野心的な社会投企と言える。
その意味で一つの結論としては緊急伝達は発信者が受け身であり、受信者が能動的であるが、文章提示は発信者が能動的であり、受信者が受け身であるということが言える。
この構造は重要な真理を含んでいると思われるので次回もう少し深く掘り下げてみたい。
Wednesday, January 27, 2016
第七十四章 言葉は作られるPART3 意味は単独と接合とで在り方を変える
語とはそれ自体の意味と、その意味を使用して一つの文を構成する時とでは意味の在り方を変える。存在する意味を変えると言ってもいい。
殺人は語としてはネガティヴな意味だ。社会的に人類的に殺人は人類発生以来最も典型的な悪であり、にも関わらずずっと継続して無くなりはしなかったものだ。
だが我々は他方「彼は売れっ子なので、殺人的スケジュールで動き回っている」等と言う時、その殺人はそういった人類の原罪的な悪の意味合いで使っている訳ではない。彼自身のエネルギーを消耗させ、彼を遂には働き過ぎで死へ至らしめるのではないかという懸念も手伝って言っているからだ。
語、単語、語彙とはそういった意味では相対的な在り方をしている。一つの語彙がそれ単体で何かを語る度合いは、印象としては強烈だけれど、それが多くの文字の配列の中のほんの一部になればなる程、印象は薄まる。殺人は何時の時代でも存在したし、そういう事実関係へと転落する。実際に特定の時間に特定の殺人事件に就いて報道されていて、それを視聴している場合に抱かれる我々にとっての殺人の意味(それは今という時点が今正に今だと思う時と似ている)と、殺人は昔からずっと在った、と語る場合の意味とでは、前者は哲学、とりわけハイデガー的にアクトゥアリテート等と言ってもいいある種の生々しさとしての、リアルな感情が殺人ケースを目の当たりにした時に持てるのが、他方、多くの犯罪事例を紹介する時に殺人を放火や強盗と対置させて語られる時ではまるで言葉の持つ意味の衝撃の度合いは違う。
言葉の価値は単体としての意味と、それが文字配列の中の部分、要素として機能する時とで大きく在り方を変えるという側面と、今正に殺人事件に就いて報道され、或いは人から聞かされたりして、その様子を知っていく過程で持つ印象と、そういった殺人事件の件数に就いて論じている時の平坦な印象との格差から二つの意味の存在理由の在り方を示唆する。言葉は感情・情動を其処から引き出す装置であると同時に、全く客観的に感情・情動を誘引させない様にさせる装置でもある。
これは概念の提示、概念の確認という意味合いとして後者を捉えるなら、前者は明らかに概念を通して概念で指示されている事態を想像したり、再現させたりすることと言えるだろう。
となると意味自体が、事実確認的志向性と、確認され指示された事態への情動的判断志向性という二つの全く異なったヴェクトルを喚起する様に待ち構えているとも言い得る。
これは自己意識等とも当然関係がある。つまり自分自身がダイレクトに何かにある感情・情動、意味規定的な志向性を持つことと、そういった自分自身の在り方を、それ自体ではない視点から再認する(これを認知科学ではメタ認知と呼ぶ)ということ、つまりダイレクトな志向性と、インダイレクトな志向性とを我々は使い分けもするし、同時に使うことも出来る。自己がダイレクトに何かに向き合っていることと、その向き合っている自己をそういった向き合い自体からすれば外部から観察する様な視点を持つことは、全く違うことでありながら、何の不自然さも無しに我々が同時にも出来ることである。
ある意味ではそれが両方出来るからこそ、林を縫って歩いている時に虎と出くわし、びっくりしてはらはらどきどきしながら、何とか食われまいとして逃げる方法を考えているという様な場合でも、それはあり得る。虎自体は虎という語彙であり、虎に出くわし、何とか逃げなくてはならない、という文章を心的に我々は同時に介在させることが可能だからだ。
次回はこの語、単語、語彙の単体性と、文章文字配列の中の要素との両義性を実際の文章から考えていってみよう。
Wednesday, January 6, 2016
第七十三章 言葉は作られるPART2 日本語接合語(爆~)の応用の仕方から読める驚嘆感情への向き合い方2
1980年代後半以降定着した語彙は(空爆)だ。これは冷戦終結と共に連合軍、つまり英米仏等に拠るイスラム教文化圏の独裁主義国家やその内乱等へ行われてきた。アフガニスタンに侵攻したソ連への抵抗から生み出された語句だった。
日本ではそれより早く(爆発的ヒット)(爆発的売れ行き)等の語句も多く使用される様になった。これはかなり昔から言われてきたが、恐らく70年代以降定着した言い方だろう。当時の日本は高度成長が極まった時期であり、だが70年代後半から低成長が叫ばれる様になってきた。
2015年の流行語大賞が中国人に拠る(爆買い)だったのも凄く興味深いけれど、この語彙はそのことで個人経営の店舗等が一兆円以上の収益を上げたことで定着していったが、この様に日本語では既に(爆)を使用する何のためらいもない。空爆と今では言うことが大半だが、太平洋戦争中ではこれはあくまで(空襲)だった。これはだから太平洋戦争の一般市民への無差別攻撃に対してのみ使用される永久欠番的な語句である。
似た感じの言い方は70年代の池波正太郎の時代劇<必殺仕掛け人><必殺仕置き人>等のシリーズに於ける(必殺)である。これも殺し自体は悪であり忌むべき意味だけれど、それを敢えて使用することで緊迫感を出す一つの言葉の工夫である。でもこの語彙も先に(必死)という語彙があったればこそ発想し得た語彙とも言える。
つまり否定語や忌み語として使用される語彙を敢えて接合させることで、その臨場的切迫感を出すのは語彙の作り方としては常套手段と言える。
因みに接合されている必は(必見)、(必勝)、(必定)、(必然)、(必聴)、(必読)、(必要)、(必用)等で使用されるが、それをしなければかなり損失するとか、そうでなければ可笑しいという合理を畳みかけて、印象付ける役割の接合語だ。
これ等のことから価値は是や正とされることでだけ構成される・させるのでなく、非や誤、善だけでなく悪との接合で構成される・させるものだと言い得る。
(爆弾)(爆薬)はあくまで軍事目的且つ産業目的のものだし、(自爆)は自決や自殺同様異常決心を示す語彙だが、(爆)がそれ等に於いて使用されていることを承知で敢えてそれを日常的な心理に置換させて使用されている(爆笑)(爆発的ヒット・爆発的売れ行き)等はそれ自体肯定的な意味合いなので、否定的な印象を植え付ける語彙を敢えて使用することで、逆説的にその反転した価値を印象付ける目的が我々には暗黙の内に認められていると言うことが出来る。
今日正に北朝鮮が四回目の核実験を行い、それを水爆実験成功という形で北のテレビが放映した。爆という音の不穏さ、不気味さが原爆、水爆等の語彙が齎していることは確かだが、日本語では爆笑・爆発的ヒット等の語彙が消滅する事は無いだろう。自爆テロと水爆が現況で最大の不安を掻き立てているが、言葉をネガティヴであるが故に逆利用する工夫も無くならず、そのことは我々の思考が常に最大級に避けるべき事態をも、観念上では想定させずにアイロニカルな説明論理を構築し得ない存在であることを教えてくれる。
つまり我々は一方では自分は誰しも最悪の状況を避けたい思惑を持ちながらも、他者の幾分かはその被害に遭ってしまうだろうという憶測から、それを避けたいという形でアイロニカルに忌むべき意味の語を利用してしまうし、それを悪い事とは思わないのである。
何故ならそういう風に極端なケースを想定することから想像されることを暗にそういった語を使用することで促進する様に説明論理とは成立しているからなのである。説明論理とは最悪の残酷的状況をも含ませ示すことで説得力を醸成させているのである。
Saturday, October 3, 2015
第七十二章 言葉は作られるPART1 日本語接合語(爆~)の応用の仕方から読める驚嘆感情への向き合い方
(爆)という語彙は日本人にとっては明らかに歴史的には太平洋戦争の空襲と爆撃に拠って定着したものであろう。それ以前でも爆弾という語彙は在っただろうが、爆撃、つまり空襲の物理的事実をこう呼ぶことはこの時期だったと思われる。事実日清戦争と日露戦争は本土空襲という事態は無かったからだ。そして日本は終戦直前に広島と長崎に原爆が投下され、水爆実験がその後、戦後レジームの中でアメリカ、フランス、中国等に拠って盛んに行われた。
だが他方で日本人は言葉遊び的感性をどんどん拡張してきた。その一つは明らかに70年代以降、80年代バブル期を頂点とした(爆笑)という語彙である。つまり自分達の民族的記憶の中でトラウマとして君臨する爆という語彙を積極的に肯定的な雰囲気の語彙に適用してきたのだ。90年代にはその流れの中でテレ朝の深夜番組でエロス的雰囲気を振りまいた<トゥナイト2>等の影響もあり、(爆乳)という語彙が(巨乳)という語彙に連続して定着した。巨乳がウルトラ級だとすれば爆乳は超ウルトラ級だということだ。
その当時にそれと連動して定着したもう一つの語彙が(爆睡)である。これも我を忘れて熟睡することの極致で(熟睡)も、その語彙が出来たての頃はそれなりに衝撃度があったと推察されるが、(爆睡)はより過激に夢さえも見ないで眠り続けるイメージを大きく打ち出した。
そして昨今より定着しつつあるものとして(爆買い)がある。これは巨大な経済大国化してきている中国人が来日にして日本のマーケットで日本商品を買い走る姿を揶揄して使われている。
これ等の例から鑑みて、実は意味というものは語彙使用を中心に考えれば、明らかに内的理解ではなく、外部に規約として、時代のモードを反映すべく我々が示し合わせて使用するという実態も浮かび上がる。つまり哲学で考える意味とは理解して我の心へ植え付けることというニュアンスが強いが、語彙使用に関しては決してそうではなく、自由に個々人が使うものではなく、あくまで使用規約と使用状況選択はきっちりと決められているということだ。そして皆で協働してそれを使用するという意味では共同注意的な使用の仕方と言ってよい。つまり語彙を使用し意味を伝達する分では明らかに外部的なものとして意味は規定されている。それを個々で念頭に入れて、例えば中国人観光客に拠る爆買いを巧く誘導して、或いは商品が巧く流通する様に取り計らうという時には、意味は決して内的ではない。その語彙使用を促す状況や事態自体を反省的に振り返る時初めて意味は内的になるだけだ。
本章で私が提示した~爆という悍ましい歴史的記憶を呼び覚ますこの語彙を、片や完全に軽いノリで(爆笑)(爆乳)(爆睡)(爆買い)と使用する日本人。日本民族にとっての言葉選び、語彙選択の感性は明らかに連動的、協働的、慣用的な規約を軽い、従って気安く使え普及しやすく、言いやすく、一挙に同時代的な共時性を呼び覚ます語彙の発明に長けていると言うことが出来る。勿論他方では哲学的認識論は重要だし、人類にとって必要なのだが、その本質論とか要点主義に対してディテール印象主義的な語彙の使い方を好む民族性は、語彙文化自体を活性化させ、サブカル的アイディアや商法を普及させるのに大いに役立ってきているということも紛れもない事実なのである。
それは幾分日本人が笑い的センシビリティで驚嘆的事実をも取り込もうという意識が在ることを証明してもいる。つまり笑いや笑う日常生活上での軽いノリを、よりシビヤなビジネスや競争社会での潤滑油にしようという殆ど自動的な配慮が社会全体に漲っていると捉えることが出来る。
Friday, July 3, 2015
第七十一章 時代は作られるPart8 生活者の感性は時代が作る①甘えの依存
時代は我々の感性が作ると言えるが、我々の感性も時代が作るとも言える。相互フィードバックでありシナジーである。又それは集団的な連動が齎しているとも言える。つまり個人の感性は言語活動であれそれ以外の全ての社会活動自体であれ、それ等が集団全体の総意で動く以上、その総意の下に個人の感性も作られるということだ。
先月の6月30日に起きた新幹線放火殺人事件は自殺をする為に71歳の老人が自らの身体にガソリンを被り、それに火を点けて新幹線全体を密室化された空間へと変貌させた事件だったが、ある意味でそれは結局個人の自由なんかより、個人に慰安自体が集団を巻き込む形でしか成立しないある種の徹底した無責任的行動の中で初めて開放感を得られるという歪な感性が現代人に定着していることをまざまざと見せつけた。つまり七十歳を過ぎた老人が社会全体への迷惑を顧みずにそういう行動をとれるという事自体に、甘え、つまり死ぬ時に他人迄巻き添えにすることさえ何処かで期待するからこそし得る行動を読み取れるが、それはそういう風にして迄ある社会全体の連動から外れたくはないという孤独に弱い、個人主義と自由の権利の無化を意味していたからである。
時代は確かに便利な社会インフラに取り囲まれている。しかしどんなことをしてでもSNSの仲間との結束とかTwitterで言えばフォロワー数だけを増やす事に意識の上で血道を上げる生活習慣では、より社会的連動に於いてたった一人の頭でたった一人の行動で何かをするより、より集団全体の視線や関心に自己を巻き込んでいく方がずっと楽であるという選択眼が予め用意されている。つまり仮に会社内で孤立していても、SNSではそうではないという安心が誰しも用意されている。Twitterが合わなければPinterest、Tumblr、LINE等幾らでも選択肢があるのだ。昔はその点では会社で巧く行かなかったなら、別の会社に移るしかその辛さから逃れる方法がなかったし、だからそれが出来なければ集団全体の連動に自己も寄与し得る様に自己改善するしかなかった。しかし現代では仮に集団全体の連動に寄与出来なくても、それが仕事能力に支障をきたすものでない限り、会社が終わって一緒に必ず飲み会へ行く義務はないと高を括っていても、それを理由に解雇される心配はない(或いはそういうタイプの職種もあることはあるのだろうが、そういう職場にはそれに耐えられる人しか就職することはないだろう)し、又仮に対人関係が余り巧く行かないでも仕事全体に支障を来さない限り、対人関係的なことまで経営者が従業員に強制することは基本的には出来ない。結局仕事以外のあらゆる対人関係的繋がりがたとえSNSの様にリア充的なものでないにせよ、それが最終的に失われることなく確保されてさえいれば基本的に孤独感を抱く心配は要らない。
と言う事は却って本質的に孤独の辛さに絶えなければいけないという試練自体が現代人には成立しない。それが却って集団全体の連動への弛まぬ意識が増長され、集団連動に寄与し得ないなら、逆に破壊することで寄与すればよいという短絡した決心をも生み易くなっているとも言える。それは何も今回の日本の大事件だけでなく世界的にもそうだ。
その一つがアメリカで数十人の黒人を教会で射殺した白人のヘイトクライムであり、IS等のカルト宗教的原理主義だと言える。それは何等かの形で自分や自分達が帰属するメジャー集団への意識の過剰が生み出した何等かの形で集団に寄与し得ないなら、鬱憤自体を集団全体へアピールするしかないという短絡思考的な決心を助長する時代の感性が控えている。それは甘えることさえ集団全体へ影響を及ぼすなら、何もしないよりはずっといいし、ましであると言うより、それをせずには居られないという決定的な時代の感性である。
自己の対話に於いて徹底的に孤独に耐えるという修業的な機会を現代人は与えられていないし、自ら率先してそれをしようという意志へ直結し難い様に社会全体が個人を脅迫している。そんなことをする時間を持つことは無職で求職中であることを人へ示す様なものだから、それだけは耐えたいという虚栄心こそが短絡的であっても犯罪的暴挙に出る方がずっとましだという価値倫理を醸成しているのである。
と言うことは外面的で外在的な価値、それは往々にして社会全体がそういうものがあるかの様に個人に幻想されるものであるのだが、それだけが価値であり、内面的、内在的な価値等人の目に触れるものではないのだから、そんなものを後生大事にしたって、金に換わらないではないかという価値判断が優先されている証拠である。
社会的地位、金銭的報酬に拠る経済力といった外在的外面的価値のみが最大級に優先されるかの如く個人を脅迫する時代は明らかにある部分ではアメリカ合衆国の国民のワーカホリックと世界経済的牽引図式が作り上げた。と言ってかつての共産主義の様な先祖帰りは既に人類が出来ない地点迄追い込まれている(と言うか進化した)。
つまり情報伝達的なメッセージの遣り取り自体が既に単純な目的を外在的外面的に持ったものとしてのみ認識される唯社会目的的な存在理由だけしか個人が持ち難い様に社会や国家や世界情勢全体が機能している証拠である。だからこそ昨今数日置きくらいに勃発するテロ行為が繰り返されているのである。つまり全ての行為が社会を意識した社会行為であり、それは単純に名目的な目的を与えられていなければ安心出来ないということであり、その根底には他者への疑心暗鬼が極点に迄達している証拠であり、ビジネスもゆとりがあってはならず、あくまでビジーネスでなければいけないのである。それこそがアメリカという国が世界へ齎している現代という時代のコモンセンスなのだ。
そういう風に個人にお仕着せてしまう時代の感性に於いて個人が選択する余地のあることは勝者になれないのなら敗者に甘んじるか、それを虚栄心が許さないならいっそ新幹線内で放火テロをするという暴挙に及ぶかということなのだろう。それが七十歳を超えた老人に迄、又現代の七十歳はかなり健康的にも体力的にも優れているものだから、勢い余ってそうしてでも社会に関わりを持てるなら、孤独死だけが待っている老人に転落するよりはずっとましであるという価値判断を構築しているのだ。
これは極点迄他者への疑心暗鬼が作られてしまった後の人類のその息苦しさから解放される為の回路に唯一暴挙的行動を通した甘えしか残されていないという切羽詰った状況認識なのだろう。
だが人類は個人というものを未だ余り多く掘り下げてはいない。それは国家や社会全体はそれを阻止する様にだけしか機能してこなかったからである。だから個人の感性のかなりの部分が民族や国家が個人に運命論的に強制してきた慣習や習慣の様な価値判断から誰しもがそれ程自由ではないのだ。つまり宗教的なコードから独立した自己の本質的姿を見据えようとはしていない。理性とは孤独そのものなのだが、それは個人の純粋な内面からのものなのだ。他者を疑心暗鬼になるということは他者を信用出来ない分自分も信用出来ないからなのだ。それは自己への甘えであり、それが他者引いては社会全体への甘えを作り易くしているのだ。
次回は本質的な個人内面や内在的な価値を巡る問い、つまり思想や哲学が成り立ち得るかという問いから進めていこう。
Thursday, February 5, 2015
第七十章 時代は作られるPart7 現代社会に固有の時代性を乗り越えるには?①
年間の自殺者数は恐らく交通事故より今も多いであろう。鉄道へ飛び込み自殺するケースが多い。それはある意味では現代社会の全ての矛盾に現代人の確実に一部を生きていくことを辛いと思わせる何かがあるということを意味する。
現代社会はあらゆる意味で昔なら残存していた友愛的共同体の名残がない。和気藹々自体が成立し難い社会となっている。結婚も人に勧めることが出来ない。何故ならLGBTの差別問題等も表面化しているからだ。日高パーティーの様なものは今後も復活しないだろう。又監視社会化され盗聴されているかも知れない恐怖心は必要以上の自然な他者への感情表出を差し控える事で抑圧されている事の方が発散する事より多くなってきていると誰しもが自覚し得るので、その抱え込まれたストレスがどう処理されていくかの方策もなかなか見出し難いのだ。ちょっとした発言が失言として受け取られかねない社会様相では、閉鎖的なコミュニティが無数に林立する状態を社会に生む。
情報摂取の欲求より使命感が益々加速度的に増し、ウェブサイトと各種電子機器利用の日常は徐々に自然状態というもの自体の像をぼやけさせ、消滅させる方向に人間精神を持って行く。
それは営業成績でもサーヴィスでも従業員を成果主義へと翻弄させ、そのビジーネスに順応しきれない成員を必ず一定数産出する。だから2008年の秋葉原通り魔殺人事件や片山祐輔遠隔操作事件でも、前者は鬱憤の晴らし方で幼稚さを見せつけ(幼稚さが極端な暴力へと発展したケースである)、片山事件では他人に罪を擦り付けるというやはり動機的な幼稚さが異様に目立っている。つまり野々宮龍介元議員の統合失調的応対会見に観られる現代人固有の我慢の出来なさが顕在化したケースが昨今ではメインとなっている。それが栄光を求める形であれば佐村河内守と新垣隆のケースとなっていくし、ある意味では功を焦ることが小保方晴子ケースの様なものになっていく事が必然性である様なある種の現代社会の成果主義と秒刻みの社会的ニーズの変化に拠る虚実の混淆した社会様相を形作る。
だがもし現代人が其処迄幼稚化せざるを得ないとしたなら、それは現代の情報化社会と電子機器の利用全体へ未だ完全に慣れきっていない感性を合わせるしかないという使命感から生み出されている現象として、その幼稚性を認識することは容易いであろう。事実自殺者はこの格差社会で独楽鼠の様な生活状況を強いられている精神性への回答として自殺を選び取っているのであり、その不可避的社会状況を逆用するしか其処から精神的苦悩を脱する可能性は見出せない。
率直にSNSにもろに下品な本音を書き込む様な幼稚性を逆利用するしかないのだ。つまり正式とか本格的とかきちんとしたという体裁ではない幼稚な本音を吐き出す機会に異様に恵まれた現代人は最早その幼稚性を逆利用するしかないのだ。
極度の暴力という意味では湯川氏と後藤氏を殺害し、ヨルダン人パイロットを焼殺したISILの行動こそ世界的レヴェルでのテロリズムの方法論的幼稚性を示している。それは大義的行動ではない。しかもその人質殺害がウェブサイトで知らされると、即座にヨルダン政府はサジダ・エルシャーウィ死刑女囚を処刑するという国家装置の機転にも、それが読み取れる。報復的な応酬の連鎖が世界的規模で垣間見られる。
正式なる、正統なる、正当的なということ自体全体へ感性的に懐疑的になっている現代人には既に非正統的な、非正式なものだけをメソッド的にも頼りにするしかない。何故ならそれ以外の社会インフラやシステムの全ては厳格に科学主義的にそれを援用しなければ社会が運営されない様に管理されているからである。
感性的な意味での逸脱への欲求を仕事やビジネスにも応用していくしかない。それはいい意味での幼稚性と、ISIL的暴挙の幼稚性を厳密に峻別する意志と努力にあると言ってもいい。昨今頻発する多くの殺人事件も衝動的な現代人の感性を表出させていると言えるし、人類全体が統合失調的な様相を呈していると言える(その点では国家指導者層、つまり政治家や為政者自身さえもがそうである。彼等はリーダー的態度と言うより、大勢の無力の市民の欲求の代弁者にしか過ぎない)。
道徳に関して日本教育界では大きな変革を為すと言う。その際に私が提案したいのは、SNSの持つ本音吐露的な容易さの中から、汲み取るべきいい意味での下らなさ、つまりジョークやブラックユーモアと、他者への誹謗中傷の識別的感性を磨く事こそ求められている。シャルリ・エブドは確かに自由友愛を標榜するフランスでは正統かも知れないが、恐らくそれはイスラム教徒全般迄含み込むユニヴァーサルな正統性では無かった可能性はあるのだ。何故ならフランスでもドイツでも異様なる移民排斥デモ等の空気に満たされているからである。政教分離自体が欧米先進国モデルの理念なのだ。教室ではスカーフを外せという訓戒自体がアラブ社会やイスラム教世界の文化を無視した主張なのだ。
次回はSNSツイート的な容認され得、しかも表現の可能性を進化させ得るものとしての下らなさ、つまりフランクさとは何かという言葉の使用の仕方に就いて考えていってみよう。(つづき)
Monday, February 2, 2015
第六十九章 時代は作られるPart6 未完成は悪の魅力である
前回述べた様な不完全性にリアリティを感知する現代人にとってもし仮にウェブサイトにだけ本音メッセージを求め過ぎるとしたなら、それは社会全体が素直な欲求を他者に示す事を憚らせる固有の歪な禁欲的空気が蔓延している証拠である。発信し難さが、一方でウェブサイトで幾らでも本音を書き込めるにも関わらずリア充的対人関係では支配的な証拠である。
だがそれは危険である。つまり情報発信力と本音吐露的な自由さ自体が却ってリア充的な抑制的空気を醸成しているのなら、ウェブサイトに過剰に依存することを悪しきバロメータとする様な倫理観とか生活感情を持つべきである。ウェブサイトの有効利用とは、ウェブサイトの利用に依存し過ぎないということに尽きる。
ウェブサイトで余りにもいい子ぶって演技し過ぎても、それはそれで策略的なメッセージしか発信出来なくなるので控えた方がいいが、余りにもその都度の突発的な情動に従順にメッセージを発信し過ぎると、リア充的対人関係や社会生活で、その鬱憤晴らしの反省から偽装的態度に陥りやすくなる。リアル社会生活で欲求を圧殺し過ぎても、逆にウェブサイト上で良い子ぶり過ぎて偽装的態度を取り過ぎても危険なのである。
実は我々がある部分では心地良い本音的メッセージに惹かれるのは、ある種本音的な原初的メッセージ自体に、社会的通念や常識や良識といった検閲されたものではない生の欲求、つまり悪も多く含む本音が控えているからなのだ。
無修正の未完成メッセージこそ、あらゆる意味で善も悪も一緒くたになった混沌とした原始的パワーを秘めている。それは無修正ポルノを一人密かにPCの画面で観るのと似た迫力を感じ取れるのだ。
出版社とは言ってみれば検閲機構の最たる存在である。社会一般で受けるとか、社会一般で良識ある意見しか出版させない。それは用意周到な検閲機構なのである。校閲といった所業は生なメッセージの毒抜き作業である。それはあらゆる層に万遍なく伝達されるメッセージが共感されることを旨としている。しかしロングテールビジネス定着以降の現代社会のメッセージ伝達は各層にそれぞれ全く異なったメッセージコンテンツを配信する事に拠って成立している。西松屋は子供服専門のホームセンターであるし、薬局から大型スーパーに進出したウェルパークもマツモトキヨシもダイエー商法も参考にしてきただろうし、その店舗形態の多様性にビジネス的命運を賭けてきただろうと思われる。
ロングテールビジネス的な展開は恐らく全分野で応用されている(何もアマゾン商法だけではない)。
この多様化と一部の消費者のニーズに拠って細分化させて多層的に経営する戦略は完成という形態が社会全体に適用されないということを意味している。勿論日本の場合伝統的な地方毎の産業基盤は存在する。だがその地方毎の特色を維持する為にもあらゆる新機軸的なイノヴェーションを要求されている。つまり稲作であれ畑であれ農業全般が減反政策的な範疇から逸脱する様に展開していくしか生き残りの道はない。
完成とは例えば先述の出版物での完成形態のタイプだけでなく世界、社会全体のインフラにも言えるのだ。何故なら検閲された前例踏襲主義的なタイプの商法やイノヴェーションを作為的な欺瞞を感じ取ってしまうということが現代人類の顕著な特徴だからである。
矯正的威圧から解放されたいと感じているのは個人の感性だけでなく消費者自身が各人サーヴィスに対しても感じていることなのだ。
そのアイディア的な発見を我々はSNSで仕入れている。これは確かである。其処ではあらゆるタイプの情報が発信されている。当然自分が理想とするものばかりでなく玉石混淆なのだ。その雑居、同居性に意味がある。端的に怪しげな情報やガセネタ的に悪辣なもの、如何わしさや危うさも沢山閲覧出来る。その雑多なリアルから掴み取る自己にとって真に重要な情報という選択努力に意味がある。
この不完全性、未完成性こそ悪の履行をも可能とする人類の感性の磁場となっている。何故なら本当に説得力ある善とは観念的な善ではなく、小さな悪とも共存している。悪の一滴も含有されていない善は偽善的なるもの、欺瞞的なるもの以外ではないと我々は充分承知しているからだ。魅力とは不良性にある。率直に検閲される時削除される要素こそが魅力なのだ。
もっと言えば魅力ある何かとは小さな悪を含有している。これをSNSでは読み取れるからこそSNSは無くならないのだ。校閲、検閲とは言ってみれば小さな悪を根こそぎ欠点のないものにしていく志向がある。つまり小さな悪や多くの欠点もあるけれど、何か一点凄く魅力があるという事態から、悪も無ければ、欠点も一切無いけれど大いなる魅力も一切感じられないものこそ検閲済みのものである。善を一切損なって迄も一切の悪を除去しようとする校閲、検閲自体は律儀な官僚のする最も一般的な作業である。
迫力ある魅力ある何かとは必ず凡庸な正しさにはない悪があるのだ。これをまず認めていく必要がある。これは精神的な意味で必要不可欠な必要悪なのである。詰まらないものは無性格なものである。それは悪がなく健全かも知れないが、それだけなのである。
本格的な長所や大いなる魅力とは必ず悪と抱き合わせであると認める所からあらゆる商品やメッセージやサーヴィスを考えていくべきである。勿論此処で言う悪とは社会的な意味でインモラルな何かである訳ではない。
要するにある意味では不首尾で微々たるクレームに対しては確かに欠点も多いが、一部の徹底的に絞られたニーズでは最大の価値である様な何か(世間ではスリムやグラマーな女性、イケメンの男性だけがニーズがあるとは限らない)を個々別箇のアイテムとして用意しておくべきなのだ。
不完全性、未完成性に魅力を感じる現代人は一方ではアート抽象絵画作品等で極めてスキルの高い完成度を求める感性と実は抱き合わせである。そういうものを一方で求めるなら、逆にそれ以外では不完全で未完成なものを愛好するという感性でもある。音楽で完全性を求める者はアートでは荒削りなものを感性的に求めるということもあり得る。そういった相互転換的な完成思考と未完成思考の共存は無限なヴァリエーションがあり得る。価値は多元的であり、多層的なのである。(つづき)
Monday, January 26, 2015
第六十八章 時代は作られるPart5 整えられた秩序に懐疑的になる現代人
意図論の(第三十六章 正論と邪論の混淆した情報社会)で私が示したSNSで現代人に拠って呟かれる本音的部分とは近代迄はずっと人類が抑圧してきた部分であり、それは言ってはいけないことも多く含んでいる。だが現代人は既に表現の自由等の権利を普通に享受しているので、それを呟く事も、呟かれたものを読む事も自然な感性で生活している。つまりそういう風に格式ばった言説から能天気でどうでもいい様な空談、暴言に到る迄何でもありのSNSの掲示板、TLを閲覧する事を自然なものとしている。と言うことは、近代迄人類は只管そういった雑然とした事をいけない事だ、きちんとした正式なもの以外には価値等ありはしないと決め込んでいたのだが、それは可笑しい、日頃の本音的部分のメモなんかの方がずっとある意味では価値があるということを気づき始め、それを誰しもが自由に閲覧することを可能とする様に現代ウェブサイトが機能する様になったのである。
正式の論文にする前のメモは凄く面白いのに、実際にきちんとした形にしてしまうと、メモにはあった面白さが全て省略されてしまう、つまり省略した部分こそが一番読み応えがあるのに、正式とかきちんとしたという整えられた秩序の方を重んじる事自体が近代社会の一つの理想だったのかも知れない(尤も絵画等では文章より早く印象派の様な自由な表現の空気は訪れていたのだけれど、芸術はあくまで形式的常識的社会に対するアンチテーゼ的な認識をアーティストが持ちやすかったのだが、文章の世界ではそうは行かない、もっと保守的な通念がなかなか払拭し得なかったのだ)。だが現代になってようやくアーティスト達が近代に様々な冒険をしてきた事を文章でも出来る様になった。しかもそれは一部のインテリ達の手に拠ってではなく、全ての普通の市民誰しもが自由にそれを出来る様になったのだ。そして一旦そういった自由を獲得すると、きちんと整えられた秩序の方を不自然だと思う様な感性が定着しつつある様になってきている。
一人の人間が一見統合失調的である様に思える部分さえ、実はそうでなく、それは誰しもが持っている事なのだが、それを必要以上に抑圧する事で得られている安定自体が、恣意的で不自然な事であると思える感性の方が伸してきている。それは去年の県会議員の公費私的流用疑惑に返答する前県議である野々村竜介氏の泣き喚き会見でも顕在化していた。ああいった態度で臨む事は理性のレヴェルでは大人気無く恥ずかしい事であるが、恥ずかしい事を敢えて自己陶酔しながらする事で却ってそちらへあの会見を観ている人達の意識を移行させる巧みな、と言うより狡い選択を敢えて彼は取った。だからその敢えて狡い事を履行する事にそうしながら段々自己陶酔し、無我の境地になる事自体で自己存在をアピールしようとする。それはどうせもう辞めていくのだから、それぐらい許された然るべきだという傲慢も控えている。しかし実際あの会見の統合失調的態度は皆の記憶の中に残ったのだ。それは彼が議員としては怠慢であったにも関わらず、ああいう辞め方をしていったという意味で印象付けられてしまったのだ。
寧ろあの時凄く理性的に会見での質問に応答していたら、あの議員のことだけなく公費私的流用の件自体も徐々に忘れられていっただろうが、実際はそうでなく、寧ろあの醜態に拠って鮮明に我々の記憶に残っている。つまり彼は世代的にもネット社会に極めて普通に順応出来る世代で最初の中年だったので、現代人の整えられただけの秩序に不自然さを感じる感性をストレートに出しても自分自身としては何等可笑しい事ではないという存在主張をしている。
現代人はSNSを見慣れていて、正式とか格式ばったこととか、きちんと本格的である事自体へ懐疑的感性を巣食わせてしまっているのだ。一旦そういった自由な感性をかなりそういった手段の無い時代では堅物で押し通してしまっていた様な全ての成員が、そんなものに本当の出会う価値等無いのだと思える様になっていくと、正式とか本格的とか秩序立った理性等の方がずっと疑わしいぞという価値判断さえ我々は持ってしまえるのだ。
統合失調でない健常である状態とは、実は本来凄く存在的にも矛盾している我々が勝手にでっちあげてきたいい子ぶった態度でしかないのだ、というメッセージとして全てのSNSのTLが日々延々と閲覧可能であることの現代情報社会では統率されている、きちんとマナーを踏襲する様に教育されていること自体を不自然でしかないという、まさに東浩紀が<動物化>と言った事の方が却って人間らしく、人間らしいと言う事の方がずっと不自然で訓育されているだけの事であると判断する様になってきている、とは言える。 それは恐らく様々な局面で大きな文化的転換点を人類に齎しているのではないだろうか?ゲームソフトが映画の内容や編集等の感性に大いに影響を与えている様な意味でSNSの呟きの解放的な気分が正式であること、本格的であること、きちんと仕上げられていること、つまり完成されたという感性自体を大きく転換させていると言える。 従ってこれから数十年後では論文であれ公式文章であれ、以前迄の様な型通りのものさえかなり大きく変化していくものと思われる。だが儀礼性とか伝統とかそういう事は、ではどうなるのだろうか、という問い自体もかなりきちんと論議される様にはなっていくだろう。それはかなり保守的見解からの危惧という形でも噴出するだろうし、だがやはり変えていくべきは変えていくべきだという観念でその論議に参加する人達もかなり多いだろう。そういった喧々諤々の論争の時代はもう直ぐ其処迄来ている。
Wednesday, January 21, 2015
第六十七章 時代は作られるPart4 幼稚なメッセージ、小物に踊らされる人類の季節
現代世界は国家民族の違いを超えてどの宗教文化圏も完全に社会性、つまり他者と共有し得る何等かの価値という形で人類が画一化していく方向を選択している。つまり教育と社会インフラへの同化とに拠って公的基準に全てを合わせる形でのみ、人の幸福も生きる価値も規定され、努力して達成する目標がどの国家社会でも設定されている。要するにそれは現代科学のテクノロジーを最大限に利用する形で世界基準を目指す事を理想としており、それを善としている。科学生活者主義とでも言うべき合理性で統一されている。だからこそ昨今のイスラム国やボコ・ハラム等の過激派の行動が目立ってしまうのだ。
だがこの稚拙な全く正当性を欠くテロリズムの仕方はオウム真理教でも体現されていたし、個人の猟奇的犯罪、日本では宮崎勤連続幼女殺害事件、長崎幼女連続殺人事件、秋葉原通り魔殺人事件等でも体現されてきた。それに加え大人社会の模範となるべき政治家が公費乱用に関する謝罪会見で統合失調的態度を自己陶酔的に行う(野々村龍介前兵庫県県会議員)といった失態がネット上、メディアで大きく取り上げられ、所謂人類全体が集団、組織であれ個人であれ幼稚な存在であるというアピールをする事がマスコミやジャーナリズムを翻弄している。今回の日本人人質の釈放に対して二億ドルを要求するイスラム国の暴挙も全く手続き的な正当性を欠く幼稚な仕方である。
しかしそれは前述した科学生活者主義的な数値目標設定、日本で言えば偏差値等の偏重的システム、つまり合理主義的社会運営自体への人類のストレスが誘引している要素は否めない。つまりあらゆる統一的社会合理性へ自己を当て嵌めていかなけれないけない暗黙の使命感へストレスが沈殿して、それが一気に爆発しているという状況が現今の人類の姿ではないだろうか?
幼稚な存在へと格下げされている人類の姿は一国の首脳が幼稚な仕方でのウェブサイトを利用したテロリスト集団に翻弄されていて、大物とかリーダーという立場の人達の面目を失墜する形でのみそういったテロリスト集団を活気付けている。つまり昨今の19歳の少年に拠るyoutubeへの悪乗り投稿の最たる形での爪楊枝商品破壊行為にメディアが数日ずっと翻弄され続けたが、これはメディアを翻弄させる事が稚拙な少年でも可能であるという現代社会の喜劇的様相を如実に示している。
確かに70年代から80年代にかけてもミージェネレーションとかミーハーという世代論は在ったし、オタクという語彙が定着していった時代もあった。それ等全てを総じて人類の幼児性の噴出と捉えれば、人類は一方では数値目標に雁字搦めになって其処から脱出する事が出来ない状況にあって、だからこそ逆にそのリアルに反発する潜在的欲求が他方では幼稚なテロリスト集団、それはイデオロギーや大義や義憤より余程突発的衝動に身を任せた仕方に転落している訳であるが、そういった短絡的思考が支配している衝撃性にだけ意識が志向しているし、目標も愉快犯的要素が強く、そういった傾向へどんどん偏重していっている。
社会全体の合理性から言えば甚だ乖離してしまっている幼稚な方法に拠って瞬発的に社会や世相を混乱させる(それは韓国大企業の経営者ナッツ姫の旅客機滑走引き戻し事件にも顕れていた)トピカルデヴィエイトメッセージになっている。
テロリスト、メンヘラ的なオタク等が本来なら価値とされなかったのに、全ての既成価値へ懐疑的視点が注がれていった結果、小物達が個々自己主張して跋扈し、大物とか安定した志向の大人を翻弄するという図式の社会様相が世界的に実現してしまっているのだ。小物とは常に思想はない。それはエゴ丸出しであり、節操も無いし狂信的なアイドルや教祖を求める。その魁こそオウム真理教であったが、犯罪の動機も身勝手で幼稚であり、その大人的態度との乖離こそ、実は全てのジェネラリスト的感性を嘲笑う超絶的専門分化とオタク的な感性との境界の無化に拠って助長されてきている、というのがここ数十年の世界の一般的傾向である。経済社会でも80年代のリクルート事件から0年代のライブドア事件に到る迄徐々に子供のエゴ丸出しの気分が日本社会でも増幅されてきた。マネーゲーム的情報社会からオタク経営成功戦略的ゲーム社会へと推移してきたこの三十年の日本史とは、大義や義憤より、より白けた無動機主義、衝動的トピカルメッセージ主義、まさに社会世相や時事性に於けるモブフラッシュと幼稚なテロリストゲームとの境界さえ曖昧になってきている。つまりこのクリエイティヴである風を装うモブフラッシュの話題性とテロリストに拠るウェブサイトのyoutubeその他をフルに活用した脅迫ゲームとは深層心理では人類社会全体では共謀しているのだ。
つまり人類全体が価値論的には既に本物主義とか本物とか本格的な事とはあるのだ、という無思考的で判断停止的なアカデミックな保守主義全体へ懐疑的なのだ。偽物とか出来合いの思想の方にリアリティを持っているのはフィギュアやラヴドール等を愛好する現代人にとっては尤もな事である。アイドル追っかけや秋葉系のコスプレショップやメイド喫茶で王様気分のエゴ丸出しの欲望を発散させて喜んでいる現代人はオナニークラブの様なフーゾク店が流行ったかと思えばそれに飽きて再度パラパラステージに魅せられたりして、要するに全てのファッションがサブカルへと浸食し、やがて文化全般を幼稚な感性で染め上げ、オタクと専門家の間の境界さえ無化しつつある訳だ。しかしそれ等全ての社会現象や世相や時事的な特質も、実は最初に述べた経済合理主義と偏差値的エリート選抜をする科学生活者合理主義への極度の同化的強制への進化スピードの加速化に拠る人類全体のフラストレーションが後押ししているのである。
だからこれからも時々シャルリ・エブドの襲撃事件等一連のテロ行為は、中国でウィグル族の自爆テロが起きる様に散発的に繰り返されていくだろう。アメリカでコロンバイン等をはじめとして時折衝撃的な銃乱射事件が起きては沈静化し、忘れた頃に再発しという様な繰り返しがかなり長期に渡って持続するだろう。
最早世界的規模でマスコミもメディア自体も理性を失いつつある。幼稚化現象は既に国家元首から科学者(STAP細胞問題に象徴されているが)から官僚等に到る迄、要するにテロを取り締まるエリート層全体にも恐らく蔓延している。と言う事は一般大衆とエリートの二層構造は確かに経済格差的には体現されているが、肝心の精神性では殆ど無くなっている。だからこそ時としてTwitterで暴言をツイートして失職する様な人達が登場し、議会でセクハラ的発言をする事で社会問題化したりするという事も繰り返されるのだ。
しかしそれ等も全てブロードバンドが世界中を覆っている現在、電波の交信全体が人類の脳細胞の何等かの部位を破壊していっているからこそだ、とも言えるのだ。だがそれを人類は未だ暫くは伏せておこうとするだろう。何故なら全ての幼稚化を否定したら、どの社会成員も生きていけないと知っているからである。つまり正規社員も非正規社員もエリートもメンヘラニートも全ての社会成員が共謀してこの幼稚化、オタク化的な人類志向を否定出来ないというある種の諦め的気分にあるからである。それはマシーンそれ自体が人類の感性を劇的なスピードで変化させつつある証拠である。実際医療的進化に於いて人類はサイボーグ化していくだろう。それはその進化の止められなさに順応する様に全人類が構えているからである。
それは言ってみればマゾ的にツール・ディヴァイスの利用快楽に身を委ねる感性のサーファーに人類が率先してなってきている、という風にも言い換えられるだろう。
Saturday, January 17, 2015
第六十六章 時代は作られるPart3
フィクションは観念的なリアルに対するシンボライズ的処置であり、抽象的理解から齎されるリアルへの反省的な意識を掻き立てる脳内快楽的なゲームである。
だがこれ程現代社会はメディアとツールとディヴァイスの氾濫がリアルに実現すると、今日逮捕された爪楊枝で商品を悪戯したり万引きしたりする愉快犯は道具利用の快楽、つまりスマホやメガネ型カメラ等の使用そのものの快楽の為にだけ為される犯罪が多発していってしまう一つの犯罪例でしかないという感じを誰しも抱いてしまう。これはグリコ森永事件等の勃発を許してしまった日本社会の一つの必然的な展開である。
脳内快楽的ゲームはリアルが深刻な核戦争とかであるなら桃源郷を希求する我々の心理を擽るものへと進化するだろうが、其処迄は行かず(それを実現させてしまったら、広島、長崎の再現となって人類自体が物凄く大きな後悔を味わうと誰しもが思っているから)しかし常にその一歩手前迄なら外交ゲームで展開していってしまう常にスリリリングな危機触発一歩手前性だけは享受することを全人類が了解し、その18世紀や19世紀初頭的な牧歌的な過去への引き戻せなさを何処かでは密かに憂えていて、そのリアル自体に狼狽える我々にとって、ディヴァイスとツール利用自体がウェブサイトを通した唯一の日常的な利用、寧ろもうウェブサイト自体に我々が酷使されてしまっている様な生活習慣を我々が了承してしまっているのだ。 余りにもこのウェブサイトを通したディヴァイスとツールゲームがリアルタイムでリアルであるが故に、それ以上に観念的なリアルに対するシンボライズ的処置、抽象的理解から齎されるリアルへの反省的意識を掻き立てる脳内快楽ゲームというフィクションさえ、牧歌的なものからより強烈な印象のものを提供することへ全体的には移行していってしまう。河原温の初期ドゥローイングはまさにそういった右往左往する古の感性をどんどん剥奪されてメカニックなマシーンに酷使される日常を嘲笑する視点を既に50年代に予感した絵画表現を鉛筆をメディアとして利用して提供していた。そして河原の想像通りの社会が実現してしまっているのだ。 勿論日本映画は『寄生獣』(山崎貴監督・VFX)的なものだけがメインストリームではない。当然『くちびるに歌を』(三木孝弘監督)の様なものも上映されている。一方では映画テクノロジーを最大限に駆使し、古典的な愛をテーマにしつつもスリリングさを観客に提供するかと思えば、他方では青春の群像を素朴に提供する。しかしその双方はやはり決定的に現在時点の人類の不安に拠って掻き立てられている。つまり不安除去という脳内装置への処方が旨となっているのだ。それは映画を鑑賞する観客自身が一番よく知っている。つまり一旦映画館を出たら、其処では無数のウェブサイト上での情報送受信が行われていて、電波が世界中に飛び交っていて、その忙しさ(busyness)が我々の認識をより常に意識レヴェルでも最上級の緊張状態(それを日本人はテンションtensionという語彙の頻繁使用で示している)を維持し続けなければいけないし、そういうリアルに引き戻される事を我々は知っているからこそ、一時映画に逃避するのだ。映画がメッセージであった様なATG映画全盛期の70年代の世相や時代全体への批評精神は寧ろ今ではすっかり反体制性を剥ぎ取られ、寧ろ積極的にウェブサイトビジネスに拠って世界中がツールとディヴァイス利用幻想であたかも疑似一体化していく人類の共時的な同時代性を共有する幻想を益々納得させる為の装置に表現全体が転換していってしまっているのだ。其処では共同体的な幻想は益々磨滅させられている。 私は何もそれを憂いている訳ではない。寧ろ70年代的幻想が実は世界の何も変えなかったということを寧ろ現代映像表現のウェブサイトビジネス展開する世界的共時性の太鼓持ち的存在の仕方自体が証明してしまっているからだ。だから映画監督達がある種の職業的幻想を持ち得たのはせいぜい80年代迄で、それ以降は『PARTY7』を監督した石井克人監督が示した様な過激なメッセージ性を通過した2000年辺りから徐々に映画はリアル共時世界の反映体でしかあり得ないと諦観を積極的に示し始めた。それから15年が経った。今や河原温の浴室シリーズをはじめとする初期ドゥローイングで描かれた犇めいて蠢き存在する日常生活者達が<密集>という自己身体とウェブサイト双方から雁字搦めで剰余を剥奪された日常それ自体に積極的に快楽的に臨んでいるというリアルをその侭提供する表現へと、所謂監督のヴィジョンを思想的に提示する世界への映画批評性から離脱して、益々リアルな反映体へと転化してきている。 フィクションはあくまでフィクションであった時代は80年代迄で終了し、それ以降人類は寧ろゲームソフトの持つスピード感と編集的なカットバック切り換わり感が前面に押し出された様なタイプの時間感覚の映画がメインストリームとなってきた。それはフィクションを離れた時にウェブサイトが提供する情報送受信性それ自体へ円滑に引き戻る事が容易である様に取り計らわれた配慮の映画内容であり、製作意図の表現なのである。だから私は映画はリアル世界の反映体を積極的に担う様になってきたと言ったのだ。 フィクションは今やリアルに対する観念的な脳内快楽のゲーム等ではなく、それ自体も一つのリアルなのだ。つまり70年代や80年代に映画表現自体に文化的可能性を感じ取っていた人類は、寧ろそれは幻想で、文化に等なり得ようもない、そもそも文化自体が安穏と成立可能なリアル等では既に無いという事実だけを覚醒させる装置に映画が転化してきたのだ。 今回は映画をメインに述べてきたが、次回は文学に眼を転じてみよう。しかし恐らく文学も文化それ自体を安穏と享受する心の余裕を失い、完全にリアル情報送受信ゲーマーとしての人類成員意識を覚醒させる事に役立つ装置へと転じてきていると証明することとなろう。ほのぼのとした心理で映画を通したヒューマンなほっこり性を味わうという時間的ゆとりを与えないタイプの娯楽装置を提供する映像ビジネス自体が恐らく文字表現も大きく変化させてきている、ということに我々は気付くであろう。 付記 映画をよく登場させてきたのもどうしても現代文学の持つ特質を理解する為に映像文化全般の方向に就いて触れずには居られないからであるが、今回は爪楊枝愉快犯の少年逮捕のリアルから触発されて記事を突発的に書いた。つまり映画的リアル(フィクション)とリアルの境界への確固たる認識を喪失して映画的リアルを現実化させてしまう愉快犯少年を生む時代が逆に映画の性質を決定している、という世界批評的映画理性の消滅と、ダイレクトなクリエイターのリアル反映的リアルを今回は示したつもりである。(Michael Kawaguchi)
Sunday, January 11, 2015
第六十五章 時代は作られるPart2
20世紀は明らかに前半の二つの世界大戦の人類の経験に拠って文藝活動は概ね空虚さをテーマとしたものだったと言ってよい。サミュエル・ベケットの<ゴドーを待ちながら>は二人の男がゴドーを待っているのだが終ぞ彼は来ない。又サルトルの<存在と無>では死に拠って全てが奪われてしまい後には何も残らないという形で神の不在を徹底的に示していた。アラン・ロブ・グリエはアンチロマンという形式で小説の持つロマン的性格、つまり希望を持たせる様なハレ的な何物も期待させず、起承転結ではない無展開性を示した。それは彼の映画でも同様である。又ゴダールは即物的日常の中で突如挫折し死ぬ人間の像を映像化した。それはとどのつまり全ては空虚であるという世界観に彩られている。それは戦争の世紀に拠り何時突発的に死が到来するか知れたものではないという感性に拠って正当化された表現なのだった。
キューブリックは<時計じかけのオレンジ>で暴力が日常に於いて潜在的に巣食っている様を描いたが、それは未来への希望を打ち砕くと言うより、寧ろ夢や希望が成立し得ない日常を引き受けようという姿勢の方が鮮明化されたスタンスの映画哲学だった。
現代アートは日本では具体美術協会がモダンアートムーヴメントの仕掛け人となって、後にフルクサス運動の一環としても認識されるハイ・レッド・センター(高松次郎+赤瀬川原平+中西夏之)のイヴェントの連鎖が不在ということを炙り出した。不在はサルトルが<存在と無>で示した命題でもあった。とりわけ高松は影のシリーズで影とは遠近法的に我々の身体等の実在が遠ければ小さく見えるのと正反対で遠くなればなる程大きくなっていくつまり逆遠近的現象であることで、実在に対する鏡の像の関係があり、その非実在的リアリティが実在の充実より充満している反転現象を図式化した。此処でも空虚ということがクローズアップさせられていた。
アンディ・ウォーホルがシルクスクリーンでコカ・コーラの瓶をあしらって油彩画にしたりして、巨大な紙の平面に転写させた時反復される商業資本主義のコピーであると同時に、主題とか命題といった大仰な正統性への明らかな疑いが其処には介在していた。此処でも存在の充実であるよりは、機械的に流れ作業的に反復されるイメージをダイレクトに提示する事で空虚感を醸す効果を作っている。それは退屈さ、最大限に文学的にしてみたところでせいぜい倦怠的な充実しか作れない世界像である。
つまりそういった一連の20世紀文藝の様相とは明らかにアンチ的なメッセージなのだった。否定の美学、肯定への極度の懐疑が20世紀芸術、文学、演劇、映画等の底流にある精神なのだった。
だがそういった時代から早80年代辺りを境界にして30年以上が経過して21世紀も徐々に中盤へと近づいてきている。そして21世紀とは前述の20世紀的な空虚を如何に乗り越えるかを人類全体が模索する時節にあると言ってもいい。
勿論世界はそれ程悠長な文化的香りに満たされている訳ではない。様々なイスラム原理主義テロリズムが世界中に横行している。つい先日もフランスのジャーナリズムが標的となった。アメリカ合衆国大統領オバマ氏はフランス支持を敢えて訴えた。存在の空虚さ自体が一種の欧米先進国の特権的なロマンであるという事を見せつけるかの如く群雄割拠的なイスラム原理主義テロリズムは十歳の少女を強制的に自爆テロ犯に仕立てあげる程の残忍さを示した(ボコ・ハラム)。
欧米先進国は今日のウェブサイトが世界中を張り巡らされた時代に秘密裡に各原理主義グループが連絡を取り合っている事を想定しているし、純朴に彼等に対して欧米先進国への経済力的な格差の不満をぶつけているとだけ思っている訳ではない。ことはイスラム教とキリスト教へと分派していったユダヤ教旧約聖書に示されている古代史の流れの中に既に現代のイスラム教原理主義対欧米先進国の表現の自由という対立は兆していたとさえ言える。宗教戒律的な対立は資本主義とか自由主義とかいった経済社会的秩序を嘲笑うかの如く根の深い対立を用意する。つまりどの国のどの民族として生まれてこようとも誰しも決して自分の性別同様、生まれてきた国家や民族史的な背景を選択して生まれて来る訳ではない。つまり生まれた国と土地と民族を選んで生まれて来られる訳ではないのだ。だからこそその決定的運命の前では誰しも平等である筈である。にも関わらずその平等性は必ずしも宥和的でも友愛的でもなく、対立図式に反映されながら顕在化してしまう。
水の少ない土地で食文化から居住文化の全てを育んできたアラブ系民族と比較的容易に水が手に入る欧州とでは必然的に(勿論日本の様に常に清潔な水が容易に手に入る土地ばかりではないものの)生活感情的な齟齬は生じて来るのだ。砂漠質の土地と農耕に適した土地とでは育まれる宗教思想にも大きな違いが生じる。しかも常に経済援助をするのは欧米キリスト教圏であり、経済援助され、独裁国家が発生しやすい土壌にある中東国家群は欧米型の資本主義も自由主義も育まれてきた訳ではなかった。
世界の対立図式は斯様に双方で歩み寄る事を困難にしている。しかしそれでもウェブサイト自体は利用する民族を選ぶ訳ではない。イスラム教徒もヒンドゥー教徒も仏教徒もキリスト教徒と同様にそれ等の恩恵を被る。しかしイスラム教原理主義過激派に対して対決姿勢を鮮明化させたアノニマスは明らかに欧米キリスト教圏の人達に拠る営みであり、その参加者にアラブ系の人が居たとしてもスタンスは欧米寄りである。この二重の世界の二極分離性はイスラム国に大勢の欧米人の青年も参加している事に拠って益々複雑化している。つまり生まれた国家や民族は選べないがイデオロギーや思想は選べるという思想だけで全世界が統一されているという事実を世界中に徹底化させた当のものこそウェブサイトであり、全世界に配布されている様々な日常的ツールとディヴァイスなのだ。
その点では20世紀のロマン主義的残滓でもある空虚さの表現は21世紀では余りにも既にリアリティという意味では実効性を欠いているのだ。何故なら20世紀文藝表現とはあくまで未来予想的な空虚さだったのに対し、現在の世界、つまり21世紀リアルとはその夢想を遥かに超えるシヴィアな残虐さとあっけらかんとして荒唐無稽な非理性性に彩られているからである。21世紀は既に全ての想念の実現可能性が、それも極めて残虐な行為をゲームソフトで見慣れ切ってしまった現代人の無節操さで加速化されており、既にユーターン不可能な地点に迄到達してしまっているのだ。中華人民共和国という国家としての存在も、シリア等の独裁国家群の存在も既にロマンを一切成立させない人類の欲望を実現化させてしまっている。何故アメリカ合衆国だけが経済的繁栄を享受しなければいけないのかは既にイラン革命でもメッセージ化されていたし、ソ連崩壊ロシア化された大地でもチェルノブイリ原発事故、そして合衆国のスリーマイル島原発事故でも世界中のエネルギー政策の一元化的なノー・ディヴァイス性の前で、既に空虚なロマンを表現世界で耽溺するゆとり自体に我々は全くのリアリティを喪失してしまっている。ある意味では具象画家であるフランシス・ベーコンの肖像画の顔の様に歪んだ知覚像の様にしか世界を見る事が出来ないのだ。それは希望とか展望とかより一層強烈なサヴァイヴァル的恐怖を人類に与えている。それが一方では9.11の同時多発テロとして、他方では自然災害として3-11の東日本大震災という形で、人工自然両面で展望よりサヴァイヴァル的恐怖を駆り立てる方向で全てを悪しく実現させてしまったのだ。
従って21世紀も中盤へ徐々に接近している人類にとってのリアリティは空虚ではなく、空虚ささえロマンティシズムの一端でしかないと思わせてしまった過酷な現実の中でどう文化的な営みを持続させていくべきかという剰余的な社会思想を全人類的規模で模索する時節に入った我々にとって真のリアリティとは余りにもフィクション的過ぎる嘘の様な現実だけに取り囲まれた世界で、どうフィクションの持つ実効性を取り戻していくかというダイレクトな表現のメソッドをゲームソフトに引率されてきたここ十数年的な回路以外にどれくらい豊かに創出し得るか、それは実践的な娯楽感性の復権の文化思想である、と言えるだろう。
だがそういった文化思想はやはり現代世界では経済動向とも無縁では成立し得ないだろうという予感だけは確実にするので、次回は世界経済の中で成立する文化思想、娯楽思想に就いて考えていってみよう。
Wednesday, November 5, 2014
第六十四章 時代は作られる Part1
前回のシリーズは再度アート体験を私なりに積み重ねた後に引き続き行っていくこととして、今回はそういった現代アートをも生み出した二十世紀を再度振り返ってみたい。
現代アートが戦後アメリカ社会でNYを中心にビジネス的に大きなグローバリズムの波を作った事は投資ビジネス等で巨万の富を得たジョン・ピアポント・モーガン等の存在を抜きに語れない。メトロポリタン美術館は彼の寄付等に拠って作られている。
しかしそういった財閥のパワーがアメリカアズ№1というステイタスシンボルとしてアートの理解者として君臨する事で、様々な現代アート運動が花開く事は、寧ろ財閥自体を多くの若者に拠るムーヴメントが自然発生的に沸き起こった事が触発したと言うに尽きる。つまり財閥が仕賭けたのではなく、財閥はそういったムーヴメントが沸き起こる予感と、兆候を読み取る事で利益を得ようとしただけであり、若者達が新たな価値に飢えていたという事実を見逃す訳にはいかない。勿論全ての若者がそういったムーヴメントに参与していた訳ではない。昨今京都大学の公安の警察官が集会に居て、集会を指示する学生達から逆に質問追及された事件が報じられたが、警察官や行政的任務に就く大勢の若者達も居る。従ってそういったムーヴメントは比較的富裕層の息子や娘達に限られていたとも今振り返れば言える。
彼等はアメリカではアイビーリーグ等と呼ばれる中流資産家の息子娘達であり、彼等の親の世代から独立しようという機運が色々なムーヴメントを後押ししてきた要素が強い。その中にはアートという特殊なニッチマーケットとは違ってもっと巨大なビジネスとなった音楽シーンがある。ロック&ポップスは未だに多くのファンを惹きつけているが、彼等ミュージシャンの動向がアートの様な特殊なスキルと表現メディアへも影響を与える。演劇や映画もそうだし、日本では特にマンガ等のサブカルもそうであり、アニメ自体が凄く隆盛を極めるのもアメリカではディズニー発であり、それを輸入した日本が手塚治虫、松本零士、宮崎駿、浦沢直樹等の天才達を世に送ったが、それ等全ての起爆剤として戦後民主主義の自由と平等のアメリカ合衆国理念発の若者のムーヴメントが在った。勿論ディズニーも手塚もその世代よりは上である。しかし自分達が仕事をして活躍する中でそれらのムーヴメントから影響を受けなかった訳がない。手塚で言えば「鉄腕アトム」の時期には既に公民権運動も激しくなりつつあったし、その事が後に「ブラックジャック」等の作品に固有のシニシズムを生む事となったと言える。
日本はよりアメリカのムーヴメントに敏感だったが、実は台湾も韓国もヴェトナムもそれぞれ(とりわけヴェトナムはアメリカと戦争をしたので、戦後はその経緯を踏まえ再建の中でアメリカの若者ムーヴメントに対してはそれなりの意識を持ってきただろう)固有のアメリカのスピリチュアルムーヴメントを咀嚼してきたに違いない。
しかしアメリカは先程も述べた様な巨大財閥が犇めく世界経済戦略の発信地でもある。その点では常に世界経済の牽引者としての地位と、そういったグローバリズムが齎す弊害へのシニカルな批判者が共存する地だとも言える。その点での屈折は日本では余り無いと言っていい。アメリカ程極め付けの階級社会的なものは日本ではない。全中流化、全小規模資産家的国家である日本では荷重な労働で精神的に疲労困憊しつつ自殺をしたりする例の方が多く、それは下級管理職に集中している。その意味では小泉構造改革が齎した負の部分が今もずっと燻っていると言えるし、自殺者の自殺率もアメリカより日本の方が大分上である(因みに韓国や中国の方がもっと上である)。
この一国内に世界経済の金融資本主義を後押しする保守層とそれを批判するインテリ、中間層の共存という常に捻じれた構造は先進国全般に固有の精神的屈折を生み、それが多くの若者のムーヴメントを後押ししてきた面もかなり強い。アメリカでは人種差別と戦争、そして経済格差が色々なムーヴメントを生んだが、70年代以降はそういったムーヴメントの牽引者達が巨大な資産家の仲間に入っていってしまい、結局音楽もビジネスとして完成されてしまったのだ。つまりモティヴェーションとは常に人間が若者から中年へ移行していく様な時の流れに拠って徐々に大きく変質していくし、初期のハングリー精神は徐々に磨滅していく運命に全ての表現者があった。勿論世界という事を射程に入れれば今年ノーベル平和賞を受賞したマララ・ユスフザイさんの国パキスタン等では未だに男女同権ではないし、教育の機会さえ均等ではない。その意味ではかつてアメリカで沸き起こった文化的なムーヴメント(モンタレーポップフェスティヴァルやウッドストックコンサート等のサマー・オブ・ラヴやフラワーパワー、ヒッピームーヴメント)は今後東南アジア諸国で沸き起こっていくだろうことも間違いない。その一つの兆候は選出される議員が殆ど中華人民共和国の共産党本部の人達だという事で学生や市民がデモを起こしている香港が発火点になる可能性も充分にある。今後この香港の政治的ムーヴメントが台湾等とどの様な形で連携されていくかに拠って2010年代以降の文化ムーヴメントの将来がある程度決定すると言える。それは継続されていくのか、無残にも潰されてしまうのか、それは未だ分からない。しかし少なくともかつての文化ムーヴメントを担った人達が全員老齢化している昨今、音楽シーンも完全にビジネス化してしまっている(その発端はビートルズでもあるし、マイケル・ジャクソンに拠って決定的となったが)現代で、その中でどれくらいのモティヴェーションを構築し得るか、それは当然かつてのムーヴメントとは異質の時代性格と異質の根拠のものとなるに違いないが、それを担うのは既に若者も含めた全人類でもあるとは言えるだろう。
Tuesday, October 21, 2014
第六十三章 近代アートの市場性とそれへの批判体としての現代アートPart1
思想としてのアートと捉えると、どうしてもアート市場という事が問題となってしまう。だがアートは唯一思想的な想念を度外視して楽しめるヴィジュアルな娯楽であると、そう割り切っても決して間違いではない。その証拠にどんなに現代アートが逆立ちしたって、近代アート迄に人類が構築した遺産を超える事がなかなか出来はしないという事が意外と本当だからだ。
それでもでは何故我々はかくも観ていて心地よく豊かな気持ち、気分にさせてくれるアートを望み好むのかという問い掛け自体はアートへの思想という事にもなろう。
アートは心を豊かにさせてくれるヴィジュアル的な娯楽だからこそ、損得勘定抜きで観ていいものはいい、いいと思えないものは良くはないとはっきり個人の判断で言っていい世界でもある。そしてそれが唯一の基本的思想である。
昨今、オルセー美術館展、チューリヒ美術館展、82回版画展、HOKUSAIボストン美術館浮世絵名品展を立て続けに鑑賞した。美術の秋という事で、我々は比較的容易に首都圏に住んでいれば(とりわけ東京や横浜に行きやすいのであれば)いい絵画を鑑賞する事が出来る。
オルセー美術館展は印象派等を中心に近代アート絵画を堪能出来たし、チューリヒ美術館展は印象派以降のフォービズム、象徴主義、表現主義絵画を堪能する事が出来た。そして82回版画展では現代の創作版画の可能性の領域の広さを堪能出来、北斎展は名実共に世界的に偉大な一人の日本人画家、アーティストの作品世界を堪能出来た。
欧米西欧絵画には幾つかの表現的な形式がある。一つは写実主義、一つは表現主義、一つは形態美追求主義である。そしてそれ以外に物質的美主義だ。
セザンヌは初期、印象派に影響を受けていた中期、そして後期と三つの時代で異なった形式を踏襲した。初期は宗教神話性の強い表現主義、中期は色彩による形態美追求、後期はより中期以降の理念を徹底化させた形態美追求である。中期は色彩的な美から形態を追求したが、後期は色彩的彩度より形態間の相関的な抽象構造を追求した。
一般に形態素の抽象画家と思われているピエト・モンドリアンが晩年に到達した形態美は、しかし初期から行われていた宗教神話性の強い表現主義(実際のアートモードから言えば象徴主義的な)から徐々に形態美を形態素に拠り最小限の色彩の選択で行っていく形で晩年の境地に到達した。同じ様にセザンヌもモンドリアンより先にそれを行っていたのだ。つまり抽象絵画の父と呼ばれるセザンヌは実は絵画主題性を表現主義的に行う中で徐々に形態美、形態素抽象へと赴いていったのだ。
その意味ではブラマンクやムンク等フォービズト、象徴主義者である彼等は後期セザンヌより初期表現主義的セザンヌから啓発された部分が大きかったのだと思われる。セザンヌの三つの時期の代表作をオルセー美術館展で観る事が出来た。
更にチューリヒ美術館展ではとりわけセガンティーニ(象徴主義者)、ホドラー等の名作を鑑賞する事が出来る。ホドラーの絵画は風景を背景にしたエロス神話的な人物像(裸婦が多い)を配す構想画である。彼の描法は戦後アメリカの偉大な具象画家であるジョージア・オキーフへも多大の影響を齎しているものと思われた。実際に風景描写的描法は明らかにホドラー発オキーフ着の要素がある。そしてホドラーとオキーフは明らかに写実の系譜であり、セガンティーニもそうである。彼等以外ではマティスの師であったギュスターブ・モロー、そしてオディロン・ルドンもその系譜である。
もしセザンヌ初期もそれに加えるならマネもそうであるしルノワールもそうであるが、近代は現代フォルマリズム中心に見た時抽象画の時代だと思われているも、実際には写実に新風を送り込んだ時代だったとも言えるのだ。
又ゴヤの銅版画、ドーミエの石版画、マネの<草上の昼食><オランピア>の持っているアイロニー、風刺性、諧謔性も又絵画主題の形式により貢献しているが、これも写実主義の系譜と捉える事が出来る。風刺画やそのスピリットは写実主義に拠り具現化されてきているのだ。
そう考えていくと、ダダイスムやシュルレアリスムのあらゆる実験も、写実主義をベースとした表現形式の中で行われた革新運動であった事も明白となろう。
純粋抽象的なフォルマリズムも実はそのベースには全て具象性、写実主義形式が横たわっていると考えてよいのだ。それは現代アートのインスタレーションへも当然の如くエッセンスを伝えている。最近では星田大輔の隅田区での仕事でも言える。其処では極めて精緻な美的色彩照明感覚に拠るインスタレーション仕事が行われていたが、それは時限爆弾を仕掛けるテロリストの密室作業に近い感性の制作現場を彷彿させるものであり、都市空間の一コマをより繊細な美的感性で密室的空間に設置した仕事であった。
しかしこの星田のインスタ仕事に観られる現代アートのスピリットは明らかに葛飾北斎の持つ見立て空間からも影響を蒙っている。つまり江戸後期から現代迄通底する日本絵画空間見立て形式が其処に見出されるのである。
一方では現代アートは近代アートの持っていたサロン性への批判体としてアートディーラーの支配圏である処のギャラリーシステム、ニッチ的なマーケット至上主義への批判体として機能しているが、同時に其処にはサロン確立過程であったバルビゾン派以降の近代絵画の持つ実験精神自体を懐古的にも蘇らせてみせるという反映精神も漲っているのだ。
そしてこの現代アートのインスタレーション仕事のベースには、近代アートを経過してそれ以前からの物質的美主義がある。オルセー美術館展ではマルセル・モンティセリの<白い水差しのある静物>、或いはエドゥワール・マネの<婦人と団扇>がより油彩画の持つオイルをたっぷりと御汁描きしたてかてかと光った絵具メディアの物資的感性が炸裂している。この点では乾いたセザンヌの静物画には無い硬質感が漲っていた。つまりこの物質的美主義は近代タブロー絵画から現代アートのインスタレーション、例えば原口典之のカッセルドクメンタ77以降の<物性>の一連の仕事(廃油<重油>をプール状に平な箱に満たしたインスタレーション仕事)の美的感性へと継承されている。当然時代的に原口世代(原口は1946年生まれ)から星田世代(星田は1983年生まれ)へと引き継がれている。(つづき)
Wednesday, July 30, 2014
第六十二章 アート史に観られる価値転換と哲学思想Ⅱ
現代アートが哲学化せざるを得なかった事の理由の一つは前回述べた様に明らかに第一次世界大戦等の戦争や世相的な事であるが、もっと根源的な理由もある。それは前回後半に述べた現代アートが固有のテクネを必要としているという事と大いに関係があるのだ。
実はアート史的に色彩的な黒が重要な意味があるとも前回述べた。それは前回例として挙げなかったマティスの師であるギュスターブ・モローや、オディロン・ルドン、ホドラー、ホイッスラー等の心象構想画家、風景画家、肖像画家にも脈打っている一つの傾向である。印象派以前の絵画であるなら影やくすんだ色彩を再現する為にのみ黒という色彩は使用されてきたが、この近代バルビゾン派以降の絵画では次第に(バルビゾン派の絵画自体は其処迄の意識ではなかったが、ミレーには黒を色彩として理解するという意識があった)黒を固有の色彩として理解する感性が自覚的無自覚的に関わらず顕在化されていく。
ショッキングなくらいに美しい鮮やかさを示すエミール・ノルデの絵画では水彩の花の絵でも黒はそれ自体の色彩として登場するし、ムンクも固有の不安感を示す為に黒自体が重要な要素として使用されている。
ある意味で近代的salon自体を印象派が確立したとすれば、そのsalonの終焉を謳ったのがマルセル・デュシャンの<階段を降りる裸婦>だったと言えよう。
デュシャンの絵画史の終焉を近代的salonの終焉として認識したアートクリエーションモティヴェーションの一つの時代的メインイヴェントであるとすれば、それはマーラーに拠る交響曲の究極という意識にある意味では近接しているが、その近代史的なカーテンの幕引きをパロディ的に扱ったのが文章家としてはワルター・ベンヤミンだったと言える。複製芸術へと展開されるポップアートのウォーホル的アートを予感する様なテクストをベンヤミンは書いているし、<パサージュ論>はフランス革命以後の市民生活自体を退廃的空気の中から読み取って戦争へ突き進んでいく時代の世相を予感させている。
そしてアート史に於ける根幹の意識転換とは、実は聖書読解的絵画、宗教絵画系譜的な聖書解釈からアート自体が解放される事に拠って、内面性とはあくまで宗教戒律的なモラルに限定されていたのをドラクロア(彼の登場がマネの革命的モティヴェーションの醸成に大いに啓発している)等の登場が市民生活の市民性を主眼としたアーティストの眼差しが王侯貴族やブルジョワ達パトロンの存在を超えて、よりメッセージ化されたアート空間を現出させた。そしてその際にまず目に見える実際の風景がバルビゾン派に拠って再認され、次第に印象派に拠って色彩の乱舞を主張する様に展開し、ナビ派等に拠ってよりデザイン性や商業主義的ファッション性を獲得し、それはアールヌーヴォーとアールデコに拠って頂点に達した。
しかしそれらはあくまでニーチェの<悲劇の誕生>での分類からすればアポロン的なものであった。マネもぎりぎりの線でアポロン的アートの前提に於いて、しかしこういう主題があってもいいというチャレンジとなっている。しかしナビ派位迄でそのアポロンゲームは終了し、今度は野獣派等に拠りディオニソスゲームへと移行していったのだ。
そしてそれに輪をかけたのが第一次世界大戦とダダイスム、シュルレアリスムであり、それは現実や自然の模写であるとされたアートをより、ニーチェの言う夢の世界の復権(それを臨床精神医学的に展開させたのがフロイトであるが)を意味づけたのである。
従ってシュルレアリスム登場以降の絵画史では全てのアーティスト達にリアル世界、モネ的肉眼で見える世界の模倣や描像という意識から、眼には見えない、認知科学的に言えば脳内の、詩的に言えば心の世界がリアル世界を変えていくという意識で絵が描かれる様になっていくのだ。それはアポロンゲームオンリーのコミュニティにディオニソスゲームの加入、そして寧ろそちらの方が主体化していくムーヴメントとして現代アートゲームを俯瞰する事が出来る。
そのディオニソスゲームの中でディオニソス自体が否定されるべきものではない形でのディオニソスゲームの中で現代なりにアポロンを志向する慰安はヴィジュアル的に可能か、と問うた時に、それならエボナイト等の特殊な塗料や塗装方法に拠って可能ではないかと提言した最初のアーティストであるジョセフ・アルバースはナチスからの迫害を恐れアメリカに渡ったドイツ人だった。彼の登場がアメリカンアートにもその後の戦後アートにも例えばゲルハルト・リヒター、アンセルム・キーファー、ジャン・ミッシェル・バスキアやキース・ヘリング等に拠るストリートアート等も含む多くのディオニソスゲームの中でのロゴス化、アポロン的メッセージを模索するムーヴメントを構成させる事となった。
ポロックやデ・クーニングの世代ではよりアポロンゲームからの離脱の中で主題の模索が為されたが、バーネット・ニューマンの登場(その前哨戦としてのマーク・ロスコーの登場)がよりディオニソスゲームは既に始まって渦中にあるけれど、その中で現代に固有のアポロンとは何ぞやという問い掛けになっていき、アルバース、ケネス・ノーランド、エルスワース・ケリー、ロバート・マンゴールド等に拠るディオニソスゲーム時代に於けるフォルマリズムの模索、そしてその中でのモーリス・ルイスの絶対的な色彩と空間の平面上でのインスタレーションという意識が、より造形的ヴィジュアル像だけでない形での時代メッセージをアンディ・ウォーホル、ロイ・リキテンシュタイン、クライス・オルデンバーグ、先述のバスキアやヘリングをメッセージ性というアート史上のアートレゾン・デ・トルの返答として続々とクリエイターが輩出させていったのが二十世紀アートだったと言える。よりコマーシャリズムとファッションともコンタクトを採ったのがウォーホルであり、彼の思想を文章化させた思想家こそマクルーハンだったと言えよう。
20世紀芸術の基本はその時代的必然的な展開の中でこそ理解されるべきで、自然の模倣をダイレクトに受け取っていた19世紀印象派登場迄をアポロンの無対話的時代、それ以降野獣派迄をアポロンゲームの中でのディオニソス獲得の時代、シュルレアリスム宣言以降抽象表現主義終焉迄をディオニソスゲーム(その先鞭としてカンディンスキーやクレー、バウハウス等のムーヴメントがあった)、ポップアート以降、同時代に並行して動いていたフォルマリズム等を含めディオニソスゲームの中でのアポロン性の獲得に費やされたそういった展開の中で登場してきた、と観てよいだろう。それはダイレクトに自然の模倣を信じられなくなっていき、そのprocessの中で実は宗教絵画も又18世紀や19世紀迄だって、結局それ迄の時代の内面の正統であったのだ、として位置付けていき(その近代迄の絵画精神を内面性の伝統として現代で解釈した日本のアーティストは難波田史男である)、現代はその時代と文化支配者層、指導者層からの共時的要請からでなくアーティスト本人の内発性に拠って提示していくメッセージとなっていくプロセスが此処三四十年の全世界的ムーヴメント(あらゆるヴィエンナーレやトリエンナーレを開催する事を常時とする)に観られるアート史の精神的様相であると言ってよいであろう。
Thursday, July 24, 2014
第六十一章 アート史に観られる価値転換と哲学思想
一般的に美術ファンをときめかすものは、大半が19世紀フランスを中心として、それ以降20世紀前半迄のアートに限られている。要するに人類がアートを楽しむという日常的行為が定着したのが19世紀だったという事が手伝っている。風景画自体が一つの形式として定着したのも19世紀フランスを舞台とするバルビゾン派以降だし、その流れの中で最大のヒットと言っていい印象派が続き、その後続編として野獣派(フォービスム)等が登場し、ピカソ、ブラック等に拠るキュビスム、そしてエコール・ド・パリが一般美術ファンの心を掴んでいる。それに対し何とかシュルレアリスム迄なら一般ファンの心を鷲掴みに出来ても、抽象表現主義以降のアメリカ現代アートはその支持層が全く近代絵画ファン層とは乖離している。要するに現代アートファンとはハイブローな思想性を自覚したインテリに限られるのである。
しかしそれは一つの理由があるのだ。
まずバルビゾン派に拠って風景というものを楽しむ事は市民生活にとって一つの憩いとなる事自体に、ある種宗教儀礼的な形式の一つであった絵画空間が、聖書主題的絵画から解放され絵画の楽しみ自体が宗教慣習から独立して叫ばれだしたその流れの中に、例えば肖像画(それはそれ以前は一部の王侯貴族達、一部の経済的成功者<其の中には稀に高級娼婦も居た>に限られていた。つまりモデルとなり、それを絵師に描かせるという行為自体が一般市民の間ではあり得なかった)もより一般市民層へと広げられていき(勿論ある程度の富裕層に限られていたが、それは著名画家に描いて貰う場合で、そうでない場合は当時は売れっ子で無名芸術家の娼婦でもあったキキ・ド・モンパルナス等以外では内輪的な顔馴染みである事も多くなっていた。)、そういった宗教儀礼的慣習からの芸術鑑賞行為の自立という意識の変革の中にバルビゾン派も存在し得たし、印象派もそういう全体的な市民生活の意識革命自体が支えた(事実、彼等にも画家仲間でもあった富裕商人の出である収集家でもあったギュスターブ・カイユボットといった人達こそがサポーターとしてのロールを担っていた)。
エドゥアール・マネが印象派展に出品して専門の鑑賞家達から嘲笑の渦となった名作『草上の昼食』(1862-1863)や『オランピア』(1863)は今見ても寧ろそれ以降のどんな革命的絵画より芸術行為、芸術鑑賞行為という前提の前では革新的であり、反社会的である。前者は一人女性のみ裸で男性二人に囲まれ肉体を二人だけでなく絵画鑑賞者へも晒し、あろうことか鑑賞者の方を見つめている。女性の前の男性はあたかも女性の肉体的美自体の鑑定家の様な風情である。後方にも湯あみする様な風情の女性一人が湖畔から三人の男女の方へ向って来ようとしている。後者に至っては完全にモデルは娼婦、そしてその娼婦は娼婦を買った男性の視線を借りる一般絵画鑑賞者の視線と重なっているのだ。
マネがこの様な芸術行為と芸術鑑賞行為の崇高さと思われている通念と常識の前にこの様な性的にも社会モラル的にも不埒な主題を引っ提げて落選覚悟で(事実落選した)出品してしまったが故に後代の芸術家達は既にそれ以上にアンモラルな冒険と挑戦自体を出来なくなってしまった。それから数十年後に登場するシュルレアリスムは多分に世界的情勢が大きく影響を与えている。初めて戦場で精神疾患を齎した世界大戦(第一次世界大戦)勃発に拠って人間精神が極めてクライシス的状況へと落とし込まれていたればこそ、アンドレ・ブルトンは<シュルレアリスム宣言集>を出版し、詩人や演出家、劇作家、画家、音楽家達がそういったムーヴメントへと関わっていったのだ。その中にロシアアヴァンギャルドも内包されているのだし、マヤコフスキー、ガルシア・ロルカ等も居た。つまり第一次世界大戦勃発時に於ける1910年代のダダイスム、その直後の1920年代からのシュルレアリスム宣言や未来派宣言、ロシアアヴァンギャルド等は全て戦争と革命と殺傷的な人類の悲劇が大きく影を落としている。臨床精神医学が(今凄く色々な意味で社会問題となっているけれど)社会的に必要な分野であると認識されていった過程もフロイト一人だけの影響ではなく、こういった世界大戦と精神疾患者の登場という世相があったのだ。
つまりアートファンにとってより娯楽性と人類の平和や友愛やエロスを讃歌的に楽しめる最後の動向こそ印象派から野獣派くらい迄のアートだったのだ。それ以降、つまりピカソ等に拠るキュビスムさえ、直観的に戦争と経済的困窮の二十世紀初頭というリアルを暗示的に、無意識にシンボライズさせていたし、それ以降の全革新的なアート運動が、そういったクリエイター達の何故創造するのか、という命題的、モティヴェーション的な問いかけと無縁では居られなくなっていくという訳なのだ。
その事は当然芸術自体の存在様相をより哲学色の強いものとしていかざるを得なかった。そしてそれは第二次世界大戦中にヒトラーが退廃芸術展をベルリンで催し、彼等が滅ぼされ、第二次世界大戦を終えた後もアート界全体、クリエイターであるアーティスト達から、その受け手であるアートファン達の関心傾向をも哲学思想色を濃厚に残した侭21世紀を迎えたと言っても過言ではない。ブルジョワ的な市民生活の謳歌と、愉悦的幸福の象徴であったアートは、より人類のこの運命的な悲惨や世界情勢の緊迫化の前で、より真摯なモティヴェーション問い掛け的なストイックな態度をクリエイターから受け手迄に背負わせてしまったのだ。従って戦後フランスで花咲いたアンフォルメルもそうだし、抽象表現主義と相前後して登場する日本の具体やドイツからアメリカへメインステージを移行させていったフルクサス等も全てそういった時代的な芸術行為、芸術鑑賞行為の持つ命題論的なモティヴェーション論的問い掛けに充満している、と言ってよい。
だからこそマネの世相や芸術を嗜みとして文化的に理解する市民のプチブルジョワ性への抵抗として純粋なモティヴェーション意識で絵画創造する事自体が、最後のチャレンジとなってしまった。つまりそれ以降の全アートはそういう幸福な抵抗と挑戦をさえ無力化させる時代のニヒリスティッシュなメンタリティを介在させてきているのである。
その時代の前哨戦としてキェルケゴール、マルクスとエンゲルス、フロイト、そしてその最中にフッサールやウィトゲンシュタインやハイデガーが登場しているのだ。
当然アンフォルメルの時代のフランスには既にサルトルも活躍していたし、デリダも生活していたのだ。
アートが思想色を鮮明にしてかざるを得なくなっていく時代へ巻き込まれていく前哨戦としてバルビゾン派と印象派展とマネの挑戦があったという事はよりお分かり頂けたと思うが、そのアート自体の思想色はしかしテクネ的には極めて却って印象派以前より職人性を、つまりアーティストの固有のテクノロジーの伝搬者たるクリエイター達に専門的技術の秘法を持たせる事となった。それは彫刻が市民にとっての広場という発想でより戦後着目されていくプロセスの中でインスタレーションや彫刻史自体が絵画をも変質させていくプロセスで、彫刻家を中心とするマイスター的テクネの継承者達の精神を中心に、絵画自体のフォルマリスティックなヴィジョンの獲得と共にどの画家達も従来型のルネッサンス以来の伝統的テクネだけでなく、それをも凌駕するマテリアリズムを獲得していく必要があった。それは描写的な天才であったサルヴァドール・ダリの様なタイプの古典的画家もそうであったし、モーリス・ブラマンク、ジョルジュ・ルオーや戦後NYで活躍したポロックやデ・クーニング、フランスのピエール・スーラージュ、ベルナール・ビュッフェ等の全アーティストにそれを求めさせた。
より彼等はグレーで黒という存在刻印の色を追求したピカソより、ブラックという色彩に拘った。そしてその前哨戦として『草上の昼食』で森の内部の影で暗示し、黒を猫と室内背景に拠って『オランピア』で登場させたマネの仕事が大きく後代へインスパイアさせている。確かにマネ以降直ぐにモネに拠って色彩の讃歌は為された。しかし彼も晩年の睡蓮の連作では内面的な黒というものを着目していくし、ルノワールも陶磁器の絵付け職人出身の持前のテクネでより晩年の裸婦では黒を重要なポイントカラーとして選択している。アートは色彩の讃歌を経過しつつも、より黒の使用に拠って大きくクリエイター、アーティスト達へ存在論、実存論的創造モティヴェーションの命題化を達成してきたのだ。それは一面では芸術創造の価値が市民生活に潤いを齎さす一種のヴィジュアル的な娯楽であるだけに留まらず、ある時代を生きた証人として実存論的な創造命題的態度と共により哲学者化せざるを得なかった時代の足跡として理解する事が出来る。アーティストはどんな天才でも一人で生きている訳ではない。そのリアルをよく自覚する事で、自分を育てた時代への返礼として精神性をシンボライズさせる黒という色彩の持つ意味、そしてそれを利用して時代へメッセージとして物象化されたテクネの産物であるアート作品を提示していったフットプリントの前には、一見世相や政治性と無縁であったと思われているセザンヌの様な抽象絵画の父、フォルマリズムの祖と言われる存在に於いても顕現されている。彼のタブローの持つグレー統一的テクネはやはり一面では凄くポイントカラーとしてブラックを巧く活用している。それは黒それ自体が目立つ初期から、余り目立たなくなる後期に至る迄一貫している。それをよりアート史的に継承させたのがピカソであったが、ピカソの<ゲルニカ>に於いては、その創造命題的態度でモティヴェーションの在り方への問い掛けを十全に示さざるを得なかったと言える。ピカソは愛人達との間のプライヴェートなアーティストだけでなかった。そしてそのブラックカラーの選択には、彼の先輩で唯一個展には必ず赴いたとされるマティスにも最もよく示された絵画創造態度であったし、カンディンスキー、藤田嗣治(レオナール・フジタ)、マレーヴィッチが同時代のウラジミール・タトリンやアレキサンダー・ロドチェンコ等彫刻家からやはりインスパイアされて絵画創造命題的態度を構築していったプロセスでも十全に読み取れるものと言ってよいだろう。
Monday, June 30, 2014
第六十章 価値と倫理Part6 革命への断念と失望とアートパフォーマンスとモブフラッシュⅡ
韓国の大企業は大半が(現代、サムスン、LG等どの企業も)大株主は外国人、外国企業であり、言ってみれば韓国人自身の雇用者は出来る限り低賃金で酷使され、ほんの一部の大企業経営者、或いは大株主以外は益々外資にとって都合のいい企業経営戦略に拠って益々格差社会と化している事は、昨日民放のワイドショーでも紹介されたし、多くのジャーナリスト達に拠って情報が開示されてきている。ソウル市河南区九龍村(カンナン区、クリョンマウル)は僅かカンナンヒルズとでも呼べる区域から数百メートルしか離れていないにも関わらず天国と地獄の差であると言っていい。似た様な状況は中東でもアフリカでも国、区域に拠っては垣間見られるかも知れない。
其処で誰しもが二極分離社会となっていく国家全体の中で、貧民層から卓抜した知性の人が登場し、貧困層を救うべく革命的行為をして、仇を討って欲しいと願う人達も居るかも知れない、と想像はする。しかしそういった知性の持ち主は貧困層出身であっても、次第に大きな仕事へと登用され、最終的には経営の実権迄握る位迄伸し上がる可能性は高い。そうすると彼は自分の能力に見合った仲間を貧困層とか富裕層とか出身に拘らず探し、協力し合う様になるだろう。かくして彼に拠って革命的な行為が成し遂げられるという事は一種の19世紀的幻想でしかなく、彼も又成功者として富裕層の一人として仇を討つとかいう様な心理からは只管遠ざかって行き、エスタブリッシュメントとしての生活を享受する様になるだろう。従って現代社会ではこの極端な高額所得者とか富裕層と、万年失業者や貧困層との分断はほぼ永遠に埋まる事なく、社会矛盾の一様相として継続的に論議されていくべき課題として残るだろう。
そのほぼ絶望的なる反復は、とどのつまり共産主義の失敗(ロシア革命以降のソヴィエト国家の崩壊)に拠って証明されてしまっている。寧ろ革命の末に成立する国家や社会では、官僚主義的な閉塞感だけが支配するという事を人類が知ってしまっている以上、最早残された牙城は中国だけだ(とは言うもののロシアもその本質は集団主義的部分ではソヴィエトとそれ程大きく違う訳ではない。只資本主義化された経済システムを導入しているだけに過ぎないとも言えるが)と言っても、当の中国も体裁的には経済開放区を設ける事で、やはり資本主義経済を導入しているかに見せかけている。しかし其処に言論の自由はない。基本的に中国は階級社会的官僚制度と一党独裁と言論統制に彩られた形式的な資本主義であるに過ぎない。
この様な生活水準自体が二極分離していく社会では使用される言語の語彙使用から、ちょっとしたテーブルマナーに至る迄徹底してブルジョワ階級的な上流社会と下流社会とでは交わる事のない品性が直観的に意志疎通する際に一瞬で判断される様なタイプの沈黙の差別が横行していくのかも知れない。とは言えあくまで成功者も富裕層も、絶対的永続的な在り方なのではなく、一瞬で数億の負債を抱え込んだり、ワンクリックだけで倒産に迄追い込まれたりする訳だから、当然その沈黙の差別も一寸先は差別される側に回るのが自分かも知れない、という目測を含んだものともなり、結局革命的幻想が遠い昔日のロマンへと後退してしまっているかの様に、或いは今という時さえリアルに明日へと継続していく可能性に充満したものでなく、あくまで刹那的な快楽を享受する瞬間でしかない、とまるでオージー(日本ではオレンジ等とも言う。つまり古い言葉で言えば乱交パーティー、スウィンガーの集い)を繰り広げる様な饗宴の中で一時の安堵の溜息をついているだけかも知れない、と全ての成功者達は感じ取っているかも知れない。そういう憩を感じずに何時も質素な気持ちで居られる人達の中のほんの一部だけがある程度継続的に生涯成功者としてのポジションを維持し続ける事が出来るのかも知れない。勿論そういう一部の人達も常に存在し続けよう。
集団的自衛権を法制化する事に反対の意を唱えて昨日新宿駅の近くの歩道橋の上に居座って演説をした後焼自殺を図った男性が居たが、こういった政治的パフォーマンスは今後も続出するかも知れない。しかし仮に日本で集団的自衛権行使容認の法制化が整備されても、それが反対の立場の政治家達に拠って覆られていっても、恐らく中国に拠る日本への尖閣列島等を巡る領海侵犯的行為は断続的に反復されていく事だろう。こう言っては何だが、日本国内での集団的自衛権を巡る憲法解釈問題とは、日本人自身の戦後的良心を巡る一種のイデオロギー論争なのであって、その事自体と、軍事防衛的なリアルとは常に乖離していると言える。つまり北朝鮮もなのであるが、彼等が中国からも韓国からも疎まれている限り、挑発的に日朝協議が開催される度に事前に日本の本意を探る形でこれからも日本海にミサイルを発射させるブラッフィングは繰り返されるであろう。
アーティストは時代を変える事は出来ない。時代を変えるのはアートがメッセージとして送る時代の不安を除去しようとする国民全体であり、ある部分表現者のメッセージは哲学者の理論や観念同様、何時なんどき、国粋主義や民族原理主義へと転化されるか分からない脆弱さも持っている。ボブ・ディランの反戦反黒人差別のメッセージの普遍性も、その当時のアメリカ合衆国自体が世界一のGDP(その比率は世界GDPの六割近いシェアであった)のリーダーであったという事を前提しているのであり、恐らく日本円にして二億近くでLike a Rolling Stoneの歌詞のメモがオークションで遣り取りされるだけのカリスマ的な存在は今後世界で登場する事はないだろう。もし登場するとすれば、世界中で核戦争になっていったり、世界中を大地震とか大津波が覆う様な地殻変動が起きる様になっていったりする事に拠って世界中の原発のエネルギー施設が崩壊し、倒壊して、世界中を放射能が拡散して人類が生存を脅かされる時だけではないだろうか?
その意味では1960年代のフォーク、ロック(ウッドストックジェネレーションにシンボライズされる)ムーヴメントに近い様相の社会運動は二度と再来しない、というのが私の予想であり、寧ろ形骸的にフルクサスのトライアルを商業化していった様な(草間彌生の作品の商業デザイン化の様に)よりきゃりーぱみゅぱみゅの持っている様なピンクレディー焼き直し的な意味でのアートパフォーマンスやモブフラッシュの様な試みが継続し、其処に何か格段のモティヴェーション的な革命性は徐々に消え失せていくだろう。
もしそういうモティヴェーション的な革命性を求める動きがあるとすれば、日本国内でかつては造船や製鉄で隆盛を極めた山口県下関市や、福岡県北九州市等の人口減少化している都市空間や過疎化したエリアで吟遊詩人や地方素人歌舞伎や今のネットを駆使したコミュニケーションではなくビラや地方紙自体をゲラ刷り等の輪転機を利用したオールドスタイルのコミュニケーションで実践する等の試みに拠ってではないだろうか?
つまりマクルーハン、ウォーホル的、もっと遡ればワルター・ベンヤミンが予言した様な複製やマスメディアの幻想を利用した戦略的メッセージへは人類全体がより深度のあるモティヴェーションを運ぶメソッドとしては懐疑的である事からも、伝統的マナーに則った芸能等の古典保存意図と地方人同士の生活的協働性に根差したメッセージこそが静かに失望された革命的幻想に代わってより説得力のあるメッセージとして理解されていく、仮にネット利用されたとしても地域限定的な利用のされ方が見直される様なタイプのメソッドに拠ってではないだろうか?
Thursday, May 22, 2014
第五十九章 現代人は現代社会の異常さを熟知していながら昔へ戻ろうとしないし、戻れないと知っている④
現代人は依存症的性格を強く帯びている。例えばそれはマシーン自体の快に浸りきる事に於いてもだし、性行為自体への愉悦の異様なる執着もそうだ。現代の薬理学ではその話題で常に持ちきりである。ドライヴァーの快に就いては既に本ブログで取り扱った。ドライヴァーの快は運転しながら聴くBGMの選択と相俟って極めて現代人の生活に於いて精神的なモードを調整する意味で極めて重要な役割を果たしている。しかしそれは快適さの度合いからすればノーマルだが、依存症となると話は別だ。
現代人にとって最も身近な依存症はSNS全般に依存する事に於いてである。一日の内大半の時間にそれへ掛かり切りとなるという事は既にかなり依存度が高いと観ていい。Twitterではフォロワー数を競う事もそうだし、他人のツイートを見て揚げ足を取る事もそうだし、チャットでもツイートリプライでもそれだけに大半の時間を過ごす事は誰かと直に会って話す事と異なる性質があるのは、それがマシーンに没入するという事に於いてである。ツールやディヴァイスを使いこなす事自体へ没入させていこうとする事がそれ等の産業の経営者の戦略である。遠隔操作の犯人が自白に拠り逮捕され再裁判となっているが、遠隔操作それ自体の快に目覚める事も一つの依存症である。通常の社会的地位に見合う仕事の性質と異なった事はその匿名性であるが、ウェブサイト利用自体にそういう要素があるし、セックス依存症でも、性行為自体の匿名性へ没入しているケースが多いだろう。
それ等は要するに顔の見えなさが常に主役である。顔を面と突きあわせて語る事と全く異なった操作性へ没入する事を予め性質として用意しているのが現代通信機器だと言える。その通信機器を通じて多くのサイトから性行為自体のゲーム性を知識や情報として獲得すると、それを実践してみたくなり、そういった秘密のサークルを見つけ、それへ参加してセックス依存症となっていくというケースも極めて多いだろう。
現代のPDF端末にせよ、タブレット端末にせよ、通信機器それ自体は一人遊び性であるにも関わらず応答可能性に満たされている。実際にそれ等の産業に関わる人達の操作があるので、人とは間接的には関わっているが、それは匿名性を帯びている。従ってネットユーザーは常に匿名で匿名的集合であるウェブサイトビジネスの人達とだけウェブサイト利用中にもワードやエクセルの使用中も彼等に拠って仕掛けられた操作ゲームへ参画しているのだ。それは相互に顔を直に見せ合わない事を確約しているゲームである。
しかしそれだけ日々多くの電波が世界中に飛び交っている現代社会では、どの国でも個人もそうであるし(恐らく北朝鮮でも中国でも規制はずっと日本より厳しいだろうが、秘密裡には利用されているだろう)、政府自体も政府機関で諜報活動をしている国は多いだろうし、米中のサイバーハッキング戦争が過熱化している現在は、その熾烈な電波交信自体が米中以外の大半の国にも影響を与えているに違いない。それは心理的に現代人の心の襞に生活上での感情にウェブサイトが定着していなかった時代には無かったストレスと快楽を与えているだけでなく、脳神経学的にも臨床精神医学的にもかなり大きな影響を与えているに違いない。にも関わらずウェブサイト、サイバースペースコミュニケーションに異様に依存する事自体への処方を医療的に成功しているとは言い難い。何故なら全くそれ等を使用する事なく生活している事自体が治療する側もされる側も不可能であると知っているからである。
昨日新彊ウィグル自治共和国内で大きなテロ事件が勃発した。三十一人の市民が死亡した。全く同じ日に北朝鮮軍が竜平島に攻撃を加え、韓国軍が応酬した。タイでは緊迫化する夜間外出禁止令が勅令され戒厳令的モードに入っている。インラック政権失脚から今日迄のタイ情勢はタイ固有の政治軍事状況だけが理由なのだろうか?
この様に中国、北朝鮮と韓国(昨今では大型観光客船の遭難事故を含め)、タイで同時的に起きたこれ等一連の平常ではない状態は何か精神的に人類全体の脳神経学的、臨床精神医学的な理由があるのではないだろうか?
タイのバンコク、新彊ウィグル自治共和国内のウルムチ、竜平島を結ぶとまさにほぼ正三角形的な関係が浮上する。そして東南アジアでの中国とベトナムとの領海問題から遠くウクライナ情勢、ボコ・ハラムに拠る女子誘拐事件(ナイジェリア)迄、我々は人類がある部分ではこの過密な情報化世界が実現して以降、それ迄にはない性質で人類が過剰ストレスを抱え込み、実はウェブサイト利用自体が昨日又何処かの国で通り魔殺傷事件が起きた(一々国名さえ覚えない様になっている。何故ならそれ等が起きる理由はまさに「ある国」に固有の事ではなく、人類全体の今の精神的モードと関係すると思えるからである)し、それ等は現代情報通信社会自体が招来する精神的モード自体の人類全体の共時的異変か総合的根拠として言えるのではないかと思える。
しかしそれは余りにも広範な問題なので、一体何処から手をつけていいかが未だ誰にも分からない。そしてもし情報通信的電波自体がかなり人類に脳神経学的、臨床精神医学的に弊害を齎すと思っていても、それ等を廃止する事を人類全体が同意する訳がない。其処でそれ等の問題は常に先送りされる。
或いは余りにも突然複数の国々で悲惨な事件が同時多発するとすれば、或いはそれさえ米中サイバースペース戦争とも関係があるのではないか、と仮に多くの医療関係者達が想定してさえ、それを証明する手立てが余りにも広範であるが故に無視されていく事だろう。そしてそれならいっそ個人で自分の生命の安全を守ろうという暗黙の気運が芽生え、個のサヴァイヴァル戦略的な事だけが暗々裏にどんなに国家的強制の強い国家群内でも芽生え、それ等が又情報通信手段を通して世界中に拡散していく、という反復は後三百年続くのではないかと私は考えている。勿論それ迄に原子力発電の大いなる矛盾に拠る弊害も世界で齎されるだろうし、地震や津波も猛威を振るうだろう。その度に今丁度日本で西ノ島が火山噴火に拠って陸地面積を増幅させている地球自体の地殻運動の様な地球環境自体の問題がクローズアップさせられ、サイバースペースというメタ的リアル存在の今後の人類へ与えていくであろう精神的ストレスや脳神経学的、臨床精神医学的インパクトへの問いは、その都度絶えずそれらの専門家の間では話題となっていくだろうが、世界的レヴェルで究明される事は先送りされていくのではないだろうか?
それが実際にかなり究明されていくのは三百年後、そしてその時代になってやっと現在のウェブサイト以上の利便性を持つメタ的リアル存在が、それでいて今サイバースペースが精神的に人類へ与えているインパクトを与えない様な新機軸が発明され一般ユーザーの下へ登場し、普及していくにつれ解消されていくものと思われる。だがそれ迄はウェブサイト自体へ精神的に完全に順応している訳でもない今の人類(しかしあたかも順応しているかの如く全成員が振る舞う)に、もっと今よりストレスフルな日常の連鎖と共に昨今連発した悲惨な事故や政変が火山の噴火口の様にぐつぐつぶつぶつと沸き起こっていき続けるものとも思われる。
Friday, May 16, 2014
第五十八章 現代人は現代社会の異常さを熟知していながら昔へ戻ろうとしないし、戻れないと知っている③
日本では小泉構造改革以降規制緩和に拠り明確に実力主義が加速し、その実力とは他を押し除けて競争で勝利する事であるが故に、経済格差が明瞭になってきた。その中で派遣社員が設けられ、経営合理化が促進された。民主党政権へと小泉総理退陣後三年後に移行したが、その社会構造の本質が大きく変更を余儀なくされたという事は決してなく、益々小泉構造改革の路線の経済格差の明確化現象が鮮明となっていった。従ってアベノミクスに拠ってより効果を上げる企業や経営者、実業家は中間層では決してなく富裕層である。小泉構造改革が最も大きく舵を切って変えて方向の先には、中間層が存在せず、一割の富裕層と九割の貧民層、貧困層というリアルがはっきりと示されている。
修正資本主義等と言われた日々も既に遠く、競争社会は経営合理化的競争社会へと変質していき、経営者になら誰しもなれるが、その事は決して従業員として安定した生活と収入を得るという生活スタイルを誰しもが得られるという実態ではなく、その理想とは益々程遠くなってきている。経営者として成功を収める為には経営合理化をせずにはおれず、社会構造全体が派遣社員を捨て駒として用意する事を躊躇せずには経営を安定して維持していけない様な仕組みを誰しもが認めずには生活出来ない経済循環的なリアルを実感している。それは日銀総裁の様な立場の人から、派遣社員、アルバイト非正規雇用者にしても全く同じ事情にある、という事でもある。
ケインズ理論に対してマネタリズム等の経済学理論が持ち出されてきた百年であったけれど、より古典的なマルクス理論に迄遡行すべく歴史的ヴィジョンを歴史家に持たせる様なリーマンショック以降の未来への不確実性的な未来展望の中で我々はある意味では全ての経済活動や労働基準に就いて論理的な組み立て直しを求められている、とも言える。
そもそも何か労働的な行為が金銭へ換算されるという事は、ある業務がある者達にとっては極めてしんどくて、きつくて困難であるにも関わらずある者にとっては極めて朝飯前である、其処迄行かずともある程度楽にこなす事が出来るという売りとする労働力の差別化に拠って労働の対価が決定されている。もの凄く大勢の人達に拠って容易にはなし得ないと思われる業務が比較的楽に為していける者の持つ労働がそれだけ対価が大きいと言う事は差別化されるべき労働の質から換算すれば仕方のない事である。
しかし日本ではアメリカよりかなり一度成功を収めた者はどんどん次の仕事が舞い込む仕組みになっており、それは社会全体が過去の業績を信用として受け取るという不文律があるからである。アメリカでは一つの仕事の成功とはせいぜい三年くらいしか次の仕事の保証へ結びつかない。その意味ではどんどんとメンバーや仕事内容が変わっていくという事自体が成立し難い日本の資本主義は小泉構造改革以降さえ、ある程度迄は面子も信用の度合いもそう簡単には変換されない社会だと言えるかも知れない。だが確実にそれさえも安穏としていられない空気には満たされてきているとは言える。それはかつて在った地域社会のコミュニティ自体が加速度的に崩壊してきているからである。
しかし経済格差、収入格差が極度に開いていく社会では、経済的成功者、つまり経営合理化で成功している人達の業務が画一化されてきつつある、というリアルも浮き彫りにしている。つまり人事部的査定自体が極めて数値主義的になってきていて、それはとりもなおさず絶えず最もいい数値を稼げる人員自体が固定化されず、どんどんと面子が変わっていくというリアル自体をまず容認する処からしかそういった数値主義、成果主義的経営効率化社会では成功者にはなれない。しかし人とは機械ではないので、間違いも犯すし、ある労働業務の果てしない反復に対しては飽きてしまうという性格をどうする事も出来ない。しかし凄く巧く出来ている事には、どんどん社会ニーズも最もある業界で求められている傾向も数年置きに変わっていってしまう。其処でそうなっていったなら信用とか馴染みで構成されているかつての日本式の企業より、リストラさせやすいもっと労働者の面子がどんどん交代していってしまう<とっかえひっかえ可能な>経営効率主義的な会社の方が収益を上げる様になっていく。そしてリストラを出来るだけ差し控えるなら、寧ろ一人の社員を同じ部署にせいぜい三年位だけ置き、後はどんどん配置換えを多くする企業へと変質していかざるを得ない。又そうする事に拠って従業員全体に馴れ合い的人間関係を育み難くして、且つ常に新たな業務へチャレンジする意気込みと緊張感を持続させるという方策で企業経営を維持していかざるを得なくなる。
戦略や方針をその社会情勢に応じてどんどん変えていく、計画変更のしやすい仕組みを企業経営と企業風土と企業戦略自体に組み込んでいくしかなくなる。当然常識とか通念とか、業界の相場といったもの自体の命脈自体がせいぜい二三年しか継続し得ないという有為転変の多い経営と社会内ニーズ対応的なマナーにしてかざるを得ない。
先程一割の富裕層と九割の貧困層との極度の分断社会が実現していく未来展望が見えると言ったが、それでも尚、経営者且つ大手株主がそうなっている理由がかなり多元的で、その理由とか根拠とか在り方が多様であるなら、それでも尚収入格差的な意味での中間層が確立されていく可能性はある。寧ろどんな経営者でもしている業務が同じという社会では既にニーズ自体が殆ど変りなくなってしまっているという事であり、そういった社会はいずれ落日を迎える。企業収益自体が全くそれぞれ企業毎に異なった理由、異なった性格に拠って得られているのなら、そういった社会では未来展望は、仮に中間層が消滅しかかっていたとしても尚明るいと言える。それは企業毎に求められる業務の性格自体が極めて明瞭に差別化されている、という事だからである。
サッカーの試合でミッドフィルダーやセンターフォワード、ウィング等が固定化されているケースは多いが、業務自体がどんどんと変わる企業では当然、その配置自体もその都度性格が変更される。つまり戦略変更のしやすい企業だけが生存戦略的に生き残っていけるというリアルが既に真実味のあるフェイズに社会全体が移行しつつあるのだ。これはサッカーに例えればかなり頻繁にルール自体が変更されるという事であり、スキージャンプ等のノルディック競技等にありがちなリアルの経営戦略への適用とも言えるし、資本主義社会全体の社会ニーズの多様化と時代状況の激変に対応した経営戦略の変換スピードの激化に拠る事である。そういった世界の企業実態に於いては経営者も株主もどんどんその顔ぶれから、持ち株の内容に至る迄変わっていくという変化の極めて激しい社会が当然であるという全ての市民の同意を強制する時代へ転換されていく、という事を意味しよう。そしてそれは一人の人間も成功と挫折がかなり頻繁に数年置きにどんどん押し寄せ、そういった変化的リアルにどれだけ疲れを知らずについていけるかという事にも全当事者に突き付けられた課題だとも言える。(つづき)
Thursday, April 24, 2014
第五十七章 現代人は現代社会の異常さを熟知していながら昔へ戻ろうとしないし、戻れないと知っている②
アメリカ合衆国内では富裕層が自治体を独立させ、契約社会的コミュニティを形成し、各州でその試みに拠って税収が半減し過疎化し公共サーヴィスを削減させられるエリアが創出され、富裕層コミュニティとスラム街とに分断されているというリアルが全国的問題となっているらしい。しかしもしこの侭唯この二分化を放置しておけば、いずれスラム街化してしまった地方自治体では疫病やエイズが蔓延し、犯罪も多発し、次第に富裕層コミュニティに迄影響を与えずにはいないだろう。
つまり富裕層コミュニティの治安維持に次第に莫大の予算を富裕層がつぎ込まなければいけなくなってしまい、そのリアルに富裕層自体が憂慮し、中間層を創出するニーズに目覚めるだろう。従ってアメリカ合衆国の富裕層エゴイズムだけで国全体を維持し切れない臨界点を通過すれば、逆に富裕層が公共性を自覚しだし、中間層を創出する努力をして、あるレヴェルではスラム化したエリアからアルカイダ等へスカウトする様な動向自体を封鎖すべく国が動くだろう。
日本人も活性化しているアルカイダの要員として隠密裏に参加していないという保証もない。日本からもアメリカからもスパイ的要員が本国へ送り込まれている可能性は否定出来ないし、中には富裕層でそれに資金提供している者さえ絶無であるとも言い切れない。
そして我々は既に東京でもロンドンでも北京でもNYでも何処でも、カフェテリアでもバーでも隣りに座る紳士淑女が第三国のスパイであるかも知れない、或いはイスラム原理主義者の送り込んだ先進国VIPを狙うスナイパーであるかも知れない可能性を否定し得ない都市空間自体にある解放感と憩いさえ見出している。何故なら本当にそういったスパイだとかスナイパーであるなら、あくまでスリーパーとして自分がそうであるという事を表面上は示すことはないだろうし、それを誰しもが知っているからである。
現在の世界経済では誰しもが二重スパイとして活動しているかも知れないというリアルに逆らう事が出来ない。多国籍企業であればある程そうである。そして都市空間固有のそういったリスクを却ってスリルを味わう為の怖いもの視たさでもある事はかつてのNYでもそうだったし、しかし余り危険になってしまうと治安維持を求める様になり、日本の新宿の歌舞伎町でも一斉にヤクザを放逐しようとする様になる。勿論その煽りを食らった当のヤクザ達は何処かに潜伏して合法的ビジネスでマネーロンダリングをしているかも知れない。
しかしその様に何処迄もアメリカの現今の富裕層とスラムの二極分離が進むとも思えない。と言ってそれを模倣する世界各国の分断構造もある時点迄は加速化するだろう。そして資本主義の経済循環の様にその様に景気と不景気とを繰り返すシステム自体は今の処どうすることも出来ない。それは核兵器保有のリアルと同様だ。
つまり完全に世界中から軍隊も核兵器も絶無になることはないし、資本主義がインフレとデフレを反復する事も消滅することはないし、何か余程人類全体を究極の食糧危機へと陥れない限り、人類全体は一致団結することもない)だろう。
つまりそういう様相を維持しつつ、常に一方向にだけシフトし続ける世界構造にもならなければ、と言って常に安定して平和で殺人一つない世界にもならない、と世界中の市民がイスラム原理主義者であれアメリカのトップ富裕層であれ、中国の少数民族であれ、ドバイの富裕層であれ、フィリッピンの最下層の貧困層の市民であれ、全世界的にこの変わりなさへどうする事も出来ないという思いだけが共有されている。そしてその合間に空ろなウェブサイトの液晶画面だけが明滅している、それが二十一世紀というものの実態であると言える。WikiLeaksもエドワード・スノーデン氏もワシントンポストとガーディアン紙がピューリッツァー賞を受賞するリアルとNSAとコンサヴァ的WASPとが抱き合わせでアメリカアズナンバーワンを維持し続ける為の共犯関係を誰しもが黙認していく様な空ろさを北朝鮮市民さえ消滅させ様とはしないのだ。何故なら適度の敵対者に拠る性悪的リアル自体が、敵対者のレゾン・デ・トルを鮮明化させている、と知っているからである。
人類は旧石器時代に既に価値が一元化される事に拠って闘争のない世界構造にはならないと決定されていたのかも知れない。つまり意図論にも示した様なツールとディヴァイスの進化過程自体に武器の携帯というリアルが必要だった様に、世界に国連憲章を創設させる為にアメリカ合衆国に広島、長崎に投下する核兵器を使用させたのかも知れなかった、と過去形に対してなら言い得る。しかし未来の不確実性も確率的には、今迄だってそう変わる事など無かったのだから、これからもそうであろうと、どんな立場の人達さえ何処かで自覚していなければ日々を過ごす事は出来ないと知っているのだ。時計の針を元へ戻しガンジー首相を生き返らせる事もジョン・レノンの殺害を防止する事も出来ない。スティーヴ・ジョブズの死去した理由である癌細胞を消去される様に医療的措置を今から施す事は出来ない。
だが今の処隣りに座る紳士淑女がイスラム原理主義のスナイパーかも知れないし、北朝鮮のスパイかも知れないし、ロシアが米国政府へ送り込んだスパイかも知れないそのスリル自体をまるで映画を鑑賞する様に楽しむ都市空間での他者との場共存を、今後も維持していく為に、原理上では二極分離社会を臨界点迄は推し進めても、臨界点を超えてしまった時点からは、引いていく潮の如く、一定程度の公共性の名に於いて分配する理論に追随する様にして、合衆国の撲滅だけは阻止するという方向にシフトしていくだろう。そしてその反復の変わりなさへの自覚に於いてのみ中国の少数民族もジャスミン革命以後の中東市民も、北朝鮮人も皆共通しているというリアルだけはどんな立場の世界市民も既知であるという現実を、後何十年継続していくのだろうか?
その反復的継続を阻止し得る事は、何等かの形での自然災害の頻発に拠るカタストロフィからの食糧危機的状況だけであろう、とはあくまで私の推測ではあれど可能性としては最も高いものであるとだけは言い得る様に思われる。(つづき)
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